〜 第三十九幕 つばさ 〜



 ――ヴン!
 空気の唸る音とともに、投げ放たれる銀の刃。
 溢れる涙が、視界を霞ませる。胸板を貫く凶刃の予感に、全身が冷たく竦みあがった。
 が――その、刹那。
 ――え!?
 つばさは思わず、驚愕に目を見開いた。
 目の前を、何かが通り過ぎたのだ。視界が一瞬覆い尽くされるほどの、大きな何かが。
 と同時に。
 ゴッ!
 という鋭い衝撃音と、
「――なっ!」
 という《蛇使い》の驚きの声とが、連なって客席に響いた。
 ――え――えっ?
 目を白黒させたまま、周囲を見回して。そこでつばさは、はじめて気がつく。すぐ足元の剣の群の中、転がった物体に。
 板だ。縦横50センチはあろうかという、割れ砕けた木の板。その真ん中に、一本の直刀が深々と突き立っている。
 それは、たった今《蛇使い》が投じた刃に間違いなく――
「――駒形っ!」
 鋭く響き渡った声が、つばさの意識を呆然の淵から引き戻した。
 思わず巡らせた視線の先。舞台脇の、袖幕の前。
 はりつめた表情を浮かべ、荒い息に肩を上下させながら――仁矢が、舞台の最前列に走り出る。
「仁矢くんっ」
「……貴様っ!!」
 彼の名を呼ぶつばさの声を、《蛇使い》の怒声が遮った。
「幾度も幾度も要らぬ邪魔立てをっ――
 おとなしく待っておるがいい。すぐに貴様にも、処刑の順は巡ってこようからな!」
 憎悪も顕わに言い捨てて、老人は再びつばさのほうを向き直る。怪人と大蛇のまなざしに射すくめられ、つばさは身をこわばらせた。
 再び《蛇使い》の顔によぎる、毒々しい笑み。だがそれは、ほんの一瞬しか続きはしなかった。
 つばさに襲い掛からんとした大蛇の鼻先を、飛来した板切れが打ち据える。
 シギャァッ!
 苦痛の悲鳴とも憤怒の声ともつかぬ咆哮をあげ、大蛇が身をくねらせた。
「おのれ――おのれっ!」
 振り回された背中の《蛇使い》が、睨み殺さんばかりの視線を舞台に向ける。
 凶眼を正面から受け止めて、むろん仁矢は怯みはしない。目は伏せぬままに、彼は足元に手を伸ばして――
 ようやく、つばさは知った。仁矢がいかにして、己の命を救ってくれたのかを。彼が投げつけたものの正体を。
 床板――だ。先程、大蛇の頭突きが割り砕いた舞台の残骸。
 周囲に転がるその断片を、仁矢は素早く拾い上げる。
「ぼさっとしてんじゃねえ。さっさと戻ってきやがれ、駒形っ!」
 鋭い声が、つばさの耳を打った。
「う、うんっ!」
 われに返って、つばさはTシャツの脇腹に手をかける。
「させると思うてかっ!」
 《蛇使い》の叫びとともに、鎌首をもたげる大蛇――その横っ面に、仁矢の投じた三枚目の板が勢いよく打ち当った。痛手となった様子はなかったが、蛇は一瞬動きを凍りつかせる。
「――てめぇは黙ってろ、じじい」
 低い声で、言い捨てる仁矢。
 ちょうど、それと時を同じくして――
 舞台上に立つ彼の背後で、ばさりという音とともに臙脂(えんじ)の色彩が翻った。
 瞬時にしてつばさは、その正体を見てとった。
 幕が。
 天井に吊られた大幕が、風を巻き上げて舞台の上に落ちかかってきたのだった。
 ――あ――!
 つばさは思わず、ぱっと表情を輝かせた。
 そう。舞台幕の落下は、証しにほかならないのだ。作戦の――仁矢の支度が、無事に整ったことの。
「ええいっ!」
 胸に湧き立つ活力にまかせて、つばさは思いっきりTシャツを引っぱった。刃を壁から引っこ抜いている暇なんて、いまはありはしなかった。
 布地の裂ける音とともに、身体が刃の拘束から自由になる。シャツの脇腹に穴があいてしまったけれども、気にしてなんていられない。
 硬直から立ち返った大蛇が、顎を開いて眼前に迫る。その牙を掠めるように躱して、つばさは全力で足場を蹴った。
 張り巡らされた角材の上を、八艘跳びに舞い渡る。刃の海が、足の下を後方に流れていく。
 すぐ背後で、木材の裂ける音が響いた。
 後を追ってくる大蛇の頭が、足場を叩き割る破砕音。それを耳にしても、つばさの脚は竦みはしない。
 辿るべきステップが、一筋の線となって見えた気がした。そのラインを迷いなく辿って、つばさは力と『力』の限りに跳躍する。
 舞台の上、仁矢の側らへ。
 両脚を揃え、フィニッシュの着地を決めた。
 決めた、つもりだったが――
「わととっ!」
 全力で跳んだ勢いを殺せず、つばさは前につんのめる。床板の上に伏し倒れそうになったところで、むんずとシャツの背中を掴まれた。
「じ、仁矢くんっ」
 名を呼んだその声には応えず、仁矢は無言でつばさの身体を引っ張りあげる。
 つばさはなんとか、倒れぬまま姿勢を立てなおした。だが、その代わりに。
 ぴっ、という音とともに、引っ張られたTシャツの裂け目が少しだけ広がってしまう。
「うわぁっ! な、なんてことすんのさっ!」
 思わず口をつく狼狽の叫び。
 沸騰したヤカンにでも触ってしまったかのように、仁矢が手を引っ込める。彼はぷいとつばさに背を向けると、客席の向こうの大蛇に険しい視線を向けた。
 素早く板切れを拾い上げて、仁矢は敵を牽制する。大蛇が鎌首をもたげたまま動きを停め、舞台と客席との間には再びはりつめた睨み合いの構図が出来上がった。
 縦15センチほどに開いてしまったTシャツの脇腹を押さえながら、つばさはうううううっ、と唸り声をあげる。
「……ったく」
 振り向きはせぬままに、仁矢が不自然なまでに尖った声で口を開いた。
「危なっかしいまねをしやがって――調子に乗って跳び回るんじゃねえ。捕まったら策も何もねえだろうがっ」
「な――何さっ」
 つばさは肩をいからせたが、それ以上反論の言葉が出てこない。なにやら奇妙に気恥ずかしい一瞬の沈黙が、二人の間に生じる。
 こほんっとひとつ咳払いをして気を取り直すと、つばさは仁矢の耳元に口を寄せた。
「よ――用意、できたんだよねっ」
「当たり前だ」
 返されたのは、無愛想きわまりない一言。
 つばさはちらりと視線を走らせる。舞台の横手、袖幕の陰に。
 仁矢の言葉通り、『用意』はそこにしっかりと整っていた。
 そう。先程舞台の大幕が落ちかかってきたのも、なればこそなのだ。
「あたしも、ばっちりだよ、仕度。はじめちゃって、いいよね、もう」
 緊張に上擦る声をどうにか抑えて、つばさは仁矢の背中に訊ねた。
 対峙する大蛇との距離は、7、8メートルほど。仕掛けるにはたぶん、これ以上ない絶妙の間合いだろう。
「……ほんとに大丈夫かよ? お前」
「へ?」
 仁矢が溜息とともに洩らした問いに、つばさはきょとんとまばたきをする。
「やばそうなら俺が行くぜ。ビビってしくじられたら、面倒ごとが増えるだけだからな」
 突き放すような言葉使いとは裏腹に、彼の声は真剣だった。
 その真摯さが、伝わってくるからこそ――
「ありがと。でも、馬鹿にしないでよ仁矢くんっ」
 前後でまったく意味の違う言葉を、両方とも心から、つばさは紡いだ。
「まかせといてっ。茜桟敷は新米だけど、舞台は長いんだからあたし。ふられた役ぐらい、最後までちゃんとこなせるってば」
 言うと同時に、つばさは床を蹴って走りだす。
 ちらりと後ろを振り返った仁矢と、一瞬だけ視線が交わった。つばさは口元に、微かな笑みを刻む。
 ああ、よかった。今度こそひきつらずに、ちゃんと笑えた。
 袖幕の陰に飛び込むと、つばさは床に手を伸ばした。仁矢が整えてくれた仕掛けの一端を手の内に握りしめ、ひと刹那、呼吸を停める。
 さあ――大一番のはじまりだ。


 血走った目で舞台の上を凝視しつつ、《蛇使い》はむぅ、と唸り声を洩らした。
 駒形つばさが、矢の如き速さで袖幕の陰に駆け込むのが見える。
 何をするつもりなのか、生意気なこの餓鬼めらは。
 老人はいまいましげに、舞台の上の少年を睨みすえた。
 名はたしか、赤城 仁矢といったか。苦痛と疲労のゆえか肩で荒く息をつき、額にびっしりと汗を滴らせて――されどその双眸に宿すは険しく鋭い、挑むような光。
 気に入らない。
 目の前のこの餓鬼だけではなく。階上で傀儡を通じて相対した、京一郎と呼ばれていた小僧も。睦という千里眼の小娘も。今回の標的であった、駒形 つばさも。
 どれほどに牙を向けようとも、どれほどに追い詰めようとも、獲物たるに相応しい怯えと懇願の色を表情に滲ませはしないのだ。
 そして、そのたびに。九分九厘手中に収めたはずの勝利は、するりと指の間を抜け出でていってしまう。一度や二度ならず、幾度も幾度も。
 本当ならば今頃は、茜桟敷の警護をものともせず、標的たる駒形 つばさをまんまと攫いおおせているはずだった。この地下洞窟の奥で、配下の蛇たちとともにあの小娘の血肉と臓腑(ぞうふ)を貪っているはずだったのだ。
 それが、何ということか。隠された根城はつきとめられ、茜桟敷はおろか団長の茜音の侵入までをも許し、階上を守っていた傀儡を失って。獲物であったはずの小娘は、『力』を奮ってなおも自分に挑みかかってくる。
 《蛇使い》にはわからなかった。一体、何処で計算が狂ってしまったのか。己が、何を読み間違えたのか。
 ――じゃが……まだじゃ。
 苛立ちを抑えて、老人はにやりと嗤った。
 主導権を奪われたわけでは、決してない。この闘場は自分がしつらえたものであり――戦いの軸たる解毒剤も、わが懐にある。
 そうとも。敗れるはずは万に一つもありはせぬのだ。あのような、未熟者の小僧や小娘どもに。
 舞台の上に立つ、仁矢という名の少年。もはや気力だけで身を支えているかのような有様ではないか。
 対する自分は、まだ傷のひとつすら負わされてはいない。板切れをいくら投げつけられたところで、鋼の硬度を持つわが蛇体の鱗を貫き通す衝撃とはなりえない。
 あの小僧の怪力は確かに要注意だが――わしのこの喉元に拳が届かぬ以上は、どうすることもできまい。
 《蛇使い》はゆっくりと、大蛇の尾をもたげた。刃の海を抜け、舞台の真ん前、佇む少年の眼前へと。
「さあ……そろそろ、続きといこうかのう。わしの鞭杖を受けて、あと何発そうして立っていられるか――楽しみにさせてもらうぞ」
 険しい表情を浮かべた顔の前で、尾の先をからかうように揺らしてみせる。
 少年は瞬時に板を手放し、尾を掴もうとした。
 だがそれは、もとより予想済みの動きだ。尾を真横に泳がせて少年の手を躱すと、返す一振りで胸元を打ち据える。さほどの力を入れたわけではないが、少年はくっ! という声とともに後ろによろめいた。
「おっと、危ない危ない。その馬鹿力で掴まれたのでは、いささか厄介なことになるからな。
 確かに、今宵のわしはいささか失策が続いたようじゃ。詰めばかりは、用心深く行かせてもらうよ」
 ゆっくりと、少年の斜め頭上に尾を振り上げる。
「単純な間違いというやつじゃったな。まずはなにより、貴様の息の根を止めておくべきだったのじゃ。
 庇護を失った小娘ひとりならば、その後でいかようにも嬲り殺してやれようからの」
 そう。
 どちらを先に料理してくれようかなどと、呻吟していたのが間違いの元だったのだ。
 攻撃の手段を有しているのは、このいけ好かない小僧の方のみ。こやつさえ先に血の海に沈めてしまえば――あとは、怯えて逃げ惑うであろう小娘をゆっくりと追い詰めるのみだ。
「どうする? ひとおもいに頭を割り砕いてやろうか? それとも、手と脚を折られて、動けぬままにあの小娘の断末魔の悲鳴を耳にしたいかね」
「く――」
 かざされた尾の間合いから逃れぬこともできず、少年は掠れた声を洩らした。《蛇使い》は満悦の笑みを浮かべて、彼の顔にまなざしを落とす。
 が――しかし。
「――――?」
 違う。
 少年の顔に浮かぶのは、《蛇使い》が期待していた絶望の表情ではなかった。
 唇の片側を微かに歪めた――彼が初めて見せる、それは、笑い。
「……てめえもいいかげん脳が足りてねえな、じじい」
 苦しげにくぐもった、それでもなお不敵な声が少年の唇から洩れる。落ちかかった前髪の陰から、獰猛なまなざしが《蛇使い》を見上げた。
「俺と同じ勘違いをして、しかもまだ気付いていやがらねえのか」
「何じゃと?」
 思わず訊ねかけてしまってから、老人ははっとわれに返る。地上に続いて、自分はまたもや相手の調子に引き込まれつつあるのではないか。
「だ――黙れ! もうその手には――」
「安心しろよ。俺は先輩や茜音のやつとは違うんでな。もったいぶらねえで教えてやる。
 てめえのいちばんの勘違いはな――」
 少年の身体が、足音もなく真横に逸れた。
 傷ついた身体のどこに、ここまでの力が残っていたというのか。電光石火の動きで、彼は右の脚を振りあげる。
「あの馬鹿を――舐めてかかってやがったことだ!」
 がっ! という音とともに、蹴りあげられた床板の破片が飛来する。わずかな狂いすらもなく、《蛇使い》の顔面を狙って。
「ぬ――!」
 咄嗟に腕を振るい、跳び来る板を払い落とす。手の甲に走る痛撃に、《蛇使い》は思わず一瞬だけ顔を伏せた。
 刹那。
「――てやぁっ!――」
 高く澄んだ気合いの声と、遠く床を蹴るステップの音とが耳を貫く。
 すぐ眼前の中空に、風を纏った少女の姿が浮かんでいた。
 白熱灯の光が織り成す、それは幻か。《蛇使い》は、確かに目にしたように思えた。『力』が。少女の内より迸る凛然たる『力』が――輝きの双翼となって彼女の背に広がるのを――!
 ――おのれ!――
 目を奪われそうになる己を振り払い、《蛇使い》は大蛇の顎を開く。
 だが、必殺の勢いをこめて少女を噛み千切らんとした牙は、彼女の残影を捉えただけだった。
 角材を踏む靴音は、斜め後方に響く。
 巡らせた視線の先に、軽業の少女の姿は既にない。着地と同時に足場を蹴り、彼女は空を跳んでいた。大蛇の背後を、一足に横切る形で。
「む――?」
 訝しげに、《蛇使い》は声を洩らす。
 何をしようというのか、この小娘は。挑みかかってくるでもなく、己の周囲を大きく回りこむかのように跳躍して。
 ――囮か!?――
 舞台の上にぎろりと目を向けたが、少年は身構えたまま動じる様子もない。
 が、しかし――ふたたび背後の少女にまなざしを戻したとき、疑問の答えは直接、《蛇使い》の視界に飛び込んできた。
「なっ――」
 宙を翔ける少女の軌跡。その背後から舞台の上までを見開いた眼で見回して、《蛇使い》は唇から狼狽の叫びを発する。
「何じゃ――これはっ!?」




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