〜第七幕〜 闇に蠢(うごめ)くものたち






 しゅる……しゅるるるるっ。
 荒い絹を擦り合わせるような響きが、絶え間なく、幾重にもわたって辺りにわだかまっている。
 そして――それを伴奏の代わりにして、流れる細い笛の音。
 旋律などはないに等しい。でたらめな、だがどこか聞くものを不安にさせる不可思議な音色だ。
 凶々しいその二重奏が奏でられるにふさわしく、空間は密度すら備えた重い闇に支配されていた。 
 礼拝堂を想わせる、天井の高い部屋。壁の内側に鉄骨がわたしてあるところを見るに、もとは街工場かなにかであったのかもしれない。高い位置に設けられた小さな窓だけが、唯一の光源だ。
 さしこむ夕の陽光が部屋の中央につくりだす、淡いオレンジのスポット。そのなかに人影がひとつ、玉座と見紛う大きな椅子に身体を沈めていた。
 足元までを覆う、漆黒のコート。背中に長く伸ばした白髪。
 そう。それはまさしく、隅田川岸の事件の張本人たるあの老人の姿に違いなかった。
 となれば、彼が吹き鳴らす笛に併せてあたりに響く奇怪な音の正体も、おのずから知れようというものだ。
 闇の中で一見すれば、あたかも床全体が生き蠢いているかのようだった。幾千幾万もの蛇たちが細かに波打ち、うねり、ひしめき合うその光景は、群生したイソギンチャクが餌を求めて海底に揺れるさまにも似ている。
 床の上のみではなかった。
 椅子に腰をおろした老人の足にも、胴にも、果ては首筋に至るまで何匹もの蛇が絡みつき、ちろちろと真紅の舌をのぞかせている。
 それでも老人は動じる様子もなく――むしろ心地よげな恍惚の表情を浮かべると、笛を唇から離して蛇の海を見下ろした。
 彼にとって、蛇たちは嫌悪の対象ではない。愛すべき同胞――いや、いっそ己の身体の一部といってもいいだろう。
 そう、彼――《蛇使い》にとっては。
「成程な。確かにわしの油断じゃったわい」
 くくく、というしわがれた笑いとともに、黒衣の怪老人は言葉を紡いだ。
 たった今、己の『目』として獲物の尾行にあたらせていた一匹を、何者かによって退けられたところなのだ。
「……あれが件の、『茜桟敷』のひとりじゃな?」
『――そう』
 唐突に――老人の言葉に、応える声があった。
 まだ幼さを残した、澄んだ鈴の音のような少女のソプラノ。子供特有の無邪気さとそれゆえの残酷さを備えたその声は、佇む者とてない闇の中から響くものだった。
『このお仕事を任せるときに言ったはずよね、浅草は彼らの本拠地だからって。あなたもちょっとばかり派手に動き回りすぎたんじゃないかしら、《蛇使い》さん。新聞でもずいぶん話題になってたわよ』
「ふん、ほんの余興というやつじゃよ。わしにもこやつらにも、少しばかりの楽しみくらいはあってもよかろうて。
 それとも、この国の警察にかぎつけられるほどわしが無能だとでも言うつもりかの」
 からかうようなその声に、老人は邪気に満ちた笑みをもって応えた。
『お馬鹿さんね』
 溜息混じりの呟きとともに、肩をすくめるような気配が伝わってくる。
『問題は茜桟敷のほうだって言ってるでしょ? あなたのお仕事は、自分の力を宣伝して歩くことじゃないはずよ』
「――わかっておる」
 《蛇使い》は煩わしげに『声』を遮った。
「『力』を持つあの娘の補足、説得し、こちら側の陣営に引き込めぬときは殺傷。そう言いたいのじゃろう?」
『そう、良くできました。がんばってね、手間取るようだったら応援をよこすわ。《壁抜け男》と《幻燈師》の手が、ちょうど空いているところだから』
「馬鹿にするでない。これしきの仕事なら、わし独りで釣りがくるというものじゃ」
『まあ、心強い言葉ですこと。わかったわ、成功の報告を楽しみにしているわね』
 くすっ……という稚さと冷たさを織りあわせた笑いを残して、『声』の気配は消えうせた。後にはただ、蛇たちの鱗が擦れあう微かな音だけが闇の中に響くばかりだ。
「愚弄しおって……」
 彫りの深い顔に苦々しげな表情を刻んで、《蛇使い》は視線を床に落とす。しかしその渋面はほどなくして、眼を見開いた凄惨な笑みへと転じていった。
 彼の視線の先――床の上にひしめく蛇たちの海の上を、あたかも波に揉まれる小船のさながらに漂うものがある。
 靴だった。少年のものと思しき、蛍光色のラインが入った派手な色合いのスニーカー。だがその表面は無数の細かな牙に食いちぎられたかのように裂け――そしていたるところに、赤黒く乾いた血が染みを作っている。
「――美味かったかの」
 おぞましいくらいに柔和な声色で、老人は蛇たちに語りかけた。
「最近の若いやつらは害あるものばかり喰ろうておるというからな、あの小僧もおそらくその類じゃろう。肉を食ったお前達にまで、腹に障りがなければよいのじゃが……」
 淡々とした口調で彼が呟いたのは、身の毛もよだつような言葉だった。
 ああ、ではこの靴の持ち主はあの――
 そして、彼が辿った運命は。
 だが《蛇使い》は――人倫の照らす世界の外に生きるこの怪老人は、自分の成した恐ろしい所業にいささかの罪の呵責をも感じている風はなかった。我が子同然の可愛い蛇たちに、新鮮な糧を与える。それは彼にとって、ごくごく当たり前の行為に過ぎないのだ。
「あの娘……説得して仲間に引き込むか、さもなくば殺傷か」
 《蛇使い》は、おもむろに呟いた。つい先程、天幕小屋の中で見たひとりの少女の姿を脳裏に描きながら。
 ゆったりとした道化服の上からでもわかる、若々しい活力に満ちたしなやかな肉体。まだ世俗の塵に汚れていない、いとけなく爽やかな面立ち。かすかに紅潮した、瑞々しい頬。
 まさに完璧だった――愛しき蛇たちに与える贄として。
「できうることならば、説得になぞ応じてほしくはないものじゃの。くくっ……くくくくくくっ……」
 恐怖に怯えうち震える少女を、生きたまま飢えた蛇たちの群れの中に投げ込む――歪んだ妄想に耽りながら、《蛇使い》は闇の中で乾いた笑いを紡ぎ続けた。




第八幕へ進む   序幕へ戻る   入口へ