蒼い薄闇が、空間を支配していた。 比喩ではない。 小型の劇場とおぼしき、縦長の部屋。その部屋を構成する全ての要素は、サファイアを思わせる色濃い藍色に統一されているのだ。天井、床、舞台、客席に並んだ椅子。それに、四方の壁にかけられた天鵞絨(びろうど)の幕さえも。 江戸川乱歩の作品に、『赤い部屋』という短編がある。それになぞらえるならば、ここは『蒼い部屋』とでも呼び称すべきだろうか。 客席にも舞台にも、人の気配はない。ただ、天井から吊り下がった洋燈だけが、蒼い空間をぼんやりと浮かびあがらせているばかりだ。 と―― 「……困ったものね、《蛇使い》さんにも」 永遠に続くかと思われたその静寂を破って、不意に、溜息混じりの呟きが響いた。 まだ幼い、少女の声だ。 言葉とはうらはらに、その口調にさほど困惑の色はない。苦笑してひょいと肩をすくめるような――そんな気配が感じられる。 いったいどこから聞こえてくるのだろう、この少女の声は。部屋の中には舞台にも客席にも、依然として人の姿は見えないというのに。 辺りにはただ、蒼一色の薄闇が満ち満ちているばかり。 いや待て―― あれは何であろうか。 舞台の奥。藍色の後幕の高い位置に、ちいさな白いものが茫と浮かんでいる。そう、あたかも蒼い宵空にかかる月のように。 仮面、だった。 白磁で造られたと思しき、精巧な少女の仮面。 すらりと通った鼻筋に、謎めいた微笑を湛える唇。二重瞼の切れ長な双眸。眼の色はこの部屋と同じ、深く澄みわたった暗蒼色だ。 その瞳が――客席を見回すように、動いた。 「あれだけ大騒ぎして、結局女の子一人さらってこられないのはちょっと減点ね。もう少しだけ、スマートなやり方というものができないものかしら」 ああ、これはいかなる機巧(からくり)か。淀みなきその声を紡ぎだしたのは、紛れもなく仮面の少女の唇だ。 『彼女』は言葉を終えると、再び口元に笑みを刻む。冷ややかな柔らかさ。そうとしか形容しようのない雰囲気を帯びた、不可思議な微苦笑を。 「……あの者にそれを求めるのは、いささか酷というものでしょうな」 いまひとつの声が部屋の中に響いたのは、その時のことだ。仮面少女の澄んだまなざしが、言葉の主を探る。 客席の後方中央。ひとつしかないこの部屋の戸口を潜り、人影がゆっくりと部屋の中に歩み入ってくるところだった。 風貌も、そして年齢も定かではない。部屋の暗さのみがゆえではなく――その影はまるで絵本の中の魔術師のごとく、頭巾のついた長衣を身に纏っていたからだ。この部屋の色彩と同じ、暗い藍色の衣を。 人影は客席の最前列まで歩み進むと恭しく頭を下げ、舞台の上方に掛かる少女の面を見上げた。 「――ご機嫌うるわしゅう。ただいまお側に参りました」 「……戻っていたのね、《幻燈師(げんとうし)》さん」 仮面少女の涼しげなまなざしが、長衣の影に向けられる。その瞳の光、表情の動き、とうてい機巧で動く造りものとは思えない。仮面が掛かっているというよりも、生ける少女の顔だけが壁から生えているかのようだった。 「いよいよ本格的に幕が上がると聞き及んだものでしてな。いつまでもこの都市を空けているわけにもいきますまい」 「良い心がけだわ。遠くに散っている奇術師さんたちのなかでは、貴方がいちばん早かったもの」 「お褒めにあずかりまして、光栄です。ですが――いささか後悔していますよ。もう少しばかり帰りの脚を早めるべきでした」 《幻燈師》――そう呼ばれた影が、低く澄んだ声で応えた。 慇懃な口調の中に潜んだ、ひとかけらの刺。それに気付いてか、少女の貌は軽い苦笑を浮かべる。 「不満がありそうね、《幻燈師》さん」 「……件の娘への使者に、《蛇使い》を送ったと聞き及びましてな」 問いの答えは、即座に返された。 「東京に戻っていたのが、ちょうど彼だったのですもの。いけなかったかしら」 こともなげに微笑む『少女』に、《幻燈師》はゆっくりと、大きくかぶりを振ってみせる。フードの影から、長い溜息が洩れた。 「適材であったと――そうお思いですか? 状況は見せていただきましたよ。説得はおろか拉致にも失敗。茜桟敷に対しても醜態を晒し、さきの隅田川の一件では無用に世を騒がせているようですな」 「隅田川の事件に関しては、ご褒美の前払いで私が許可したの。痕跡を残さない限り、世を騒がせるのも私たちのお仕事の一環のはずだわ」 稚い声と、それに見合わぬ大人びた口調で少女の面は言葉を続けた。 「それに、《軽業》の女の子のお友達をひとり、事実上の人質にとった形ですもの。いくら《蛇使い》さんでも、ここからどういう方法をとったらいいかくらいはわかってるはずよ。もう少し待っていれば、うまくいくのではないかしら」 「真にそう思っておいでなら――しばらくお会いしない間に、随分と楽天家になられたものです」 《幻燈師》は、大きく肩を竦めてみせた。咎めるようなそのもの言いにもしかし、少女の仮面は微笑を崩さない。 「楽天家なのはもとからよ。《幻燈師》さん、貴方こそもうすこし良いほうに物事を考えたほうがいいわ。 それに――《蛇使い》さんは仮にも同志なんですからね。もうちょっと信頼してあげたらどうかしら?」 「あの者の『奇術』の能力は買っているつもりですがね。だがあの者自身は――まるで銘刀を握らせた幼子です。 ……私は、歯がゆいのですよ。かような力を持ちながら、それを有効に使わないあの者の手法が。私が同種の力を持っていたならば、とりうる手はいくらでもあるものを」 「彼の『力』は、彼だけのものですもの」 嘆息の混じった《幻燈師》の言葉に、少女はあくまでもあどけない口調で応える。 「あのような身体になることで初めて手に入れた、ね。お望みなら《幻燈師》さん、あなたにも同じ能力をあげましょうか? 《蛇使い》さんに禁断の奇術を施して『力』を与えたのは、ほかならぬこのわたしですもの」 すうっ……と藍色の瞳を細め、彼女は微笑む。悪戯っぽいと表現するにはあまりにも冷たい色を宿した、それは笑いだった。 「――言葉が過ぎました。お許しを」 あくまでも慇懃に、それでも《幻燈師》は深々と頭を下げる。 仮面の少女はちいさく、苦笑混じりの吐息をついた。 「貴方の言うこともわからないでもないわ。ついかばってしまったけれど、《蛇使い》さんのやり方が手緩いのは間違いないもの。 でもまあ、ゲームが始まってわたしたちが最初に切る札ですからね。『茜桟敷』の側の手のうちを見るためにも、あまり良いカードを場に出すわけにはいかないのよ」 「……捨て札、というわけですか。あの者が耳にしたらそれこそ気を悪くいたしましょうな」 《幻燈師》は肩を竦めた。言葉とはうらはらに、その口調に《蛇使い》に対する同情の色はかけらほども聞き取れはしない。衣のフードに隠されて顔は見えねど、伝わってくるのはむしろ悪意ある笑みの気配だ。 「ですが、捨てたはずの札がゲームに悪い影響を与えることとてあります。まかり間違って《蛇使い》の本性が衆人の眼にさらされれば、それこそ面倒なことになりましょうな。それに関しては、いかがお考えですか?」 「あら、そんな時にために貴方がいるのではなくて?」 《幻燈師》の問いを問いで返すと、彼女は底の見えない微笑を可憐な顔に浮かべた。 蒼い薄闇に、しばしの沈黙が生じる。それを破ったのは、仮面の少女のほうだ。 「――『座長』に代わって貴方に命じます、《幻燈師》」 その口調も表情も、一瞬のうちに雰囲気を違えていた。あどけない少女のものから、神託を下す巫女のそれへと。 「《蛇使い》による《軽業》の娘の獲得――或いは抹殺の作戦を、気取られぬように監視しなさい。もしもことが失敗に終わるようであれば、その後始末も貴方に一任します」 「喜んで――」 胸元に手をあてて、《幻燈師》は恭しく一礼した。 ジジッ……という微かな音をたてて、天井で洋燈の焔が震える。蒼い空間に伸びた《幻燈師》の影がそれにあわせて、ゆっくりと左右に揺れ蠢いた。 「……楽しみだわ、ねえ《幻燈師》さん」 しばしの沈黙の後に、仮面の唇が陶然たる声を紡ぎ出した。 まなざしが、闇に彷徨う。あたかもその空間に、見えざる遠き幻が映し出されているかのように。 「どれほど待ちこがれたことかしら。また始まるのね、この都市を舞台にした、わたしたちの宴が――」 東京の何処にあるやも判らぬ、蒼い部屋。蒼い闇の中。 少女の声は幕間の口上のごとくに響き、静寂に呑まれていった。 第十八幕へ進む 序幕へ戻る 入口へ |