〜第三幕〜 茜色の邂逅






 どうしてだろう。転ぶ時の一瞬というのは、なぜかいつでもやけに長く感じられる。
 視界がぐるりと回転し、茜色の空が――それから、階段を転げ落ちていく洗面器が見えた。
足の裏はもう完全に石段を離れている。
 背中からコンクリートに叩きつけられる痛みを覚悟して、つばさは身をちぢこませてぎゅっと瞳を閉じた。
 ――どんっ!
 衝撃が――来る。
「――?」
 その時、つばさは妙な違和感を感じた。
 痛くないのだ。それに、転がり落ちたにしては何か妙だった。
 ――あれ?
 そっと目を開ける。
 数段上のほうで、千絵があっけにとられたような顔でこちらを見おろしていた。それを目にしてつばさはようやく、自分が階段の途中で座りこんでいることに気付いた。
「ああ、びっくりしたぁ――ごめんね、千絵ちゃん」
 照れ笑いとともに発したその声に、しかし千絵は応えなかった。あいもかわらず、ぽかんとした顔で、つばさのほうを見つめているばかりだ。
 いや――
 彼女が視線を向けているのは自分ではない。自分の、後ろの空間。
 ――え……?
 座りこんだままつばさは後ろを振り返り――そして思わず目を丸くした。
 夕焼けに染められた、隅田川の河辺。
 その光景を切り取るようにして、『彼』はすぐそこに佇んでいた。

 少年――だった。たぶんつばさと同じくらいの歳。
 にもかかわらず、身に纏(まと)う雰囲気がどこか違っていた。
 そう、まるで『険しい』という言葉が、そのまま男の子の形を成したような――
 無造作に伸ばした髪の上から、斜めにかぶった野球帽。そのつばの影になった瞳は、鋭くつばさを見下ろしている。
 ――何者をも寄せつけないような――でも、なぜだろう。なんだかやけに寂しそうな。
 つばさは声も出せずに、その場にへたりこんでいた。
 かたん、ことん。遠い電車の音が聞こえる。
 数秒経ってはじめて気付いた。この男の子が、階段の下まで転げ落ちそうになった自分を止めてくれたのだということに。
「あ、えーと、その……」
 なんて言ったらいいんだろう。ありがとう? ごめんなさい? 
 なぜだかうまく言葉の出てこないつばさに、少年は表情を変えないままで、すっ…と手を伸ばしてきた。
「え?――ひゃ、わわっ!」
 驚きの声をあげる時間もあらばこそだ。つばさはぎゅっと手首を捉まれて、一瞬のうちの立ち上がらせられていた。
「――あ――ありがと――」
 ようやく言葉が出た。なんでこんなに緊張しているのだろう、あたしは?
 少年はどぎまぎするつばさを面白くもなさそうに睨むと、
「――狭い階段ではしゃぐんじゃねぇよ。邪魔だ」
 低い声で、ぼそりとそう呟いた。
「ご、ごめんなさいっ……」
 だって蛇がいたんだもんなどと、言い出せる雰囲気ではない。
「あそこに転がってんの、お前んだろ?」
 振り返らないまま、少年は自分の肩ごしに階段の下を指差す。落とした洗面器とその中身がコンクリートの上に散乱していた。
 そちらに気をとられた瞬間、少年は無言でつばさの横を歩み抜ける。
「あ――ねえっ」
 思わず呼び止めた声にも振り返ることもなく、彼は階段を登っていく。彼の通り道に立っていた千絵が、あわてて横に退くのが目に入った。
 黒のオーバーシャツと黒のズボン。まるで影のようなその姿が土手の向こうに消えてしまうまで、つばさは愛用のお風呂セットを拾うのも忘れて階段の途中に立ちつくしていた。
 川面を渉る涼風が、かすかに火照(ほて)った頬をなでた。

「馬鹿者っ」
 ばらけた荷物を拾い集めて戻ってくるなり、つばさは千絵に頭をこづかれた。
「なんでそういつもいつも、マンガ並みにそそっかしいのよあんたはっ」
「しょ、しょうがないじゃん蛇がいたんだから〜! 千絵ちゃんだってびっくりしてたじゃんっ」
 少年に言えなかったぶんの弁明を、とりあえず千絵にぶつけてみる。ちなみにくだんの蛇はもうとっくのとうにどこかへ逃げていってしまっていた。
「蛇っつーよりは、つばさの大声にびっくりしたのよ、あれは」
 案の定、彼女は取り合わない。
「ったく、何事もなかったからいいようなものの……赤城の虫の居所が悪かったら、あんた蛇に噛まれるどころの騒ぎじゃすまなかったわよっ、わかってんの?」
「そんなこと言ったって〜――へ?」
 千絵の言葉に耳なれない単語が混じっているのに気付いて、つばさはきょとんとした。
「アカギ?」
「――へ?」
 鏡に映したように、今度は千絵がきょとんとした表情をつくる。
「念のためにきくけど……つばさ、あんた……もしかしていま誰と自分がぶつかったか――ご存じなかったりする?」
「うん」
 つばさはうなずいた。もちろんご存じない。
 千絵は一瞬原始人でも見るような目でつばさを見ると、もはや処置成なしとばかりに肩を落としてみせた。
「つばさ〜、あんた情報にうというといと前から思ってたけど、そこまで行くと一種の罪よっ」
「有名なひとなの? あの子」
 確かに、普通の男の子とはかなり違う雰囲気を発していたような気はするが。
「有名もなにもねえ――うちの中学の一年よ、あたしらと同・学・年! 赤城 仁矢(あかぎ じんや)を知らないなんて、浅草東中(あさくさひがしちゅう)広しといえどもあんたくらいのもんでしょうね」
「テレビとかに出てるの?」
「わざとボケてるんなら隅田川に投げこむわよ。その有名じゃなくって――そうね、なんつーのか……『札付きの不良』ってやつ。授業にもほとんど出てこないし、けんかっぱやいし。目合わせりゃわかるでしょ」
「ふーん」
 少年の姿を脳裏に浮かべながら、つばさは首をかしげた。
「そんなに恐い子には見えなかったけど……」
「……本気で言ってる?」
「うん」
 正直に、つばさはうなずく。
 確かに雰囲気は尖った感じだし、言葉も丁寧というにはほど遠い。けれども、なぜだか恐いという印象はまるで受けなかった。
 それはたぶん、腕を捉まれた時の感覚のせいだろう。
 一瞬で引っ張り起こされたのだ、かなりの力だったに違いない。それなのに、握られた手首はまったく痛みを感じなかった。むしろ柔らかく、温かくさえあった。
「ちょっと見は恐いけどさ。乱暴って子じゃないと思うけどなあ」
「……ふう〜ん」
 千絵はつばさの顔をのぞきこんで、意味ありげに笑った。
「なるほど、あーゆーのが好みなんだつばさ」
「へっ?」
 その言葉が耳から脳に届くのに、ゆうに3秒かかった。つばさがその意味するところを理解するのに、さらに3秒かかった。
「ち……違うってば〜〜なんでいきなりそうなるの〜〜〜!!」
「違わない違わない、顔が真っ赤よつばさ〜♪」
 洗面器を持ったままぶんぶんと振りまわした腕を軽快にかわしながら、千絵はミュージカルでも歌うように言った。
「千絵ちゃんが変なこと言うからでしょ〜!」
「やましいところがなければ〜言われたって赤くなったりしないわよ〜♪」
「ないもんっ!」
 むきになればなるほど、反論がつたなくなっていくのがくやしい。
 千絵はつばさの腕を何なくつかむと、もう片方の手でぽんぽんとつばさの肩を叩いた。
「ま、照れることはないわよ。ほんとーは食パンくわえて朝の交差点でぶつかるのがベストなんだけど、ぶつかったんだからファーストコンタクトとしてはまずまずね。セオリーからいくと次は、『雨の日に濡れた捨て猫を懐(ふところ)に入れてやるのを見て、見かけによらず優しいことを発見』ってイベントをこなさないとっ♪」
「何よそれはあぁぁ〜っ!」
 ――口では絶対、千絵に勝てないつばさだった。


 赤城 仁矢は土手を降り、水上バス乗り場の前を通り抜けた。
 背後からまだ、きゃあきゃあとはしゃぐ声が聞こえてくる。先程階段で出会った、あのふたりのものだろう。
「……平和なもんだな」
 眉ひとつ動かさずに、彼は呟く。
 どこかで見たことのある顔だった。自分と同じ、浅草東中学の生徒なのかもしれない。
 別にどうでもいいことだった。
 もとより学校というものとは距離があった。好きとか嫌いとかいう以前に、クラスの中にいる自分というものに違和感を感じてしまうのだ。
 入学式から5日後に、数人の上級生に囲まれた。どこでどう彼らの気に障ったのかは知らないが、「目つきが気に入らな」かったのだそうだ。
 相手をするのも面倒だったが、延々とつきまとわれるのもうっとうしい。学校近くの公園で仁矢は彼らを、二度と言い掛かりをつける気を起こさない程度に潰した。もちろんそのとき、自分の持つ『力』を使うようなことはしていない。
 その噂が広がって以来だ。クラスメイト達は遠巻きにおそるおそる彼を見つめるだけで、決して声をかけてこようとはしなくなった。
 仁矢のほうでもまた、自分から向こうに近づいていこうとは思わない。そんなスタンスに寂しさを感じたことはなかったし、これからもないだろう。
 『あいつ』に会って今のような活動に身を置くようになってからは、学校やクラスといった日常とはよりいっそうの隔たりを感じるようになっていた。
 通りを渡り、大きな朱塗りの提灯(ちょうちん)が提がった雷門の前を過ぎる。
 先程の二人のことを、仁矢は頭から追い出した。考えねばならない問題は他にいくらでもあるのだ。
 縁日さながらに賑わう仲見世通りを避け、一本外れたうら淋しい路地を浅草寺(せんそうじ)の方に向かう。狭い道そのままに切りとられた夕焼けの空は、急に暗さを増したように思えた。
 遠い街のざわめきを聞きながら、仁矢は先程まで歩いていた隅田川の縁を脳裏に浮かべる。陽も落ちるというのに、数多の人が行き交う遊歩道を。
 ――どう考えても不自然だな。事件を見た奴がいねえってのは。
 前方を見すえたまま、心の中で呟く。
 例の事件。やはりどう考えても薬物中毒などではない。
 そう。『あいつ』の言う通り。
 ――俺たちと同じ、『力』を持った奴の――
 自分でも気付かぬまま、仁矢は鋭く目を細めていた。あたかも、その先に見えざる敵が潜んでいるかのように。
 路地を抜けると、料理店やディスカウントストア、ゲームセンターやパチンコ屋が煩雑に立ち並ぶ繁華街に出た。ひとつ道を抜けるだけで街路の様相が目まぐるしく変化するのは、浅草の特徴のひとつだ。
 歩くにしたがって道幅は広くなり、人通りも増えてゆく。ほどなくして仁矢は、石畳に舗装された映画館街へと辿りついた。
 浅草六区。
 大正時代から、見世物や大衆演劇――そして奇術といった『俗』の文化の中心を担ってきた区域だ。いまやそれらは娯楽の王の座を逐われ、この六区もごく普通の映画街として客足を集めている。戦火を経て現代都市として生まれかわった現代の東京に、古めかしい見世物や奇術はそぐわないのだ。
 だが――
 仁矢は知っていた。
 かつて帝都という舞台の上を舞った奇術師たちの末裔が、姿を変え、この東京の黄昏のなかに潜んでいることを。
 ――とある雑居ビルの前で、彼はふと足をとめた。
 小さな映画館と喫茶店の間に挟まれた入口。人間ひとりがようやく通れるような下りの階段が、薄闇の中に続いている。
 仁矢がその中に足を踏みいれても、目も向ける通行人はいなかった。
 この入口は、普通の人間には見えない。仁矢がここを潜った瞬間、彼の姿もまた道ゆく人々の意識からごく自然に外される。
 そういうことになっているのだ。
 軋みをあげる階段を一番下まで下ると、オレンジ色の電球が一つ灯るだけの薄暗い廊下が数メートル先に延びている。
 仁矢はゆっくりと廊下を歩み、突きあたりの扉の前に立った。
 その上に積もった時間の長さを感じさせる、木製のドア。中央には擦りガラスで、縦長の窓がつくられている。
 窓には、もはやかすれて消えかけた文字が見てとれた。
 ――『喫茶 茜桟敷』、と――




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