〜第八幕〜 千里眼






 天井で廻る真鍮(しんちゅう)のサイクルファンの影が、ゆっくりとぼやけて輪郭を失っていく。
 潮騒(しおさい)の音が引いていくように、京一郎と仁矢の話す声が耳から遠のいた。
 ――あ……。
 睦(むつみ)は思わず短い声を洩らす。だがそれはもう、自分の唇から発されてはいないだろう。
 その場にいながらにして世界の全てがすうっ……と離れていくこの感覚は、睦にとって馴染み深いものだった。
 これは、自分の中に眠る奇術の力――《千里眼》が発動する予兆なのだ。
 
 両親を亡くして武蔵野の孤児院で育った幼いころから、睦は幾度となく発作のように起こる不思議な感覚に襲われてきた。
 不意に意識が遠き、その意識の片隅に『何か』がよぎって見える。
 当時は、大人たちにその話をしても返ってくるのは困惑のまなざしだけだった。
 両親をひとときに亡くした心の傷が幻覚を見せているのではないか――今になって考えれば、そう思われていたのだろう。院長先生はよく、知り合いの医師のもとに睦を連れていってくれたものだ。
 だから――睦はだんだんと、「見えた」ものの話をすることを避けるようになった。
 いつでも自分を気遣ってくれる院長先生や周りの大人たち――それに寝食をともにする仲間たちに、心配をかけるのは嫌だったから。

 室内の光景はぼんやりと滲み消えて、睦の視界は淡い闇に覆われた。
 音はもう、何も聴こえはしない。まるで、温かい海の中を裸になって漂っているかのような感覚。
 ほどなくして遠くで、淡い光が灯る。
 意識を向けるとその明光はゆっくりと膨らんで、色彩と形を備えていった。

 ある事件をきっかけに孤児院が廃院となり、引き取られて東京に移り住むようになってから、初めて睦はそれが自分の中に眠る『力』なのだということを知った。
 意識を傾けることによって、物や風景に隠された真実の断片を見いだす――《千里眼》の能力。
 京一郎や仁矢、そして茜音に出会って『茜桟敷』の一員になってからは、すこしずつではあるがその力を磨くことも覚えた。
 望む望まないにかかわらず、睦には見えてしまうことがある。
 例えば――捨てられている壊れた人形に染み付く、持ち主だった子供の泣き顔。
 路上に供えられた花束にこもる哀しみ。その脇でひしゃげるガードレールに残った、事故の瞬間の意識のスナップ。無念と苦痛。
 そんな、何気ない光景の中に満ちた数々の痛みが。
 だから――「見えてしまう」だけではなく、自分から積極的に「見る」ことができるようになりたかった。
 すでに生じてしまった痛みを目にするだけではなくて――これから生じるようとしている痛みと哀しみがあるならば、それを見いだして救えるようになりたかった。

 ――あれ……?
 浮かびあがった映像を前に、睦は心の中で首をかしげる。
 ――なんだろう……これ……
 それは、まるで十字架のように見えた。
 血を流したように真っ赤な背景に、「+」の形をしたシルエットがくっきりと黒く刻まれているのだ。
 その他には、手がかりになるようなものは何もない。視界いっぱいに広がった紅の薄闇を、垂直に交差する二条の棒が四つに仕切っているだけだ。
 何かの模様なのか、それともどこかに実在する光景なのか。鱗の持ち主である蛇にどのような関連があるのか。これひとつから判断することは難しかった。
 もっとよく観察しようと目を凝らした瞬間、どこか不吉なその十字架はゆらりと揺らめいて崩れ去る。まるで、水面(みなも)に映る像に向かって小石を投げ込んだときのように。
 と――
 ばらばらになった幻の破片はほどなくしてゆっくりと寄り集まり、異なるイメージを睦の視界に映し出した。
 先程の十字架に比べれば、ふたつめの像ははるかにわかりやすいものだった。
 女の子。
 ひと気のない夕暮れの公園を歩む、ひとりの少女だ。
 年のころは小学校高学年か、もしかすれば睦たちと同じ中学生かもしれない。洗面器を手に提げているところを見るに、どうやらお風呂屋さんに行った帰りらしかった。
 まだ濡れている短めの髪を夕風に晒して、彼女は速い足どりで木々の間を進んでゆく。
 透き通った大きな瞳と、やや濃い目の眉。快活な笑顔が何よりも似合いそうなその顔には、しかしどこか張り詰めた表情が浮かんでいた。
 あどけない頬を、燃え残った夕闇が紅く染めあげる。
 少女は不安げにあたりを見回すと、公園の一角に忘れ去られたように佇むジャングルジムにまなざしを向けた。大きく息をつき、彼女はとん、とスニーカーで地面を蹴って――
 そこで――映像は途切れた。
 視界に闇色の霞がかかり、夕闇に染まった公園と少女の姿を覆い隠していく。
 数秒間の空白をおいて意識の幕が開いたとき、そこに見えたのは《千里眼》の映像ではなかった。
「――……」
 淡い電灯の明かりの中、天井でファンの羽根がゆっくりと回っている。
 壁一面に古めかしい調度の並ぶ、見慣れた『茜桟敷』の地下室。そんな光景を遮るように、京一郎と仁矢が自分の顔を覗き込んでいるのが目にはいった。
 『戻ってきた』ことを知らせるためにちいさく頷いてから、睦は照れ隠しのはにかみを浮かべる。
 毎度仕方のないことなのではあるが――《千里眼》に意識を飛ばしている自分の『寝顔』を京一郎たちに見られるのは、やっぱりなんとはなしに恥ずかしい睦なのだった。


「……なるほどねぇ。赤地に黒の十字架と女の子か、妙な取り合わせだなぁ」
 《千里眼》を通して見た二つの映像をざっと説明すると、京一郎は腕を組んでしきりにうなずいた。
「うん。ふたつが関わりあるのものなのか、ばらばらの映像なのかはわからないけど……」
 睦の《千里眼》はいわば、ジグソーパズルの一断片を唐突に与えられる能力だ。そのパズルの全体像がどのようなものなのか、手にしたピースが絵のどこにはめ込まれるべきものなのか――今回のようにピースがふたつだった場合、それが一つの絵を形成するのか別々の絵の一部なのか、それは懸命に推察をめぐらせてゆくほかない。
「うんうん」
 京一郎は呟きながら天井に顔を向けてみたり首をひねってみたり、はたまた髪の毛をかき回してみたり、細かな動作を繰り返している。落ち着かなげに見えるが、これは彼の頭脳がフルスピードで回転している証拠なのだ。
 とはいえさしもの彼も、これだけで何かの結論を導き出すわけにはいかないらしい。ふう、とひとつ息をついて動きを止めると、側らの仁矢に顔を向けた。
「仁矢くんはどう思うかなぁ」
 仁矢は応えずに、軽く肩をすくめた。
 寡黙なこの少年とは一年近くも行動をともにしてきたので、睦も京一郎も彼の仕草からたいていの言葉を読み取ることができる。いまの動作は通訳すれば、「頭脳労働は苦手だって言ったはずだぜ」だった。
「――描いてみようか」
 生じかけた沈黙を遮って、睦は口を開いた。
「え?」
「ふたつ目の映像の女の子。わたし、描いてみるね。絵にしてみれば何かわかるかもしれないから――」
 テーブルの上のスケッチブックを広げると、睦は先程《千里眼》の中で見た少女の顔を頭の中に思い浮かべた。眦の下がった、快活そうでいておっとりとした雰囲気の瞳。あどけない頬のライン――
 孤児院にいるときからの趣味だったスケッチだ。たった今目にしたばかりの映像をなぞって鉛筆を走らせていくのは、さほど難しいことではない。
 ほんの一分をおかずして、紙の上にひとりの少女の面差しが形を備えていく。
「うーん――こんな……かんじかなあ。もうちょっと……」
 唇の中で呟いてさらなる筆を加えようとした、その時だ。
「……こいつなのか?」
「え――?」
 仁矢の低い呟きに、睦はふと顔をあげた。
 彼はあいも変わらず無表情のまま――だが、鋭いまなざしの中にほんのわずかな困惑の色をうかべて彼女の手元を見つめている。
「――仁矢くん……知ってるの?」
「……知っているって程じゃねえけどな」
 と、彼は一瞬間を置いてから言葉を続ける。
「さっき、土手で変な奴にぶつかったって言っただろ。こいつだったぜ、確か」
「――――」
 睦は声をのんで、自分が描いたばかりの肖像に視線を落とした。
 どういうこと――なのだろう。
 与えられたパズルのピースが、疑問符とともに頭の中を廻る。
 仁矢は先程、隅田川の河原で少女が蛇に足をとられて階段を転げ落ちかけていたと言った。
 その事実と、『蛇』の鱗から見えた《千里眼》の映像。少なくとも、『蛇』と『彼女』とのあいだには何らかの接点がある。そして京一郎によれば、蛇の鱗は事件の現場に大量に散乱していたのだ。
 河原と、蛇と、そしてこの少女。もうひとつのヒントである『赤地に黒の十字架』はともかくとして、事件の上におぼろげな三題噺が浮かび上がりつつあった。
「……誰なんだろう、この女の子」
「さあな」
「それがわかれば、そこから糸口がつかめるかも――」
「僕らと同じ学校の子だよ。仁矢くんと同じ一年生だから、睦さんはあまり見慣れてないかもしれないけどね」
「――え?」
 唐突なその言葉に、睦はきょとんとした顔で、仁矢はいぶかしげに京一郎のほうを見た。
 あいもかわらぬ飄々とした微笑を浮かべたまま、彼はソファに背をあずけている。そういえば睦が紙の上に鉛筆を走らせてから、京一郎は珍しく言葉を発していない。
「クラスは1年7組で、たしか名前は――」
「――京一郎くん」
「……先輩」
 睦と仁矢の視線が京一郎に集まった。これまでの経験から、ふたりともよくわかっている。普段は言葉数の多い京一郎があえて口をつぐむ――それは、たいてい何かを知っているときなのだ。
「ん?」
「まだ何か隠してんだろ。ぼちぼち喋っちまったほうがいいと思うぜ、俺は」
「わ、嫌だなぁ仁矢くん」
 気圧されるように、彼は両のてのひらを仁矢に向ける。
「そんな氷点下な目をしちゃってさ、もうちょっと平和的に話そうよ」
「でも、今回は仁矢くんが正しいと思う……」
「ありゃ」
 申し訳なさげな苦笑とともに発した睦の言葉が、京一郎の逃げにとどめを刺した。彼はかくんとうなだれてみせ、ひとつ息をついてから顔をあげる。
「まいったなあ……これは今日の最後までとっておこうと思ったんだけど。かなり大きなニュースだから、びっくりしないようにね」
「大丈夫だってば」
 ここに至ってもまだもったいぶっている彼に思わずくすっと笑って、睦はうなずいた。
「ほんとうかな? それでもびっくりすると思うよ。
 ――さっき、茜音さんは大事な用事があってここには来られないって言ったよね。
 あれはねぇ、ある人に会うためなんだ」
「あるひと?」
 ふたりの注目が、京一郎の唇に集まる。十分すぎるほどの間を置いてから、彼はさらりと言葉を続けた。

「そう――僕らと同じ、生まれながらに奇術の『力』を持った、ひとりの女の子にね」

「「――――!」」
 こともなげな彼の口調とはうらはらに、睦が、そして仁矢までもが短く息を呑む。
 ほうら、やっぱりびっくりした――京一郎はそうとでも言いたげに笑みを浮かべると、テーブルの上に置かれたスケッチブックをひょいと手に拾い上げた。数秒のあいだおもむろに視線を落としたあとで、肖像の少女をくるりと仁矢たちの方に向ける。
「この女の子の名前はね、駒形 つばささん――僕らの新しい仲間になるかもしれない子だよ」




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