東京の下町地域をゆったりと流れる隅田川は、とかく橋が多いことで有名だ。 中でも浅草の付近は、その密集地帯といえた。蔵前橋(くらまえばし)から上流に向けてわずか2kmほどの距離に、東武東上線の鉄橋を含めて五つもの橋が架かっているのだ。 五つの中では最上流に位置する言問橋(ことといばし)――その袂に程近い川沿いに、浅草東中学の校舎は流れを見下ろすようにして佇んでいる。 実際には土手と校舎の間に校庭があるのだが、都心の小学校の宿命としてグラウンドは申し訳程度の面積しかない。遠くから眺めれば、川に面して建物が建っているようにしか見えなかった。 高度経済成長期の頃の改修で立て直された鉄筋校舎もいまは古みを帯び、ベージュ色の外壁にもいくぶん年月の垢が目立つ。だがそれゆえに、隅田川沿いの風景にはなじんでいるといえるのかもしれない。 1年7組の教室はそんな学舎の東南一階――校庭と土手に面した一角に位置していた。 板書の音だけがかつかつと響く教室に、午前十時の陽射しがうららかに射し込む。 ――ったく、月曜の2時限から数学なんてやってられないわよね。 教師が黒板に向かっている隙に、橘 千絵は下敷きで襟元をあおいだ。衣替えはまだ一ヶ月先。五月の陽気に、冬服の紺色セーラーはいくらなんでも暑すぎる。 みんなよくガマンしてるわねぇ――と教室を見渡したとき、自分以上に心ここにあらずな人間の顔が視界の隅に入った。 ――あらあら、いつにもましてぼーっとしちゃって。 教室の前のほう、窓際の席。つばさはおきているとも寝ているともつかない視線を、窓の外にさまよわせている。頬にあたる陽射しが、いかにものほほんとけだるげだ。 ――危ないわよつばさ、あたしみたいに上手にサボらないとね。 息をつきながら、千絵は数学の教科書に挟み込んだディクスン・カーの文庫本に目を落とす。学園マンガなどでおなじみの常套手段だが、これが意外とバレないのだ。 「……だから、Xをここに移すとだな……」 板書の音と教師の声は、耳にすれども頭には届かない。 森田教諭、通称ガマ森の数学は、千絵のもっとも苦手とする授業だった。センスの悪い背広に縁の大きな眼鏡、頬のたるんだ不機嫌そうな顔というその姿が教壇に立っただけで、教室は一時限のあいだ強制収容所になってしまう。偉そうでねちっこいわりに、授業は板書して写させるだけなのだからまったくもってたちが悪い。 ――さ、あたしはもうちょっと活字のロンドンで遊んでこようかしらね。 そう思って活字を追い始めた瞬間―― 「――駒形」 どんよりと低い声が、友人の名を呼んだ。 顔を上げてみると、きょとんとした顔で突っ立ったつばさの目の前に、不機嫌な笑いを浮かべる森田が立っているのが目に入る。 ――ほうら言わんこっちゃないっ。 あれだけあからさまにぼうっとしていれば、森田でなくとも目に留めるというものだろう。 「Xの値がいくつになるのか言ってみろ」 チョークでこんこんとつばさの机を叩きながら、森田は言った。 「授業も聞かずに外を眺めてるくらいだ、これくらいは余裕でわかるな? 駒形」 「え〜と……わかりませんっ」 皮肉をたっぷりはらんだ言葉に、つばさは困った顔をしながらもへろっと答える。 「なら、なんで外を見てた?」 「ごめんなさいっ、ちょっとぼーっと別のこと考えちゃってまして……」 ――馬鹿者っ! あまりにも率直なつばさの返事に、千絵は心の中で叫び声をあげた。もうちょっとでもいいから、うまく立ち回るということを知らないものだろうかあの子は。 案の定、血色の悪い森田の顔に険悪な笑いが浮かぶ。 「少し外に出て顔でも洗ってきたらどうだ? 遠慮することはないぞ、俺の授業は受ける気があるやつにだけ聞いてもらえば十分だからな」 また始まった――と、千絵は聞こえないように舌打ちする。 ガマ森の『追い出し攻撃』は有名だ。ついこの間も、体調が悪くて居眠りをしていた女子のひとりがしつこくこれを食らって泣き出してしまったばかりだった。効果がありそうなおとなし目の生徒だけを狙い打ちにするから余計に始末に終えない。 だが――今回ばかりは彼も相手を見誤ったようだ。 つばさは申し訳なさげにはにかんで頭をかくと、 「あ、はい――すみません、そうします〜……」 「あ――おいっ」 森田が止める暇もなく――ぽーっとした表情のままちいさく頭を下げてきびすを返すと、すたすたと教室を出て行ってしまったのだ。 扉の閉まる音とともに、教室内にほのかな笑い声の波紋が生じた。 「静かにしろっ」 森田は苦虫を一山まとめて噛み潰したような顔で肩をすくめると、足早に板書に戻る。 ――つばさ、ナイスっ♪ 千絵は――おそらくクラスの全員が同じ気持ちだろうが――つばさに快哉を叫んでいた。 森田のやつも、人を見る目がない。駒形つばさという人間に対して、皮肉や嫌味など通じはしないのだ。おそらくふてくされてでも何でもなく、あの子は単純に森田の言葉を好意と受けとめて教室を出て行ったのだろう。それがつばさのつばさたるゆえんだ。 ――それにしても…… 再開された授業を聞き流しつつ、千絵は腕を組んで首を傾げた。 ――あの子、がらにもなく何を考えていたのかしらね。 ふと、頭の片隅に昨日の出来事が浮かぶ。夕暮れの土手での、赤城仁矢との出会い。もともと照れ屋なつばさではあるが、からかったときに必要以上に赤くなっていたような気もしないでもない。 もしや――恋の芽生え? ちょっと考えてみてから、千絵は肩をすくめて首を振った。 ――まさか。あの子はどー考えても『恋』というよりは『変』って感じよねぇ。 ふっと息をついて読書に戻ろうとした、その時だ。 ようやく彼女は気が付いた。これ以上ないというくらい険悪な表情で、自分を見下ろすその影に。 「……さっきからひとりで何をやっている? 橘」 「――はうっ!」 「う〜……」 女子トイレの洗面所で顔を濡らしながら、つばさはうなるような声をあげる。 教室の陽射しで温まった頬に、冷水が心地好い。それでも、心の中にわだかまったもやもやはそう簡単に晴れてはくれなかった。 ――……頭の中、こんがらがっちゃいそうだよ。 タオルハンカチを広げて、ごしごしと豪快に顔を拭う。 ダメだ。気分はぜんぜんうわの空、魂は昨日の出来事の中をぐるぐるとさまようばかり。 『駒形座』の舞台に立って観客席からの拍手を受けてから、まだ24時間が過ぎてはいない――そのことがつばさには信じられなかった。 いろいろなことが目まぐるしく起こりすぎて、まるで夢でも見ているかのようだ。 千絵ちゃんとふたりで土手に行って、赤城仁矢くんとぶつかって、お風呂に行って、急に『力』が我慢できないくらい膨れあがって、公園でその『力』を発散して、それから―― きゅっ、と水道の蛇口をひねり水を止めると、トイレの中にはひんやりとした静寂が満ちた。校庭から聞こえてくるランニングの掛け声と洗面台を叩く水滴の音だけが、ほの暗い空間に響いている。 ――あれって……夢とかじゃ、ないんだよね。 つばさはポケットに手を差し入れると、小さな一枚の紙片を取りだした。 黄昏の落ちた公園での、不思議な少女との出会い――まるで一幕の夢のようにも思えるあの出来事が、しかし確かに現実だったという証拠の品。 つばさの目はひとりでに、カードの上に書かれた文字を追う。 ――『茜桟敷 座長 久遠茜音』 手渡されたカードを、つばさはまじまじと見据えた。 「あかね……え〜と、え〜と」 読めない。 「『あかねさじき』だ」 少女――この久遠茜音というのが名前なのだろう――は、短くそう答えた。 「君の歳ではまださすがに、カルネの『天井桟敷の人々』などは観ないか。 まあ、名前のことなどはどうでもいい。他にも質問があったね。どうして僕が君の名前と、それに隠し持った『力』のことを知っているのか――」 茜音はすうっ……と細めた瞳をつばさに向けた。ちょうど、水晶玉から顔を上げた占い師のような仕種で。 ごくり――と、つばさの喉が鳴る。何故だろう、この少女の瞳を覗いていると、全てが見透かされてしまいそうな気がした。 「これはごく簡単なことだね。調べたからさ」 「――え?――」 単純といえば単純な彼女の答えに、つばさはあっけにとられた。調べた? あたしのことを? 「だって――『力』のことなんてどこで――」 「いかように隠された事実にも、たどり着く探索の道はあるものだよ」 その問いに、少女は謎めいた言葉と笑みをもって応える。 「だ、だいいち何であたしのことなんて調べるのっ? きみには関係ないじゃん」 「ところが、これから関係がでてくるんだ。もう少し話を聞くといい。 確か――君の三つめの質問はこうだったね。何故に僕が、こうして君に会うために足を運んだのか」 「う、うんっ」 「ありていに言おう。僕はその『力』を見込んで、君をスカウトしに来たんだ」 「スカウトっ?」 「――そう」 茜音は頷いた。 「『茜桟敷』の座長として、ぜひとも君という人材が欲しいと思ってね」 「だ――だめに決まってるよそんなのっ」 つばさは即座に声をあげていた。いきなり何を言い出すのだろう、この子は。 「あたし、おじさんのところで舞台に立ってるんだもん。他のところにいくなんて、恩知らずなまねできるわけないじゃんっ。 だいいち、座長さんていったってきみ、まだ子供でしょ」 「……思いのほかそそっかしい娘だな。人の話は最後まで聞きたまえ」 子供といわれたのが気に障ったのか、茜音はいくぶん冷たい声でたしなめた。 「『茜桟敷』が君の叔父の運営するような見世物小屋だと、僕がいつ言った?」 「じゃあ何なのっ?」 いまさら矛を収めるわけにもいかずに、つばさは頬をふくらませてみせる。 「それこそずるいよ。スカウトしようとか思うんならそっちを先に言ってくんなきゃ」 「――なるほど、それも道理か」 あっさりと――拍子抜けするほどあっさりと少女は自分の非を認めた。 ――……なんか、馬鹿にされてるような気がするなぁ……。 おもわず眉間に皺を寄せたつばさに構うこともなく、茜音は一瞬の間をおいてから言葉を続けた。 「そうだね、ひとことで言うなら――『茜桟敷』は、君と同じような特殊な『力』を持つ者の集まりだ」 「――――!」 ふい討ちだ。 こともなげに投げかけられた言葉に、つばさは息を呑んで凍りついた。 いま、この子は何と言ったのだろう。 あたしと同じ、『力』を持つ人たち? 「そう驚かないでくれたまえ。今の今まで、『力』を持つのが自分ひとりだけだとでも思っていたのかい?」 「だ――だって」 そんなこと、思う思わない以前に考えてみたこともなかった。母と祖母を亡くしてからいままで、自分ひとりの『力』のことを考えるだけで精一杯だったのだ。 つばさはあらためて、目の前に佇む男装の少女を見据えた。自分の『力』を知る――自分の『力』の理由をも、知っているかもしれないこの少女を。 「――興味がわいてきただろう?」 笑みを含んだ茜音の問いに、つばさは頷きはしなかった。だが表情と視線は思いきり、『はい』と答えてしまっていたに違いない。 「あ……茜音さん、だったよね」 こわごわと、といった感じでつばさは口を開いた。 「きみは……知ってるの?」 「何をだい?」 「えーと……『力』ってなんなのかとか、どうしてあたしみたいに『力』をもってるひとがいるのかとか」 口下手で、こんな拙い訊きかたしたできないのがもどかしい。 茜音は黙ったまま、軽く腕を組んでこちらを見つめるだけだ。 「答えてよっ!」 「――あいにく、僕もその問いに対するはっきりとした答えは持っていない」 肩を掴まんばかりの口調で訊ねるつばさに、茜音は静かに答えた。 「ただ、その答えに続いているかもしれない道を君に与えることはできる。その道こそが、『茜桟敷』さ」 「――――」 いつのまにか――公園には宵闇が満ちていた。ぼんやりと灯る街灯の明かりだけが、ふたりの上に降りかかる。 つばさは気付いていた。謎めいたこの少女の言葉が織り成した蜘蛛の巣に、自分が完全に捕らわれてしまっていることを。気付いていながら、もはや『茜桟敷』という単語を頭から払うことはできなかった。 「……どういうとこなの? 『茜桟敷』って」 半ばひとりでに、唇が問いを紡ぎだす。 「集まって何をしてるの? もしかして――悪いことっ?」 「――いいや」 ゆっくりと首を振ってから、茜音はつばさの顔を見上げてくる。 その瞳に、笑みが宿っていた。網にかかった魚を見るような、そんなまなざしだった。 「その逆さ。だが――『この街の平和を守るため日夜戦っている』と言ったら、君は信じるかい?」 ……ぴたんっ。 洗面台に落ちた雫の音が、つばさの思考を現実に引き戻した。 くもりガラスから淡く射し込む陽の光。隅田川をゆく船のエンジン音が、遠くのどやかに聞こえてくる。 「あかねさん……かぁ」 不思議な子だったなあ。ぼんやりとそう呟きながら、つばさは名刺をしまいこんだ。 あのあとすぐ――なおも問いを重ねようとするつばさに微笑を向けると、彼女は背を向けて広場から去っていってしまったのだ。 『さて、黄昏の幕も降りた。今日はこのあたりまでにしておこうか。 だが……すぐにまた会えるさ。君は望む望まざるに関わらず、もう巻き込まれてしまっているのだからね、駒形つばさ君』 そんな、謎めいた言葉だけを残して。あっけにとられたつばさがわれに返ってあとを追ったときには、すでに彼女の姿は夜の闇の中に溶け消えていた。 だから――つばさは結局のところ、何も知ることはできなかったのだ。『茜桟敷』というものが、具体的にはいったい何をしているのかを。 ――『この街の平和を守るため日夜戦っている』と言ったら、君は信じるかい? 謎に満ちたあの少女が口にした言葉を、頭の中で繰り返してみる。 「う〜ん……信じるかい? って言われたって……」 まるでよく読むマンガの中の出来事みたいだ。超能力を持った人間たちがひそかに寄り集まって組織をつくり、街の平和を守るために戦っているなんて。普通の話じゃない。 ――だいたい、何と戦ってるのかもわからないしなぁ……やっぱりちょっと信じられないよね。 心の中で呟いて顔をあげた―― そのときだ。 つばさは、思わずびくりと肩を震わせた。 洗面台の鏡の中に、自分自身の姿が映っている。セーラー服を着ていなければ間違いなく小学生に間違えられる、ちんちくりんな背丈と子供っぽい顔。短めの髪。濃い目の眉とどんぐりなまこ。 それは確かに、いつもどおりの自分の姿だ。 だが――何故だろう。その一瞬つばさには、それがまるで見知らぬ少女のように映った。 ――だったら、きみは何者なの? 駒形つばさ。 鏡の中の自分が問い掛けてくる――そんな気がする。 ――「普通の話じゃない」なんてさ。きみだってぜんぜん普通じゃないじゃんか。それこそまるでマンガだよ、お化けみたいなその運動神経。 やめてよ。そんな言いかたって―― ――お化けって言ったのが気に障った? だって、あの時だってみんな言ってたじゃん。「つばさちゃんはお化けだ」って。引越ししなくっちゃいけなくなったとき、お母さん泣いてたんだよ? やめってっては。 ――そうやって、周りにだけ迷惑かけて自分は『力』から逃げて暮らしていくんだね。自分の『力』の理由を知りたいなんて、そんなの嘘っぱちなんじゃないの? そんなこと、ないもん。 ――だったらどうして、あのときに茜音って女の子のあとをもっと必死に追いかけなかったの? 怖かったんでしょ、『茜桟敷』なんてわけのわからないものに関わって、普通から離れていっちゃうのが。 「――――っ!!」 声にならない声を洩らして、つばさは自分の奥から聞こえてくる声を断ち切った。鏡から目をそらして、ぶんぶんと頭を振る。 「……教室、戻らなくっちゃ。授業終わっちゃう」 わざと声に出した言葉が、トイレの中にどこか虚ろに響いた。 東京に住むようになってから、つばさの中にはふたつの想いがある。『力』の理由を知りたいと願う自分。そして『力』を嫌い、触れまいとする自分。あの不思議な少女との出会いをきっかけにして、そのふたつが完全に分かれてしまったかのようだった。 茜音は、すぐにまた会えると言った。待ち遠しい。そして、怖い。 つばさは必死で、頭の中を廻る思考を振り払った。このままでは、放課後が来る前におかしくなってしまいそうだ。 ――ふうううっ。 大きく息をつくと、つばさは勢いよく出口の引き戸を開き―― ――かしゃっ……!!―― 奇妙なその音が耳に入ったのは、その瞬間だった。 「――――?」 何だろう。まるでカメラのシャッターを切る音を、マイクで拡声したかのような。 どこから聞こえたのかもわからない。 首を傾げながら、つばさは1年7組に続く廊下へと足を向け――そして。 「――えっ!?」 今度という今度こそ、絶句してその場に立ち尽くした。 一瞬、錯覚ではないかと目をこすった。こんな、こんなことって―― 背後には、いま出てきたトイレのドア。そして右手には、教材室や防災倉庫のある2階へと続く階段。左手は壁。 そして正面には、1年生の教室が並ぶ廊下があるはずだった。 なくなっていた。つい数分前に自分が歩いてきた通路が。正面にはただクリーム色の壁が、さもずっと前からそこにあったという顔で廊下を塞いでいるばかり。 ――う、嘘っ? 駆け寄って、拳でこんこんと壁を叩く。 硬い。確かに壁だ。幻なんかじゃなくって―― ……しゅるっ…… パニックに陥りかけたつばさの足元で、何かを擦りあわせるような音が響いた。 憶えのある音だった。昨日、あの土手で耳にしたばかりの音だった。 ソックスのふくらはぎを、細長い何かがぞわりと撫でる。 直感的に半ばその正体を悟りながら、つばさは視線を落とした。 「――うぁ……!」 正解だった。昨日と同じ、黒い蛇。 なんでこのようなところに蛇が、などという疑問を浮かべる心の余裕はなかった。なぜなら蛇は一匹ではなく――足元に、ゆう二十は超える群れとなって這い交っていたからだ。 ……しゅるり……しゅるるるる…… 恐怖そのもののように、鱗の音が響く。 巡らせた視線の先に、つばさは見た。見てしまった。 蛇たちは――壁から這い出てきているのだ。まるで巣穴から頭を出すように、何もない壁の中から。つばさが目を見開いているその間にも、幾匹もの黒く長い身体が産みだされ、ぽたぽたと廊下に落ちていく。 「う――あぁああああああああああああああっ!」 こらえきれずにあげた悲鳴が、階段に響き渡る。 つばさは回れ右をした。トイレの中に逃げ込んで、戸を閉めて立てこもる――つもりだった。 できなかった。トイレの扉は、もうそこにはなかったから。 三方を塞ぐ無常なクリーム色の壁が、新たな蛇を生み出していく。上に昇る階段だけを残して、いつしかこの空間は行き止まりになっていた。 「誰か――誰か来てよぉっ!!」 しゃくりあげながら、つばさは階段の踊り場までを一足でジャンプする。学校では『力』を決して使わない――自分に課していた固い戒めも、常識を外れた恐怖の前には紙のように脆かった。 ちらりと振り返る。もはやざっと数えることすらできない数の蛇たちが、逆さまにした滝のように階段を這い登ってくるところだった。無数の細い眼が、一斉に自分を見据えている。 つばさは二階に向けて跳躍した。 「――――!」 だが、ああ、二階の廊下もすでに壁にふさがれている。逃げる道はただ、上に向かう階段だけだ。 ――このまま、三階の廊下も行き止まりだったら。 脳裏によぎる恐怖を打ち消して、つばさは床を蹴る。追ってくる蛇たちの鱗の音は、もはや物を擦る音には聞こえない。それはひとつの大きな唸りとなって、ゆっくりと階下から這い登ってくる。 とくん、とくん。はねあがった心臓の音が、それに重なった。頬を流れる暖かな雫は涙なのか汗なのか、もはや自分でもわかりはしない。 眩暈のようにぐるぐると回る脳裏に何故か、昨日公園で聞いたあの少女の言葉が甦った。 ――君は望む望まざるに関わらず、もう巻き込まれてしまっているのだからね、駒形つばさ君。 |