〜 第三十六幕 戦闘開始 〜



 ……がしゃっ……
 巨大なレバーを引くような音が、辺りに響いた。
 暗転した舞台のスポットに代わって、天幕最上部の白熱灯が眩い光を放つ。壁に燃える松明の明かりとあいまって、照明は客席に鎮座する大蛇の姿を闇の中に浮かび上がらせた。
 いや。
 客席と見えたものは、実は客席ではなかった。
 椅子の代わりに、舞台の下の空間にびっしりと並ぶのは――
「……最後までくだらねえ仕掛けをしやがって」
 仁矢が露骨に舌打ちし、つばさは未だ絶句から抜け出せぬままちいさく息を呑んだ。
 ふたつの視線の先――真上からの照明を受け、銀色の刃先がぎらりと輝く。
 そう。まさしく剣山のようにびっしりと床を埋め尽くす、直刀の群れが。
「そう言ってくれるな。お嬢ちゃんたちと遊んでくれようと思うて、特別にしつらえた闘技場なのじゃからの。
 軽業師のお嬢ちゃんならば、剣に触れることなく跳び回るくらいはお手のものじゃろう?」
 《蛇使い》は大きく両腕を広げ、周囲を示してみせる。
 針山地獄の上には角材の足場が、縦横幾重にも交差して渡されていた。
 平均台ほどの幅をもつその渡木の一本に、大蛇はその身を巻きつけているのだ。
「――――」
 つばさはごくりと唾を飲み下しつつ、舞台の下を見渡した。
 《蛇使い》の言葉の通り、あれくらいの足場があれば自在に跳び回る自信はあった。駒形座の舞台でも、『力』を使わずにあれより細い縄の上で演舞をしたことがいくらでもある。
 ――け――けどっ……
 叔父さんの天幕とは、違う。もしも足を踏み外せば、待っているのは串刺しの死だ。
 氷の鎖で縛られたように、全身が冷たく竦む。竦んでしまったことで、恐怖がまた膨れあがる。幾本もの刃に貫かれた自分のイメージが、脳裏をよぎった。
 懸命にかぶりを振って、つばさは纏いつく怯えに抗う。
「……じじいの寝言に付き合う義理はねえぜ、駒形」
 側らの仁矢が、低い声で呟いた。
 彼は鋭く息をつくと、老人の顔を見上げる。
「てめえが仕立てた悪趣味な舞台で、どこの馬鹿が好き好んで闘うと思ってやがるんだ? 俺らをどうにかしたいなら、てめえからこっちに来やがれ」
「――いやいや」
 仁矢の挑発に、《蛇使い》は乗ってはこなかった。大仰に肩を竦めて、老人は薄ら笑いとともに首を振る。
「ところがそちらのお嬢ちゃんは、いかような条件なりともわしに挑まねばならぬのじゃよ。
 考えてもみるがよい。今宵お嬢ちゃんがここに来ねばならなんだは、一体何のためじゃ?」
 嘲笑とともに見下ろされ、つばさはきゅっと下唇を噛んだ。
 そう。この戦いの主導権は、あくまでも《蛇使い》の側にあるのだった。千絵ちゃんの命を救うための解毒剤が、彼の手の内に握られている限り。
「ああ、そうじゃのう」
 《蛇使い》が、芝居がかった仕草でぽんと手を打った。
「考えてみれば、坊ちゃんは部外者というものじゃ。たとえこの闘いの天秤がどちらに傾こうと、坊ちゃんが失うものはなにひとつありはしないじゃろうからのう。
 なんじゃったら、お嬢ちゃんの果敢な闘いを最後までそこで見ておるかね?」
「――っ!」
 軋るような声を洩らして、仁矢が《蛇使い》を睨みあげる。だがむろん、老人の嘲笑の壁は崩れない。
「……まあ、とはいえわしのほうも、そろそろけりをつけてこの巣蔵を後にせねばならんのは確かじゃ。ここはひとつ――」
 しゅるっ……
 擦れ合う鱗の音が、耳に入った。
 息を噤んで、つばさは老人を――眼前にとぐろを巻いた大蛇を見据える。
「火蓋は、わしのほうから切ってやるとするかのう」
 しゅるるるっ……
 再び、乾いた擦過音が響く。だが、大蛇は鎌首をもたげ、微かに身をゆすらせただけだ。顎を開いて襲いかかってくるような様子は見せない。
「――――?」
 何だろう。何をしようと――
「どけっ、駒形っ!!」
 鋭く響いた仁矢の叫びが、唐突につばさの耳を打つ。
 問いの声を返す暇も、振り向く暇すらもなく。踏み込んできた仁矢に体当りをくらい、つばさの身体はほとんど吹っ飛ぶようにして後方に跳ねた。
「な――わあぁっ!」
 舞台脇の袖幕(そでまく)に背中を受けとめられ、そのままとすん、と尻餅をつく。
 刹那、重い打撃音と木の割ける音とが、ひとときに耳に響いた。
 見開いたまま巡らせた、そのまなざしの先で――
 舞台の床板が。一瞬前までつばさのいたその場所が、見えない大槌で叩かれたかのごとくに陥没する。破砕された細かな木片が、側に立つ仁矢の足元に転がった。
「――惜しい!」
 言葉とは裏腹の愉悦を声に宿らせ、《蛇使い》が哄笑する。
「もうすこしで、お嬢ちゃんを『力』の懊悩から救ってやれたものを。軽業が二度とは使えぬよう、両の脚を砕いて、な」
 背筋を滑り落ちる悪寒とともに、つばさは攻撃の正体を知った。
 舞台の縁に立つ、仁矢のすぐ正面。並ぶ刃の間から、大きな杭にも似た何かが天井を指して屹立している。
 びっしりと黒い鱗を生やした――あれは、大蛇の尾。
 床の刃の狭間を潜り、死角からつばさの脚を狙ったのだ。目にもとまらぬ速さと、一撃で床を割り砕くその威力をもって。
「おやおや。ひねた口を利いたわりにはずいぶんと懸命の表情じゃのう、坊ちゃん」
 荒い息をつく仁矢に、《蛇使い》がからかいの声を投げる。
「おとなしく見ておればよいというに。不相応な横槍を入れる癖は、改めぬと命取りとなるぞ。ほうれ、このように――」
 言葉とともに、もたげられた大蛇の尾がゆらりと揺らめいた。
 ヴン! と風切る音とともに、黒く巨大な鞭は横殴りに仁矢の頭を狙う。
「仁矢くんっ!」
 つばさが声をかけるまでもなく、仁矢は大きく腕を挙げた。
 響きわたる、鈍い打撃音。
 床板をも破砕した生ける鞭を肘で受け止め、彼は身じろぎすらもせずに老人を睨み据える。
 だが――
「やりよるのう。じゃが、これはどうじゃ?」
 蛇の尾の先は、そのままぐるりと仁矢の腕に絡みついた。
 傷を負った手の甲。つばさが巻いたハンカチの、その上に。
「くっ――ぁ――!!」
 押し殺した苦痛の声に、みしり、と骨の軋む音が重なる。
 わずかに身をかがめた仁矢のすぐ横手に――蒼い眼を光らせて、大蛇が頭を垂れた。
「――仁矢くんっ!!」
 今一度の叫び声とともに、つばさは無理やりに身を起こして仁矢に駆け寄らんとする。
 その、目の前で。
「健闘じゃったな。しばらく眠っておるがよい」
 斜め下から振りあげられた大蛇の頭が、仁矢の胴を薙ぎ払った。
 抗うこともできぬまま、彼の痩躯は宙を舞う。
 ストップモーションのように、つばさの時間が凍りついた。
 駆け寄る自分の脇をすれ違う形で、吹っ飛ばされていく仁矢の身体。
「――――っ!」
 反射的に。何の意識もしないままに、つばさはその胴に飛びついた。
 勢いを殺すことはかなわず、つばさの足はそのまま床を離れる。飛ばされる。もろともに。
 一瞬の無重力。流れていく視界。残像の尾を引く白熱灯の光。
 懸命に、つばさは仁矢の頭を胸の中に抱きつつんで――
 どんっ……!
 重い衝撃は、背中から胸へと突き抜けた。
「――は――ぁっ!!」
 あおむけの姿勢で床に叩きつけられたのだということを、一瞬遅れてつばさは悟った。全ての息が肺から搾り出され、掠れた悲鳴とともに喉を抜ける。痺れるような痛みが、意識を暗き淵へと誘う。
 吐き気を堪えながら、つばさはなんとか半身を起こした。ちょうど自分のお腹のあたりに頭を乗せて、横たわる仁矢。手を伸ばし、つばさはその頬をぺちぺちと叩く。
「仁矢くん――仁矢くんってばっ!」
「――ぅ――」
 微かな呻きが、仁矢の唇から洩れる。気を失っているだけのようだ。
「仁矢く――」
 思わず発した安堵の声はしかし、最後まで紡がれることなく凍りつく。
 自分の足に。両の足首に、締めつけられるような感覚があった。
「な――わぁっ!」
 反射的に巡らせたまなざしが、そのまま驚愕と恐怖に見開かれる。
 大蛇の頭が、すぐ目の前に見えた。投げだされたつばさの両足――その間の床に顎をつけるようにして、蒼い双眸でつばさの顔を見据えている。
 半ば恐慌に陥って、つばさは足をばたつかせた。ばたつかせようとした。できなかった。なぜなら――
 蛇の背中から伸びた黒衣の腕が。身をかがめた怪老人の手が、万力もかくやの力強さでつばさの足首を掴んでいたからだ。
 大蛇がゆっくりと頭を引く。つばさのお尻と背中が、ずりっ……と舞台の上を滑った。
「いや、あ、わあああっ!」
 必至に両手を床をおさえても、頭を振って暴れても、抗うことはできない。凄まじいまでの力で、つばさはいいように引きずられていく。
 振り落とされた仁矢の身体が、ごろりと舞台に転がった。
 く、と声を洩らし、彼は微かに肩を震わせる。うっすら開いた目がつばさに向けられ――鋭く照準を結んで見開かれる。
「――駒形っ!!」
 叫びの声とともに、仁矢は発条(ばね)のごとく半身を起こした。前方に滑り込みざまに、つばさに向けて腕を伸ばす。
「じ――仁矢くんっ!」
 つばさもまた、仁矢に向けてぴんと手を差し伸ばした。
 届かない。
 二人の手は、指先をほんの一瞬掠れあわせただけだ。
 大蛇が頭をもたげ、つばさの身体はふわりと宙に浮いた。両足を《蛇使い》の腕に掴まれ、真っ逆さまに吊り下げられた形で。
 舞台の縁に倒れ伏し、顔をあげてこちらを睨み据える仁矢。その姿が一瞬にして遠ざかり――
 つばさの真下には、白熱灯に照り輝く刃の山があった。
「は――」
 離してよっ! と叫びかけて、つばさは言葉をとめる。離されたが最後、待っているのは確実な死だ。群れ並ぶ刃先への高さは2メートル強。宙返りは不可能だろう。
 ゆらゆらと身体が揺れるたびに、鳩尾(みぞおち)のあたりが冷たく竦みあがる。
 もはや、暴れることすらできない。恐れと悔しさとに両の拳を握り締め、つばさはただ唇を噛んだ。
「くっくっ……さあ、坊ちゃんや」
 上方から、《蛇使い》の声が響く。舞台の上の仁矢に、投げかけられた嘲りの言葉が。
「光栄に思うがよい。お前は今から――このわしが催す見世物の、ただ一人の観客となるのじゃからな」
 うなじのあたりに、生温かい空気の流れが触れた。
 産毛が逆立つような悪寒とともに、つばさは悟る。自分の頭の後ろで、大蛇が裂けんがばかりに顎を開いていることを。
 ちろり、と、視界の隅をピンク色のうねりがよぎった。
 舌だ。それ自体、並の蛇の身体ほどもありそうな長さを持った――大蛇の、舌。
「や――ぁ――っ!」
 掠れた悲鳴をあげて、つばさは頭を振る。
 湿った鑢(やすり)を思わせるおぞましき感触が、耳元から頬を這い滑った。





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