小柄な仮面の道化師は、張りめぐらされた綱の上を軽やかに踊りまわった。 まるで足が綱に吸いついているかのように――いや、むしろ綱など関わりなく宙を舞っているかのように。 流れる曲の中でドラムの音が響くたび、細い手が、足が、スポットライトの光の下でゆるやかな弧を描く。 小学校の教室ひとつ分ほどの狭い天幕の中は、熱気をはらんだ緊張に満ちていた。席を埋めつくす数十人の観客は、まさしく固唾を飲んで舞台の上の道化師を見つめている。 様々な高さに張られた綱の上を、華麗な舞いを交えながら縦横無尽に跳びまわる。何も仕掛けが無いのならば、とても人間技とは思えない。 クライマックスに向けて、ドラムのリズムが早さを増す。 と――道化師は一番下に張られた綱の上に立ち、動きを止めた。 何が起こるのか。観客たちは一様に息を止めて舞台に視線を据える。 そして―― ジャン! というドラムのフィニィッシュが天幕の中に響き、驚愕に満ちた客席のどよめきがそれに加わった。 道化師は落差2メートルはあろうかという最上段の綱に、一瞬にして跳び上がっていたのだ。それも、後方に身体を一回転させながら。 両手を広げて恭しく頭を下げる道化に、一瞬の静寂のあとで堰をきったように拍手が送られた。「いいぞ!」「すげぇ!」という、未だ興奮さめやらぬ賞賛の声とともに。 小柄な道化師はいまいちど深々と客席に礼を送り――それから、おもむらに自らの仮面に手をかけた。 スポットライトのもとにさらされたその素顔に、客席からは再び驚嘆(きょうたん)の声が洩れる。 無理もないことだった。 溌剌(はつらつ)とした笑みを浮かべるあどけない唇。 ほのかに上気した健康的な頬。 そして何より、未来を凝縮したかのように澄んだ輝きをたたえた、ぱっちりと大きな瞳。 道化師は、まだ十一、二歳とおぼしき少女だったのだ。 『駒形座』は浅草界隈に昔の名残りをとどめる、最後の見世物小屋だ。 見世物全盛であった大正の世からはもうゆうに七十年が過ぎ、むろん団員たちもこの稼業ばかりで食べていけるはずはない。平日は別の仕事に就いて生活を支え、休みの日になると地元の好意で空地を借り、天幕を張って見世物を行う。見世物芸人出身の者を中心に細々と続けてきたが、近年のレトロブームを反映して評判はなかなかだった。 5月5日、ゴールデンウィーク最終日の午後――天幕の出口からぞろぞろと外に出てゆく客の数も、普段とは比較にならないほど多い。 「――いたいた! おーい、つばさぁ」 人ごみの中から声をかけられ、駒形 つばさ(こまがた つばさ)はふと顔をあげた。まだ道化服を着たままで、手頃な資材の上に腰を降ろしていたところだったのだ。 声の主はすぐに判った。髪をポニーテールにまとめた、13歳にしては背の高い女の子――中学のクラスメイト、橘 千絵(たちばな ちえ)だ。 「あ、ちえちゃん」 「ばっちり観たわよ♪ いやぁ、いつもながら良かったわぁ、つばさの軽技っ」 彼女は目の前まで歩みよって、ぽんと肩を叩いた。 「えへへ、ありがと。照れちゃうな」 「いやいや、ホントの話。5年もやってるってだけあるわぁ。 ――にしても、居候の恩に報いるために舞台で働くなんて、泣かせるわねぇこの勤労少女っ」 「そ、そんなんじゃないってば」 袖口で目のあたりを拭ってみせる千絵に、つばさははたはたと手を振った。 「もともとあたし、身体動かすの好きだし」 「好きってだけであそこまでできないって、ふつう。知ってた、つばさ? あんたのこと、新体操部の先輩たちが喉から手が出るほど欲しがってるって話よ」 「新体操っ」 「ま、つばさの身体でレオタードはちょい無理があるわね。でも、そこまでの運動神経持ってて帰宅部じゃどこの部活だって目ぇつけるわよ。どこもかしこも人材不足だもの、うちの学校」 ぐさっと来る言葉を、笑顔でさらりと言ってのける。 ちなみに千絵のほうはといえば、『ミステリー研究会』というやや存続が危ぶまれる部活に籍をおいている。新入生ではただひとりの部員、なのだそうだ。 「今からでも考えてみればいいのに。まだ5月だから、ぜんぜん間にあうわよ」 「ぶ、部活なんてできないよお。柄じゃないし――そ、それにほら、うちの手伝いもしなくっちゃだしさ」 「あ――そうか」 悪いこと聞いちゃったね、という顔で千絵がうなずく。 つばさは、両親を失って以来この浅草にある叔父夫婦の家で居候をしているのだ。この『駒形座』で舞台に立っているのも、ささやかな恩返しの一環といってよかった。 「あ、いいのいいの。そういう意味じゃなくってっ」 あわてて首を横に振りながら、つばさは内心ほっと胸をなでおろしていた。うまく部活の話題は打ち止めにできそうだ。 『駒形座』を営む叔父夫婦の手伝いをしなくてはいけない。それも確かに部活に入らない理由のひとつだ。けれども、本当の理由はそうじゃない。 運動部に所属して身体を動かしていたら、何かの拍子に自分の中にある『力』をみんなに知られてしまうかもしれない――そう思うからだ。体育の時間だけでも、うっかり使ってしまわないようにするのにひと苦労なのだから。 もし、『力』のことがみんなにばれたら、あたしは―― 「――つばさ?」 千絵の声が、つばさの思考を遮った。 「え?」 「どしたの? ほけっとしちゃって」 「あ――あはは、ごめん。終わったなあと思ったらなんかぼーっとしちゃって」 「ありゃ。ごめんね。そういやまだ着替えてもいないんだものね」 千絵はまじまじと、つばさが身につけた臙脂色(えんじいろ)の道化服を見やる。 「いいのいいの。じゃ、ちょっと着替えてくるね。今日はありがと、見に来てくれて♪」 「つばさ、今日はこれからどうすんの?」 「うーん、とりあえずお風呂屋さんいくつもり。汗びっしょりだし」 「川向のでしょ? じゃ、吾妻橋(あづまばし)までいっしょに行こ」 「うんっ。でも、いいの?」 「いいのよ。暇だしね。んじゃ、着替えてらっしゃい」 「はーい」 元気のいい返事とともに、つばさは踵(きびす)を返す。走りだしかけて――しかしふと足を止めた。 「どしたの?」 つばさの視線の先を追い――千絵もまた、怪訝(けげん)そうに眉を寄せる。 気付いたのだ。天幕の入口近くに佇んで、じっとこちらに視線を向ける人影に。 「……知りあい?」 小声で訊ねる千絵に、つばさはぶんぶんと首を振った。 やや猫背ぎみの身体を黒い衣に包んだ老人。彫りの深い顔と長い鍵鼻から、童話に出てくる『魔女』を男にしたような印象を受ける。 もちろん、記憶にある顔ではなかった。 向こうでもこちらに気付いたのだろう。皺(しわ)の刻まれた顔に笑みを浮かべると、すうっ……と右手を挙げた。 ――あ、お客さんかぁ。 少しばかり不思議に思いながらも、つばさはぺこりと頭を下げた。「ありがとうございましたぁ!」という元気のいい声とともに。 老人はそれに応えて軽く頭を下げると、ゆっくりとした足どりでつばさたちの横を通りぬけていった。 「あのひと、つばさことずーっと見てたわ」 黒衣の後ろ姿が見えなくなると同時に、千絵が声のトーンを落として呟いた。 「え?」 「客席であたしの横だったのよ。つばさのが踊ってる間じゅう、にやにやしながら舞台眺めてて――ぜったいアレね。変質者」 「――いや、別にそれだけじゃ変質者ってことにはなんないと思うけどなぁ」 「もう、不用心なんだから」 人差し指をびしっとつばさの目の前に突きつけて、千絵は軽く片眉をあげた。 「つばさ、あんたちんちくりんだけどおめめぱっちりでかわいいんだから、もっと用心しないと。そのうちさらわれて裸にむかれて、剥製(はくせい)にされてどっかの館の地下に飾られちゃうわよっ」 「どうせあたし、ちんちくりんですよーだ。……って、千絵ちゃんどこからそういうめちゃくちゃな発想がでてくるの?」 「そりゃまあ、色々とね♪」 ほめられたと思ったのか、千絵はえっへんと胸をはった。 快活な顔だちと、それに見合うさっぱりとした性格。ポニーテールがよく似合う、すらりとした長身。中学一年生にしては大人っぽく見えるほうだろう。あと3年は子供料金で電車に乗れそうな自分とはえらい違いだ。 ――なのに、千絵ちゃんなんでこーゆー趣味なんだろ。 遊びに行くと、家の本棚には『日本猟期事件史』だの『世界の殺人鬼たち』だのといった本がぎっちりと並んでいるのだ。お父さんお母さんは気が気じゃないんじゃないだろうか――などと、つばさはついいらぬ心配をしてしまう。 「あれ? どしたのつばさ、あたしの顔しげしげ見ちゃって」 「ん――あっ、な、なんでもないっ」 千絵の声にわれに返り、つばさは慌てて首を振った。 「ふーん」 変なの、という顔で千絵は眉を寄せる。 「ま、いっか。つばさ――着替えてくるんでしょ?」 「――あ」 そうだった。すっかり忘れていた。回りに目をやってみると、もはや出口をでてくる客の姿も見えない。傾きかけた太陽に照らされ、天幕は淡いオレンジに色づいていた。 「ごめん。じゃ、行ってくるね」 「はいはい、表で待ってるわよ」 千絵の返事を背につばさは走りだした。汗がひきはじめた頬に、夕暮れのそよ風が心地好い。 今しがた目にしたばかりの不思議な老人のことは、すでにつばさの頭から消え去っていた。 ――そう、少なくともこの時は。 |