〜第十四幕〜 切り札






 ――ひとが、いる?
 睦の口から発された唐突な言葉に、つばさは思わずきょろきょろと教材室の中を見回した。
 殺虫剤の霧のせいで、視界はあまり良いとはいえない。けれども、あまり広くはない部屋だ。自分と仁矢たち、それに黒衣の老人以外に人がいないことくらいはすぐに判った。
 ひとがいるって、どういうことなのだろう。そもそも『ぱのらま』ってなんだろう?
「ターゲットの駒形さんはともかく、無関係の人間を巻き込むというのは――隅田川の一件といい、あんまりスマートなやり方ではないですねえ。また大ごとになっちゃいますよ?」
 自分の眉間の辺りをとんとんと指でつつきながら、若槻がため息混じりの声で言った。どうやら自分以外の間では、ちゃんと話が通っているらしい。その横では仁矢が、ただでさえ鋭いまなざしをいっそう険しくして老人を睨んでいる。
「――ふん。そうか、そのお嬢ちゃん――《千里眼》というやつじゃな」
 毒々しげに、老人は唇の端を歪めた。
「見通されてしまってはしかたないのう、せっかく偶然手に入った切り札、最後の最後までとって置こうと思ったのじゃが……
 くく、心配はご無用じゃ、少年よ。大ごとになぞしやせんよ」
 床の上で苦しげにのたうつ数多の蛇たち。しかしそれを見下ろす老人の目には、先程までの慌てた様子はもはや見られなかった。
「お前の言うた通り、わしの蛇たちとお前たちの死体がここで見つかったのではさすがに騒ぎになるじゃろうな。それはさすがにわしの望むところではない。せっかくのご忠告には、従わせていただくとするよ」
 余裕の笑みとともに、彼は黄金色の笛を口元にあてた。ほどなくして、ごく短い旋律が霧の中に流れる。と――
「あ――」
 つばさは思わず短い声を洩らした。
 蛇たちがいっせいに鎌首をもたげ、移動を始めたのだ。
 今の今まで絡みあうように床の上に蠢いていたとは思えない、それは行軍を思わせる整然とした動きだった。
 ある一群は棚と棚の隙間へ、またある一群はカーテンの陰へ。まるで排水口に吸い込まれる水のようにその姿が消えていく。
 擦れあう鱗の音のみを残し――ほんの三十秒とかかりはしなかっただろう。あれほど満ち満ちていた蛇たちが、資料室の中に一匹たりとも見受けられなくなるまでに。
「苦しい目にあわせてすまなかったな、お前たち。おっと――」
 いたわるような声で言ってから、老人はそれとはうらはらな底光りするようなまなざしで全員を見回した。
「わかっておるとは思うが、動くではないぞ。わしがこの笛で短い合図を送れば、このパノラマの中にいるもうひとりのお客は哀れにも喉笛を噛みきられることになる」
「……こいつの言ってやがること、本当なのかよ。香春先輩」
「う――うん」
 抑えた声の中にいらだちをこめた仁矢の問いに、睦が戸惑いがちな様子で頷く。
「パノラマの中に女の子がいるのは間違いないと思う。ちょっとだけど、見えたから……」
 ちっ……と、仁矢が舌打ちをするのが聞こえた。
 先程からの彼らのやりとりを耳にして、少しずつではあるがつばさにもわかってきた。この部屋の近くで、誰かが人質にとられているということ。どういう手段によってか、香春 睦というこの上級生の少女にはそれが『見える』のだということ。それに――
 自分をとりまく状況が、再び悪いほうへと傾きつつあるということが。
「――そういうわけじゃ。いささか回り道になったが、お嬢ちゃんはいただいていくとするよ。
 さ、駒形つばさちゃんや。ゆっくりとこちらに歩いてきてもらえるかの」
 薄れゆく霧の中に響く、勝ち誇った声。老人はまさしく蛇のように眼を細めて、つばさに歪んだ微笑を向けた。
「え――あ……」
 どうしていいかもわからず、つばさは助けを求めるように周囲を見回す。だが、言葉を発するものは誰もいない。睦は張りつめた表情で、仁矢は食いいるように黒衣の老人を睨んだまま、ぞして若槻は感情の読めないすまし顔で、その場に立ちつくしている。
 術が――ないのだ。茜桟敷の、この三人にすら。
 驚きと混乱の底にしばし隠されていたうそ寒い恐怖が、みぞおちのあたりをきゅっと掴んだ気がした。
「――さあ――」
 歓喜に眼を見開いて、老人は今一度つばさを促す。
 逃げちゃえ――と、心の奥でふと呟く声があった。
 足元の蛇たちはもういない。『力』を使ってダッシュすれば、この場から離れることは十分にできるだろう。この場にいない人質なんて自分には関係ない。逃げちゃえ、つばさ――
 唇を噛んで、つばさはこまかに首を振った。ダメだ。こんなこと考えちゃダメだ。
 だが、恐さと怯えはどうすることもなく膨らんでいく。このまま目の前の老人にさらわれていったら、あたしはどうなるのだろう。どこへ連れていかれて、どんな目にあうのだろう。
 ――裸に剥かれて剥製にされて地下室に飾られちゃうわよっ。
 昨日千絵が口にした冗談が、やけに生々しいイメージになって背中を這いあがった。
 握りしめた手の中に、じっとりと汗がにじむ。心の中の天秤の針が、狂ったように揺れている。
 あと三秒もそんな時間が続いたらつばさは本当に、叫び声をあげて部屋の外へ跳び出していたかもしれない。
「――いやぁ、仕方ありませんねぇ」
 恐怖や緊張とはかけ離れた声が唐突に室内に響いたのは、その時だった。
 声の主は――探すまでもない。思わず向けた視線の先では若槻が呑気な笑みを浮かべて、右手でぼさぼさの髪を掻いていた。
「ほほう、仕方ないとな。潔く諦めようという気になったかの」
「いえいえとんでもない、逆ですよ」
 嘲るような老人の言葉をさらりと受け流して、彼は制服の胸ポケットをぽんぽんと叩いてみせた。
「これだけは使いたくなかったのですが――こちらも『切り札』というやつを披露させていただこうと思いましてね」
「……まだ何か隠しもっておるのか。興味はあるが、お断りじゃな。そのまま動かずに立っていてもらおう」
 さすがに先程の殺虫剤で懲りたのだろう。黒衣の老人はすうっ……と眼を細めて、険しい眼差しで若槻の手元を睨みすえる。だが若槻は構うことなく、ポケットに手を差し入れた。
「まあまあ、そうつれないことをおっしゃらずに。お年を召されても、好奇心というものだけは大切にされるものですよ」
「愚弄する気か? 一度ならず二度までも――」
 若槻の動きを牽制するためか、それとも彼の言葉が神経に触ったのか――たぶん両方だ――老人は吐き捨てるようにそう言うと、黄金色の笛を口元に運んだ。
「それ以上口をきくでない。余計な言葉は、人質に死をもたらすと思え」
「――京一郎くんっ!」
 黒衣の老人の威嚇に、睦の悲痛な声が重なる。それでも若槻の微笑は崩れない。
「余計な言葉を喋っているつもりはないんですけれどねぇ。なにぶん、不言実行が僕のモットーなものでして」
 胸ポケットに差し入れられた指が、ゆっくりと引き抜かれていく。
「どうやら――後悔させてやらねば解らんらしいの――!」
 怒声とともに、老人は土気色の唇に笛を挟む。
 そして、次の瞬間。
 澄んだ音が、資料室の中にこだました。
 老人の笛が紡ぎだす短い旋律。どこかにとらわれているはずの人質に死をもたらす、魔性の音色――
 では、なかった。
 金属音だ。何か硬いものと金属がぶつかる、甲高い音。
 それは、黄金色の笛が発したものだった。老人の手を離れてくるくると宙を舞い、床に転がった横笛が。
「――何――?」
 信じられないという表情で老人は手元を見つめ、それから見開いたままの目を側らに向けた。
 そう。一瞬のうちに自分の懐に跳び込み、稲妻のような手刀で笛を弾き飛ばした――赤城 仁矢に。
「いい気になって喋りすぎだ。隙だらけだったぜ、じじい」
 勝ちほこるでもなく、むしろ面白くもなさそうな声で仁矢は呟いた。たった今老人の腕を打ちすえた右手を引き、静かに拳を握り締める。
「関係ねえ奴らを巻き込まなけりゃ勝負できねえようじゃ、あんたもたいした奇術師じゃねえな」
 ため息のまじりの声で言い捨てたその言葉が、挑発の類でないことは確かだった。なぜなら――
 老人がその顔に怒りの色をのぼらせる暇も与えず、刺し貫くような仁矢の拳は黒衣の胸元をまともに捉えていたからだ。
「ぐ――!」
 くぐもった呻きとともに、老人は両手で鳩尾を押さえてうずくまる。ちょうど自分に跪く形になった黒衣の襟を、仁矢は強引に掴み上げた。
「寝てろ」
「おーい仁矢くん、やりすぎは良くない――」
 横からかけられた京一郎の声は、仁矢の耳には届かなかった。いや、届いたうえで無視されたのかもしれない。
「ひゃ――」
 目の前に展開された光景に、つばさは思わず目をしばたかせる。
 黒衣の襟を掴んだ仁矢の腕が、ぶんっ、と振られたと見えた刹那――老人の身体は宙を舞っていた。資料室の対角線上を一瞬で吹っ飛び、入口近くの棚に勢いよく叩きつけられる。
 彼の受難はそれだけでは終わらなかった。衝撃で揺れた周囲の棚の上から、地球儀やら辞典やらが土砂崩れよろしく落ちかかってきたからだ。
 すでに気を失っているのか、老人は避けもしなければ声も上げない。最後に総仕上げとばかりに棚そのものが倒れ、黒衣を纏った長身を完全に下敷きにしてしまう。
 それが――
 あっけないといえばあまりにもあっけない、決着の瞬間だった。
「す――」
 すごい、という言葉すらも出てこずに、つばさは仁矢の顔に目を向ける。
 決して軽いとはいえないだろう老人の身体を、彼は腕一本で部屋の端から端まで投げ飛ばしてしまったのだ。まるでごみ箱に紙屑でも放るように、軽々と。
 ケンカが強いらしいことは、千絵ちゃんから聞いた。でもこれは――なんというのか、そういうレベルの問題ではないような気がする。
 仁矢の横顔を呆然と見つめていたつばさの肩をその時、ふんわりと包みこむように抱いた腕があった。
 石鹸と、それからどこかクレヨンを思わせる柔らかな香り――まなざしを向けると、睦と呼ばれた少女がつばさの顔を覗きこんでいる。
「――よかった――」
 いまにも泣き出しそうな微笑とともに、彼女はふう、と息をついた。
「もう大丈夫だからとか言って、結局また恐い思いさせちゃったよね――大丈夫だった?」
「あ……ええと――はいっ」
 しどろもどろに言いながら、つばさは何とか首を縦に振った。昨日公園で茜音と出会って以来なんだか口ごもってばかりのような気がするが、これはしょうがない。「いきなり正体不明の老人に誘拐されそうになって、危機一髪のところで助けられる」などという状況で、そうそうすらすら言葉が出てくるものか。
 睦はその返事を確かめるように頷くと、もういちど両のてのひらで包むようにつばさの肩を抱いた。
 ついさっきまでのはりつめた雰囲気は、もはや彼女の顔に見受けられない。そこにいるのは楚々とした、『優しいお姉さん』といった雰囲気の上級生だった。だからこそ――
 助かったんだ――という安心感が、はじめてつばさの胸に染みわたってきた。
 だが睦は不意に、いまいちど眼鏡の奥の瞳に緊張の色をよぎらせると、
「――京一郎くん」
 つばさの肩越しに、若槻――京一郎というのが名前らしい――に声をかける。
「下、見に行ってこなくっちゃ。階段のあたりに、女の子がまだ閉じ込められてるはずだから」
「あ――そうだね」
 京一郎は頷いて、それから軽い苦笑とともに頭を掻いてみせる。
「場合によっては、うまく場を繕わなくっちゃいけないね。やれやれ、そのおじいさんが無茶をしたぶん僕らが隠蔽工作をはたらくってのも、なんだか割が合わないなぁ」
「ぼやくのは後だよ、京一郎くん」
「――いや、ごめんごめん。じゃあ、僕と睦さんが下に行こう。仁矢くんはいちおう《蛇使い》さんの監視。それから駒形さん――いきなりこんなことになって混乱していると思うけど、あとできちんと事情の説明をするからね。ほんのちょっとだけ、ここで待っててくれるかな」
 その言葉に、睦と仁矢がちいさく首を縦に振る。つばさもはいっ、と返事をして頷いた。
『茜桟敷』のこととか、『力』のこととか――どこまで訊ねられるかはわからないけれど、説明がほしいことはそれこそ山ほどある。
「じゃ――駒形さん。自己紹介もまだだけど、すぐに戻ってくるからね」
 睦はもういちどつばさに微笑みかけると、踵(きびす)を返して足早に資料室を出ていった。その後ろを、こちらはいささかのんびりとした足どりで京一郎が続く。
 彼の姿がちょうど戸口の向こうに消えようとしたとき、
「――ところで先輩、ひとつ訊いていいか?」
 それまで黙っていた仁矢が、ふいにその背中に訊ねかけた。
「ん? 何だい仁矢くん」
「いや、後でもいいんだけどよ……『切り札』って一体何だったんだ?」
 仁矢の問いに、つばさもおもわずあっと声を洩らして京一郎を見る。そういえば、彼が胸ポケットから取り出しかけた『切り札』は、結局使われずじまいだったのだ。
 口数の多いこの上級生らしくもなく、京一郎は答えない。苦笑めいた表情を浮かべると、逆にあさっての方向に顔を向けてしまった。
「もしかして……何も入ってなかったんじゃねえのか? 胸ポケットの中」
 なおも問う仁矢に、京一郎はこちらに背中を向けたままちいさく肩をすくめる。その仕草はあきらかに、問いに対するイエスの答えだった。
「……危ねえはったり使いやがって」
 あきれたような、しかし険悪さは感じられない口調で仁矢は言う。
 すると京一郎は、ちらりとこちらを振り向いた。口元が笑みの形を作り、頬がほんの微かに動く。髪で見えないが、ウインクをしたのだ。つばさはそう思った。
「いやいや、はったりというわけじゃないよ。僕の最後の切り札は君だったってことさ、仁矢くん」


かろうじて《蛇使い》を倒した『茜桟敷』。だが――
次回、第十五幕――『蛇使いの哄笑』に続く




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