阪神・淡路大震災

 


1995.1.17

兵庫県北淡町を震源とする巨大地震が、阪神・淡路地区を襲った。
地元警察、消防、及び、全国から増援された警察、消防、自衛隊により、懸命の救出活動が行われたが、結果、6000人を超える人命が失われた。

1999年5月現在、戦後最悪の自然災害である。

被害に遭われた方には、謹んでお見舞い申し上げます。

自衛隊日録メニューへ


註:記憶をたどりながら書いているため、一部、時系列を変更する場合があります。

1:家〜駐屯地  2:駐屯地〜日本原(岡山)〜神戸(北区・しあわせの村)

3:第一次派遣前半(倒壊家屋での捜索『長田区・御屋敷通り・水笠通り』)
 #
初日・午前 #初日・午後 #2日目 #3日目

4:第一次派遣後半(焼失地域での捜索『長田区』)
 #
瓦礫の撤去 #焼失地域 #ゴミ掃除 #帰隊

5:第三次派遣(北区・しあわせの村)

6:最後に


1:家〜駐屯地

起きてみると……

1月17日 午前8時頃

その日はちょうど代休を取っており、(年末年始休暇中の糧食交代で)家でのんびりとしていた。
おかげで、目を覚ましたのは8時過ぎ。おもむろにテレビのスイッチを入れてみると……

『何じゃこりゃぁ!』

街のあちこちから炎が立ち上っている映像が映し出された。チャンネルを変えてみると、テレビ東京系を除いて、すべて神戸を映し出していた。

大きく傾いたビル。倒壊した阪神高速高架橋。波打つJR車両基地。
あまりの異常さに、見た当初は実感が全くわかなかった。

が、徐々に広がる炎と、ニュース速報で伝えられる死者の数で、その被害の深刻さが徐々に伝わってきた。

その日はずっとテレビに釘付けだった。
が、ここ山口からはかなり離れている。……出動はあるのかまだ分からなかった……

 

翌日

朝七時に、家の黒電話が鳴り響いた。

受話器を取ると、班長が早口でまくし立てる。
『早く帰ってこい、災害派遣だ!』

慌てて着替え、車に飛び乗る。……ただ、その日はかなり寒かったため、フロントガラスが凍りついていて、すぐに出発できず、もどかしい思いをする。

フロントガラスの氷が溶けるのを待って、一路駐屯地へ。
家からは約一時間の距離。が……、ちょうど通勤ラッシュに引っかかり、一時間二十分くらいかかってしまう。ったくこんなときに……

駐車場(駐屯地外でちょっと離れてる)から駐屯地まで走っていく。
息を切らして営門をくぐる。と、
『出発は、0845だってよ』
『はぁ?』
屋外時計を見て絶句。
だって、時刻は既に8時32分。13分で準備? それはムリだろ!

それでも速攻で営内班へ帰り、寝具と日用品を、それこそ適当に演習バッグに突っ込む。でも、時間が全然足りない!

が……
8時45分出発はガセだと判明。何やら情報が混乱していたようだ。
ホッと胸をなで下ろし、ゆっくり準備し直した。
(正式の出発は、午後1時)
懐中電灯や下着、替えの戦闘服や雨衣やらを突っ込み、3トン半(大型トラックのこと)に積み込み。
既に、資材は積み込み完了していた。

昼食後、残留組の見送りを受け出発。
初めての災害派遣に、未だ実感沸かず。


2:駐屯地〜日本原(岡山)〜神戸(北区しあわせの村)

移動初日

駐屯地を出発し、一路神戸へ向かう。
中国自動車道は、神戸に近づくにつれ、渋滞が激しくなり、某サービスエリア手前で完全に停止してしまう。
あたりを見ると、応援の警察車輌も渋滞に引っかかって動けなくなっていた。
とにかく、車の数が物凄い。
おまけに日も暮れてきて、気温も急速に下がってしまう。
こうなると、困るのがトイレ。
とりあえず、そのSAの入口にトラックを横付けし、道路の脇に、仲良く並んで立ち小便。
情けないが、こればっかりはどうしようもない。

日もどっぷりと暮れる。
神戸に向かうと思っていたのに、その遙か手前で高速を下りる。
どうやら、一旦岡山・日本原(駐屯地と演習場がある)で待機するらしい。
まあ、いきなり行ったところで、受入準備も出来てないようでは、かえって混乱するだけだ。

移動二日目

翌日、今度こそ神戸へ向け出発
昨日とはうって変わって、高速は空いていた。
途中、一般車が強制的に下ろされるICを通過。その先のサービスエリアに入る。ここで一旦、車を掌握し直すらしい。
それに、ここからパトカーの先導が付いた。

次いで、阪神高速に入る。
その途中、危険個所があるらしく、反対車線を走行。
車っけのない高速というのもかなり不気味だ。

やがて高速を下り、一般道へ。
やはり、交通規制のない一般道はかなり渋滞が酷い。
折角先導してくれていたパトカーは、どんどん先へ行ってしまうし、……自衛隊車輌にも赤色灯が欲しい。
(車列が長いから、先導されるのは実質、最初の方の車だけ)

途中、サイレンを鳴らして通過する救急車とすれ違う。
ヒビの入った塀などが目に付いてくると、いよいよ神戸に入ってきた……という実感がわいてくる。

また日も暮れ、午前0時頃、神戸市北区『しあわせの村』というキャンプ場に到着。
どうやらここに天幕(テント)を設営し、ベースキャンプにするらしい。
眠いとか、疲れたとか言ってる暇もなく、そこら中に天幕設営、荷物運び。
また、とりあえずトイレに行ってみる。が、やはり断水の影響で水が流れない。
トイレも詰まっているようで、……その惨状は筆舌に尽くしがたい。
便意も失せる

そして、その日はとりあえず、翌日に備え、寝た。


3:第一次派遣(倒壊家屋での捜索『長田区・御屋敷通り・水笠通り』)

初日:午前

長田区へ

翌日、6時に起床する。
朝飯は缶飯……昼食用の缶飯も渡される。
小隊ごとに別れ、トラックに乗車。神戸市街(長田区)へ向かう。

朝は道路も空いている。
快調に進むトラックの荷台から見える外の光景に、少しずつ変化が訪れていた。
無数の亀裂を前進に浴び、大きく傾斜したビル。
数メートルも陥没した国道。
波打つ道路。
一階部分が潰れた店舗兼住居……

トラックは、長田警察署前の道路、中央分離帯寄りのあたり停車する。
この周囲は、各所から増援された警察、消防の駐車場となっているらしく、
片側四車線のうち、中央寄り、歩道寄りの二車線を潰して駐車スペースとしていた。
一面、消防車、レスキュー車輌、救急車、パトカーが並んでいる様は、壮観としか言いようがない。
無論、あちらこちらで、サイレンを鳴らして突っ走る緊急車輌の姿が目に付く。
上空を舞う、ヘリコプターの爆音と相まって、騒然とした雰囲気が、この周囲を覆っていた。

御屋敷通り

一時間程度、警察署前で待たされた後、ようやく現場へと出発した。
どうも、調整などで手間取っているらしい。
こういう、いつ出るか分からない待ち時間が、非常にもどかしい。

途中、阪神電車『西代駅』前を通り、商店街へ
一階が潰れた住居兼店舗が目に付く。
大きく傾いた商業ビルの前を通り、ある交差点で、一班と二班に別れる。
自分は一班だ。
そのまま真っ直ぐ進むと、火災で焼失した地域が目に入ってきた。
細い道路を隔て、方や、空襲でも受けたような焼け野原が一面に広がり、方や、まったく無傷。
そんな光景も凄まじかったが、もっと凄まじいものがある。
それは煤煙……
とにかく、息をするのもきついくらい空気が悪い。

そんな道を暫く歩くと、一階の潰れた医院へたどり着いた。
家人の話によると、どうも、ここの主人が、一階部分で生き埋めになっているらしい。
早速作業に取りかかった。

とはいうものの、道具なんて、円ぴ(シャベル)、十字(つるはし)、バール、エンジンカッターくらいしかない。
力わざで二階の窓を破壊し、中へ入る。
大きく傾いた室内には、様々な物が散乱し、凄まじい状況だ。
一階にいるとされる行方不明者を探すには、ここから床を剥がして下に入るしかない。
が……、本棚やらがじゃまで、畳すら剥がせない状況だ。
とにかく、中のものは全部外へ運び出さなければ……

その作業も何とか終え、畳を剥がし、床下へ侵入。エンジンカッターで邪魔な柱を切断し、やっと下へ入り込むことが出来た。
……が、一階には、各種医療器具が散乱しているだけで、誰の姿もない。
狭いスペースに身を押し込め、必死に探すがどうしても見つからない。

ここに来て、家人が言う。
「ひょっとしたら、後ろの自室の方かも」
自分達が来る前に、一度捜索していて、居ないことを確認してあったところだが、もう一度探すという。

そしてしばらく、……壊れたトイレの中で、行方不明者は発見された。
遺体は消防レスキューに引き渡し、この場はこれで完了となる。

今後、こういう無駄な苦労を幾度も重ねることになる。

 

初日:午後

宿営地へ

初日の作業はこれで終了、トラックの位置に戻る。

皆乗車をすませるが……なかなか出発しない。
そこでなんと、三時間も待たされた。

どうやら、他の小隊の作業が手間取っているらしい。
(三階建ての建物に押し潰された遺体を回収しようとしていたところが作業できなかったようだ)

長く待たされれば、トイレにも行きたくなる。
近所で民間のトイレを借りた。
断水なので、近くの川で汲んできた水で流す。
水がないと、不便だ……

また、自分達のような下っ端では、情報が全然入ってこないので、小隊陸曹が持ち込んだラジオだけが、その手段である。

それで地元のラジオを受信するが、緊張した雰囲気が良く伝わってくる。
特に耳に残ったのは、無事を知らせるための連絡放送。
やはり、東京でやっている他人事のような放送とは全然違う。

日も暮れかけ、ようやく宿営地へ向け、出発した。
しかし、これからもまた、長かった。
道路は大渋滞。いったいどこにこれだけの車がいるのか……。信号は変わるのに、車はまったく進まない。
近くを路線バスが走っていたが、あんまり進まないので、お客さんが降りるのが見えた。
うーん……

というわけで、10キロ少々を進むのに、何と四時間もかかる。
これでは、歩くのと変わらないじゃないか……
初日からこれでは……先が思いやられた。

宿営地にて

遅い夕飯をいただく。
久々の温食がやけにうまい。
ずっと缶詰だっただけに、喜んで全部平らげた。

また、仮設の電話が設置され、無料で使えるようになっていた。
家族などへ連絡をするために、あっというまに行列が出来る。

自分は暫くしてから行った。
いつ帰れるか分からない旨など、簡単にすませた。言いたいことが整理できてなかったからだ。

明日も早い。
間もなく就寝した。

 

二日目

今度は水笠通りへ

昨日に引き続き、建物の下敷きになった人の捜索に入る。
今日は昨日よりも少し手前の通りに面した、二階建ての古いアパートだ。
二階部分の一部を残し、ほぼ全壊状態である。
ここもまた、昨日と同じ、貧弱な装備での活動になる。

話によると、二階にひとり、一階にも複数名埋まっているという話だ。
その天井部分から、剥がしにかかる。

もちろん、ろくな装備はないので、手作業が主。ハッキリ言って出来る話ではない。
しかも、天井はコンクリート……でも、出来るところから剥がし始める。

少しずつ下の部分が露わになる。
生活の匂いのする部分が晒される。
一応、個人のプライバシーに関わるので詳しくは書かないが、身辺の整理には気を付けよう、とだけ言いたい。(汗)

暫く作業していると、隊員のひとりが靴下のようなものを発見する。
『あれ、足じゃないのか?』
その声に、よく見てみると、靴下にしてはやけに膨らみがある。……確かに足だ。

しかし……、そこに倒れていると思われる遺体の上には、建物の梁の部分が乗っていて、とてもではないが撤去は出来ない。
また、こんなものに押し潰されては、生きているはずもない。
というわけで、ここから先もまた、消防レスキューの仕事だ。

まあ、自衛隊さんは、地道な肉体労働が似合ってる。ということですか……

その後、夕方から夜間にかけて消防レスキューが来る。それまで、ジープのヘッドライトで現場を照らしていたのだが、レスキューの照明車が来て、代わりに照らす。
さすが、照明車だけあって、物凄く明るい。さすがにレスキューはいいものを持っている。

レスキューのジャッキによって、遺体を押し潰していた梁がどかされる。そして、収容。
まったく手際が良い。さすがプロ。

結局作業が終わるまで見守っていたのだが、すべて終了したのは、午後八時頃だった。

ただ、その間に、地元の人間から『なぜ、早く来なかったのか!』と、文句を言われた。一部の隊員との間に、凄まじく険悪なムードが漂っていたが、事なきを得る。

 

三日目

水笠通りのアパート二日目

昨日に引き続き、アパートの行方不明者の捜索をする。

今度は、民間の協力で、重機が使えることになったので、午前中はその作業となる。
まず、一部、無事に残っていた二階部分も撤去するため、住人に了解を得て、その部分を破壊する。(高級なオーディオセットもおしゃかに……合掌)

そして、徐々に上からパワーショベルで瓦礫をどかしていく。
こればかりは、機械でないとどうにもならない作業だ。ただ、埃が凄い。マスクは必須であるのだが、すぐに詰まって、やはり役に立たない。

やがて昼となり、二組に分かれて食事を取ることになる。
もちろん、まずい缶飯。(笑)
元々、味よりも保存性を重視しているので仕方ないが……もうちょっと何とかして欲しいと思うのは、自衛官共通の願いだと思う。

それを食い終わり、交代に赴く。

すると、現場では、動きがあった。
まず、一階部分で、中国人留学生の男女の遺体を収容。
布団が血を吸って、真っ赤に染まっていた。顔は紫色。後で食事をする組は、もうメシどころではないだろう。

そしてもうひとつ、なんと、完全に崩壊している一階部分から、生存者が発見されたのだ。
おじいさんで、どうやら、電気ストーブが崩れ落ちた天井を支えてくれていたらしい。
すぐに掘り返しにはいる。

無論、生存者発見ともなれば、どこからともなく消防レスキューが集まり出す。
しかも、四組も。(滋賀や神戸などだったような……もう記憶が薄くて……)
……そんなに集まって、どうしようというのか。
(指揮官が四人もいるから、かえってまとまらない……)

そのうち、テレビカメラも突っ込んでくる。まぁ、ハッキリいって邪魔です。
救出作業中、無理矢理頭をどかされて、カメラを突っ込まれたとか。……後にテレビ朝日系列と判明。(番組中に放送されたのを確認)

やがて掘り起こし終わり、おじいさんは病院へ直行。
ここまでで、初めての生存者だったので、感動もひとしお。
しかし、生死を分けるものなんて、本当にちょっとしたことなんですねぇ……

とりあえず、崩壊家屋からの作業は本日で終了。
この後、更に地獄な作業が待っているのです。


4:第一次派遣後半

瓦礫の撤去

長田区の通りを清掃

救出から作業は終了となり、次は瓦礫の撤去に主力が移る。
まず、生活道路を使用可能にするため、邪魔な瓦礫を取り除く。

これも、重機などない。全部手作業だ。
小さな木柱や、コンクリート片くらいなら良いのだが、家の壁がそのまま倒れ込んでいたり、ガラスの破片が飛び散っていたり、コンクリートの塊がドンと落ちていたりと、どれもこれも手間と危険がつきまとう作業だ。

途中、文明の利器が入った作業といえば、倒れた電柱を撤去する際、エンジンカッターを使ったことくらいだろう……(それも、余所からの借り物……)

この作業を黙々とこなしている間、どこかのカメラマンが随行した。その光景は後に、『週刊現代』に掲載されていた。(あんまりいい感じの掲載ではなかった……どちらかというと、批判っぽい)

自分の班が、その作業をしている間、他の班では、給水作業や仮設トイレの設置などを行っていた。
近くの小学校などに、大量のトイレを設置していたようで、かなりの作業量だったようだ。

また、途中高校のトイレを借りる。
水が流れないので、大便については、以下のような方法で用を足す。
便器に新聞紙を引き、その上に用足し。
終わったら、それを包み、ゴミ袋へ……

自分は大ではなかったが、……その苦労は察するにあまりある。

 

とりあえず、その日は、それらの作業で終える。

後日、小耳に挟んだ話では、機動隊(警察)の連中が、『自衛隊はスコップで何でもやる』と言っていたそうな。
そりゃそうだろうなぁ……スコップ(円ピ)だけで柱を切ったり、壁を壊したりする連中なんか、そうそういない……(苦笑)

 

焼失地域の捜索1

雨の菅原市場

その日は、久しぶりの雨となった。
まあ、そんなに激しいものでもなく、冬の乾燥しきった時期故に、恵みの雨とも言える。
確かに、凄まじい煤煙を押さえる効果はあったが、同時に体力も奪うので、一概には言えないのだが……

今回の場所は、菅原市場(アーケード)付近の商業地域。
地震後、火災で大部分が焼失したところで、テレビでも大々的に報道されていたので、知っている人も多いと思う。
そこを、機動隊と一緒になって捜索するのだ。

捜索するのは、逃げ遅れた犠牲者の遺骨。もちろん、そのためには、その上に積もっている瓦礫を撤去しないといけない。無論、どこに犠牲者が居るか不明なので、一面全部を掘り起こさないといけないのだ。
ハッキリ言って、……途方に暮れた。
でも、やるしかない……んだなと言い聞かせて、作業に入る。

捜索

まず、屋根瓦。
さすがに焼き物だけあって、そのまま残っている。重くて邪魔。
これを取り除くと、今度は焼け残った瀬戸物。
これも、焼き物だけあって、まったくの無傷。……さすがに熱には強い……

それを取り払うと、もう、基礎が見える。
無論、他にも金属製品の燃えかすは存在するので、それらの撤去も大仕事だ。
冷蔵庫やら、金庫やら、はたまた電柱&電線、それにガス管・水道管……
でかい上に変形して、金属板は剥き出し。危ないやら重いやら……

先を見るとやる気にならないので、下だけを見て作業。
マスクと合羽で、蒸れて暑い……

そんな作業が続くなか、骨らしいものを発見した。
班長らを呼んで、それらしい破片を集め、見せる。
無論、私達は素人なので、それ以上のことは分からない。すぐに警察の鑑識の人に来てもらう。

そこで、早速見てもらう。そして、程なく……
『これは、人間の骨じゃないね……鳥の骨じゃないかな』

鳥?

一応、鑑識の人に、人間の骨片を見せてもらう。
確かに、大きさといい、質感といい、全然違う。

後で聞いた話……………そこの場所には、『肉屋』があったらしい………

ガソリンスタンド

とりあえず、作業を一旦中断して休憩。近くの屋根付き歩道で雨をしのぐ。

今回、火災で焼失したところには、実はガソリンスタンドが隣接していた。
ここが、もし延焼していたら、もっと被害は大きかったかも知れない。
でも……、実際その現場を目の当たりにすると、逆にガソリンスタンドがあったから、良かったのかも知れない。

一度見ると納得すると思うが、ガソリンスタンドは火災に非常に強い。
当たり前といえば当たり前だろうが、目の前の界隈の中で、スタンドだけ残っている光景を見ると、……非常にショックだ。

ひょっとしたら、火災から逃げるには、スタンドは良いポイントかも知れない……

捜索が終わって

少しの休憩を挟んで、作業再開。
遙か彼方だった作業終了ポイントが、徐々に近づいてくる。

填めていた軍手ももうボロボロ。煤やらほこりやらで、顔も服もドロドロ。
でも、何とか作業は無事終了。

結局、骨は見つからなかった……

その後、このあたりによく出入りしていたという人から、こんな話を聞いた。

『ここは、商業地区だから、夜は人は居ないはずだけどね』

まあ、致し方ないことではあるが……

翌日から数日にかけて

場所を変え、再び焼失した区域の捜索にはいる。
菅原市場のアーケード跡の向こう側など……詳しい位置はもう失念したが、数日間に渡り、とにかく、色々な箇所を捜索した。

そんななか、自衛隊のお偉いさん(陸将)が、激励に廻ってきた。
こういう人を間近で見るのは珍しい。
おかげで、今でもハッキリと憶えていたりする。

結局、数万人規模の一斉捜索が終わるまでに、人骨は発見できなかった。
火災が起きたのが、地震発生からかなり経ってのことだったので、人は既に避難した後、ということのようだった。

 

ゴミ掃除

いよいよラスト1日

その日は、晴れて実に良い天候となった。
今日の作業が終わると、引き続き二次派遣で残留する組を除き、帰隊となる。

で、最後の作業となるのだが…… それは、震災で大量に廃棄された、家庭用一般ゴミの撤去だった。

阪神高速が上を走る道路の歩道側、三本の道が合流し、歩道橋が設置されている部分。
そこに、うずたかく積まれた、ゴミの山、山、山………
高さ二メートル、幅十数メートルに渡って積まれたそれは……道路と歩道橋を完全に塞いでいた。
たぶん、最初に誰かが捨ててから、雪だるま式に増えたのだろう。
まさに、ゴミがゴミを呼んだ結果か……

どうやらこれを、手作業で撤去しなければいけないらしい。
やはり、人海戦術か……

ピストン輸送する輸送隊のダンプに、どんどんゴミを放り込んでいく。
幸い、冬だっただけに、腐敗臭はしなかったが、生もの(牛乳を頭からかぶってしまった隊員も居た)も大量に捨ててあったので、……時期が外れていたら、かなりやばかったかも知れない。

また、ここぞとばかりに、大型の廃棄物(冷蔵庫・洗濯機・乾燥機等)も捨てられていて、荷台まで持ち上げるのも大変……
せめてバケットが有れば、効率的に出来たのだけど……

結局、丸一日かかってすべて撤去。
最後の作業が、実は一番大仕事だった。

 

帰隊

一部撤収へ

初日から二週間。
作業の規模は大幅に縮小され、約半数の隊員は帰隊することとなった。

ここまでくると、少々複雑な気分だ。本当は嬉しいはずなのに、何だか少し寂しいような……
帰れると分かった途端、そんな気持ちになるとは、人間とはかくも都合のいい生き物だ。

帰りはトラックでなく、輸送ヘリでの移動となった。
私自身、小型の輸送ヘリには載ったことはあったが、大型のものに乗るのは初めてだったので、何となく緊張してしまった。

やはり、でかいだけあって、ローターの巻き起こす風圧の何と凄まじいこと!
乗り込むのでも結構大変。

しかし、更に凄まじかったのは、その騒音!
隣の人の声すら聞き取りづらいほどの爆音が、機内に容赦なく侵入してきて、もう大変。
まあ、旅客機じゃないのだから、当たり前といえば当たり前だが……
でも、本当に凄い。(汗)

が、さすがにヘリ、山口・防府北基地に到着したのはその二時間後。
下を通ったら、……うん時間かかるのに……さすがに速い!

ヘリから降り、迎えに来た三トン半(大型トラック)に乗り込み、三十分ほどで駐屯地に到着。
第一次派遣は、無事終了したのでした……

が、一週間後には、第三次派遣として、再び神戸に戻ることは決定されていたのでした。


5:第三次派遣 しあわせの村

再び神戸へ

 山口帰隊より一週間を経て、再び神戸へ入る。
 今度は一週間の予定らしい。前と違い、先が見えているので、幾分気は楽だ。

 今度の仕事は、炊事。 災害派遣で宿営している隊員向けの飯炊きである
 朝四時に起きて、エンジンに火を入れ、炊事車に圧縮空気を溜める。
 その後は、野菜の切り込み、米とぎ……まあ、特段変わった作業ではないのだが、やはり、時期が時期だけに、冷たさだけはとてつもなく堪えた。
 水が、撒いた先から凍っていくのだ。
 寒いわ眠いわで、手元は狂いっぱなし。 もともと、炊事は苦手(その割には行かされているけれど…)だったので、非常に苦痛を感じた。

情けない負傷

 そして、数日が経過、やはり、やってしまった……

 レタスを角切りにしていたとき、手元が狂って、包丁が左手の小指を……
(どうやったら、そんなところに包丁が行くのか? という突っ込みは無しにしてください。本人も恥ずかしいもので………)

 小指の一部を削ぎ取ってしまったのだ。
 最初ただ単に斬っただけかと思っていたのだが、どうやら一部が欠けている……
 どうも、痺れていて、痛覚が麻痺していたらしい。

 すぐに、衛生の方で処置してもらう。
 でも、血がなかなか止まらずに苦労した……

 その翌日は大事をとって休み、翌々日から復帰。
 でも、怪我をしているから洗い物が出来ず、ただの厄介者に成り下がる……

 そうこうしているうちに、一週間は瞬く間に過ぎ、またもや帰隊へ……
 今度はもちろんトラック。先は長く、寒い旅。

 第三次派遣。そして、私にとって最後の災害派遣は、こんななりで帰る羽目になりました。


最後に

これは、私の自衛隊生活の中で、最も貴重な体験でした。
なぜなら、これが私の経験した、唯一の実戦だからです。

先の見えない苦しみと過酷な作業。
普段の訓練なら、 『状況終わり!』 の一言で、すべては幻と終わってしまうのですが、これはそうではありません。現実が相手であり、永遠に状況は続くのです。

でも、自分等は時間が来れば帰ってしまいます。

本当に状況が続くのは、そこで被害に遭われた方々。
また、未だ心や生活に、大きな後遺症を残されている方々もたくさんいらっしゃいます。

この方々の『状況終わり!』が、1日も早く訪れることを祈念して、終わりの言葉といたします。


上へ戻る