〜第二十四幕〜 眠る町の狭間に







 ひんやりと冷たい沈黙が、真夜中の廊下を支配した。
 電話のベルが絶えたいま、周囲には音を立てるものは何もない。蛇たちの蠢動(しゅんどう)の気配だけが、受話器の向こうからやけにはっきりと伝わってきた。
 口を開いて――けれどもつばさは言葉を捜しあぐねる。何かを言わなくっちゃいけない。そう思いながらも、情けないほどに声が出てこない。
『……わしからの電話をこうして待っていてくれたぐらいじゃ。わしの用件も、察してくれておるのじゃろうのう』
 《蛇使い》の第二声に、つばさは結局先を越されてしまった。
 つばさの緊張を、怯えを愉しむかのように――怪老人は電話の向こうで、くくっ……と乾いた嗤いを洩らす。
『ああ、言わずともわかっておるよ。お嬢ちゃんはもう、わしとともに来てくれるつもりでおるのじゃろう?
 ……昼間、忠告したはずじゃな。友達というものは、大切にするものじゃよ』
「――――!」
 つばさの手の中で、握りしめた受話器がきぃ……と軋みをあげた。
 ――こ……このぉっ!
 ここまでは、不思議に湧いてこなかった感情――爆ぜるような怒りが、胸の奥から喉元までひとときに膨れ上がる。
 受話器の口を手で押さえて、つばさはひとつ大きな息を吐き出した。
 ダメだ。ここで怒鳴っちゃったりしたら、何もかもふいになる。
 落ち着かなくっちゃ。落ち着いて、自分に課せられた役目を果たさなくっちゃ。
「あ――あたしが行ったら――」
 怪しまれないように。自然に。
 胸の中で自分に言い聞かせるほど、声は惨めにうわずってしまう。
「千絵ちゃんを助けれくれるの? 千絵ちゃんが、ちゃんと目がさめるようにしてくれるんだよねっ?」
 ああ。
 ぜんぜんダメだ。これじゃまるで、学芸会の劇の台詞のよう。
 情けなかった。
 ずっとみんなに嘘をついてきたあたしなのに。どうして、こんな肝心な時にすらすら相手を騙せないんだろう?
 きゅっと下唇を噛んで、つばさは相手の答えを待った。
『……ああ、もちろんじゃとも』
 《蛇使い》の、満足げな声が耳元に響く。
 ああ、よかった。何とか怪しまれてはいないみたいだ。
「わしとて、これ以上の死者を出して無用に騒ぎを大きくしたいわけではないのじゃよ。お嬢ちゃんがわしとともに来てくれれば、お嬢ちゃんの友達――千絵ちゃんというのかね、あの子の目覚めは約束しよう。それでどうじゃな」
「う……うんっ」
 つばさは答えた。
 あまりあっさり相手の言うことをのんでしまうと、逆にわざとらしいのではないか。頭の片隅でそうも思ったのだが――これ以上こんなやりとりを続けたら、緊張で胸がつぶれてしまいそうだった。
「わ、わかった――行くよ。ど……どこに行けばいいの?」
『……よろしい』
 声とともに、老人がにんまりと笑う気配が電話線の向こうから伝わってくる。
『実は、のう。お嬢ちゃんがきっと色よい返事をくれるものと思うて、お嬢ちゃんの家のすぐ近くまで出向いておるのじゃよ。
 そうじゃな……今から家を出て、六区通りの角までやって来ることはできるかの。ちょっとの間そこで待っていてくれたならば、わしが自ら迎えにあがるとしよう』
「え――えっ!?」
 思わず驚きの声をあげてから、つばさは慌てて口を押さえた。
 六区通りの角。確かに、この家がある横丁からはすぐ近くだ。すぐ近くだけれど――
『おや、どうしたねお嬢ちゃん』
「だ、だって……あんなところで立ってたら――」
『わかっておるよ。こんな夜更けでも人は通るし、誰かに見咎められるかもしれぬ。そう言いたいのじゃろう?』
「う、うんっ……」
 いくら真夜中といっても、六区通りは人通りの多い道だ。自分がひとりで立っていたりしたら間違いなく人目を引くし、おまわりさんにでも見つかったら声をかけられてしまうことは請け合いだろう。
 だが《蛇使い》は、つばさの懸念など最初から見透かしているかのように、愉快そうな声で言葉を続けた。
『なに、心配は無用じゃよ。お嬢ちゃんは家を出てからわしの隠れ家に着くまで、誰とも顔をあわせることはなかろうて。
 保証しよう。奇術師としてのわしの名に賭けて、な』
「あ――」
 つばさは思わず、呆けたような声をあげた。
 昼に学校で目にした光景が、脳裏に甦る。いつもの廊下と、似て非なる空間。いくら悲鳴をあげても誰の耳にも届かない、無人の校舎。そう、あれはまさに、黒衣の怪老人が造りだしたものだったのだ。
 茜音さんたちが《パノラマ》と呼んでいた、奇術の『力』が織り成すかりそめの小世界。
『……安心して出ておいで。見せ掛けばかりの現世の灯に酔う俗人どもに、まことの夜をゆくわしらの姿をとらえることは叶わぬよ』
 穏やかな――不気味なくらい穏やかな声で呟くと、《蛇使い》は今一度くぐもった嗤いを洩らす。
 つばさは無意識のうちに、片手でポケットの中のコインを探っていた。
 大丈夫だ。大丈夫のはずだ。茜音さんは言っていた。この通信機は、奇術の力を使って隠された空間でも通信が途切れたりすることはないと。
 こみあげる不安を抑えて、ごくりと唾を飲みくだす。受話器の向こうで老人が再び口を開いたのは、それと同時だった。
『では――のちほどお会いしよう、お嬢ちゃん。今宵は、いつになく素敵な夜になりそうじゃ――』
 こちらが異を唱えないことを。唱えられないことを確信した、満足げな口調。
 つばさが返答を紡ぎだせずにいるうちに、ぶつっ……と音をたてて電話は切れた。
 ツー、ツー、ツー――……
 普段ならば何ということはないトーン音が、やけに虚ろに耳に響く。受話器を置くと、その音すらも絶えて――全き夜の静寂が、ひややかにつばさを包み込んだ。まるで、この薄闇の世界にたったひとり取り残されてしまったような、そんな不安感が胸を締めつける。
 つばさは慌てて、ジーンズのポケット――通信機が入っているほうとは反対の側に手を差し入れた。
 折りたたまれた紙片を取り出し、常夜灯の灯りの下に広げる。
 先程、地下室を出る前に茜音から手渡された電話番号のメモだった。何か変事があったら、時間を気にせずここにダイヤルしたまえ。そう言われたのだ。
 つばさはちらりと、壁にかかる時計に目をやった。
 12時15分。普段ならとても、人様の家に電話をかけてよい時間ではないが――さすがに今ばかりは、そんなことは言ってはいられなかった。夜中でも大丈夫なように、茜桟敷直通の電話を教えてくれたのだろう。
 いまいちど受話器を取り上げ、黒電話のダイヤルに指をかける。八桁の番号を回す、ほんのわずかな間ももどかしいくらいだった。
 トゥルルルルルル……
 呼出音と自分の鼓動だけが、静寂の中に不安げなリズムを奏でる。
 電話は繋がらない。二回、三回と、コール音が繰り返される。
 ――早く――早く出てよぉっ。
 声をあげそうになりながら、つばさは握りしめた片手のこぶしをばたつかせた。
 五回、六回、七回――
 ――ああもうっ!
 切羽詰ったつばさが、いったん電話を置いてダイヤルしなおそうかと思った瞬間――ぶつんっ、という音が耳元に響いた。
「あ――も、もしもしっ」
 大慌てで、受話器を耳元にあて直す。
「え、えーとっ、ごめんなさいこんなに夜遅くっ、あの、あたし、つばさ、茜音さん?」
 こま切れになった言葉を、つばさは乱れた息とともに吐き出した。
 だが、受話器の向こうの茜音は何も応える気配がない。
「あ、茜音さん、ねえ――」
 つばさは思わず少しばかり大きな声をあげ、そして、
『……駒形か?』
 帰ってきた不機嫌な問いに、口を『え』の形に開いたままびくりと凍りついた。
 違う。茜音さんじゃない。
 と言うより、これは。この声は。
 ああ。ああああああ。
『何だ? おい』
 電話の向こうで、赤城 仁矢はいまいちど問いを発した。不機嫌な口調の上に、さらに不審の色を重ねて。
「じ――あ、赤城くんっ? なんでこんな時間にそんなとこ居んのっ!?」
 ようやく硬直から解けたつばさは、混乱もありありの声で訊ねる。一瞬の間をおいて、受話器から険悪な溜息が伝わってきた。
『……夜中の12時に自分の家にいちゃ悪いのかよ』
「え――?」
 つばさ、二度目の硬直。
『どうした? 何があった』
「あ――ご、ごめんっ。あの、その、あたし茜音さんにこの番号渡されたからそれでこれは茜桟敷の番号か茜音さんの家の番号だと思ってっ。赤城くんのところだなんてぜんぜん思っていなくってごめん寝てたよね起こしちゃったよねほんとーにゴメンっ――」
『……そういうことを訊いてんじゃねえ』
 句読点が外れたつばさの言葉を、仁矢の低い呟きが遮った。
『茜音の馬鹿のわかがわかんねえ悪ふざけはともかく、だ。何かあったから電話したんじゃねえのか?』
「あ――う、うんっ」
 その問いに、つばさはようやく我に返る。
 ええと、ええと、その。何を伝えればいいんだっけ。
「あの、あのね――そう、電話、電話があったんだってば。《蛇使い》のおじいさんから。今から、六区通りにすぐ出て来いって。迎えに行くからって」
 一拍を置いたにもかかわらず、説明はものの見事にしどろもどろになった。それでも何とか、仁矢には伝わったらしい。電話の向こうで、彼の気配が硬く尖るのがつばさにも判った。
『……人質があると思って、正面から来やがったか。ふざけたじじいだぜ』
「ど――どうしよう。あたし、このまま行っちゃっていいのかな。
 あ、ちゃんとあれは持ったよ。発信――」
『――駒形っ!』
 鋭い一喝が、突然につばさの耳を打った。わけがわからないままに、つばさはびくんっ! と身を竦める。
「な……何っ?」
『……あんまり余計なことは喋るな。下手すりゃ、あのじじいの《蛇》がお前の近くで聞き耳立ててやがるかもしれねえんだぜ』
「え――?」
 つばさは思わず、周囲を見回した。
 静寂に支配された廊下に、蠢くものの気配は感じられない。けれども――
 けれども、確かに仁矢の言う通りだった。《蛇使い》は間違いなく、この家の住所を知っているのだ。蛇の一匹を送り込んで、自分を監視している可能性は十分にある。
「――ごめん」
『……いいか。いちいち返事はしねえでいいから、これから言うことをよく聞けよ』
 つばさの反省の声には応えず、仁矢は低い声で言葉を続ける。つばさは大きくこくんっと頷き――電話口でそんなことをしても無駄なことに気付いて、ちいさな声でうん、と答えた。
『茜音のやつと先輩たちには、俺が今から知らせる。二十分しねぇうちに、集まってお前の後を追えるはずだ。
 お前は、用意ができたらすぐに六区通りに出て、あのじじいに会え。ぐずぐずしてると、怪しまれるぜ』
 仁矢の声には、いささかの乱れもない。受話器の向こうからは、変わらぬ不機嫌な口調が伝わってくる。
 すごいなあ――と、こんな状況にもかかわらずつばさは感嘆してしまう。
 仁矢くんは、こんなに落ち着き払っていて。あたしと同じ歳のはずなのに、とってもそうは思えない。
 さっきからずっとどぎまぎしっぱなしな自分が恥ずかしくなって、つばさはきゅっと背筋を伸ばしてみた。
『間違っても、慌ててわけのわかんねぇことをするんじゃねぇぞ。
 あのじじいは、俺たちが潰す。必ずだ。お前はじじいの巣ぐらにたどり着くことだけを考えてろ』
「……うんっ」
 つばさが頷くと、仁矢はちいさく息をついた。それきり、しばしの沈黙がふたりの間に生じる。
「えーと……それから?」
『それだけだ』
 無愛想な声で、仁矢は会話の終わりを告げた。
 必要最低限。徹底的なまでのそっけなさが、なんだか今は逆に心強い。
「うん――わかった」
 大きく息を吐いて、吸って。
「じゃ……行ってくるよ」
 いまいちど決意を確かめなおすように、つばさは答える。答えてから――自分の声が思いのほか静かで落ち着いていることに、ちょっとびっくりした。
 今にも押しつぶされそうだった胸の中の重苦しさも、気付いてみればちょっと前までよりいくぶん和らいでいるようだった。緊張も不安ももちろんなくなったわけではないけれども、でも、《蛇使い》の電話を受けたときとはぜんぜん違う。
 短いやりとりだったけれど、電話線を通じて仁矢くんの冷静さを少しだけ分けてもらったのかもしれない。つばさはそう思う。
『――駒形』
 受話器の向こうで、仁矢が口を開いた。
「――なに?」
 訊ねるつばさの声に、彼はしかし再び押し黙ってしまう。言葉に迷っているような、言葉を探しているような。そんな気配が、息遣いとともにつばさの耳に伝わってきた。
 短く長い数秒の沈黙をおいて、仁矢はいくぶん硬い声で言葉を紡ぐ。
『……後悔しねぇって言ったはずだな。あの言葉、今夜が明けるまで曲げるんじゃねえぞ』
「――――」
 つばさは思わず、受話器をぎゅっと握りしめていた。
 柔らかな力が、ふんわりと胸に満ちるのを感じる。その力に押し上げられるように、口元に微かな笑みが浮かんだ。
「当ったり前じゃんか――ありがと、赤城くん」
 その言葉に、仁矢は声では応えなかった。ばつの悪そうな舌打ちが聞こえて、それを最後に電話は切れる。
 つばさもまた、静かに受話器を置いた。
 夜の廊下から、再びすべての物音が絶える。
 けれどもその静けさはもう、つばさの胸にのしかかってくることはなかった。
「さて――と」
 呟いて、つばさは一回だけ屈伸をする。舞台にあがる前の、いつもの準備運動だ。
 そろそろと廊下を歩いて玄関に降り、お気に入りのスニーカーを履く。引き戸を開けて外に出ると、冷ややかな夜気がつばさの頬に触れた。
 ――いってくるね――
 玄関の鍵を回しながら、胸の中につばさは呟く。叔父さんと叔母さんに。穏やかな日常の中にある、すべてのものたちに。
 後悔なんてしやしない。この夜が明けるとき、あたしは必ずここに帰ってくる。ただいまを言って、玄関の戸をくぐるんだ。
 踵を返して、つばさは走り出した。静まり返った真夜中の横丁に、靴音を響かせて。
 見慣れたはずの路地が、まるで別の世界のように思えた。街灯の頼りなげな明かりの織り成す薄闇の中に、家々の影だけが蒼いシルエットとなって浮かんでいる。
 なんだか、不思議な気分だった。
 いつもならば布団に入って夢でも見ているであろうこんな時間に、薄闇に覆われた路地裏をひとりで駆け出しているというのは。
 あれだけ立て続けにとんでもないものを見聞きしたのだから、今さらこんなことに戸惑うのはおかしいのかもしれないけれど。それでもやっぱり、この変てこな気持ちは拭い去れない。夜の十時を過ぎてから外に出るなんて、それこそ去年の大晦日に浅草寺に行って以来なのだ。
 生まれて初めて目にするのかもしれない平日深夜の街を、つばさは足をとめないままきょろきょろと見回す。
 静かだった。あまりにも静かだった。人の気配はおろか、野良猫の鳴き声も、虫の声すらも聞こえてはこない。
 ここはもう、《パノラマ》というものの中なのかもしれない。
《蛇使い》の老人は言っていたはずだ。隠れ家に着くまで、誰とも顔をあわせることはないだろうと。
「――――」
 少しだけ考えてから――つばさはとんっ、とアスファルトを蹴ってみた。
 前方に向けての、軽い跳躍。それでもひと刹那だけ、平屋の家々の屋根が眼下をよぎってゆく。身体をひねってくるりと宙返りをすると、夜空と路地とがかわるがわるに視界を巡った。
 着地の瞬間、髪とTシャツとが夜風をはらんでふわりと靡く。
 漲る『力』の気配とともに、背筋を這い登るぞくりとするような昂揚。
 だがそれは、すぐに鋭い嫌悪感にとって替わられる。
 ――な……なに、やってんだろ、あたし。
 恥ずかしさで、頬がかぁっと熱くなった。下唇を噛んで、つばさは震えるようにかぶりを振る。
 ちょうど――その、瞬間だった。
「ほほう――やはり見事じゃのう、お嬢ちゃん」
「――――!!」
 路地に響いた感嘆の声に、胸の奥でびくんっ! と心臓が跳ねた。
 思わず巡らせたまなざしの先。街灯の光を背に受けて、ゆらりと路地に歩み出る黒衣の影。
「……っ」
 《蛇使い》の顔に浮かんだ満悦の笑みに、つばさは俯いて拳を握りしめる。いちばん見られたくない相手に、いちばん見られたくない瞬間を見られた。そんな気がした。
「約束通り、迎えにあがったよ。
 街中ゆえ、人が通りがからぬように術を張るのはちと苦労したが――気に入ってもらえたのなら、甲斐もあったというものじゃ」
「だ――誰がっ――!」
 精一杯に尖らせた声も、老人の余裕を突き崩すことは叶わない。口元の笑いは崩さぬまま、彼は大仰に首を傾げてみせた。
「おやおや、お気に召さないかね。これは、わしの見立て違いであったかな?
 たった今、『力』を使って跳んだお嬢ちゃんは――少なくともわしの目には、昨日の舞台の上よりもよほど活き活きとして見えたがのう」
「――――」
 ああ、あたしのバカバカっ――と、つばさは心の中で一分前の自分をどやしつける。
 なんだってあたしは、調子に乗って『力』を使ったりしたんだろう。よりによって、このおじいさんの目の前で。
 悔しさで、頬がかあっと熱くなった。
「……先程も話したがな、お嬢ちゃん。わしらが立っているこの路地は、街を行く俗人どもの目からは隠されておる。奇術の『力』によって織り成された――わしら奇術師だけのための世界なのじゃよ」
 静かに目を細めて無人の街並みを見渡すと、《蛇使い》はつばさに向けて両の腕を広げてみせる。
「素晴らしいとは思わんかね? 誰も見咎めることなく、思うがままに『力』を揮えるこの夜の舞台は。
 此処こそが、お嬢ちゃんの住まうべき真実の世というものじゃ。お嬢ちゃんが今まで暮らしてきた現世(うつしよ)など、所詮は薄っぺらなかりそめの張り子に過ぎん」
「――違うっ!!」
 自分でも驚くほどの鋭い声で、刹那、つばさは一喝していた。
「ほほう?」
 面白がるように、老人が片目を細める。
「どこが違うというのじゃね。窮屈に己を偽っての日々に拘泥する理由は、わしには正直理解できんがのう」
「わかんなくったっていいもんっ! 違うったら、ぜったい違うんだからっ!」
 全身全霊の力を込めて吼(ほ)えると、つばさは《蛇使い》の顔を睨みつけた。
 理由なんて、自分でだってうまく言えない。言葉にはできない。できないけれど。
 ここで後ずさっては駄目だと。何が何でも目の前の老人の言葉を拒まなくてはならないと――自分の胸の一番奥から、叫ぶ声が聞こえるような気がした。
「――……」
 笑みを拭い去り、両眼に冷えた光を浮かべる《蛇使い》。見おろす怪老人と見上げるつばさの視線が、真っ向からぶつかりあう。
 目をそらしちゃ駄目だ。つばさはごくりと唾を飲んで、両の拳を握り締めた。
 真夜中の路地裏を、張り詰めたしばしの沈黙が支配する。
「……まあ、良かろう」
 嘲るように口元を歪めると、老人はくるりと背を向けた。
「この夜が終わるまでには、お嬢ちゃんも考えを改めることになるじゃろうて。約束通り、まずはわしのささやかな牙城へ案内させていただこう」
 六区通りの方面へ向けてゆっくりと歩き出す黒衣の老人の背を、つばさはまだしばらくじっと見据えていた。
 負けるもんか。ぜったいに、負けるもんか。
 胸の中で、幾度もそう繰り返しながら。意を決して、足を踏み出す。
 一瞬だけ見上げた、まなざしの先。路地の両側からせり出した庇に、切り取られた真夜中の空。
 まばらな星たちだけが、澄んだ輝きを湛えて天を飾っていた。


 ……澄んだ光を湛える星を見上げ、仁矢はひとつ息をついた。微かな苛立ちを胸から押しだすような、そんな溜息を。
 夜も更けた、浅草寺境内。観音堂の裏手にあたる一角である。
 六区の路地裏で飲んだ酔っ払いか、気まぐれな散歩者か――いくつかの人影は見られたが、あたりはおおむね穏やかな夜の帳(とばり)に包まれていた。
 聞こえるのは、砂利を踏み締める自分自身の足音。観音堂も、横手に見える五重塔も、蒼い夜の底で息を潜めているかのようだ。
 月はもう、西の空に沈んだ後だ。街の明かりもいくぶん抑え目になった真夜中には、この浅草でも星を仰ぐことができる。
 綺麗な夜空だった。これから幕を開けるであろう馬鹿馬鹿しい舞台には、場違いなくらい冴え渡った空だった。
 気に入らない。
 夜空を視界から切り捨てるように、仁矢は人差し指で帽子のつばを斜め前に回した。
 いつもこうだ。ろくでもない事件を追いかけるときに限って、夜の空は涼やかに星を浮かべて。夕焼けは、鮮やかに澄んで。
 最初から、そうだった。二年前――自分がこちら側の世界を知った、はじめての事件。いまさら思い出したくもない、あの夜から。
 かぶりを振って、仁矢は胸の底にまとわりつく靄を追い払った。
 歩調を早め、砂利を蹴りながら柵際を歩む。今回の集合場所には、仁矢の家がいちばん遠い。最後になって、茜音に小憎らしい嫌味を言われるのは御免だ。
 観音堂の横手にある、あらかじめ決められた柱の一本。そこが、浅草寺内で茜桟敷が落ち合う指定場所だった。
 町の中での秘密裏な行動をとり易くするために、茜音はその『力』をもっていくつかの場所に術を施している。そのポイント付近に立っていればたとえ人の目に映ったとしても、その意識にのぼることはない。『茜桟敷』の入口にかかっているものと同じ、騙し絵の奇術というやつだ。
 吾妻橋や桜橋の、特定の欄干の脇。隅田公園の桜の樹の一本。東武伊勢崎線のガード下の一角。商店街の、店じまいした骨董品屋の前――
 ほかにも、通行人の目には映りながらも意識から隠された『死角』が町中に散らばっている。夜間に活動を行わねばならない今回のような場合は、そのひとつを集合場所にして行動を開始するのが常だった。
 観音堂の角を曲がったところで、仁矢は足を止める。
 例の柱の下には、人影があった。
 どうやら自分は二番目だったらしい。まあ、茜音より先に着くことができたのはなによりというものだ。
「……よお、香春先輩」
 歩み寄りながら、仁矢は声をかけた。柱に背を預けて佇む、香春 睦に。
 だが――彼女は答えなかった。
 こころもち夜空の星を見上げるように、楚々とした顔をあげて。眼鏡の奥の瞳はしかし、眠るように閉ざされたままだ。
 黒く長い髪が、微かな夜風を受けて柔らかに揺らめく。まるで、夜の魔術が彼女の周囲から、時間の流れを奪ってしまったかのようだった。
「――先輩?」
 すぐ隣に立って、仁矢は訝しげな声を投げる。
 と――
 びくんっ、と肩を震わせて、睦は瞳を開いた。きょとんとした表情で一瞬仁矢を見つめ――それから、かなり慌てた様子で姿勢を正す。
「わ。ご――ごめん仁矢くんっ。もしかして――しばらく前からそこにいた?」
「……いや。今来たばっかりだぜ」
 苦笑の一歩手前の息をついて、仁矢は答えた。
「どうしたんだ? 先輩。また何か見えでもしたのか?」
「あ。ううん。そうじゃないの、そうじゃなくって、その――昨日ちょうど夜更かししちゃったから、ちょっとだけ眠くなっちゃって」
「おいおい、大丈夫かよ」
 いささか恥ずかしげに首を振る睦を見やりつつ、仁矢はやれやれとばかりに肩を竦めた。
「今夜は捕り物なんだぜ。うかうかして、蛇に噛まれたりしないでくれよな」
「……ごめん。うん、もう大丈夫」
 睦はてのひらでぺちんと自分の両頬を叩くと、その両手でぎゅっとこぶしを握りしめた。
 本人としてはおそらく気合いを入れなおしているのだろうが――どうしてこう自分の周りの人間は緊迫感というものが表に現れないのだろうと、仁矢は微かな嘆息を洩らす。
「やぁ。ごめんごめん、すっかり遅くなっちゃったよ」
 声とともに、緊迫感を決定的に欠いたもうひとりの人間が歩いてきたのはちょうどその時だった。
「今日に限って家を出るのにえらく手間取っちゃってねえ。待たせちゃったかな、ふたりとも」
 あいも変わらぬのほほんとした口調で言うと、京一郎は拝むように頭をさげる。
「あ、わたしたちもいま来たばっかりだから」
 睦のその言葉に、仁矢も無言で頷いた。
 こういう時には面倒だろうな、親が家にいるってのも。声には出さずに、彼は胸の中で呟く。
 京一郎の両親は、区外の大学病院に勤務する医師である。絵に描いたような「厳格で権威的な父親と過度に教育熱心な母親」というやつで――京一郎本人はあまり口には出さないが、かなり辟易している様子だった。
 滅多に帰ってこない父親とアパートで二人暮しの仁矢や、故あって言問橋近くのアトリエで独り暮らしをしている睦に比べると、当然のことながら夜間の行動には束縛がかかる。今夜もたぶん、最終的には彼の『力』を使って抜け出して来たに違いなかった。
「いやぁ、いつもだったらともかく、追跡行ってのは時間との闘いだからね。いちばん家が近い僕が最後ってのは、やっぱり面目ないよ」
 口元に苦笑を浮かべつつ、京一郎はシャツの胸ポケットから例の懐中時計を取り出す。
「……最後?」
 彼の言葉を聞きとがめて、仁矢は訝しげな声をあげた。
「茜音の野郎はどうしたんだよ。そういや、まだ来てないぜ」
「茜音さんは『野郎』じゃないさ、仁矢くん」
 京一郎はちっちっと人差し指を振って、
「来る途中でこの通信機に連絡が入ってね。ちょっと調べものをしてから行くから、先に追跡を始めていてくれってことだったよ」
「調べもの?」
 仁矢は思わず、眉間に険悪な皺を刻んだ。
「この期に及んで何のつもりだ、あの馬鹿は。ぼやぼや調べ物している間に何かあったら、取り返しがつかねえだろうが」
「駒形さんの身が心配かい? 仁矢くん」
「――そういうことを言ってるんじゃねえっ」
「おや、じゃあどういうことを――」
「……ストップ」
 言いかけた京一郎と仁矢との間を、差し出されたてのひらが遮った。
 同時に巡らせたふたりの視線の先で、睦が穏やかな――ちょっと困ったような笑みを浮かべる。
「あとにしよう、仁矢くんも京一郎くんも。
 今はまず、駒形さんが危なくないようにちゃんと追いかけなくっちゃ。ね」
「「――……」」
 ふたりは、再び同じタイミングで互いの顔を見合わせて。数瞬の沈黙ののち、仁矢はやや決まり悪げに息をつき、京一郎はこほんとひとつ咳払いをしてみせた。
 睦は自らの懐中時計を仁矢たちの目の前に差し出して、そっと蓋を開く。
 本来ならば文字盤のあるべき場所に映し出されているのは、黒地に白の光線で描かれた浅草六区付近の地図だ。その街路の上を、紅い点が明滅を繰り返しながらゆっくりと滑ってゆく。
 一件古めかしい懐中時計にしか見えないこれは、茜音が高度な機械技術と奇術の『力』を織り合わせて造りあげた特製品――茜桟敷の団員の証ともいうべき品だった。
 上部の捩子を回して調整を行うことで、通信機や小型カメラといった追跡・調査用の用途から簡易な武器に至るまで、全部で七通りの機能を使うことができる。いま文字盤の上に映しだされているのもそのうちのひとつ――発信機に対するレーダーモニターの画面だ。
 駒形つばさの現在位置を示す紅い光点はいちど六区の大通りに出てから、もう一度横丁の路地に引き返して雷門の方面に向かっていた。
「――京一郎くん――」
「そうだね」
 睦が洩らした声に、京一郎がこくりと頷く。
「いまのUターンは、ちょっとばかり変だった。駒形さんは、あのおじいさんに遭遇したと思って間違いないだろうね」
「……どうするんだ? 先輩」
 仁矢は、ちらりと京一郎を見やった。
「じじいだけあって、動きはとろそうだぜ。脇道から先に回りこむか?」
「うーん、その必要はないんじゃないかな。
 下手に向こうの進路上に出て、追跡がばれたらややこしいことになるからね。まあ、向こうの拠点が判るまで正直に尾行ってことにしておこうよ」
 のんびりとした口調でそう言って、京一郎は自分の懐中時計の蓋を開く。紅い点はアーケードの商店街を横切り、仲見世の裏に近付きつつあるところだ。
 三人は、観音堂の向こうに視線を巡らせた。
 休日の昼ともなれば数多の屋台が並ぶ境内も、今は閑散と静まり返っている。
 朱塗りの宝蔵門の向こうに伸びる、仲見世通り。ここからほんの百メートルも離れてはいない地点を今、《蛇使い》と駒形つばさが移動しているはずだった。
 無言で頷き合うと、彼らは歩きはじめる。周囲をうかがいながら、建物の影から影をわたって。
 筋書きも、結末も知れぬ追跡劇――
 夜空に浮かぶ星のみがただ、その幕開けを静かに見下ろしていた。






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