〜第五幕〜 京一郎の推理






 ぼぉん、という低い鐘の音が室内に響いた。壁に架けられた古めかしい仕掛け時計が6時を打ったのだ。
 日曜日の黄昏。浅草の街が最も賑わいを見せる時間帯だ。
 だがこの部屋の中は――繁華街のすぐ下に位置するはずの『喫茶・茜桟敷』は世界から隔絶されたように、暗めの白熱灯の織りなす薄闇と、一種神秘的な静けさに包まれていた。
 誰も知らない秘密の部屋――まさに『秘密基地』とでも称するにふさわしい地下室で、三人の少年少女たちは卓を囲む。
「例の立ち入り禁止、今朝から解かれたからね。もういてもたってもいられなくって、ひととおり河の近くを回ってきたんだ」
 言いながら京一郎は袋を手にとり、ひらひらと振ってみせた。名刺大のビニールの中に挟まれた数片の鱗(るび)が、淡いオレンジの照明を鈍く照り返す。
「これはその時に、足元に落ちてたのを偶然見つけたんだ。ひとつやふたつなら気にも留めなかったんだけど、よく見たらあたり一面に散らばってたからね。ちょっと気になっちゃて」
「河岸に……あったんだ」
 京一郎が卓の上においた袋を見ながら、不思議そうに小首を傾げて睦(むつみ)が呟く。
「……わたしが見た行ったときは、気がつかなかったな」
「俺も見なかったぜ、そんなもんは」
 仁矢もまた、怪訝そうに眉を寄せた。
 隅田川の河べりは、台東区が遊歩道をかねて建設したコンクリートの護岸になっている。例の事件で意識不明になった高校生達が倒れていたのはその上だ。
 何の変哲もない打ちっぱなしのコンクリートの上に黒い鱗が散乱していれば、何よりまず現場検証にあたった警察官たちが気付くはずなのだが――
「あ、いやいや」
 京一郎はひらひらと手を振った。
「被害者のひとたちが倒れてた場所じゃあないよ。これはね、ちょっと離れたところで見つけたんだ。え〜と、話すより描いたほうがわかりやすいね。ちょっと待っててくれるかな?」
 鞄からごそごそコピー用紙と鉛筆を取り出し、京一郎は現場の略図を描き始めた。まず初めに、隅田川とその川面のすぐ横の遊歩道。そしてその遊歩道を見下ろすように、5メートル程の段差の上を走る土手。
 ふたつの橋――吾妻橋(あずまばし)と東武東上線の鉄橋が、数百メートルの間隔をおいて隅田川をわたっており、それぞれの付近には土手から遊歩道へと降りる階段が備えつけてある。




「地図としてはこんなものかな? さて」
 今度は赤いボールペンで、7つの×印を描きいれていく。ふたつの階段の間の、遊歩道上。7人の被害者達の身体は全てそこに転がっていたのだ。
 さらに京一郎は、ひとつのポイントを円で囲んだ。
「このあたりだね、鱗が散らばってたのは」
 仁矢と睦の視線が、地図上の赤い○印に集まる。それは、東武東上線に程近い土手の上あたりだった。ちょうど、事件の発生現場を一望できる場所だ。
「土手か」
 呟いたのは仁矢だった。
「現場からは外れたあたりだな」
「――そう」
 まるで仁矢の言葉を待っていたかのように、京一郎は意味ありげな微笑を浮かべた。こういうときの彼は、のほほんとしていながらどこか不敵に見える。
「確かに外れているね――見かけの現場からは」
「……見かけの?」
「うん」
 睦の問いと仁矢の視線に頷いてから、京一郎は遊歩道のあたりをペンで囲んだ。
「事件はここで発生してる。だから当然、警察が立ち入り禁止にして丹念に捜索してたのもこの一角だよね。土手のほうは外れてる。
 けど、ちょっと考えてみようよ。この事件で一番不可思議なところはどこだと思う? 仁矢くん」
「頭脳労働を俺に期待しても無駄だぜ、先輩」
 仁矢は小さく肩を竦める。
「それは謙遜だと思うけどなあ。仁矢くんもさっきから言ってたことだよ。うーん……じゃ、睦さんは?」
「被害者のひとたちのうち、最後のひとりがみつからないこと……かな」
「それも確かに気になるねえ。ほかには?」
「……事件を見たひとがいないこと?」
「――そう♪」
 京一郎はにっこりと笑うと、ぽんと手を打った。
「いちばんおかしいのは、まさにそこなんだよ。普段はあれだけ人のいる隅田川の河ぞいなのに、この事件を目撃した人間は誰もいなかった。どう考えても変だよねえ」
「……『力』、か」
「そう。冴えてるねぇ二人とも」
 仁矢の言葉に、わが意をえたりとばかりに京一郎は頷く。
「あの時間の隅田川ぞいで目撃者を作らずにこんなことをやってのけるには、常識を越えた奇術の『力』が必要なのは間違いない――だから茜音さんは、僕らにこの事件の調査を命じたんだろうしね。
 《人払い》で周囲に人間が近づかないようにしたのか、それとも《パノラマ》を使って現場そのものを結界で包みこんだのか。何にしてもあの事件の間、川ぞいに何らかの術がかかってた可能性は高いんじゃないかな?
 となれば、事件の起こった遊歩道だけじゃなく――本当ならそれを見下ろせる位置にある土手にも『力』の干渉があったって見るべきだよね。だからだよ、僕が念のために土手の上を調べてみたのは」
「……そうかあ――」
 睦は穏やかな苦笑とともに、ちいさく息をついた。
「だめだなあ、わたし。そんなことまで考えずに遊歩道を見てきただけだったもの。やっぱり京一郎くんだよね」
 机の上の袋を手にとって、彼女は数片の鱗をしげしげと眺める。
「……何の鱗なんだ?」
 しばらく黙っていた仁矢が、ふいに口を開いた。
「これかい? そうだねえ、図鑑やなんかでまだ調べている最中だったんだけれど、おそらくは――」
「蛇、か」
「あ、当たり。凄いなあ、なんでわかったんだい?」
「……おい」
 京一郎のリアクションに、仁矢は軽い溜息をついた。皮肉や悪意でないことは重々承知のうえなのだが、こうも大仰に褒められるとどうしても小馬鹿にされたように感じてしまう。
「鱗のある生きもんなんて、日本にゃそういないぜ。蜥蜴(とかげ)か蛇か魚くらいだ。黒くって陸の上に散らばってたんじゃ、俺でなくても蛇だって思い当たるだろうが」
「――いやいや、それだけじゃないんじゃないのかな?」
 飄々とした笑みを浮かべたまま、京一郎はのぞきこむように仁矢に顔を近づけた。
「……何?」
「誰でもわかる推測だったら、わざわざ口をひらいたりする仁矢くんじゃないからねぇ。何かほかに思い当たることがあったんじゃないかと思ってさ。違うかい?」
「――――」
 空気の流れが止まったかのような、一瞬の沈黙が場を覆う。唇の端に浮かべたほんの微かな苦笑をもって、それを崩したのは仁矢だった。
「……かなわねえな、先輩には」
 被ったままだった黒い帽子を、彼はテーブルの上に置いた。
「見たんだよ」
「見た? そりゃまた何を?」
「決まってんだろうが。蛇だ。さっき河岸で、ちらっとだけだけどな」
 先ほどの河岸での出来事を、仁矢は手短に話した。
 蛇に足元をとられたひとりの少女が、土手の階段を転がり落ちそうになったこと。偶然その場に居合わせて目撃した一部始終を。
「……そうかあ。うーん……」
 聞き終わると京一郎は、伸びをするようにソファーの背によりかかった。天井でゆっくりと回る真鍮のファンを仰ぎ、ひとつ息を吐く。
「僕はあくまでも可能性のひとつとして持ってきただけなんだけれど――仁矢くんも蛇を見たのかぁ……。偶然といえばそれまでだよね。かといってあの土手はふだん蛇が出るような場所じゃないし……妙に気になるんだなあ――
 そうだ、睦さんはどう思う?」
 おもむろに姿勢を戻すと、彼は先程から沈黙を守っている睦に声をかけた。
 ――返事がない。
「――おーい、睦さん?」
 彼女の目の前でひらひらとてのひらを振り――そこで京一郎は動作を止めた。
 察したのだ。彼女の上に顕れた異変を。
 楚々としたその顔からは、表情がふわりと抜け落ちていた。まるで、目覚めながらにして夢を見ているかのように。
 うつむきかけたその視線が落ちる先は、手に持った件の袋の中にある蛇の鱗だ。にもかかわらず、眼鏡の奥の澄んだ瞳はどこか、ここではない場所を見つめている。
 睦は微動だにしなかった。滑らかに流れる黒髪ひとすじに至るまで。
「……先輩」
「うん」
 仁矢の低い呟きに、京一郎はこくりと浅く頷く。二人とも、これまでの経験からよく知っていた。香春 睦のこのような状態が、何を意味するものなのかを。
 そう。
 睦の持つ『力』はときに、その意志とは関りなく動きはじめる。
 彼女を茜桟敷の一員ならしめている、常識を超えた『奇術』の能力――
 《千里眼》の力がいま、発動しようとしているのだ。
 はりつめた沈黙が、部屋を支配する。
 壁の棚一面に並ぶ古めかしい置物の群に、オレンジの灯が淡い陰影を刻んだ。




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