〜第十五幕〜 蛇使いの哄笑






 京一郎たちの足音が廊下に遠ざかってしまうと、教材資料室には穏やかな静けさが戻ってきた。
 殺虫剤の霧もほのかな香りを残して晴れ――窓から射し込む午前十時半の陽射しのなかで、埃をかぶった棚や教材がぼんやりと佇んでいる。
 ただ、普段の資料室と違うところがふたつばかり。
 ひとつは、部屋の一角に崩れた棚とその下からはみ出た黒い衣。言うまでもなく、『茜桟敷』のメンバーに倒された老人のものだ。
 そしてもうひとつは――その崩れた棚を険しいまなざしで睨みすえる、赤城 仁矢の姿。
「――……」
 そう。ふと気付いてみれば、つばさは仁矢とふたりっきりで部屋の中にとり残されているのだった。
「……え〜と……」
 口を開きかけたところで、つばさはそのまま固まってしまう。どうしよう。こういう場合、何から切り出すべきなのだろうか。
 ――や、やっぱり、お礼、だよね。助けて、もらったんだもん。
 やけにあたふたと心の中で呟いて、つばさは仁矢にまなざしを向けた。
 彼はこちらの姿など見えてもいないように、老人が下敷きになった棚のあたりをじっと見つめている。声をかけられることを拒否するバリアでも張ったような、そんな横顔だった。
「――あの、仁矢く――じゃなくって、赤城くんっ」
 息を吸いこんで心に助走をつけてから、つばさは何とか口を開く。仁矢の目が、ほんの一瞬ちらりとこちらを向いた。
「あ――ありがとっ、助けてくれて」
 鋭いまなざしに射すくめられて、間が抜けたくらい月並みなお礼を口にしてしまう。
 仁矢は何も答えず、部屋の角に視線を戻した。生じた沈黙がでたらめに気まずい。
「赤城くん――」
「……お前を助けたわけじゃねえさ」
 耐えかねていまいちど口を開いたつばさに、仁矢がようやく――仕方なしにという感じで呟いた。
「このじじいをぶっ倒しに来たら、たまたまお前が床に転がってただけだ」
「で、でもほらっ、助けてもらったことに変わりはないしっ。赤城くんたちが来てくれなかったらあたし、あのままこのおじいさんにさらわれちゃってたしさっ。やっぱりこういうのって、お礼は言うべきだと思うな、うんっ」
 何だ? 何をいっているんだあたしは。混乱しながらとにもかくにも、つばさはひとりうんうんと頷いてみせる。
 千絵から妙な予備知識をもらっていようが、実際にぶっきらぼうな言葉遣いを聞こうが、別に目の前の赤城 仁矢が恐いというわけではなかった。それなのになぜだろう。なんだか、うまく、話す、ことが、できない。
 しどろもどろなつばさの言葉に、当然仁矢は答えなかった。沈黙がだんだんと救いがたいものに変わっていく。
「――びっくりしちゃったな。赤城くんが『茜桟敷』のひとだったなんてさ」
 なんとか活路を見いだそうと、つばさは話題を変えた。というより、どちらかといえばこちらこそ切り込んでいかねばならない本題なのかもしれないが。
「やっぱり、茜音さんに会って誘われたの?」
 応えは沈黙だ。
「さっきの先輩たち――え〜と……香春先輩と若槻先輩、だったっけ。ふたりとも、『茜桟敷』のひとなんだよね?」
 さらに沈黙。自分の言葉が見事に空回りしているのが、手にとるようにわかる。
「全員集合、って言ってた気がするからぜんぶで三人――じゃなくって、茜音さんもいれて四人なのかな? みんな『力』とかって使えるの? 赤城くんは――」
 そこまで言って、つばさははたと唇を噤んだ。
 いつの間にか、仁矢がこちらに視線を向けている。見ているというよりは睨んでいるといったほうが似つかわしい、それはそれは険悪なまなざしで。
「――少し、黙ってろ」
「……ごめん」
 ぼそりと呟いた仁矢の声――その中に込められた刃物のような凄みにおされて、ついついつばさは謝ってしまう。
「で――でもさ、そんなに怒ることないんじゃないかなあ。あたしだって、なにがどうなってるのかぐらい知りたいもん」
「先輩たちがあとで説明するって言ってたはずだぜ」
 仁矢の口調は徹底してとりつくしまがない。
 ――ううっ、なんだかなあ。
 ほんのちょっとではあるが、なんだか理不尽な気がした。
 危ないところを助けてもらったのは確かだし、そのことではいくらありがとうを言ったって言い足りない。でも、あたしは別に悪いことをしたわけじゃないのだ。ここまで邪険にあつかわれなくってもいいような気がする。
 二人の間に再び生じた、やや重めの沈黙――
 意外なことに、それを破ったのは仁矢のほうだった。
「……誘われたのか?」
「え?」
 唐突な問いに、つばさは思わずきょとんと目を丸くする。
「茜音のやつに誘われたのかよ。『茜桟敷』に」
「う、うんっ」
 仁矢のほうから話しかけてきたことになんとなくほっとして、できるかぎり元気よく頷いた。茜音さんはたしか言っていたはずだ。『君をスカウトしに来た』と。
「なんていうのか、そういうことになるんじゃないかな」
「――止めとけ」
「え?」
 またもや唐突に放たれた彼の一言に、つばさはぽかんとした表情のまま凍りついてしまう。止めとけって、いったい何を?
 仁矢はそんなつばさに構うことなくふいと視線を逸らし、崩れた棚のほうを向いたまま言葉を続けた。
「お前みたいなきゃあきゃあした奴が入っても邪魔になるだけだ。
 ……ったく、茜音のやつも『力』があれば誰彼構わず声をかければいいってもんでもねえだろうに」
「――――」
 あんまり淡々とした声なので、その呟きに込められた刺に気付くまでゆうに数秒がかかった。そして気付いたとき、今度こそつばさの中に怒りがわきあがった。カチンと来た、というやつだ。
「ちょ、ちょっとっ。そーゆー言いかたってないじゃんかっ!」
 ちいさな肩をせいいっぱいにいからせて、つばさは声をはりあげた。『赤城 仁矢を怒鳴りつける』などというのはほかの生徒が聞いたら青ざめるに違いない偉業なのだが、もちろんつばさはそんなことを知らない。
「あたし、まだ『茜桟敷』のことなんにも知らないんだよ? 入るとか入らないとかそんなんじゃないし――だからいろいろ聞いてるんじゃんっ。それをむすっと黙っててぜんぜん教えてくれないで、ようやく喋ってくれたと思ったら入るなとか邪魔だとか。そんなんじゃ納得いくはずないよっ。説明してよ説明っ、『茜桟敷』が何なのかとか、何をやっているのかとかっ」
 いっぺんに言いたいことを言ったので、息が切れた。ぜえぜえと肩を揺らすつばさに、しかし仁矢はまなざしすらも向けない。
「……へらへら全部聞いちまってからじゃ遅いから言ってるんだぜ、俺は」
 どこか独り言のような口調で、そう呟いた。
「で、でもっ、だからってっ――」
「だからも何もねえ。『茜桟敷』に入ろうなんて、茜音のやつにどう誘われようが間違っても思うんじゃねえぜ」

『……その心配は無用じゃな、少年よ』

 楔でも打ち込むように、声は唐突に部屋の中に響いた。
「「――――!!」」
 つばさと仁矢、ふたりの視線が驚愕をはらんで部屋の一点に集まる。
 聞き違うはずもない。この声は。低くしわがれたこの声は――
 だが、老人を埋めた棚と教材の山はぴくりたりとも動く気配を見せない。わずかに覗くのは、纏っていた黒衣の端のみ。あんな状態で普通に口をきくなどということが、果たして可能なのだろうか。
『お嬢ちゃんは茜桟敷には入らんよ。その身をもらい受けるのは、わしらなのじゃからのう』
 くくく――というあの乾いた笑いが、言葉の後に続いた。間違いなく、それは老人を下敷きにした棚の陰から聞こえてくるものだ。
「あ――赤城くんっ」
「――下がってろ」
 低く鋭い声でつばさを制すると、仁矢は倒れた備品の山にすたすたと歩み寄る。
「危ないよ赤城くんっ! まだ、蛇とかいるのかも――」
 思わず発した警告の言葉は、がしゃんっ!! という派手な音にかき消された。
 電話ボックスほどもあろうかというスチール棚が軽々と宙に舞い、周りの棚や教材に甚大な被害を撒き散らしながら離れた床に転がる。仁矢が無造作に蹴とばしたのだということが、一瞬遅れて判った。
 荒っぽさもさることながら、とんでもないキック力だ。だがそんなことに目を丸くしている暇は、つばさにはなかった。なぜなら――
 蹴り退けられた棚の下には、さらなる驚きが隠されていたからだ。
「――――!」
 仁矢の背中越しに、つばさはその光景を見た。にわかには信じがたい、その眺めを。
 無数の蛇が群れていたわけではない。ましてや、老人が歪んだ笑みを浮かべて立っていたわけでもない。
 何も――無かったのだ。
 下敷きになって気を失っているはずの老人の姿も、そこには見受けられなかった。ただあの黒い衣だけが、捨てられた風呂敷のように床に広がっているばかり。
「な――なにこれっ? どうしちゃったのっ?」
 思わず声を上げながら、つばさは仁矢の隣にとてとてと歩み寄った。思わず覗き込んだその横顔は、訝しげな表情を浮かべたまま固まっている。仁矢にとってもやはり、怪老人の消失は予想外の出来事なのだ。
『おやおや――そんな顔をするということは、あれで終わりだと思われておったわけじゃな。それはさすがに、ちと心外というものじゃて』
 立ちつくすつばさたちの耳に、再びあのしわがれた声が響く。言葉とはうらはらに、淀みない上機嫌な口調で。
 信じられないことに、その声は抜殻よろしく打ち捨てられた黒衣の下から聞こえてくるのだ。
「この下っ――この下で喋ってるよぅ赤城くんっ!」
 つばさの言葉が終わる前に、仁矢は床の黒衣を片足で払いのけていた。
 その下にあったのは、手のひらに収まるくらいのサイズの機械だった。つばさの叔父が愛用している小型ラジオから、スピーカー部分だけを切り離してきたような。
『……お嬢ちゃんを連れて帰れなかったのは残念じゃったが、今日はご挨拶までというやつじゃ。茜桟敷の顔ぶれと力、しかと見届けさせてもろうたよ』
 その機械が、老人の声を紡ぎ出す。
 つばさにはもう、何がどうなっているのか見当すらもつかなかった。倒れた棚の下敷きになっていたはずの老人は忽然と姿を消し、いつのまにかこんな機械を通じて喋っている。
 駒形座の見世物でも、『人間消失』のマジックを題目に加えることはあった。けれどもあれは舞台の下に穴を作っておくとか、あらかじめの大掛かりな用意が必要なのだ。仁矢と自分、二人に人間の見ている前でタネも仕掛もなく煙のようにいなくなるなんて、そんなこと絶対にできっこない。
『おやおや、驚いておるだけで良いのかな?』
 からかうような口調が、スピーカーの向こうから聞こえてきた。
『ふたりとも、階段を降りて下へいってみるといい。面白いものが見られるはずじゃよ。
 駒形つばさちゃんや――「茜桟敷」に入るか、それともわしの元に来てくれるか。決めるのは、わしの見世物を見てくれてからでも遅くはないと思うがの。ただ――』
 老人の声に名を呼ばれ、つばさは心細くなって仁矢のほうを見やった。だが彼は、刺すようなまなざしで床の機械を睨みすえるばかりだ。
『わしからひとつだけ忠告をさせてもらえるならば――友達というものは、大切にするものじゃよ、お嬢ちゃん』
 ――な……何を、言ってるんだろ?
 わからない。わからないけれど――すごく、嫌な感じがした。胸の奥のどこかを、ぎゅっと手づかみにされたような。
 老人の言葉はそこで途絶え、再びあの押し殺した嗤いが後に続いた。
『くく――くははは――ははは――は――は――』
 嗤いは哄笑に変わり、歪みながら遠ざかってゆく。まるで、ラジオのチューニングを少しずつずらしていったように。
 ほどなくして、スピーカーから聞こえてくるのは耳障りな雑音のみとなった。
「――赤城くん――」
 不安に耐えかねてつばさが声を洩らしたのと、ほとんど同時だった。仁矢がゆっくりと、老人が残した機械の上に片足を乗せたのは。
 床が砕けるのではないかという勢いで、そのまま彼は足を踏み降ろす。
 怒りにまかせて蹴り潰したのだと思ったのは、しかしつばさの錯覚だった。仁矢の片足は、機械のすぐ横の床を踏みしめていたのだ。
 ふうううう――という獣の唸りにも似た吐息を洩らして、仁矢は数秒だけ目を閉じる。殺気が彼の中で膨れあがりそして散じるさまが、側らのつばさにもはっきりと判った。
「……駒形、だったな」
 平淡な、平淡なのに背筋が寒くなるような声で、仁矢は口を開く。
「下へ行く。ついて来い」
「う――うんっ」
 嫌だなどと言うつもりはもちろんない。もちろんないが――もし言ったりしたら、それこそただではすまない気がした。


 浅草東中学を代表する健康優良児のつばさだが、入学してすぐに一度だけ風邪で早退をしたことがある。銭湯帰りの湯ざめを、翌日に持ち越してしまったのだ。
 教室からの帰途――あの時は、見慣れたはずの廊下や校内の敷地がやけによそよそしい、いつもとはどこか異なる空間に思えたものだった。まるで、入ってはならない場所に足を踏みいれてしまったかのような。
 いま仁矢の背中を追って駆け降りる階段も、それに似た雰囲気を帯びていた。
 窓から陽は射し込んでいるのに、柔らかさというものがまるで感じられない。周囲の空気が、自分に敵意を向けているようにすら思える。
 どうしてこんなことになっちゃったんだろう?
 今さら詮無い問いを、それでも胸の中で呟かずにはいられなかった。
 昨日の今頃――つばさは駒形座の舞台の上で、午前中の演目をこなしていた。あのときはまだ確かに自分の周りにあったはずの『日常』はたった一日の間にひび割れ、音を立てて崩れ落ちてしまったのだ。
 今の休み時間にしても、本当ならば千絵たちクラスの友達と雑談でもしているはずなのに。
 友達と――
 友達――
 友達というのは、大切にするものじゃよ、お嬢ちゃん。
 先ほどスピーカーから聞こえた老人の言葉が、ふいにつばさの思考に割り込んだ。
 ぞわり、と、背中のあたりをうそ寒い何かが滑り落ちる。何だろう。何を言っていたのだろう。何でこんなに、嫌な感じがするのだろう。
 心の中で首をかしげたその時、どんっ! という衝撃がつばさの上半身を襲った。
 何のことはない。前をゆく仁矢が急に止まったので、背中に顔をぶつけてしまったのだ。
 一両日の間に、これで二度目の激突である。
「いた――いたたたたっ」
 鼻をおさえてうずくまりかけ――しかしつばさは、そこでぴくりと動きを止めた。
 見えたのだ。仁矢の背中越しに、階段の踊り場が。
 若槻 京一郎が、佇んでこちらを見上げている。瞳を隠す前髪のおかげで相変わらず表情はうかがえないが、口元に浮かんでいたあの陽気な笑みはいまは見られない。
「――やられたよ、仁矢くん」
 短くそう呟いて、彼は頭を横に振った。
「あの笛さえ封じればこっちのものだと思ってたけど――甘かったみたいだ」
「……逃げやがったぜ、あのじじい」
 仁矢が静かな声で言い捨てる。
「どこをどうやったのか、服と妙な通信機だけ残してドロンだ」
「――そうか」
 頷くと、京一郎は短い溜息を洩らした。
「撤退のタイミングもやけに早いし、決着もやけにあっさりついたとは思ったんだ。シナリオを書いていたのは、どうやら僕じゃなくて向こうだったみたいだね」
 だが、そんなふたりのやりとりはまるで虚ろな風のように耳を抜けていく。つばさのまなざしは、そして意識は、京一郎の側らに釘づけになっていたのだ。
 蒼ざめた顔――泣き出しそうになるのを堪えているような張り詰めた表情を浮かべて、廊下にしゃがみ込んだ睦。
 その膝に頭を乗せるようにして、ひとりの少女が廊下の床に身を横たえている。
 顔を向う側に向けているので、ここから見えるのは後頭部とうなじだけだ。けれども、間違えるはずがない。見慣れたその姿を。ポニーテールのその後ろ髪を。
 わからなかった。どうして彼女がこんなところに倒れているのか。ついさっきまで、教室でいっしょに授業を受けていたはずなのに。
 彼女は動かない。睦の膝を枕にしたまま、ぴくりとも動こうとはしない。
 名を呼ぼうとして、つばさは口を開きかけた。奥歯ががちがちと微かな音をたてる。
 思った通りの声が出なかった。ただ、空気が抜けたような掠れた呟きだけが、まるで別の誰かの声のように唇から洩れ出でた。
「……ちえ、ちゃん?」
 彼女は――橘 千絵は、応えない。
 その半身を抱いていた睦が、微かに顔を上げてつばさを見た。
「……知ってる、子なの……?」
 震える声で発された、彼女の問い。ちょうど、その語尾を打ち消すように――
「お前らぁっ!! そこで何をしているっ!!!」
 怒りの気配もあらわな胴間声が、唐突に階段の空気を震わせた。
 辺りに響く、サンダル履きの荒々しい足音。
 顔を真っ赤に紅潮させた森田教諭が、険しい目でこちらを睨み据えながら階段を上ってくるところだった。


次回、第十六幕――『催眠術』に続く




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