〜第九幕〜 黄昏の公園で






 五月の夕暮れは、緩やかな坂を下るように長い。西の空が色づきはじめてから最後の茜が溶け落ちるまでには、ずいぶんな間がある。
 そんな春の夕刻もしかし、そろそろ終わりを迎える時間だった。
 人気のない公園の広場を囲む木々が、燃え残った夕焼けをバックにして影絵のように浮かび上がる。遊ぶ子供達もいないまま捨てられたように佇む遊具の数々も、地面に長く寂しげな影を落としていた。
 まるで夢の中で目にするような、紅い影絵の中に溶け込んだ世界。
 ――そんな光景の中をただひとつ、舞い動くちいさな影がある。
 ひっそりと佇むジャングルジムの最上部。
 3メートル四方ほどの小さな面積を舞台にして、少女は軽やかに踊っていた。
 見るものは誰もいない。伴う音楽も、手拍子もない。それでも彼女は構うことなく手足を動かす。リズミカルに、しなやかに、躍動的に。そのたびごとに、短めの髪が勢いよく宙に跳ねる。
 少年を思わせる、まだ線の細いちいさな身体。だが未来への可能性をつめこんだ瑞々しい活力が、その全身から凛々と漲っているかのようだった。
 彼女の舞いは新体操の床運動にも似ている。片足を支点に身体を回したかと思えば、後方に跳びあがってバック宙をみせ、軽やかに降り立つ。倒立をしたまま片手を離し、次の瞬間には身体を折り曲げてくるりと前転する。
 だがそこは決して床ではない。金属の棒が張り巡らされただけの、ジャングルジムの最上部だ。一歩間違えれば転落して大怪我を負いかねないではないか。
 にもかかわらず、少女の表情にはわずかな恐れの影も見えなかった。大きな瞳とくっきりとした眉が特徴的なあどけない顔には、溌剌とした、まさに演技のさなかの踊り子を思わせる真剣さがあるばかりだ。
 そしてまた、動きにもまったく危なげなところがない。手が、足が、まるでジャングルジムの鉄棒にぴたりと吸い付いているかのように。
 十一、二歳とおぼしきこの少女が、どのようにしてこのような妙技を身につけたのか。
 驚くのはまだ早かった。
 夕空だけを観客にした不思議なこの演舞は、まさにここから先こそがクライマックスだったのだ。
 ジャングルジムの端にすっ……と立ち上がり、少女は一瞬動きを止めた。瞳を細め、鳥のように両腕を広げて大きく息を吸いこみ、そして――
 跳んだ。
 大きく足場を蹴って、空に浮かぶ夕雲に届けとばかりに。
 危い!――もしも公園の中に人がいたならば、思わず目を覆ったことだろう。3メートルはあろうかというジャングルジムだ、落ちれば足を痛めないとも限らない。
 だがその瞬間、そこに繰り広げられたのは信じがたい光景だった。
 重力に引かれて地面に落ちるかわりに、少女の身体は宙に緩やかな放物線を描き――明かりを灯したばかりの街灯の上へ、ふわりと降り立ったのだ。
 夕闇の織り成す幻なのか。少女の背中には見えない翼でも生えているのか。ジャングルジムよりも3メートルは高い、そして5メートルは離れた街灯までを一足に跳んだ少女はそこで片足を支点にして、バレリーナのように回ってみせた。人間の持ちえる跳躍力では決してない。
 常識外れのショーは、それでもまだ終わらなかった。
 少女は街灯から、今度は離れたブランコの支柱の上に跳び移る。生まれたときから心得ているかのような、ごく自然な動きで。
 ブランコから木の上へ、木の上から滑り台へ、滑り台から登り棒の頂点へ。数メートルは離れた遊具の上を八艘跳びにわたりながら、無人の公園を一周していく。そのさまはまるで、軽やかに宙を駆けるピーター・パンだ。
 不意に――
「――いくよ――」
 少女の唇が、短い声を紡ぐ。
 それは自分自身に向けたものか、それともおりはしない観客に対するものなのか。
 登り棒の上で両足をそろえると、彼女は最初に立っていたジャングルジム目掛けて跳躍した。膝を抱えたちいさな身体が、空中で二度三度と回転し――
 両腕を水平に広げて、少女は完璧なまでの着地でジムの頂上に降り立つ。
 それが――フィニッシュだった。
 ふうっ……。
 洩れた吐息とともに、少女の全身から緊張の色が溶け落ちる。わずかに紅潮した顔に爽やかな――そして満ち足りた笑みを浮かべると、彼女は額に浮いた汗を手のひらでぬぐった。

「ふゃ〜っ」
 思いっきり息を吐き出して、つばさはジャングルジムの上に腰をおろした。
 とくんとくんと胸が脈打つ。だがそれは、単なる運動後の鼓動の高まりだ。さっきまでのような不安定な動悸ではない。
「あーあ……お風呂に入ってきたばっかなのに、汗ぐっしょりだぁ」
 Tシャツの襟をはたはたとめくりながら、ちいさく肩を落とす。
 けれどもそんな不快感よりも、身体を満たす爽快感のほうがはるかに大きかった。膨れ上がった『力』を使い切ったことによる、身体の奥底が満ち足りたような感覚。
 ――これでもう……しばらくはだいじょうぶだよね?
 手のひらで両方の腿をぴしゃりと叩き、つばさは言い聞かせるようにつぶやいた。
 自分自身に。自分でも意のままにはならない、身体の奥底に眠る『力』に。
 凪いでいた夕方の風が再び動き出し、頬を、髪をやわらかに撫でていく。
 思わず空を見上げると、いつの間にかそこには細い三日月がかかっていた。まだ淡い藍色の中に、星がひとつふたつと瞬きをはじめる。
「――――」
 ふいに、つばさは微笑を浮かべた。
 叔父の家族にもクラスの友達にも――誰にも見せたことはない、さみしく透き通った微笑を。
 ひとは命尽きると、天に昇って星になる。そんなことを幼い自分に聞かせてくれたのは、母だっただろうか、それとも祖母だっただろうか。いずれにしても――それが本当ならば二人は今、星になってこの空のどこかに輝いているはずだ。
 ――お母さん、おばあちゃん――
 五年前に、ふたりは相次いでいってしまった。つばさひとりをこの世界に残して。つばさのなかに眠る『力』の秘密を、つばさ自身にも告げることがないままに。
 ――あたし、心細いよ……。ずうっとこんなふうにして、『力』を持ったままで過ごしてくなんてさ。
 そう、ふたりは確かに知っていたのだ。つばさが生まれながらに備えていた、人間の域をはるかに超えた運動能力。木の上にも二階の屋根にも、一足で飛び乗ることができる魔法の足の秘密を。
 けれども、つばさがいくら訊ねても、母も祖母も決して口を開いてはくれなかった。
 ――つばさ……その力は、ぜったいに人前で使ってはいけませんよ。いいえ、人前だけではなく自分ひとりのときも使っては駄目。あなたは普通の女の子として生きていくの――いいわね、お母さんとの約束ですよ。
 線の細い、柔らかな微笑の似合う母が、このときだけは身が竦むくらい真剣な目をしてつばさを諭した。
 ――お前が大きくなったら、いつかわかるときもあるよ。わからないままなんだったら、それでもいいじゃないかね。
 祖母はそう言って曖昧に、どこか哀しそうに笑った。
 もしかすればふたりは、いつかつばさが大人になったときに知っていることの全てを打ち明けてくれるつもりだったのかもしれない。
 けれども、そのいつかはもう来ることはない。
 つばさが八歳のある晩秋の朝。もともと病弱だった母は、前触れもなく寝床の中で冷たくなっていた。そして、まだ哀しみも癒えない冬のさなか――つばさを東京浅草にある今の家に引き取らせると、祖母もまた自らの役目を終えたように世を去っていったのだ。
「……ずるいよ」
 つばさは宵の空に向かって、溜息のようにつぶやいた。
 二人は持っていってしまった。つばさの中にある扉の鍵を、届くことはない天の上に持ち去っていってしまったのだ。
「ちょっとくらい教えてくれたってよかったのにさ」
 ふたりで行っちゃうことないじゃんか。あたしが大人になるまで、待っててくれたってよさそうなものだったのに。なにも、あんなにはやくいなくなっちゃうこと――
「……あ……あれ?」
 じんわりと滲んだ月を目にして、つばさはようやく自分が涙ぐんでいることを知った。
「わわわっ、なに泣いてんだろあたしっ」
 あわてて手の甲で瞳をぬぐう。
 なにやら変だ、今日のあたしは。お母さんやおばあちゃんのことを思い出してさびしくなることはあれ、泣いてしまうなんてことはそうそうないはずなのに。何でこんなに情緒不安定気味なんだろう。
 もしかしてこれも、男の子くんとぶつかってどぎまぎしたところから始まっているのだろうか。一瞬そう考えてから、つばさは勢いよく頭を振ってもやもやとわき上がりはじめた照れを追い払った。
「さ〜、帰ろ帰ろっ」
 大きく声に出して言うと、ジャングルジムの上にすくっと立ち上がる。
 さすがに叔父さんたちが心配するだろう。公演の最終日なので、今日は一座のみんなを呼んで打ち上げをするといっていたはずだ。
 近くのベンチに、つばさは視線を向けた。運動のじゃまになるので、お風呂セットの袋を置いておいたのだ。
「さて、最後にもっかい――」
 つばさはひゅうっと息を吸うと、思いっきり足場を蹴る。
 『力』を使ってジャンプするこの瞬間の、ふわりと身体が浮き上がる感じが好きだ。お腹と腰をばねにして宙返りをすると、暗くなりかけた空と地面とが視界の中で回った。
 ベンチのすぐ横に足をおろすと、つばさはお風呂セットをひょいとつかんだ。
「今日の演目は、ここまででございます♪」
 座長である叔父さんの口上をまねて、ぺこりと頭をさげてみる。
 その――瞬間だった。
 たしかに人気がなかった広場の片隅から、聞こえるはずのない音が聞こえてきたのは。
 てのひらを打ち合わせる――それは、拍手の音。
「――――!」
「見せてもらったよ。なかなか素敵な出しものだった」
 跳ね上がった心臓に追い打ちをかけるように、朗々とした声が響く。
 顔を上げ、つばさは慌てて視線を巡らせた。
 西の空に燃え残った最後の夕日が、ひときわ紅く染めあげる公園の風景。
 そんな夕闇を切り抜くようにして人影がひとつ、ブランコの横に佇んでいた。

「――あ――」
 呆然とした声を発したまま、つばさはぽかんと立ち尽くす。
 ――見られ……ちゃった……
 停止してしまった心の奥から、自分自身のちいさな呟きがきこえた。
 膝がぶるぶると震える。見られた。見られてはいけない秘密の演舞を見られてしまった。
 どうして? 人がいないことは確かめておいたのに。この公園の奥には夕方おそく、人が通ることなんて滅多にないのに。
 混乱とともに、冷たく重い痛みがずくんっ……と背中を這い上がる。
 今までに一度だけ、母と祖母以外の人間に『力』を見られてしまったことがあった。そのときに自分の身を襲った嵐のような日々――好奇と怯えの視線にさらされた一ヶ月は、今でも生々しい傷となって記憶に刻みつけられている。
 二度とあんなことは繰り返すまいと、いままで気をつけてきたのに。それなのに。
 ――また……見られちゃったんだ……
 世界の全てが一瞬、崩れ去るように歪んだ。
 終わりだ。終わりなのだ。知られてしまえば何もかもが。
 小さな人影――まだ顔は見えない――は、破滅そのもののようにゆっくりと近づいてくる。
「……や……」 
 首を横に振りながら、つばさはあとずさった。ゆっくりと踵を返し、そして今しも全速力で走りだそうとしたその時。
「――怯えるのはやめたまえ」
 凛と澄みわたる声が、再び耳に届いた。
 足を止めて振り向いてしまったのは、その言葉を受け入れたからではない。舞台のうえで放たれるような、涼やかなのに鋭い芯をもった声に思わず打たれてしまったのだ。
 いつのまに近づいたのだろう――人影はすぐ目の前に佇んでいた。もう影ではない、いでたちも顔の造りも、はっきりと目にすることができる。
「――――」
 つばさは、言葉をなくした。何というべきだろう――見とれてしまったのだ。
 年齢はおそらく、つばさよりも三つ四つ下だろう。
 整った――凍りつくぐらい整った顔だちだ。二重瞼の切れ長な瞳。通った鼻すじと、不敵な微笑みが映える唇。目にしていると、すうっ……と涼しさがしみわたってくるような。
 つばさよりも頭半分低い華奢な身体を、糊のきいたYシャツとダークブラウンのスラックスで包んでいる。サスペンダーと短めのネクタイがやけに古めかしく、まるでセピア色をした昔の写真から抜けでてきたように思えた。
「秘密を見られたと思ってそんな顔をしているのなら、それは要らぬ懸念というものだよ」
 唇が、謎めいた笑みとともに言葉を紡ぎ出す。
「その『力』を知ったうえで、僕は君に会いに来たのだからね。駒形つばさ君」
「なっ――」
 つばさは大きな瞳を見開いて、息を止めたまま相手の顔を見据える。
 三つの選択肢があった。わけのわからない恐さにかられて一目散に逃げるか、驚きにうたれておし黙るか、それとも浮かんだ謎をすべて相手にぶつけるか。
「ちょ、ちょっとまってよっ!」
 つばさは、三つめの道を選んだ。
「きみ、誰なのっ? どうしてあたしの名前を知ってるの? それに『力』のことまで――あたしに会いにきたって、どういうことなのっ?」
 今にも肩を掴まんばかりなつばさの勢いにも動ぜず、相手は興味深げにこちらを見つめるばかりだ。
「ええと――ええと、それからっ――」
「ふ――」
 吐息のような声が、つばさの言葉を遮った。笑われたらしい。
「あ、いや失敬。なるほど、なかなか元気のいいお嬢さんだ」
「じ……自分だってまだお坊っちゃんのくせにっ」
 からかうようなものいいについ、つばさは状況を忘れて言い返してしまった。
 と――相手の顔にはじめて、謎めいた笑み以外の表情が宿る。軽く眉をひそめ、ちらりと冷たい視線を向けてきたのだ。
「――僕は男じゃない」
「へ?」
 そう言われてつばさは、あらためて相手の顔を見る。長い睫に、柔らかな頬のライン。なるほど、華奢な身体もたしかに女の子のものだ。
「――だ、だってそんな格好で、『僕』なんて言うんだもんっ」
 しどろもどろに言うつばさ。ひとたび声を発してしまったことで、ようやくいつもの自分のペースに戻っていた。
「まあ、いい。話が逸れた」
 『彼女』はもとの表情にたちかえると、ちょうどサスペンダーの下になったYシャツの胸ポケットに指を入れる。
「質問には順々に答えよう。まずは、僕が誰かということだったね」
 芝居がかっているとさえ言える優雅な仕種で抜いた指には、一枚のカードが挟まれていた。差し出されたそれを思わず両手で受けて、つばさは視線を落とす。
 小さなカードの表には、古めかしい字体でこう記されていた。

――『茜桟敷 座長 久遠 茜音(くおん あかね)





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