〜第四幕〜 地下室の少年たち






 仁矢は拳で二回、古ぼけた扉を叩いた。
 ほどなくして奥から、軽い足音が近づいてくる。擦硝子(すりがらす)の窓にほっそりとした影が浮かぶのと同時に、
「――仁矢くん?」
 柔らかな声が中から問いかけた。
「……ああ」
 億劫さを隠しもせずに仁矢は応える。扉が内向きに開かれると、淡い蝋のような匂いがかすかに鼻をついた。
 仁矢は知っていた。これは画材――パステルの匂いだ。
「おつかれさま。日曜なのに、たいへんじゃなかった?」
 扉の向こうに佇む少女は、そう言って微かに笑った。
 つややかというよりは柔らかな印象を与える長い黒髪と、その髪に包まれた清楚な顔。眼鏡の奥にはややまなじりの下がった大きな瞳が、澄んだ光を湛えている。
 整った顔だちをしていながら冷たさというものをまったく感じさせないのは、ほほに薄く浮かぶそばかすと、柔らかな笑みの賜物だろう。照明の暗い地下にいながらにして、周囲に陽溜りの粒子をまとっているような――そんな少女。
「関係ねえよ」
 彼女の言葉に、仁矢は短く答えた。
「別にやることもねえからな」
 学校にも行ったり行かなかったりの仁矢にとっては、平日も休日もさほどの違いはない。
 他の人間に言われれば嫌味ともとれかねない言葉だ。だが、目の前の少女の唇が嫌味や皮肉とは縁遠いものであることは、ここ半年のつきあいの中でよく知っていた。
 香春 睦(かわら むつみ)――浅草東中学、学年は仁矢よりひとつ上の2年生。
 美術部の副部長をつとめる彼女と仁矢とがこんな場所で言葉を交わしているのを見たならば、他の生徒は目を疑うに違いない。本来ならば、どうやっても知り合いになることはなかったであろう間柄だった。
 そう――『力』という共通項さえ、ふたりが持ち合わせていなかったならば。
 扉の閉まる軋みを背に、仁矢は室内に入った。
 天井に灯る電灯と、ゆっくりと回る真鍮(しんちゅう)のファン。
 狭い部屋の中には、長方形のテーブルがひとつ。その上には――睦のものだろう――書きかけのスケッチブックが広げてある。
「――わ」
 慌てているにしては緊迫感にかけた声とともに、睦はぱたんとスケッチブックを閉じ、恥かしげにはにかんだ。
「ごめんね、こんなところでのんきに絵なんて描いちゃって」
「……構わねえだろ、別に」
 彼にしては珍しい、苦笑めいた表情とともに仁矢は言った。
 テーブルを囲むソファーのひとつに腰を沈め、室内を見回す。
 いつ来ても妙な雰囲気の部屋だ。古い喫茶室をベースにしているらしく、床も壁もそして調度もクラシックな木彫に統一されている。
 扉は、出入口をふくめて二つ。そのほかの壁には棚が並び、骨董品ともがらくたともつかない品々が陳列されているのが目に入る。この部屋の主から『許可なく触れるな』と言いつけられているが、もともと仁矢にはそんなものに触る気はない。こんな得体の知れないがらくたに好んで触りたがるのは、若槻先輩のような好奇心旺盛な人間だけだ。
「そういえば――」
 天井のファンを見上げて、仁矢はふと呟いた。
「先輩は、今日はまだ来てねぇんだな」 
「京一郎くん?」
 仁矢の対面に腰をおろしながら、睦は一瞬きょとんとした顔になった。
「あ、京一郎くんなら――」  
「やぁ、ごめんごめん仁矢君」
 彼女の言葉を遮るように、奥の扉の向こうからやや間のびした声が聞こえてくる。ゆっくりと開いた戸口には背の高い――というよりは、どこかひょろりとした印象を与える少年が立っていた。
 仁矢が活動をともにする、もうひとりのメンバー――若槻 京一郎(わかつき きょういちろう)だ。
 睦と同じく、浅草東中学校の2年生。図書委員会に属しているということと、存続の危ぶまれるどこかの同好会の会長をしているということ以外、仁矢は学校での彼を知らない。
「つい調べ物に夢中になっちゃってねえ。いや、話し声が聞こえたから来てたのはわかってたんだけど」
 軽い笑いを浮かべると、彼は片手で頭を掻いてみせた。片手に抱えた本の束をテーブルの上におろすと、空いたソファーに腰かける。
 瞳を隠すほどに伸びた前髪のおかげで、表情はうかがえない。だがどこかうきうきとした口調から察するに、そうとう上機嫌のようだった。あるいは今回の『事件』について、すでに何か手がかりを掴んだのかもしれない。
「――さて、と」
 仁矢と睦の顔を交互に見やると、彼はテーブルに両肘をついて指を組んだ。
「これでひとまず全員集合だね。休みなのにおつかれさま」
「全員?」
 仁矢は思わず、訝かしげにソファーの空席を見やる。肝心の人間の姿が見えなかった。
 そう。部屋の主にして、この集まりの主催――
「茜音(あかね)のやつが来てねえぜ」
「ああ、茜音さんは――」
「今日はちょっと、来られないみたい」
 京一郎の言葉を継いで、答えたのは睦だった。
「別の用事があるからって――そうだったよね、京一郎くん」
「うん。今日は僕たちだけで進めていてくれってさ」
「成程」
 仁矢は頭の後ろで腕を組んで、ソファーの背凭れに寄りかかった。
「俺らを呼びつけておいて、なかなかのご身分だな」
「仁矢くぅ〜ん、もうちょっと穏便に行こうよ」
 京一郎がとりなす。
「彼女も僕らに意地悪して座を外してるわけじゃないんだしさ。ね、ね?」
「……悪意がないまでも、軽んじられてるのは確かじゃねぇのか?」
「っていうより――信用してくれてるんじゃないかな、茜音さん」 
 穏やかに口を挟んだのは睦だった。
 仁矢と京一郎に視線を向けられたまま、彼女はワンピースの胸元で手を合わせる。
「わたしたちをダメだと思っているんだったら、一日だって捜査をまかせておいたりしないと思う。茜音さんそういうひとだもの。
 信じてくれているから座を外せるんだよ、きっと――」
「そうそう! いやぁさすが睦さん、いいこと言うなぁ」
「――香春先輩」
 仁矢はちいさく溜息をついた。
「いつも思うけどよ――先輩、少しばかりおめでたすぎるぜ」
「ええっ? そ、そうかな――」
 睦がとまどいがちにはにかんだところで、京一郎がぽん、と手を打った。
「まあ、この辺にしておこうよ。ともかく茜音さんは来られないし、今日は僕らだけで例の事件を考えなきゃいけない。それにとやかく言っても始まらないからねぇ。ってなわけで、仁矢君もぼちぼちいいかな?」
「ああ」
 仁矢はうなずいた。もとより別に、こんなことにこだわるつもりもないのだ。
「OK。まぁ、いつもならともかく、茜音さんも今日はぜったい外せない特A級の用事だからねぇ。聞いたらきっと仁矢君も納得するよ」
「え?――じゃあ京一郎くん、知ってるんだ」
「うん。この前、直接聞いたから」
 睦と問いと仁矢の眼差しを受けて、京一郎は飄々(ひょうひょう)とした笑みを浮かべた。
「ま、この話はあとでのお楽しみにしよう。ひとまずは事件が先、先」
 相当に嬉しそうだ。
 ひとが知りたがることほど、ゆっくりと、幾重にも言葉にくるんで話す――しかもそれに無上の喜びを感じるのが彼の悪い癖だった。前髪に隠れた瞳と常に浮かべた笑みのおかげで表情がまったくうかがえないから、余計に始末が悪い。
「さて」
 仁矢と睦に言葉を挟む隙を与えずに、彼は二人の顔を交互に見渡した。
「二人とも、例の事件の現場は見てきたかな?」
「うん」
「――一応、な」
「OK。じゃ、仁矢君から聞こうか。何か気付いたことはあったかい?」
 京一郎の問いに、仁矢は小さく肩を竦めた。
「俺は観察は苦手だからな。わかったことはひとつだけだ」
「――というと?」
「やっぱりこの事件は、俺たちの分野の事件だってことさ。警察じゃなくってな」
「うんうん」
 人の話を聞くときに、京一郎はちょっとおおげさなくらい細かく相づちを打つ。聞き上手なのか、それともただ単に黙って人の話を聞くことができない性分なのか。
「して、その理由は?」
「……誰にも見られねぇで7人の人間を狩るのは不可能だ。うざってえほど人がいるあの河べりじゃな」
「そうだねぇ。《人払い》なり《パノラマ》なり、何らかの『力』を使わない限りは――」
 京一郎はしばし沈黙した。三人が囲むテーブルの上で、ファンの羽の陰がゆっくりと回っている。
「ふむ、それはまたあとで考えよう。ひとまず次は、睦さん」
「うん」
 微かにうつむいて考えに沈んでいた様子の睦が、静かに顔を上げた。
「睦さんも、現場には行ったよね。どうかな――今回は何かが『見えた』かい?」
 京一郎の声に、いくぶん期待の色が混じる。だが睦はすまなそうに瞳を伏せると、首を横に振った。
「ごめんなさい――全然何も見えなかった」
「あ、いやいや。謝るようなことじゃないってば」
 はたはたと手を振ってから、京一郎はソファーの背凭れに深く身を沈める。
「そうかぁ、睦さんの《千里眼》でもだめかぁ……」
 香春 睦の『力』は京一郎や仁矢のものと違って、好きなときに使用できるタイプのものではない。何かが引金となって、本人の意志とは無関係に発動するのだ。
「……ごめんね、肝心なときに役に立たなくって」
 眼鏡の奥の瞳を翳らせて、彼女は膝に置いた手をきゅっと握った。
「――気にすることじゃねぇだろ」
 あくまでもぶっきらぼうに、仁矢はぼそりと口を開く。
「初めっからしょいこまれたんじゃ堪ったもんじゃねえぜ、こっちは」
「そうそう、事件はみんなで解決するものだからねぇ。捜査をすすめていけば、睦さんの力が必要になるときがきっとでてくるよ。そう思いつめない」
 二人の言葉に、睦はちいさく微笑んでこくんと頷いた。京一郎はそれを見届けてから、視線をテーブルの上に移した。さきほど、自分が隣の部屋から運びだしてきた分厚い本の束に。
「――さて、じゃ、最後は僕か。う〜ん……どこから話したものかなあ」
 人差し指でこつこつと、本の表紙を叩く。仁矢は彼にちらりと鋭い目を向けた。 
「回りくどいのは御免だぜ、先輩」
「たはは」
 京一郎の顔に苦笑が浮かぶ。
「まいったなあ、単刀直入というのは苦手なんだけど――」
 軽く頬を掻くと、その手をYシャツの胸ポケットに差し入れる。指で挟んで彼が取り出だしたのは、名刺サイズの透明なビニールケースだった。
「とりあえずはこれを見てもらえるかな」
 本の上に置かれたそれに、睦と仁矢の視線が集まる。
「……何だ、これは?」
 仁矢はいぶかしげな声で問うた。だが――
 ただの袋じゃねえか。そう続けかけた言葉を、彼は喉元に留める。
 気付いたのだ。ケースの中に挟まれているものに。
 それは透けるほどに薄い、人間の爪のような形をした黒色の断片だった。大きさは米粒ほどしかない。
 これは――
「……鱗……だよね?」
 睦もまた、仁矢と同じ判断を下したらしい。
「――そう」
 京一郎がうなずく。彼にしては重々しい声と仕種で。
 髪に隠れた彼の瞳が、すうっと細められた――見えはしないが、仁矢たちにはそう思えた。
 そこではじめて二人は、京一郎が卓上に置いた分厚い本のタイトルに気付く。
 『図説 爬虫類の辞典』――皮張りの表紙には、掠れかけた金の箔押しでそう記してあった。




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