隅田川にかかる鮮やかな朱塗りの吾妻橋(あづまばし)は、雷門から徒歩にしてほんの2、3分の距離だ。煉瓦造りの老舗――神谷バーの前の通りに出ると、橋のたもとの水上バス乗り場が目の前に見えてくる。 暮れなずむ街を足早に行き交う人々に混じって、つばさたちは長い横断歩道を渡った。行きつけの銭湯は橋を渡ってすぐ――墨田区佃島(つくだじま)にある。 「〜〜〜〜〜〜〜♪」 「なんか嬉しそうねえ、つばさ」 鼻歌を歌って足を弾ませるつばさに、千絵が不思議そうに目を向けてきた。 「うん」 ちからいっぱい、つばさは頷く。 「あたし好きだもん、お風呂屋さん行くの」 銭湯そのものもさることながら、帰り道の橋の上――お風呂あがりのほてった身体を川風にさらすのが、つばさは好きだった。公演がうまくいった後とあっては、きっと気持ちよさもひとしおだ。 ちなみにつばさの右脇には、へちまと石鹸とシャンプーが入った洗面器がしっかり携えられている。お風呂屋さんにも洗面器ぐらいあるのだが、そこはそれ、銭湯愛好家のこだわりというやつだ。 「……へんな子」 千絵が言った。彼女はあまり自分というやつを省ない。 「いいじゃん別に。おっきなお風呂と脱衣所で飲むビン牛乳は、ムジョーのヨロコビなのっ!」 「はいはい、わかったわよ」 つばさが口をとがらせると、千絵は苦笑して大げさに肩をすくめてみせる。 そんなたわいない会話を交わしているうちに、二人は橋のたもとに着いてしまった。千絵が住むのは川沿いにしばらく行ったところにあるマンション。ひとまずここでお別れだ。 ――のはずなのだが、彼女は立ち止まってじっと川のほうを見つめている。 「あれ? どしたの千絵ちゃん」 訊ねたつばさに、千絵は振り返った。 その口元には、彼女が何かを思いついたとき特有のにんまりとした笑みが浮かんでいる。 「ねえ、つばさぁ」 「な、何?」 「つばさ、この間のあれ、知ってるわよねえ」 「あ、あれっていわれても……」 「もうっ、この場所であれったらひとつしかないでしょっ。あれよあれ、高校生集団昏倒事件っ! 理解力ないんだからっ」 そこまで聞いて、つばさはようやく思い当たった。それにしても、『あれ』で解れというほうが無理というものだ。 高校生集団昏倒――その事件が浅草の街を騒がせたのは、一週間程前のことだった。 渋谷区から地下鉄で浅草に繰り出していた高校生たちが、隅田川ぞいの遊歩道で意識を失って倒れているのが見つかったのだ。 謎の多い事件だった。 ひとつめは、彼らがひとかたまりではなく、ばらばらに離れた場所で倒れていたこと。 ふたつめとして、少年たちのうちのひとりがいまだ行方不明であること。 そして最後に、夕暮れの遊歩道を舞台にしているのに目撃者がひとりもいないこと。 学校から帰ると駒形屋で公演の準備を手伝っていたのでつばさはよく知らないが、一時は川沿いが、テレビカメラやら雑誌のレポーターやらでごった返していたそうだ。 結局警察では「薬物を使用していた少年たちが幻覚症状におちいり、そのうちのひとりは川に転落して流された」と結論づけたそうだが、その少年の死体は河口のどこにも見つからず、昏倒した少年たちもいまだひとりとして目を覚ましていない。 つばさたちが通う中学のクラスでも、さかんに噂や憶測が乱れ飛んでいた――いや、飛ばしていたのは主に千絵なのだが。 「警察も役に立たないわよねえ。一週間も経っていまだに犯人の手掛りもつかめないんだから」 何やら難しげに言うと、千絵は腕を組んでうんうんと頷いた。深刻な口調のわりには、なにやら妙にうれしそうだ。 「犯人?」 つばさは首をかしげた。 「犯人って、あの事件犯人はいないんじゃなかったっけ?」 「甘いっ。甘いわねえつばさ、ニュースで言うことをそのまま信じてんの?」 彼女はちっちっとひとさし指を振ると、 「いるのよ、犯人は。裏で糸を引いて、いまごろどこかでほくそ笑んでるやつがね」 ふいに表情を引き締めて、自信たっぷりに断言した。その様子があまりに堂に入っているので、つばさは思わずひきこまれる。 「ち……千絵ちゃんどうしてそんなこと知ってるの?」 「ふふふ、だって――」 「だって?」 「犯人がいなくっちゃ面白くないじゃない、事件として」 「――――」 たっぷり3秒間沈黙があった。 「……それだけ?」 「それだけ」 ――はぁ。 つばさは深く溜息をついた。たとえ一瞬たりとはいえ、真に受けたのが間違いだったのだ。 「でね、つばさ」 つばさの脱力もどこ吹く風、千絵はすり寄るようにつばさの顔を覗きこんできた。 「昨日まで遊歩道、立ち入り禁止だったのよ〜。わかる? あたしがどんな思いでロープが解かれるのを待ってたか。お願いつばさ、ちょっとだけ事件現場見に行くの付きあってっ」 「あのね、千絵ちゃん。あたし――」 「いやぁ、こーゆーのってやっぱりワトソン役っていうか、合方がいないと張りがでないのよ。ね、ほんの3分だけだから」 一方的に拝みたおすと、千絵はくるりと背を向けて遊歩道に降りる階段のほうに歩いていく。 「あたし、これからお風呂なんですけど〜……」 ちいさな声で呟けど、浮かれる友人の背中にはもはや届かない。しょうがないなー、と、つばさはお風呂セットを持ったまま後を追った。 ここでさっさと別れないところが、つばさと千絵を凸凹コンビならしめているのだ。 土手の縁まで来ると、夕暮れを照り返す隅田川の水面が一望できた。遠い鉄橋の上をとおる電車の音が、かたんかたんとちいさく聞こえてくる。 土手より数メートル下にある河辺には、カップル達が定規で計ったように一定の間隔をおいて並んでいた。ここまで人の多いのに事件を見た人がいないというのは、確かにつばさでも不思議に思う。 「ねえ、千絵ちゃん」 河辺に降りる階段の前で千絵に追いつくと、つばさは頭ひとつぶん自分より高い彼女の顔を見上げた。 「ん?」 「思ったんだけど……千絵ちゃんが現場見てどうするの?」 「どうするのって――」 階段を下りながら、千絵はあきれたように肩を竦める。 「馬鹿ねえ。現場百遍てことわざがあるじゃない」 何だかよくわからないが、すくなくともことわざではないような気がした。それって、ドラマで刑事さんたちがよく使う言葉じゃなかったっけ? とはいえ探偵モードになった友人には何を言っても無駄なので、つばさはおとなしく後を付いていくことにした。お風呂屋さんは逃げないし、千絵ちゃんとお散歩だって別に悪くない。 心地好い夕風に大きな瞳を細めて、つばさは歩きはじめる。 ちょうど――その時だった。 しゅるるるるっ……という何かをひきずるような音が、微かに耳に入ったのは。 「れ?」 思わずあげたすっとんきょうな声に、千絵が振り返る。 「どしたのよ、いきなり」 「いや、えーと……いま変な音聞こえなかった?」 「音?」 怪訝そうに、彼女は眉を寄せた。 「どんな? 聞こえないわよ別に」 「そう……だよね」 おかしいなあ、気のせいか。確かに聞こえたと思ったのに。 しゅる……しゅるるるるっ! そう、ちょうどあんな感じの――。 「――え!?」 つばさは再び声をあげてしまう。やっぱり気のせいじゃない。今度は、確かにはっきり耳に響いた。 「ほんと、どうしたのよつばさ?」 いぶかしげな千絵の視線も気にとめず、つばさはきょろきょろと周りを見渡す。と―― 不意に、ジーンズの足首の辺りを何かが撫でた。 ぞくりと背中を這い上がる寒気。反射的につばさは下を見る。 一瞬、風で飛ばされてきた紐が足に絡んだのかと思った。 50センチほどの、黒く細長い何か。正体に気付いたのは、そいつが細い眼でつばさを見上げ、ちろちろと舌を覗かせたからだ。 「――わああああああああああっ!!」 洗面器を放りだして、つばさは後ろに飛びずさった。ここが急な階段であることなど、もちろんその瞬間は頭にない。 「な――なにっ、うわっ!」 一瞬遅れて蛇の存在に気付いた千絵が、驚きの声とともに大きく身をそらす。その腕が、よろけるつばさの肩口に思いきりぶつかった。 「――ひゃっ?!」 結果的には突きとばされるかたちで、つばさは大きくバランスを崩した。 とっさに『力』を使いそうになる自分を、つばさはかろうじて抑える。そのことがまた、体勢を立てなおすのを妨げた。 「わ、わ、わわわわわっ!」 「つばさっ!」 千絵のあげた鋭い声を耳にしながら――つばさは階段の下に向かって倒れこんだ。 |