誰もが、身じろぎひとつすらしようとはしなかった。まるで、重苦しく絶望的なこの場の空気にすべての動きを絡めとられてしまったかのように。 凍りついた空間に、森田教諭のいらだたしげな足音だけが響く。むろんのこと、彼の登場は事態を何ら好転させるものではなく――むしろ、窮地が二重になっただけのことだった。 ポニーテールの少女の頭を膝に乗せたまま、睦は京一郎たちの顔を見上げた。奇術の『力』もものを見るのみで、さりとて他人とのやり取りに秀でているわけでもない自分が心底情けなくなる。この場は、京一郎に任せるほかはない。 倒れた下級生にまなざしを戻し、頬にそっと手を触れてみる。 温かい。それに、苦しげに引き結ばれた唇も浅い呼吸を紡いではいる。だが――ほっと安堵の息をつけるような状況とは言いがたかった。 ただ単に気を失っているようには、とても見えない。《蛇使い》が、何らかの術を施したことは間違いないのだ。おそらくは、河川の事件での高校生たちを昏睡せしめている施術と同様のものを。 いかなる術なのか。どうすればこの少女の意識を戻すことができるのか。どうすれば彼女を救うことができるのか。 せめて、それを「見る」ことさえできたなら。力の発動をただ待つだけではなく、自分の意志で『千里眼』を使うことができたなら――こんなとき、もう少しでもひとの力になれるのに。 睦は、祈るように瞳を閉じた。されど、瞼の裏に映るのはただ闇ばかり。 と――その瞬間だった。 何かが、突き飛ばすように睦の肩を押しのけたのは。 「……あっ」 軽い力だったが、考えに沈んでいたので不意をつかれた。睦はバランスを崩して、後ろの床にぺたんと尻餅をついてしまう。 睦を押しのけたのは、目の前の少女――駒形 つばさだった。睦が抱いていた少女の半身を半ばひったくるように奪うと、彼女はゆさゆさとその肩を揺さぶる。 「千絵ちゃん――」 もちろん少女は応えない。ただ、ポニーテールの髪が空しく左右に揺れるだけだ。 「ねえ――千絵ちゃんてばっ」 つばさの瞳には、抱きかかえた少女のほかは何も映ってはいない。階段を上ってくる森田の姿にも気付いてはいない様子だ。 そんなつばさにかけてやれる言葉もないまま、睦は悄然と立ち上がっる。もはや今この場で、彼女にできることは何も残されてはいなかった。 「なんだ、これは――」 怒気をはらんだ声にふと目を向けると、いつの間にか顔を紅潮させた森田が目の前に立っている。震える背広の肩が、噴火直前の火山のように見えた。 「どういうことだ、説明しろお前らっ!」 頭の上で、だれかが怒鳴っているのが聞こえる。だがその声は音としてつばさの耳に入っても、言葉として頭に届くことはなかった。 「ほら、こんなところで寝ころんだら制服汚れちゃうよ? ねえ、千絵ちゃんってばっ。次の時間音楽だしさ。早く音楽室いかなくっちゃ」 いつもよりもずっとか細く見える千絵の肩を、つばさはがくがくと揺さぶった。つとめて明るい声で普段通りの言葉をかけたのは、彼女をちょっとでも日常の側に引き戻そうと思ったからかもしれない。 だが、千絵の頭は力なく揺れるばかりだ。 座りが悪くなった首が後ろにのけぞり、痛々しいくらい無防備な彼女の喉が見えた。死んで浮かんだ魚の腹を想わせるその生白さが、つばさの背中に不吉な悪寒をもたらす。 「ほらほら、千絵ちゃんってば。ふざけるのもいいかげんにしようよ〜」 彼女の頬を指でつまんで、むにゅっと引っ張ってみる。普段ならば『馬鹿っ。何すんのよこの子はっ!』の声とともに必殺の裏拳が飛んでくるところだ。 それでも――何も、反応はなかった。 「――――」 ゆっくりと。 重く冷たい塊が、ずっしり全身にのしかかってくる。鳩尾(みぞおち)のあたりが、きゅうっと締め上げられるように痛くなった。 悪い冗談などではない。この状況は、何かの悪い冗談などではないのだ。 鉛の振り子でもぶら下がったかのように、心臓が鈍く脈打つ。 わからない。どうしたらいいのかわからない。千絵の頭を膝の上に乗せたまま、つばさの思考は停止していた。心の中では無数の歯車が目まぐるしく動いているのに、それがまったくひとつに噛みあってくれない。 混乱の霞で真っ白になった脳裏に、ふと、黒衣の老人の声が甦った。 ――友達は、大切にするものじゃよ。 あの言葉を耳にしたときに感じた、言いようのない不安と嫌悪――心の中にうっすらとわだかまっていた暗雲は、いまやはっきり輪郭を結んでいる。 つばさは、悟らねばならなかった。 何事もない平穏な日常の中へと唐突に侵入してきた、形も知れぬ影。その影が自分だけではなく、友人である千絵の身までをも絡めとってしまったのだということを。 「ちえ――ちゃん――」 いま一度彼女の名を呼んだその声は、惨めなほどに震えていた。 「まぁたお前か、赤城っ!!」 一同の顔を見回して、森田が最初に発した言葉がそれだった。 誰に状況を訊ねるでもなく、自分の目で詳しく確かめるでもなく――彼にとって騒ぎの場に仁矢の姿があることは、騒ぎの原因が仁矢にあることとイコールで結ばれるらしかった。 「お前ってやつは――橘に何をしたんだ? あ?」 粘りつくような森田の問いと視線に、仁矢は応えない。 やれやれ、またこれかよ――そうとでも言いたげにまなざしを逸らして、軽く肩をすくめてみせただけだ。 「――赤城っ!!」 「あ――赤城くんじゃありません、先生っ」 激昂した森田とは比べものにならないくらいちいさな声で、それでも何とか睦は口を挟んだ。 「あん?」 腫れぼったい森田の眼が、ぎょろりと睦に向けられる。まるで、彼女がこの場にいることに今初めて気付いたかのように。 「……二年の香春か」 彼の声には、明らかな不快感がうかがえた。仁矢の『尋問』を途中で妨げられたことへの不快感が。 「なら、何があったのか説明してくれんか? その口ぶりからすると、お前、橘に何があったのか見ていたわけだわな。というかそもそも、お前らこんな時間にこんな場所に寄り集まって一体何をやっていたんだ? え?」 「――あとでお話しします。そんなことより、橘さん――ですよね? はやく保健室に運んであげないと――」 半分はこの場しのぎの詭弁だったが、もう半分はそうではなかった。昏倒して床に横たわる少女と、その少女をかき抱いたまま途方にくれる駒形 つばさ。その頭の上で、こんな悠長な問答をしていていいはずがない。 睦の言葉に、森田は一瞬だけ鼻白んだ様子を見せた。だがすぐに元通り唇を歪めると、ふん――と短く鼻を鳴らす。 「それもそうだ。……だがなあ香春、何があったのかぐらい知っておかんと、俺も対処のしようがないんだ。赤城じゃないと言うんなら、何があって橘がこんなことになったのか教えてほしいもんだな」 「――――」 睦が絶句したのは、返答に詰まったからではない。森田の言動がこの場に――倒れた生徒が足元にいるというこの場に、あまりにもそぐわないものだったからだ。 「どうした?」 脂の浮いたその顔に、勝ち誇ったような表情が透いて見えた。 「お前に赤城、橘に駒形、それに……二年四組の若槻か。お前ら、揃いも揃って悪さでもはたらいてたんじゃあるまいな」 「……たいがいにしとけよ、この馬鹿教師が」 不意に、ぼそりと低い呟きが森田の饒舌に楔を打ち込んだ。 「あん?――何か言ったか、赤城」 険悪な光を帯びて、森田の目が声の主――仁矢に向けられる。 だが、仁矢は応えない。応えない代わりに、ゆっくりと森田のほうに一歩を踏み出した。 表情はあくまでも静かだ。森田を見やるまなざしも、路傍の紙屑を見るそれに等しい。だが、こういう顔をしているときの彼が実は一番危険なことを、睦はよく知っていた。 「――じ、仁矢くんっ」 「な、何だ赤城っ、何のつもりだっ」 睦の制止も、滑稽なまでに動揺した森田の声も、仁矢の動きを縫いとめることはできない。彼はもう一歩森田との距離を詰めると、ポケットに突っ込んでいた両手を引き抜く。 だが、ちょうどその時だった。それまで黙って腕を組んでいた京一郎が、仁矢と森田の間にひょいと割って入ったのは。 「ほらほら仁矢くん、抑えて抑えて」 場の空気がはらんだ緊張を完全に無視した声で言うと、彼は大きく両手を広げてみせた。 「ここで悶着を起こしても、あとで君が損をするだけだからね。ここはひとつ、邪魔者さんには速やかにご退場願おうよ。穏便にね」 どうして、なんだろう。 動かない千絵の身体を抱きかかえたまま、つばさはぽつりと胸の中で呟いた。 どうして千絵ちゃんが、こんな目にあわなくてはならないのだろう。あのおじいさんが狙っていたのはあたしなのに。あたしだけのはずなのに。 ――あたしの、友達だから? こんなへんてこな『力』を持った自分の友人だから。だから千絵ちゃんは、こんなひどい目にあわなければならなかったのだろうか。彼女は何も知らないのに。『力』のことなんて、何も知りはしないのに。何も関係ないのに。 千絵の背中に回した腕が、細かに震えている。 『力』を抱えたままで過ごしていくのが、ずっとずっと不安だった。何が不安だったのか、目の前につきつけられてみると嫌というほどよくわかる。 こうなるのが、恐かったのだ。常人離れした自分のこの『力』が周りのひとたちに、自分が大切にしているひとたちに害を及ぼしてしまう日がやってくるのが。 そう、あのときのように。良かれと思って使った『力』が母と祖母の心に深い傷を刻んでしまった、五年前のあのときのように。 だから。 ――だから、こんなにがんばってきたのにな―― 誰かに打ち明けたくても、叔父さんの一家や、親しい友達だけにでも『力』のことを知っていてほしいと思っても、自分の中だけにすべてを封じ込めてきた。秘密を分け合ってしまうことは、負担も、危険も分け与えてしまうことなのだと知っていたから。これからだって、すべてを封じ込めたまま暮らしていくつもりだった。ひとりの普通の女の子として、誰にも迷惑がかからないように。 でも、そんなのはやっぱり無理だった。あたしがぶきっちょにこさえてきた張りぼてはたった一日で、どこからともなく伸びてきた手にはがされてしまったのだ。茜音と、謎の老人と、そして茜桟敷の面々。彼らに出会ってしまったことによって、なんとか繕ってきた日常は見る影もなく失われてしまったのだ。 ――彼ラト、出会ッテシマッタカラ―― 心の奥底に、ふと、暗く呟く声が聞こえた。 わかってる。こんなふうに考えてはいけないのだということは。でも。 あたしが彼らに出会わなければ。あたしの暮らしの中に彼らが姿をあらわさなかったら。 千絵ちゃんは、こんな目にあわないですんだはずだったのだ。 どうして誰も、ほうっておいてくれないのだろう。 あたしは『力』なんて要らないのに。自分を切り離せるのならこんな『力』、いつだって誰にだって喜んで渡してあげるのに。 頭の上でがやがやと喋る声が、どこか遠く聞こえる。その声からかばうように、つばさは動かなくなった千絵の身体をぎゅうっと抱きしめた。 もう一度名前を呼ぼうとしたが、喉の奥が震えて声が出ない。その代わりに、瞳の奥にじんわりと涙がこみ上げてくる。 触らないで。 千絵の制服の襟元に、つばさは顔をうずめた。 何も見たくないし、何も聞きたくなかった。 触らないで。もういいから、誰もあたしと千絵ちゃんに触らないでよ―― おそらくは、京一郎の声があまりにもあっけらかんとしたものだったからだろう。最初の数秒間、森田は『邪魔者』という単語が自分を指していることにまったく気がついていない様子だった。 外国語で話しかけられでもしたかのようにぽかんと緩んだ彼の顔は、しかしまたたくまに赤黒く染まっていく。 「わ――若槻っ!」 図書委員長を勤める普段は優等生の京一郎から、よもやこんな言葉を投げかけられるとは思ってもいなかったに違いない。彼の声は、怒りというよりも驚きにわなわなと震えていた。 「教師に向かってその口のききかたは何だ!」 「いやいや――」 それとはうらはらの平然とした態度で、京一郎はくるりと森田のほうに向きなおる。 「立場的に先生、というだけで敬意をはらわなくっちゃいけないいわれはないですからねえ。僕のほうには」 「な――何だと――もう一度言ってみろっ!」 今にも掴みかからんばかりに激高する森田。分厚い唇から言葉とともに飛ぶ唾を首をすくめて避けると、京一郎は彼の目の前にすっ――とひとさし指をかざしてみせた。 「――お静かに、先生。子供じゃないんですから」 言葉とは相反した、それこそ小さな子供にでも聞かせるような口調で京一郎は言う。 森田の目の前に立てた指を、彼はゆっくりと左右に揺らめかせた。そう、まるで風に靡く蝋燭の焔のように。 その――刹那だった。怒りに歪んでいた森田の顔に、劇的な異変が生じたのは。 睨み殺さんばかりに京一郎に向けられていたまなざしがとろんと濁り、いまにも次の怒声を発さんとしていた口がだらしなく半開きになる。あたかも、顔面の全ての筋肉が一瞬にして力を失ってしまったかのようだった。 「さっき睦さんが言った通り、誰のせいかなんてことよりまずは倒れている生徒のことを考えなくっちゃいけませんよねえ、この場合先生としては。 それも忘れて怒鳴ってるだけなら、失礼ですけれど邪魔以外の何者でもないってもんです」 軽い口ぶりの中に痛烈な刺を込めて、京一郎は言葉を続ける。 だが森田は、もはや怒りの色を見せはしない。いまにもそのまま眠りこけてしまいそうな張りを欠いた表情で、語られる声にじっと聞きいるばかりだ。 京一郎はここで、いったん唇を噤んだ。 瞳を隠す前髪のため、相変わらずその表情はうかがえない。だがその瞬間、彼が帯びる気配はすうっ……と変化したかのように思われた。普段の飄々とした雰囲気から、涼しげに張りつめた雰囲気へと。 「……いまから僕の言うことを、よく聞いてください」 一段トーンを落とした声で、彼は静かに口を開いた。 「先生は教材室にご用があってこの階段を通り、ここに倒れている――橘さんですね、――彼女を見つけました。驚いた先生はひとまず偶然そばにいた僕らを呼び集めて彼女の介抱を任せ、ご自分はこれから急いで保健室に向かわれるところです。 よろしいですね?」 冷静に聞いてれば、彼の言葉はこのうえなく奇妙なものに違いなかった。だがそれでも、森田は訝しげな表情ひとつ見せはしない。そればかりか、京一郎の確認にこっくりと首を振りさえしたではないか。 「結構です。では――」 京一郎はちいさく頷くと、かざした指を森田の目の前に近づけ、そして―― ぱちんっ。 指を鳴らす音が、かすかな尾をひいて踊り場に響きわたる。 それが、合図だった。 あいもかわらぬとろんとした表情のまま、森田はゆっくりと京一郎たちに背を向ける。まるで上から見えない糸ででも吊られているかのような緩慢な動きで、一歩、また一歩と階段を下ってゆく。 その姿が階下の廊下を曲がって見えなくなったとき、京一郎は唇から長い吐息を洩らした。 「……《催眠術》か」 沈黙を破ったのは、仁矢の呟きだった。 「ひさびさだな、目の前で見たのは」 「あんまりほいほいと使いたい『力』じゃないからね。特に、ふつうの人に対しては」 京一郎は向き直って、大仰に肩をすくめてみせる。 「森田先生くらいなら、これなしでも何とか切り抜けられなくはなかったけど――」 言いさしたその唇が、ほんのかすかに歪む。いつもの陽気な微笑みとは異なる、自嘲の形に。 ――……僕としたことが、とんだ八つ当たりだ。 聞こえるか聞こえないかの声で、彼は溜息混じりに呟いた。 彼のその言葉を最後に、踊り場にはまた沈黙の帳がおりる。京一郎と、仁矢と睦。三人の視線が足元に集まった。ポニーテールの少女を抱きすくめたまま、先ほどから彫像のように動きを凍てつかせた駒形つばさへと。 倒れた友人の胸に顔を埋め――つばさの肩は、小刻みに震えていた。何かが彼女の中で張り詰め、今にも弾けそうになっているのが誰の目にも明らかに見てとれた。 「駒形さん――」 睦がかけた声にも、彼女は気付いた様子がない。ちいさなその背中は、この世界のどんな音をも固く拒絶しているかのようだった。 眉をひそめて一瞬動きを停め、それでも睦はつばさの肩にそっと手をかける。 「……立てるかな。すぐに橘さん、保健室に運んであげられるからね」 「――ゃぁっ――」 掠れた声とともに、つばさの背中がびくんっ――と震える。癇癪を起こした子供のように首を振って、彼女は睦の手を払いのけた。 「駒形さん……」 言いさして、睦は言葉を失う。 ぐしゃぐしゃに濡れた顔をあげ、つばさは睦たちを見すえた。おそらく彼女自身もどこへ向ければよいのか解ってはいないであろう感情の塊が、涙でいっぱいになった瞳の中に激しく揺らめいていた。 「もぉ――やだ――」 二度三度としゃくりあげながら、つばさはぶんぶんと首を横に振る。 「もぉやだよぉっ!! なんで――なんでこんなことになっちゃうのっ!? 元に戻してっ。千絵ちゃんを、今すぐ元に戻してよっ――」 そこから先は、もう言葉にならない。動かぬままの友人の胸にいま一度顔を埋めて、つばさはただ、肺の中の空気を根こそぎ絞り出すかのように泣き続けた。 睦も、仁矢も、京一郎も口を開きはしない。さながらそれは、悲痛な泣き声だけをバックにした無言劇だ。 次の授業の始まりを告げるチャイムの音がどこか遠くで、やけに虚ろに響き渡った。 第十七幕へ進む 序幕へ戻る 入口へ |