窓の外で、色付き始めた樹々が朝の風にそよいでいる。 山間の小さな街では、秋の訪れも早い。遊具の並ぶ校庭と、木造の学舎。その向こうにそびえる山々が雪の帽子をかぶるのも、そう遠い日のことではないだろう。 けれども、自分がその光景をこの窓から目にすることはもはやない。引っ越しの用意が整いしだい、つばさは山を二つ越えた先の小学校に転校することになっていた。 窓の下で響くのは、昇降口に向かう生徒達の声。活気に満ちたそのざわめきも、今はどこか遠く聞こえる。 頬杖をついて、つばさはぼんやりと朝の校庭を眺めていた。教室に入ってからもう二十分、身じろぎのひとつすらせずに。 別に、風景が見たいわけではない。 振り返るのが、恐かったのだ。 背中に痛いほど感じる、いくつもの視線。恐れと、かすかな好奇の入り混じったまなざし。それらと正面から向かい合うことが。 ――……喋っちゃダメなんだって、駒形さんと。お兄ちゃんが言ってたの。 背後で響いた囁きに、つばさはびくりと肩を震わせる。尖った針を突き立てられたような痛みが、胸の奥を貫いた。 ――駒形さん、お化けだからって…… ――しっ、聞こえちゃうよ。 別の声が、慌てふためいた口調で言った。 もう聞こえちゃってるよ、と、つばさは背を向けたまま泣きそうな笑いを浮かべる。 声の主もわかっていた。由紀ちゃんと沙耶ちゃんだ。 夏休みが始まる前までは、三人で毎日のように遊んだものだった。入学して以来の友達だったのだ。『駒形さん』なんて、よそよそしい呼びかたをするふたりじゃなかったのに。 全ては、めちゃめちゃに壊れてしまった。あの時から。つばさが生まれて初めて人前で『力』を使ってしまった、夏休みのあの一日から。 お母さんはたぶん、こうならないようにあれほど口をすっぱくしてあたしに言ったのだ。何があっても、外で『力』を使ってはいけません、と。 でも、しょうがなかった。しょうがなかったのだ。急な雨で水かさが増した川の中州に取り残されてしまった、隣の家の俊ちゃん。誰かがロープを運ばなかったら、きっとあのまま溺れてしまっていただろう。 だからつばさは、言いつけを破って『力』を使った。無我夢中で流れを跳び越えて、中州で泣いている俊ちゃんのところまでロープの先を届けたのだ。 けれども――幼なじみの命を助けたつばさに向けられたのは、感謝の言葉でも賞賛のまなざしでもなかった。 ――見たのよ、あたし。駒形さんところのつばさちゃんが、一足であの川を跳び越えるとこ。10メートルはあったかしらねえ。普通の女の子の動きじゃないわよ、あれ。 何か恐ろしいものでも見るかのような、遠巻きの視線。ひそひそ声で語られる噂話。狭い町のどこへ足を運んでも、それはつばさの後を追いかけてきた。 ――佐々木さんのところの坊ちゃんを助けたのは確かに立派なんだけど……何ていうのかしら……何なのかしらね、あの子の脚って。 最初のうちはわずかばかりに混じっていた好意の声も、日を追うに従って畏怖と好奇の囁きの中に埋もれてゆき、そして。 ――駒形さんのおうち、お父さんがいらっしゃらないんですってね。亡くなったとかじゃなくって。やっぱり、ああいう子が生まれたからなのかしら。 二学期が始まってつばさが久しぶりに登校したときには、クラスの空気は一変してしまっていた。 どんなに楽しそうなおしゃべりが行われていても、つばさがその中に入ろうとすると途端に声がとだえ、みんなは輪を崩してどこかに行ってしまうのだ。おどおどした、困ったような笑いを顔にはりつかせたまま。 面と向かって話しかけても、ちゃんとした答えは決して返ってはこない。その代わり、背中を向ければ必ず、あのひそひそ声が耳に届いた。 みんな、あたしのことを恐がっているんだ。できるだけあたしと一緒にいたくないって、喋りたくないって、そんなふうに思っているんだ。 つばさがそう気付くのに、一日とかからなかった。その状況をなんとかしようという努力をつばさがすっかり諦めてしまうのにも、三日とかかりはしなかった。 俊ちゃんを助けたのは間違いじゃなかったと、今でも思う。でも――どこかで何かが間違ってしまったのは確かだった。 教室の窓から外を眺めて、誰とも口をきかずに噂話に耳を塞いで、授業だけを受けて家に帰る。つばさの毎日は、ただそのくり返しになった。 もうすぐ、ひとまずそれは終わる。つばさの様子を見かねてか、それとも自らも近所で囁かれる噂に耐えられなくなってしまったのか――母と祖母が住みなれたこの街からの引っ越しを決めたのは、九月の末のことだった。 知らない街に行ったら、また新しい毎日が待っているのだろうか。それとも、自分にこの『力』がある限り、またいつか同じことを繰り返してしまうのだろうか。 つばさはただ、じっと校庭を見つめる。 すぐ窓の外、樹の枝の上。群からはぐれた鳥が一羽、秋の風に羽を震わせている。 じんわりと視界が曇って――つばさは二度三度とまばたきをした。 滲みかけた涙を、制服の袖口でこしこしと軽く拭う。 まなざしの先、橋の欄干にとまっていた水鳥が羽音を響かせて飛びたった。夕陽を照り返して輝く隅田川の川面を、白い翼がまるで紙飛行機のように滑ってゆく。 ――なんで……あの頃のことなんて思いだしちゃうんだろ。 人と車の行き交う、黄昏刻の吾妻橋。水鳥の姿が上流の鉄橋の向こうへと消えるのを見るともなしに眺めやり、つばさはちいさく溜息をついた。 それよりも、そもそも自分はどうしてこんな夕方の街をうろついているのだろう。もう、家に帰らなくっちゃいけないのに。行くところなんてどこにもないのに。 あのあと―― 旧校舎での、あの悪い夢のような時間の後。 つばさは喚くだけ喚いてから、糸が切れたように気を失ってしまったらしい。 気がついたのは、西陽が色濃く射し込む保健室のベッドの上だ。 誰もいなかった。仁矢も、茜桟敷の上級生ふたりも。それから――もちろん千絵も。 つばさはいつのまにか、吾妻橋のたもとにさしかかった。 ふとまなざしを巡らせると、コンクリートの堤防と、土手の上の公園が見える。 つい昨日のこと、ちょうど24時間前だったのだ。千絵に引っ張られて、あの土手沿いの遊歩道を歩いたのは。 いまや全てが遠い気がした。今見ているのは悪い夢なのか、それとも昨日までの穏やかな毎日こそがいつかはさめる夢だったのか。 千絵が救急車で上野の病院に運ばれたと聞いたのは、つい先程のことだった。 面会謝絶、だそうだ。命の危険はないが目を覚ます気配も見られず、医師たちも様子を見るほかに手の施しようがないという。 ――千絵ちゃん―― もしも面会が許されたとしても、あわせる顔などありはしない。あたしさえいなければ、あたしの友達でさえなければ、千絵ちゃんはあんな目にあわずにすんだのに。 橋のたもとの交差点。信号がちょうど青に変わった。動き出す人の流れの中で、夕空を見上げてつばさは立ち尽くす。 ビルの上に広がる空はつばさの心などおかまいなく、穏やかに澄みわたっていた。 どこか遠くで、烏が鳴く声が聞こえる。 気がつくとつばさの足は、いつのまにかつばさを公園に運んでいた。『力』を抑えきれなくなるたびに訪れては舞いを踊ってきた、いつものあの公園に。 相変わらずこの時刻、不思議なほどに人の気配はなかった。普段ならばほっと胸をなでおろすこの静けさもしかし、今はしみ込むように胸に痛い。この広い夕焼け空の下に、自分一人しか人間がいないような――そんな気がした。 いつものように軽業を舞うような気分になんて、とてもなれない。 疎ましかった。五年前に母と祖母に災いをもたらし――そして今日、千絵を、大切な友人の身を傷つけてしまった『力』が。自分の全てが。 この公園にやってきて人知れず舞いを舞うたび、あたしは心地良さを感じていた。不安を感じながらも、心のどこかに『力』を使うことを楽しみ、夢中になっている自分がいた。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。五年前のことは、ちゃんと胸に刻みつけておいたはずなのに。 木製の古びたベンチにぺたんと座り込んで、つばさはうつむいた。 ――なくなっちゃえばいいのに。 『力』なんて。持っているだけで周りに災難を振りまいていく、こんな『力』なんて。 けれどもそれは過去に幾度か繰り返してきた、繰り返してきたがゆえにかなわぬことと悟った呟きだった。 この力はあたしの中にある。切り離すことなどできやしない。消し去ることなんてできやしないのだ。 あたし自身が、この世からいなくならない限り―― いなくなって、しまおうか、いっそのこと。 そんな声がふと、心の奥深くで囁いた。 つぎにあのおじいさんが自分の目の前に現れたときに、おとなしくそのままさらわれてしまったならば。どこか遠く、知らない場所に連れ去られてしまったならば。あたしの大切な人たちに、あたしの『力』が害を及ぼすことは二度とないだろう。ないだろう、けれど―― ――だめ……なんだよね、それじゃ。 力なく、つばさはかぶりを振った。 もしもあたしがいなくなったら、叔父さんと叔母さんは、きっと悲しんでくれてしまうのだろう。本当のあたしを知らずに――あたしがいつ災難を運んでくるかもしれない厄介者だということを知らずに、五年の間本当の娘のように育ててくれた叔父さんたちは。 『駒形座』のみんなも。クラスの友達も。誰にも迷惑を及ぼさずにひっそりといなくなるなんてことは、到底できっこないのだ。 どうすればいいのだろう。どうすれば。 ――おかあさん―― 胸の奥、記憶の底に眠る母に、つばさは問いかけてみる。うつむいたまま、ぎゅっと目をつぶって。 けれども瞼の裏に浮かぶのは、母の後ろ姿だった。五年前、生まれ育った街を出る頃につばさがよく目にした――見ているだけで胸が締めつけられるような、あのさみしげな背中だった。 消え入りそうなその背中に、つばさは問いを重ねる。五年の間ずっと胸の底にくすぶらせてきた、ひとつの問いを。 ――最初からいなかったほうが、よかったのかなあ、あたし―― 母――駒形 静子は、つばさを責めなかった。 つばさが初めて人前で『力』を使ってしまったあの日も。家族そろって町の中で後ろ指をさされるようになってしまったときも。住みなれた町を離れなければならなくなったときも。涙をこぼすことはあっても、一度もつばさを責めることはなかった。言葉では。 怒ってくれれば、言いつけに背いたことを厳しくとがめてくれれば、どんなに楽だっただろう。どんなに救われただろう。 彼女は寂しげな、疲れの影りが色濃い微笑を浮かべて、つばさの頭をそっと撫でるだけだった。 ――いい? つばさ。今度こそ、人前であの『力』を使ってはだめよ。お母さんとの約束ですからね。 けれどもつばさは、八歳のつばさは幼いながらに感づいていた。感づいてしまっていた。 あの事件を境にして、母と自分との間を柔らかな、しかし決して破ることのできない壁が隔ててしまったことを。 母が自分に向ける、以前と変わらぬ穏やかなまなざし。以前とどこか違う、穏やかなまなざし。 何が変わってしまったのか、あの頃はうまく言葉にできなかった。でも、今ならばわかる。 お母さんは――諦めてしまったのだ。 人とは違った『力』を持って生まれてしまったあたしを連れて、それでも普通の幸せな暮らしを願い求めたお母さん。その望みを、あたしは容赦なく打ち壊した。 あの夏の日以来、お母さんがあたしに向けたのは自分の子供を見るまなざしではなかった。 なんと言い表したらいいのだろう。そう――まるで自分に課せられた運命でも見るかのような、そんな目をしていた。 だから。 あたしも、お母さんと視線を合わせることができなくなった。 秋も深まる十月。引っ越した先の小さな借家。記憶に残るあの頃のお母さんの姿は、夕暮れ刻に窓辺に座り込んでぼんやりと空を見上げる、か細い背中だけだ。 その背中に、幾度も心の中で謝った。そうして、幾度も心の中で訊ねた。 ――ねえ、お母さん。 ――あたし、いなかったほうがよかったのかなあ。 ――いなかったほうが、お母さんもおばあちゃんも幸せだったのかなあ。 本当は、口に出して謝りたかった。口に出して訊ねたかったのだ。けれども西陽の中に消え入りそうな母の背中を前にすると、なぜかいつでも喉がつまって、唇を開くことができなかった。 そのまま、胸の奥を細い紐で締めつけられるようなひと月が過ぎ―― 結局のところつばさは母にごめんなさいを言うことも、心に抱えた問いをぶつけることも、そのまま永遠にできなかった。 もともと身体の弱かった母は何の前触れもなく、まるで一匹の蜻蛉(とんぼ)が飛び立つように世を去っていったのだ。 十一月も半ばに差し掛かった、悲しいほどによく晴れた朝のことだった。 うつむいたまま、つばさは自分の両足を見るともなしに眺めている。 記憶の中の母に投げかけた問いに応えが返されるはずもなく。ただ、胸の中でからからと空回る音がするばかり。 ――か……考えていたってしょうがないよね、こんなことっ―― 笑いを浮かべて、つばさはぶんぶんとかぶりを振った――つもりだった。けれども実際には、力無い笑みとともに微かな溜息が洩れただけだ。 だめだ。これは、いつもの自分じゃない。 気付かないふりをして心の小箱に閉じ込めてきた真っ黒な雲が、蓋を弾き飛ばして胸の奥に膨れあがる。考えは幾度も幾度も同じ場所を巡って――下向きの螺旋のように、ひと回りするたびに前よりもっと重くなっていく。 瞳を閉じて、つばさは制服のスカートの膝をきゅっと握りしめた。 歪みに耐えかねた心がいまにも、ぽきん、と音をたてて折れてしまいそうだ。 暮れゆく公園にはもはや風の音も、烏の鳴く声も聞こえない。 夕闇の色に染められた、このまま永遠に続くかのような静寂。 そのまま時間が続いたら、つばさはほんとうに壊れてしまったかもしれない。月が昇っても夜が更けても、そのまま呆然とベンチに座り込んでいたかもしれない。 ――じゃりっ…… 砂を踏み締める足音が耳に届いたのは、その時だ。 「――――?」 思わずきょとんと瞳を開き――そして、つばさは気付いた。 地面に降ろした自分の足。その足先の辺りに、長く落ちかかった影法師。 その主を求めて正面に向けたまなざしに、いましも燃え落ちようとしている陽の光が飛び込んでくる。 眩さに眉をひそめながらそれでもつばさは、つばさの瞳はとらえていた。 ベンチの正面、錆びついたジャングルジムの側ら。 沈みゆく落日を逆光に背負って、佇むその人影に―― 第十九幕へ進む 序幕へ戻る 入口へ |