〜 第三十四幕 ちから 〜




 その刹那。
 睦が――そして京一郎までもが、思わず一瞬息を噤んで眼前の光景を見た。
 それはまるで、凶々(まがまが)しいストップモーションのように視界に灼きつく。
 天窓の紅を背景にして、落下してくる蛇たちの影。爛々と煌(きら)めく数十対の眼が、捉えるものはただひとつ。
 佇む茜音。彼女は、ちらりと頭上を見上げたまま動かない。――動けないのか? 思いもかけぬこの奇襲に。
「はは――はははははっ!」
 響きわたる、《蛇使い》の哄笑。
 毒蛇たちは、一斉に顎(あぎと)を開く。得物の喉笛を噛み切らんと。白く鋭い牙が覗く。
 茜音は、まだ、動かない。
 彼女の華奢な身体の影が、蛇たちの影と重なり。
 そして――

 何もかもが、動きを凍りつかせた。

 怪老人の哄笑も。あげかけた、睦と京一郎の声も。蛇たちの落下も。
 ――落下も?
 そう、落下もだ。
 まるで重力が、はたらきを休めてしまったかのように。蛇たちは空中に浮いたまま、完全に動きを停めていた。茜音の喉に喰らいつく、ほんの数十センチ手前で。
 部屋を支配する、唖然とした沈黙。
「――ふ」
 それを破ったのは、茜音が紡いだ笑いの声だった。
 眼と口とを大きく開いたまま立ち尽くす《蛇使い》を、彼女は静かに見下ろす。
 瞬時、静止の呪縛は解けた。
 だがしかし、毒蛇の牙が茜音の身体に触れることはなかった。見えざる弓に弾かれたかのように――蛇たちの身体は一斉に勢いよく跳ね飛んで、黒衣の老人の周りにばらばらと落下していく。
「な――何じゃとっ!?」
「おやおや」
 拍子抜けしたように溜息をつきながら、茜音はシャツの胸ポケットに指を差し入れた。
「仮にも奇術師を自称する者が、これしきで狼狽えないでほしいな。ことさらに珍しいものじゃない、基本中の基本だよ」
 茜音がポケットから取り出だしたのは、一枚のカードだった。
 トランプの札と思しきその紙片を、彼女は指で弾く。くるくると回転しながら、カードは真上に浮き上がり――
 ぱちんっ!
 茜音が指を鳴らしたのを合図に、勢いよく燃え上がって眩い光の玉となる。
「――――!」
 床上の三人は、声を失ったまま頭上を見上げる。
 至近からの照明を受けて、今や、はっきりと目に捉えることができた。
 佇む茜音の周囲を取り巻くように、宙をたゆたう幾筋もの光の線。
「く……《繰糸(くりいと)》かっ」
「ご名答。舞台の上では物を吊るのに用いるが、こんな使い道もないわけじゃない」
 頷いて茜音は、立てた人差し指を胸の前でくるりと回した。浮かんでいた糸たちが、一瞬でその手の中に巻き取られていく。
 茜音の手に収まってみれば、それは何の変哲もない半透明のテグス糸に過ぎなかった。
 幾筋もの細糸を、己の意のままに使役する。それが、《繰糸》という名の奇術なのか――
「――さて」
 短く呟くと、彼女は槍の柄の先から軽やかに身を躍らせた。
 京一郎と睦の眼前に、彼らに背中を向けて降り立つ。埃も足音もたたない、優雅とすらいえる着地だった。
 周囲の蛇たちが一瞬ざわりと包囲の輪を広げたのは――彼女の有する底知れぬ気配に圧されてのことだろう。
「やれやれ……君たちも世話が焼けるな」
 背後のふたりにちらりとまなざしを投げて、茜音は嘆息してみせた。
「あの程度の二流奇術師を退けられないようでは、この先が思いやられるというものだよ」
「ひどいなあ、そうおっしゃらないでくださいよ。仁矢くんたちとは引き離されちゃうし、こっちもいろいろ大変だったんですから」
 京一郎は拗ねたようにぼやいてみせるが、真に気分を害した訳でないのは明らかだった。それに比して――
「き――貴様っ!」
 《蛇使い》の怒りの声は、正真正銘の本物だ。
「おや、気に障ったかい」
 だがむろん、怒声をもって茜音をたじろがせることなどできはしない。老人の憤怒になど初めて気がついたとでもいうように、彼女はひょいと肩を竦めた。
「正当な評価だと思うがね。
 君はあまりにも詰めが甘すぎる。優位な札をいくつも握りながら使いどころを間違えて自滅する術者など、正直を言えば二流の名にも値しないよ」
「……言うたな、小娘がっ。
 面白い。なればわしの奇術がいかほどのものか、その身をもってとくと味わうがいいわ!」
「お断りだ。こう見えても、下手物食いは苦手でね。もっとも――」
 細めた双眸に静かな光を宿らせ、茜音は胸のポケットから二枚目のカードを抜き取る。
「僕らも先を急ぐ。料理だけは、手早くさせてもらうとするかな。そこに立っている君を倒したところで、まだ終わりじゃないのだろう? 《蛇使い》」
「……え?」
 思わず声をあげたのは、後ろに立っている睦だった。
 茜音は振り向くことなく、口元にちいさな苦笑を刻む。
「困ったものだね、気付いていなかったのかい。
 君たちは一度、あの老人にまんまと逃げおおせられているのだろうに」
 その言葉に、睦ははっとした表情になり、京一郎もまた口元に指をあてて何事かを考え込む。
 茜音が言っているのは、昼間の学校での一件だ。仁矢の投げたロッカーの下敷きになりながら、衣と、声を紡ぐスピーカーのみを残して教材資料室から消失した《蛇使い》。
「せめて、考察を巡らせるくらいはしてくれたまえ。いかなる術をもって、あの脱出は可能となるのか。目の前のあの老人は、いかなる存在なのか――」
 そこまで言って、茜音はふと唇を結んだ。
「まあいい。話すより、その目に見せたほうが今は面倒がないな。
 そういうわけだ。さっきも言ったが、手早く片付けさせてもらうよ、ご老人」
 二本の指で挟んだカードを、彼女は己の前髪に触れる位置に掲げる。
 澄んだまなざしが見据える先には、追い詰められた獣の眼でこちらをにらみ返す《蛇使い》。
「……口ばかり叩きおって。貴様の目くらましの《幻札(カルタ)》くらいで、退くわしと思うてか」
「さっきから聞いていると、君の言葉にはどうも趣(おもむき)がないな」
 憎々しげな《蛇使い》の声を、茜音は冷めた呟きをもって一蹴する。
「退場の時は近いんだ。もうすこし気の利いた口上を遺しておかないと、後悔することになると思うがね」
 ぱちん、と音をたてて、茜音の指がカードを手前に弾く。札は彼女のシャツの肩に乗り、真横に伸ばした腕の上をくるくると転がって。
「――――!」
 《蛇使い》が、驚愕に息を呑む。
 無理もないことだった。再び茜音の手の中に収まったとき、いままで何の変哲もないカードにしか見えなかったそれは、刹那にして形を変じていたのだ。
 黒鉄の色に鈍く照り輝く――古めかしい一丁の拳銃へと。


「――茜音さん?」
 隣で響いた京一郎の声には、彼にしては珍しい困惑の色が混じっていた。
 声をあげられた彼は、それでもまだいいほうだろう。睦ははっと息を呑み、絶句したまま固まってしまう。
 茜音の奇術に驚いたから、というわけではない。
 カードに『力』を混めて多種多様な変化を引き起こす《幻札》は、茜音が最も好んで使う奇術だ。睦も、これまでに幾度も目にしたことはある。
 問題なのは、いま茜音の手の中にある拳銃だった。
 これは、茜音のやり方ではない。ないはずだ。直接に兇器を用いて、相手の命を奪わんとするというのは。
 だが今、彼女は銃口をゆっくりと正面の《蛇使い》に向けた。
 その口元に浮かぶのは、変わらず涼しげな――否、冷ややかとすらいってもいいであろう微笑み。
 対する《蛇使い》は、歯がみをしてこちらを睨みすえたまま動きはしない。
「――あ」
 喉の奥から、ようやく睦はかすれた声を絞り出した。
「茜音さんっ、ちょっと――」
 だが、しかし。
 ちょっと待ってっ。その言葉を睦の唇が紡ぐのを、そもそも茜音は待ってはくれなかった。
 ――ぱぁんっ!
 乾いた炸裂音が、空気を震わせて。
 立ち尽くす《蛇使い》の胸元。黒い衣の中央に、銃弾がくっきりと孔を穿った。


 ごくり。
 自分の喉が唾を飲み下す音が、やけにはっきりとつばさの耳に響いた。
 膝が、細かに震えている。何か言わなくっちゃと思いつつ、口を開いたら情けない悲鳴が洩れてしまいそうだ。
 昼間の学校での出来事から、今日一日でいやというほどたくさんの不思議な物事を目にしてきた。いいかげん、びっくりするのにも慣れてしまったくらいに。
 でも。
 あれはまた、何かが違う。今、自分の目の前に、文字通り鎌首をもたげたあれは。取り乱さずに応対できる範囲を、完全に越えていた。
「……びくついてんじゃねえ」
「う……うんっ」
 仁矢の叱咤に頷いてはみたものの、それはいくらなんでも無理な相談だ。
「で、でもっ、どうすんのさ仁矢くんっ!?」
 あたしたちは、檻の中にいるわけで。動けないわけで逃げられないわけで。
 そりゃまあ、この中にいれば向こうも手出しできないかもしれないけれど。でもこの檻は相手側が仕掛けた罠だ。『あれ』がこっちに襲い掛かってきた瞬間に突然開いてみたりもしかねない。
「ったく、とことんまで趣味の悪いじじいだぜ」
 短い溜息とともに、仁矢が悪態をついた。
「えんえん歩かせて誘い込んだあげく、てめえのペットのエサにしようって寸法かよ」
「だ、だからっ」
 そうだよエサにされちゃうんだってばこのままじゃっ! 『あれ』のっ!
 なのにああもう、悠長に何をぼやいているのか仁矢くんは。
 遠い闇の向こうで、蒼い双眼がひときわ凶々しく煌めいた。
 舞台の向こうは相変わらず真っ暗で、眼光の主の全貌を捉えることは叶わない。
 けれども。地を擦る鱗の気配と、ずっしりと重い蠢動の気配。それに、数メートルの高みよりこちらを見おろす蒼い眼の光から、つばさは目で見るよりもたやすく想像することができた。
 そう。闇の向こうにいるのは間違いなく。とてつもなく、巨大な――
 いまいちど、隣の仁矢にまなざしを向ける。
 ――え?
 その瞬間、つばさは思わずきょとんと目をしばたかせた。
 なぜなら。こんな途方もない脅威を前にして、仁矢の顔に浮かぶ表情は。
「な、なにがおかしいのさ、仁矢くんっ」
 笑み。とてつもなく不機嫌そうな――さりとて怖れや困窮とは無縁の、口元だけで刻んだ不敵な微笑。
「……間抜け野郎だとは思っちゃいたがな」
 呟きながら彼は、ゆっくりと腕を前に伸ばす。ハンカチが巻かれた、怪我をしているほうの腕を。鉄格子の間から、肘のあたりまで檻の外に差し出した。
「あのじじい、本当に何の下調べもしちゃいやがらねえらしいぜ」
「――え?」
 つばさが声をあげたのは、仁矢の言葉の意味を解せなかったがゆえのみではない。
 感じたからだ。全身の産毛がぞわりと逆立つような。不可思議で同時にどこか馴染みのある、『力』の気配を。
「でなけりゃ、もう少しは頑丈な檻を用意しただろうによ――」
 低く静かな、だが、活火山の鳴動を思わせる力ある声。
 怪我のないもう片方の手で、仁矢は鉄格子の一本を握り締める。シャツの中で腕の筋肉が固く膨れるのが、つばさにもわかった。
「仁矢くん!? な、」
 何をしようってのさっ!? というつばさの問いをかき消すように、
 ……ぎぃいぃいっ!
 鉄のシャフトが、悲鳴にも似た軋みを響かせて。そしてその余韻をさらにかき消すように、
「え――えええええっ!?」
 つばさは思わず、最大音量な驚きの叫びをあげていた。
 曲がっていく。鉄格子が。少しずつ。くの字を描いて。浅草寺の縁日で見る、飴細工みたいに。
 目を丸くして、見据えた仁矢の横顔。額に微かな汗を浮かべ、険しい表情で彼はぎりりと奥歯を噛み締める。
 刹那。
 ぱきんっ! という甲高い音とともに、鉄格子は上部の鉄枠からあっけなく千切れ飛んだ。
 もはや呆然として声もないつばさの眼前で、仁矢は隣のシャフトに手をかける。ものの五秒とかからず、格子は同じようにひしゃげて引きちぎられた。
 この時点で檻はもう、檻としての役目を果たしていない。開いた隙間は、余裕をもってすり抜けられるだけの広がりを有していた。
 仁矢は短く息をつき――それから、つばさのまなざしに気づいて、ふいと顔をそむけた。
「……じろじろ見てんじゃねえよ」
「ご、ごめんっ……って、そうじゃなくってっ。
 む、無理だよ見るなっていわれたってっ。なに今のはっ? いきなり無茶苦茶しないでってばっ」
 わたわたと手を動かしながら、しどろもどろに声をあげるつばさ。仁矢は煩わしげに眉をひそめると、曲げた鉄格子の間を潜って檻の外に足を踏み出す。
「じ――仁矢くんっ」
「……うるせぇな。
 なんだも何もあるかよ。『力』に決まってんだろうが」
「――え?」
「……茜音の奴は、『百人力』とかいう恥ずかしい名前で呼びやがる」
 どうやら本当に恥ずかしいらしく、仁矢はまなざしを逸らして言い捨てた。
「――――」
 問いかけた『え?』の形に口を開いたまま、つばさはぽかんと立ち尽くしてしまう。
 ――……ちから?
 一瞬遅れて、恥ずかしさがかあっと頬にのぼってきた。
 そう。あたしは一度、目にしていたはずなのだ。昼間の、学校での《結界》の中で。
 《蛇使い》の身体を、腕のひとふりで教室の端から端まで投げ飛ばした仁矢。あのときに彼が見せた怪力は、どう考えたって常識というものを外れていたわけで――
「だ……だってさっ」
 あの時だって自己紹介の時だって、ひとことも言ってくれないんだもんさ、仁矢くんは。
 檻の外に出た仁矢の背中を、顔を真っ赤にしたまま恨みがましく睨みつけて。それからつばさは、こほんとひとつ咳払いをした。
 いや、でも、今はさすがにそんなことを言ってる場合じゃない。
 仁矢の背中越しに見える、闇の奥――
 蒼く輝く双眸が微かに、揺らめくように動くのを、つばさの目は捉えていた。
 たぶん、察したのだ。獲物であるあたしたちが、襲いかかれる場所に出てこようとしているのを。
 つばさは表情を引き締めて、鉄格子に手をかけた。
「駒形、」
 背中を向けたまま仁矢が発しかけた言葉を、
「で――出てこないで檻の中で隠れてろってんなら、そんなの絶対やだからねっ!」
 先回りで問答無用に遮ると、つばさは檻を出て仁矢の真横に並ぶ。
 どうやら当たりだったらしい。仁矢は一瞬言葉を詰まらせて、それから苦々しげに溜息をつく。
「ったくてめぇは……遊びとは違うんだぜ」
「わかってる」
 ちいさく、けれども強く、つばさは頷いた。
「遊びだったら、さっきの扉、いっしょに潜ったりしないもん」
 怖くないなんていったら、絶対に嘘になるのに。心臓は、いまにも破裂しそうに暴れているのに。はっきりと迷いなく言葉を紡げるのが、自分でも不思議なくらいだった。
 天井のスポットライトが、ステージに立つふたりを照らしている。
 ゆっくりと。ほのかな熱が身体の奥から湧きあがってくるのを、つばさは感じた。
 お風呂に入ったあとのように、肌が火照る。
 馴染みのある感覚だった。抑えきれなくなった『力』が外に溢れ出ようとしているときの――今までずっと、悩みながらつきあってきた発作。でも。
 ――今晩は……思いっきり暴れてくれちゃっていいからねっ……
 自分の中にいる何かに、つばさは語りかけた。
 それに応えるように、心臓がひときわ強く脈動を刻む。
 聞こえないはずの開演のベルが、頭の奥で鳴り響く。
 つばさはスニーカーのつま先で、とんっ、と床板を打ち鳴らした。
「舞台の上だったら、仁矢くんより慣れてるんだから」
「――――」
 仁矢の答えは、またもや短い溜息だ。
 けれども、さっきとはどこかが違う。
 勝手にしやがれ。そんな苦笑の気配を宿した、肯定のシグナル。
 つばさは、広がる闇にまなざしを戻した。
 準備は万全だ。来い。来るなら来てみろ。
 だが、蒼い双眼は未だ動き出す気配をみせず――異変は、思いもよらぬところに現れた。
 ぼっ……という音が辺りに響き渡り、闇の中にオレンジ色の光が浮かびあがる。
 炎だ。
 客席にあたる部分の、両側の壁。一対の松明が、赫々と燃え盛っている。
 と――再び発火音が響き、そのすぐ奥にも炎の色が灯った。
 もう一対。もう一対。もう一対。みるみるうちに両側の壁には、灯火の列が並んでいく。
 ひとつ灯りが加わるごとに、舞台の下を覆っていた闇のヴェールは薄らいで。
 そして――
「あ――」
 今やつばさは、はっきりと目に捉えることができた。自分たちが、対峙している相手。蒼き双眸の、その主を。
 心の中に、正体を描いていたにもかかわらず――瞬時、冷たい電流が背筋を走り抜けた。
 鎌首をもたげた――一匹の、蛇。
 胸の辺りが大きく横に広がったその姿は、つばさも図鑑やテレビで目にしたことがあった。コブラと呼ばれる、おそらくは世界でいちばん有名な種類の毒蛇。
 だが。
 ありえない。いるはずがない。こんな、こんな――!
 とぐろを巻いたその胴は、丸太よりも太く。
 こちらを見下ろすその眼は、二階家の屋根ほどの高さにある。
 つくりもの、なのではないか。つばさは、そう思った。
 上野の博物館で見た恐竜の実物大模型とおんなじ、精巧なつくりもので。あの怪老人が、あたしたちを怖がらせるためにこんなところに置いたのかも……
 
 ゆらぁり、と、大蛇が左右に頭を揺らした。

「――っ!」
 思考の退路は、一瞬で潰された。
 膨らむ怯えに抗って、つばさはぶんぶんとかぶりを振る。
 そうだ。しっかりしろ、駒形 つばさ。ありえないものなんてないのだと、きょう一日でさんざん思い知ったはずじゃないか。
 こみあげてくる恐れを、ごくりと唾とともに飲み込んで。つばさは全身全霊の力を、睨み返すまなざしに込めた。
 と――その時だ。
『くく……くくくく……っ』
 しわがれた嗤いが。聞き覚えのあるあの声が、唐突に辺りの闇を震わせたのは。
「――じじい!?」
 殺気立った声とともに、仁矢が視線を巡らせる。
 もちろん、かの老人の姿は見えない。《蛇使い》は、地上のあの部屋にいるはずだ。二人の先輩と、相対しているはずなのだ。
 いや、しかし。ならば、この声は何処から――?
『くく、はははははっ……』
 近くからなのか遠くからなのか、それすらも判別がつかない。幾重にもエコーのかかった哄笑は、まるで辺りの空間そのものが紡ぎだしているかのようで。
『ついに――ここまでたどり着いてしまったのう、お嬢ちゃんたち』
 姿なき《蛇使い》の口上に合わせて、目の前の大蛇がゆっくりと頭を垂れる。その瞬間――
「――――!!」
 つばさは、声にならない叫びとともに両の眼を見開いていた。
 そして、側らの仁矢もまた。彼にしては珍しいくらいに驚きを顕わにして、頭上を見上げるのみだ。
 ふたりが愕然としたのもしかし、何ら無理のないことだった。
 なぜなら。
 仁矢とつばさが見たものは。
 ふたつのまなざしの先にある、信じがたい光景は―― 






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