〜第二十幕〜 未知への扉







「――へ?」
 呆けたような声を発したまま、つばさはぽかんとその場に立ち尽くしてしまった。
 夕闇が落ちてもなお行き交う人の絶えない、浅草六区映画街の真っただ中だ。幅の広いT字路を挟んで建ち並んでいるのは、どこか古めかしい造りの映画館。すぐ目の前の浅草東映ではアニメ映画を上映中らしく、カラフルで大きな看板が見てとれる。
 それは、常日頃から通い慣れた街路のはずだった。
 はずだったのに――
「何を驚いているんだい? つばさ君」
 そう訊ねながら、茜音が口元に愉快そうな微笑を刻んでいる。
「だ、だって――」
 口ごもりながら、つばさはもう一度きょろきょろと見くらべた。茜音と仁矢の顔。それに、すぐ目の前に広がる光景を。
「茜桟敷って……この中なの?」
 仁矢にそう訊ねてみたが、当然のごとく答えは返ってこなかった。
 公園を出てここまで歩いてくるまでの間、彼はひとことも口を開いてはいない。怒っている――というよりは、何かを考えこんで自分の中から戻ってきていないというふうに、つばさには思えた。
「勿論さ。いまさら寄道をするほど、僕も悠長じゃない」
 宙に浮いた問いを、茜音が引きとる。それがどうかしたのかい? とでも言いたげな、涼しい声で。
 つばさは瞳を閉じて、見慣れたいつもの街路を瞼の裏に浮かべた。それから、二度三度とまばたきをして、記憶の中の通りに目の前の風景をかぶせてみる。
 ひとつだけ、うまく重なりあわないところがあった。それも、自分のすぐ目の前に。
 ――あ……あたしが憶えてないだけなのかなあ……
 心にそう呟いてから、つばさはすぐにちいさくかぶりを振った。違う。そんなはずなんてあるわけない。
「何が違うのかな? つばさ君」
 いつのまにか、声に出ていたのかもしれない。茜音の瞳が、興味深げにつばさの顔を覗きこんだ。
「こ――こんな建物って昨日までなかったもんっ。こんなとこに――」
 そう。ここは確か、映画館と喫茶店がすぐ隣りあわせになっていて。
 こんなもの、ありはしなかった。こんな、煉瓦造りの小さなビルなんて。入口に洋燈を灯した、地下へ降りる細い階段なんて。絶対に、間に挟まってなんかいなかったはずだ。
 茜音は笑みを崩さぬまま、片方の瞳を細めてみせた。
「なら、この建物が昨日から今日の間に造られたように見えるかい?」
「……う……ううん」
 歯切れの悪い返事とともに、つばさは首を横に振った。
 ビルを形作る煉瓦は長年風雨にさらされたことを物語るように白く粉をふき、角が取れ、ところどころに小さなひび割れが見てとれる。両隣にある建物よりも、むしろずっと古くからそこに建っているものとしか思えなかった。
「目に入らないものを存在しないものとしてとらえてしまうというのは、正すべき傾向だね。これから先、そうやって驚いているだけでは済まなくなるよ」
 諭しているともからかっているともつかない口調で、茜音が言葉を続ける。
「僕たち茜桟敷やあの老人にしても、ほんの一昨日までの君にとってはなかったもののはずだろう?
 見るつもりがなければ見えない存在がいくらでもあるのさ、この街には」
「……はぁ」
 そんなことを言われたって納得などできようはずもないのだが、つばさはついつい頷いてしまった。あっけにとられるという言いかたは、こういう時のためにあるのかもしれない。
「失敬。こういう物言いになってしまうのは、僕の悪い癖でね」
 つばさの困惑に気付いてか、茜音の笑みがいくぶん苦笑の色あいを帯びた。
「まあ――そうだね。僕が招いていない人間には見えないように魔法がかかっている、とでも考えてもらえればいいかな、今のところは。
 いずれにせよ、説明は後だ。ことあるごとに戸惑っている暇はないだろう? 君にとっても」
「う――うんっ」
 つばさは頷いて、こくんと唾を飲んだ。
 ――そ、そうだよねっ。もっとしっかりしなくっちゃっ。
 背筋を伸ばし表情を引き締めて、ビルの入口に目を向ける。
 いちいちこんなことで驚いてなんていられない。病院のベッドの上でいつ果てるともなく眠りつづけている千絵を、一秒でもはやく救わなくてはならないのだ。
 ――も――もうなにがあっても驚かないよっ。驚かないんだからっ。
 拳をぐぐっと握り締め、ひとつ大きく息をつく。戸惑いも、それからほんのちょっとの怯えも、肺の中の空気と一緒に吐き出してしまえとばかりに。
 手足をぴんとまっすぐに伸ばして、つばさはビルの入口前まで歩み寄った。覗きこむと、木製の急な階段が下に伸びている。照明は、壁にかけられた小さな洋燈がひとつだけ。オレンジ色の薄闇に呑みこまれて、階下の様子をうかがうことはできない。
 意を決して入口を潜ろうとした、その瞬間。
「……後悔はするなよ」
 背にかけられた低い呟きが、つばさの動きを縫い止めた。
 言葉とは裏腹に、その声には脅しの色も言い捨てるような悪意もない。振り返りはしなくとも、なぜだかつばさには判った。仁矢が、これ以上ないくらい真摯な表情とまなざしとを自分に向けていることが。
「――だいじょぶ」
 仁矢に答えるとも、自分に言い聞かせるともなくそう呟いて、つばさは足を踏みおろした。
 古い木の階段に響いたスニーカーの靴音が、やけにはっきりと耳に届く。
 はじめて舞台に立った日に聞いた開演のベルを、その時つばさは訳もなく思い出していた。


 階段はかなりの急勾配だった。おそらくは数十年をかけてワックスを重ね塗られてきたのだろう。褐色の木地には鈍いつやが生じ、ともすれば足を滑らせてしまいそうだ。
 一歩ごとに足元にあがる軋みを耳にしつつ、おそるおそる階段を下りきる。ほの暗い通路が数メートル続き、その突きあたりに木製のドアが見えた。
 ――『喫茶 茜桟敷』
 扉の中央を切りぬく縦長の曇りガラスには、確かにそう記してある。昨日もらった茜音の名刺のそれと同じ、どことなく古めかしい字体だ。
 心臓の音が、少しだけ早くなったような気がする。
 考えてみれば、『茜桟敷』という言葉を初めて目にしてからまだほんの一日しか経ってはいない。なのにその一日で自分は、いままでの毎日からこんなにも遠く離れてしまったのだ。
 手を伸ばし、握った真鍮のノブはひんやりと冷たい。
 このドアを開けたら。この扉を潜って中に入ったら。今度こそ本当に、平穏な日常というものには別れを告げることになるのかもしれない。
 つばさは、背後の二人をちらりと振り返る。黙したままでじっとこちらを見やる仁矢。その側らで、茜音が先を促すようにちいさく頷いた。
 ――だ、ダメだってば、びくびくしてちゃっ。
 千絵ちゃんを助けるって誓ったのに。さっき誓ったばかりなのに。あたしってば、恥ずかしくなるくらいおっかなびっくりだ。ちょっと油断すると、心細さが鳩尾のあたりを締めつけてくる。
 扉のノブを握り締めると、つばさはぎゅっと目をつぶった。
 おどおどしない。驚かない。恐がらない。呪文のように心に呟きながらノブを回し、扉を押す。きぃ……という細い軋みを耳にしながら、ゆっくりとまなざしをあげた。
 その、刹那だ。
「――――!!」
 たった今胸に呟いたばかりの誓いもむなしく、つばさは驚愕に息を呑んでいた。
 ――なっ、なにこれっ!?
 けれども、これは仕方のないことだ。目の前に広がっていた光景は、つばさのどんな想像をもはるかに超えたものだった。
 思わず二度三度と、まばたきをしてしまう。それでももはや、視界は変わりはしない。
「あ、茜音さ――」
 背後を振り向きつつ発したつばさの声は、途中でかすれて凍りつく。
 茜音の姿は、そこにはなかった。茜音だけではない、仁矢も。そればかりか、たった今歩んできたばかりの通路さえも、幻のように忽然と消え去っていたのだ。
 代わりに、自分の周りをとりまくのは。
 ほんの数秒前まではほの暗い廊下だったはずのその場に広がる、信じがたい光景は――  

第二十一幕『≪東京大魔術計画≫』に続く




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