〜第十一幕〜 怪老人






 たんっ――と靴音を響かせて、つばさは階段を一足に跳びあがった。
 三階に辿り着くと同時に、視線をめぐらせる。
 東校舎には屋上がない。もしも二階までと同じように廊下が消失していたら、完全な行き止まり。もう、階下から追ってくる蛇の群れから逃れる術はないのだ。
 だが――
 ――あっ……たあっ。
 目の前に扉が見える。普段であればあたりまえなその事実に、つばさは思わず胸の底から安堵の吐息を洩らしていた。
 室名札に書かれた文字は『教材資料室』。そうだ、確か授業で使う模型やら大型図面やらを、何度か先生に言われて取りに来た憶えがあった。
 階段の下から、鱗の擦れ合う音が近づいてくる。後ろを振り返ることなく、つばさは勢いよく引き戸を開けて室内に転がり込んだ。即座に振り返って、ぴしゃん! と入り口を閉ざす。
「はあっ……はあっ……」
 ひとまず大丈夫だ。いくらたくさんの蛇だって、まさか扉を壊したりはできないだろう。
 安心したとたんに、汗がどっと全身から吹きだした。閉めた戸に手をかけたまま、つばさはその手の甲に額を押しつける。
「なんなのっ……これ……」
 呟く声が、自分でもはっきり判るほどに震えていた。
 わからない。ぜんぜんわからない。自分が一体何に巻き込まれてしまったのか。昨日の夕方を境目にして、これまで立っていた日常という大地が根こそぎ崩れてしまったかのようだった。
「なんで……こんなことになっちゃったんだろ……」
「――お嬢ちゃんが、『力』を持っておるからじゃよ」
「――――!!」
 唐突に背後から応えた声に、つばさはびくりと背筋を震わせた。
「――だ……だれかいるのっ?」
 うわずった声とともに、まなざしを廻らせる。
 壁沿いだけでなく窓側にもいくつか棚が並んでいるので、部屋の中は昼でも薄暗い。資料室とは名ばかりで、今は使わなくなった教卓や椅子、それにもろもろのクラスの備品が無秩序に辺りに置かれて埃をかぶっている。
 人影はそんな備品のひとつ――もとは校長室で使っていたと思しき革張りの肘掛け椅子に、深々と身を沈めていた。
 老人だ。
 白髪をぼさぼさの伸び放題にして背中に流し、それとは対照的な黒い衣を纏っている。やや落ち窪んだ眼を細めてつばさに微笑みかけると、彼は座していた椅子からゆっくりと立ち上がった。
 なんで学校にこんなおじいさんが? などという疑問を、つばさはもはや感じなかった。あまりに現実離れした事件が続いたので、驚くという感覚が麻痺してしまっていたのだ。
 それよりも――つばさは別のことに気をとられていた。
 知っている。このおじいさんを、あたしは見たことがある。
 考え込むまでもない。記憶の糸はたやすくつばさを答えに導いた。
 きのう、見世物小屋をみにきてくれたひとだ。千絵ちゃんと話しているときに、すぐ横を通り抜けていった老人。千絵ちゃんの言葉によれば、公演の間じゅうずっとあたしのほうを見ていたという――
「あ――あのっ――」
 とりあえず声をかけたものの、言葉が続かずに口ごもってしまう。
 そんなつばさに柔和な笑みを向けると、老人は舞台俳優のように恭しく頭をさげてみせた。
「顔をあわせるのはこれで二度目じゃが――はじめましてというべきじゃろうな。駒形つばさちゃんや」



 チャイムが鳴って授業が終わった教室の雰囲気というのはどこか、大きなスクランブル交差点の信号が青に変わった瞬間に似ている。赤信号の間におのおのが思い描いていた方向に、四十人の人間がいっせいに動き始めるのだ。
 連れ立ってトイレに向かう女子に、馬鹿話に興じる男子。黙々と教科書を鞄に戻すものもいれば、大きなあくびをして机に突っぷす者もいる。信号無視を断じて許さない森田の数学のあとだけに、クラスを満たす解放感もまたひとしおだった。
 だが――そんな教室の後ろのほうに、どんよりと雷雲を浮かべた一角があった。
「おぼえてなさいよおぉぉ……ガマ森ぃぃ……」
 うつむいた頭の上で、ポニーテールの尻尾が震えている。普段ならば快活な印象を与える顔に険悪な笑みを浮かべて、橘 千絵は地の底から響くような声で呟いた。
「月のない夜と密室には、じゅうぅぅぶんに気をつけることね……」
 活発な性格ゆえ友人も多い千絵なのだが、こうなると誰も話しかける勇気は持たない。彼女の席の周りには、渦潮く暗黒星雲にも似た空間が生じている。
 たっぷり2分間ほどぶちぶちぶちぶちと呟き続けて――それから彼女は、湿度95%のまなざしを教室の前方に向けた。
「そういえば……どこ行ってんのかしらあの子」
 この場で彼女のやつあたりの対象となるべき人間は、窓際の席にいない。教室をでたまま、とうとう授業の終わりまで戻ってはこなかったのだ。
「そうよねえ……もとはといえばつばさが悪いのよねえ〜……」
 先程心で開催を叫んだこともすっかり忘却の果てに追いやって、千絵は拳を握ってゆらぁり……と立ちあがった。身代わりに延々15分ガマ森の嫌味攻撃を受けたこのうっぷんを、脳天気にどこかをほっつき歩いているあの脳髄常春娘にぜひともぶつけてやらねばなるまい。
 席から離れようとしたその時、自分の机の上に置かれた文庫本に目がとまった。
 何とか隠しとおして没収の危機を逃れた、ディクスン・カーの長編。だが、おかげでとうとう授業中に読み終わることはできなかった。
 つばさを探しに行くか、それとも最後まで読んでせめて心のうさを晴らすか。一瞬考えてから、千絵は前者を選んだ。
 ――ま、続きは次の授業ででも読もうかしらね。
 運命の重要な分岐点となる選択肢を知らずのうちに選んでしうことが、人間には頻繁にある。この瞬間の千絵は、まさにそうだった。
 結局のところ――この日の彼女に、『次の授業』などありはしなかったのだ。



「な――なんで知ってるの? あたしの名前――」
 目の前の老人にそう訊ねながら――つばさはふと気づいていた。この問いが、昨日夕暮れの公園であの少女に投げかけたものと同じであるということに。
 いや、自分の問いが同じであるのではなく――むしろ、茜音というあの少女とこの老人とに共通点があるのだ。突然自分の前に現れて、自分の名前も『力』のこともなぜか知っている、という。
「もしかしておじいさん、茜音さんの知り合い……じゃなくて、ええとっ――『茜桟敷』のひとっ?」
 つばさは思わず、老人に訊ねていた。
 一瞬の沈黙をおいて――黒衣の老人は口元をほころばせて深々とうなずく。
「……察しのいいお嬢ちゃんじゃのう。実は、まさにその通りなのじゃよ」
 笑み崩れるという言い方がぴったりのにっこりとした笑みが、彫りの深いその顔に満ちる。彼はゆっくりと、つばさの目の前へと歩み寄ってきた。
「茜音とはもう会ったのじゃろう? 会って、『茜桟敷』への誘いを受けたのじゃろう?」
「う――うんっ……」
「ならば話は早い。わしはお嬢ちゃんを連れてくるようあの子に頼まれての」
「で、でも……なんで茜音さんが来ないの? えーと……それに、こんな時間じゃなくって学校終わってからでもいいと思うけどなあ……」
 戸惑いがちに素朴な疑問を述べると、老人は長身をかがめてそっとつばさの肩に両手をかけた。
「突然だったのはすまないと思っておるよ。じゃが、あの子も何かと忙しい身でな。堪忍してやってはもらえんかな」
 両肩に置かれた長い指に、軽い力がこもる。つばさはごくりと唾を飲んだ。
 昨日赤城 仁矢に腕を握られたときは、強く握られたのにまったく痛みを感じなかった。だが、この老人の指はその逆だ。柔らかに掴んでいるはずなのに――骨ばった指の先が食い込んでくるような感触がある。
 つばさは老人の顔を見上げた。柔和そうなその笑みを。細められたその瞳を。
「学校を抜け出すのが心配かね? そのことならば案じることはないよ。
 お嬢ちゃんもたった今、廊下や扉が消えるのを見たじゃろう? あれと同じめくらましの『力』をもってすれば、お嬢ちゃんの学級の人間をまとめて欺くくらいはたやすいことじゃ。安心して――」
「――おじいさん、ほんとに茜音さんの仲間なの?」
 猫なで声の説得を遮って、不意につばさは訊ねた。両の瞳でしっかりと老人の瞳を、瞳の奥を見据えたまま。
「……それはどういうことじゃね。あの子に頼まれて来たと言ったはずじゃが」
 笑みを絶やすことなく、老人は首をかしげてみせた。
「わしとともに来てみればわかることじゃよ。別の場所で、あの子はお嬢ちゃんを待っているはずじゃからな。さあ――」
「――嘘っ」
「何?」
 老人が怪訝な声をあげたときには、つばさは身体を動かしていた。軽く身をよじって老人の手を肩から払うと、入ってきたドアの前まで跳びずさる。
 つばさは――つばさには、見えたのだ。自分の問いに答えた瞬間、柔和そうな笑みを浮かべた彼の瞳の中にかすかな暗い光が揺らぐのを。
 自分の『力』を持っていることに――他の人とは違うということに気づいてから、つばさは無意識のうちに周りの視線を意識しながら育ってきた。母と祖母を亡くして叔父の家に引き取られてからは、二重の意味で。
 親しかった人間に、『力』のせいで嫌われることが怖かったから。親しい人間に、自分の『力』のせいで害が及ぶことが怖かったから。
 それゆえだろうか。つばさは他人の表情やまなざしの奥に隠れた意志に、同年代の人間よりもはるかに敏感な少女だったのだ。
 その、心の触覚が告げている。目の前の老人が偽りを――それも悪意ある偽りを語っていることを。
 もちろん、それだけで判断したわけではないけれども。
「おやおや、なぜそんな根も葉もないことを言うのかね」
 黒衣の老人は困惑したように眉間に皺を寄せると、つばさのほうに一歩を踏み出した。
「あまりわしを困らせないでおくれ。さあ――」
「ダメだよっ」
 ドアにぴったりと背中をはりつけたまま、つばさはぶんぶんと首を振る。
「茜音さん、『茜桟敷』は街の平和を守っているって言ってたもん。おじいさんが茜音さんの仲間だったら、蛇を使ってあたしを追いかけたりとか、『力』でクラスのみんなを騙そうって言ったりとかするはずないじゃんか。
 おじいさんが嘘ついてるのか茜音さんが嘘ついてるのかわかんないけど、どっちにしたってあたし、ついてかないもんっ」
 かなりたどたどしい口調で、つばさはそれでもなんとか最後まで叫んだ。懸命に老人のほうを睨み据えたが、うらはらに膝から下ががくがくと震えている。
 数秒の、だがやけに長い沈黙があった。
「……なるほど、なかなか芯の強い娘じゃ」
 ぼそり、という感じで老人は呟く。
 顔に浮かぶのはあいもかわらぬ柔らかな微笑。だが、先程までとはどこか違う――目にしているだけで体温が奪われていきそうな、底の知れない嗤い。
「それに思うたよりはるかに聡い。茜音が目をつけるのもうなずけるというものじゃ」
 言いながら、また一歩距離を詰める。
「こ、こっちこないでっ」
 つばさは慌てて扉に手をかけ――熱いものにでも触れたように慌てて手を引っこめた。
 聞こえたのだ。扉の向こうで響く、何かを擦り合わせるような音。おそらくは廊下じゅうに満ち満ちる、蛇たちの鱗の音が。
「嘘を言うたことを悪く思わんでくれよ。無用に怯えさせることなくお嬢ちゃんを連れ出そうという、わしなりの気配りというものでの」
 降ってきた声に顔をあげると、老人はすぐ目の前に立ってつばさを見下ろしていた。
「ただ、何から何までだまそうとしたわけではないよ。わしがお嬢ちゃんを迎えに来たというのは本当のことじゃ」
「――――っ!」
 自分に向けて伸ばされた黒衣の腕をかわして、つばさは勢いよく床を蹴った。老人の頭上を跳び越え、部屋の反対――窓の側に着地する。ほう、という感嘆の声が、振り返った老人の唇から洩れた。
「すばらしい。これがお嬢ちゃんの『力』か。まぎれもない奇術の系譜に連なるもの――これはやはり、是が非でもわしとともに来てもらわねばならんな」
「な、何言ってるのかわかんないもんっ! だいたい連れに来たっていったって、茜さんの仲間じゃないんならおじいさん誰なのっ?!」
 つばさの問いに、怪老人は満悦の笑みを浮かべた。
「あやつらとは違う、『力』を持つ人間の集団――とだけ言っておこうかの。ふふ、あとはついて来てのお楽しみじゃ」
「だからっ、行かないって――」
「いいや、来てもらうよ。こうなれば是が非にでもな」
 悪意の牙をもはや隠そうともせずに呟くと、彼は黒衣の懐に手をいれた。
 つばさは思わず身をすくめる。映画やマンガならば、抜かれた手には銃が構えられているところだ。
 だが、違った。老人の骨ばった手に握られているのは、金色に光る一本の横笛だったのだ。いぶかしげに見つめるつばさをよそに彼はその一端を口に含むと、短い旋律を奏ではじめた。
「な……なんなのっ?」
 問いかけた声に微かな怯えが混じったのは、老人の得体の知れない行動が不気味だったからだけではない。異国の子守唄を想わせるどこか不吉なメロディーに、背筋を這いあがる不安を感じたのだ。
 そして――
 しゅる……しゅるるるるるる……
 笛の旋律に応えるように、部屋の中にあの耳ざわりな音が響き始めた。どこから聞こえるともなく、幾重にも、幾十重にも重なりあいながら。
 蛇たちが、いる。姿は見えずとも、この部屋の中に。部屋の中いっぱいに。
 つばさは視線をめぐらし、それから老人にまなざしを戻した。うっとりしたような表情を浮かべて、彼は一心に笛を吹き鳴らしている。
 その音色が、不意に途絶えた。
 うごめく鱗の音だけが支配する短い沈黙の中、老人がひゅうっ……と息を吸うのが聞こえる。そして、次の瞬間――
 ひときわ甲高い、もはや旋律をなしてはいない笛の音が部屋の中に響き渡った。
「な――わ――わああああああああああっ!!」
 だがその笛の音すらも、つばさがほとばしらせた悲鳴によってかき消される。
 こらえることなどできはしない。おそらく生まれてこの方発したこともない声を限りの絶叫を、つばさは肺が裏返るほどに搾り出していた。
 蛇。
 これほどまでの群れが、今までどこに隠れていたというのだろう。
 蛇。蛇。蛇。
 黒板の下に、棚の中に、カーテンの陰に、椅子の上に、床と天井に。
 蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。
 もはや模様にしか見えない蠢く無数の紐が、数秒のうちに部屋の内側を覆っていく。
 蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇。蛇――
「あ――ああ――!」
 上履きをのぼってソックスのふくらはぎに這い上がろうとした数匹を、つばさは足を振って払おうとした。
 できない。木の根元に絡みついてゆく雑草の蔦のように、蛇たちはわれ先にと足に巻きついてくる。一匹を払う間に、五匹がソックスを上って膝に触れる。
 パニックに駆られて、つばさはどこへ跳び移るかも考えぬまま思いきり床を蹴った。
 だが、そのときにはもう足は無数の蛇によって床に縫いとめられていたのだ。つばさの身体は勢いを殺せず、床に倒れた。いまや蛇たちの海となった、床の上に。
「きゃあぁ……ああっ――あっ!」
 細切れな悲鳴を、擦れ合う鱗の音が掻き消す。
 蛇たちの群れに容赦はなかった。腕を、首筋を、胴を、生ける黒縄がまたたくまに縛めていく。這い交う鱗の感触は、制服のうえからでも嫌というほど感じられた。
 つばさはもはや動かなかった。動けなかったのだ。イソギンチャクの触手に絡めとられた哀れな小魚のように。
 床の上に横たわったまま、涙に濡れたまなざしをあげる。滲んだ視界に、影のように佇む老人の姿が映った。
「せっかく怖い思いをさせずに連れ出してやろうと思うたに……残念じゃよ」
 言葉とはうらはらに――つばさの怯えを明らかに愉しんでいる、それはいびつに歪んだ笑いだった。
「だ……だれかっ」
 唯一動く首を、つばさは細かに震わせた。縛られた手では、頬を伝う涙を拭うことすらできはしない。
「誰か来てよぉぉっ!! 千絵ちゃん、先生っ!! 誰か来てぇぇっ!!!」
「無駄じゃな」
 にべもなく、老人は呟いた。
「奇術の力のひとつ、《結界(パノラマ)》と言うての。この部屋は外とは遮断されておる。お嬢ちゃんの声は外には届かぬし、外の人間にもここを見つけることはできまいて。
 ふふ、お嬢ちゃんとの面会を無粋な輩に邪魔をされまいと、特別にあつらえた舞台じゃからのう」


「――悪かったな、無粋で」


 不機嫌な低い声は、唐突に老人の背後から響いた。
「な――!?」
 つばさに向けた笑みを凍りつかせ、怪老人は狼狽もあらわに後ろを振り向く。
 次の瞬間――
 ガシャァァァ――ン!!
 ガラスと、そして何か固いものが砕け散る音が、床に横たわるつばさの耳にもはっきりと届いた。
 薄暗い教材室に、廊下からの光が射し込む。
 その陽光を背に、佇む影がひとつ。足元にひしゃげて転がったドアが、その人物が入口を蹴破ったことを物語っている。
 男の子だった。やや痩せぎすな身体に、着崩した制服を纏った――
「――――!」
 まなざしをその顔に移した瞬間、つばさははっとして息を呑む。
 知っている、顔だったのだ。
 あの帽子はかぶっていないが――昨日の今日で、見間違えるはずはない。やや伸びた前髪も、その影で険しい光を湛えた瞳も、不機嫌に引き結ばれた唇も。
「誰じゃ」
 悪意に満ちた声で、老人が問う。
 少年は口を開かない。面白くもなさそうに、老人の顔に一瞥を投げかけただけだ。
 呆然とした声で結果的に老人の問いに答えたのは、床に横たわったつばさのほうだった。
「赤城……くん?」




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