〜第二十三幕〜 長い夜の幕開け







 黄昏の残滓もとうに西空に溶け消え、ビルに切り取られた夜空にはいつしか銀色の月が架かっている。
 時刻はいま、ちょうど七時半を回ったところ。宵の口の浅草六区から、まだまだ人の往来は絶えない。
 眩い灯りをともして客を呼び込む、寄席や劇場。広い通りに庇(ひさし)をせり出して椅子と卓を並べる、ほとんど屋台に近い店構えの居酒屋。ゲームセンターや映画館といった遊興施設の数々。街路を満たすのは、昼とはまた異なる華やかな活気だ。
 それはどこか、夜店の並ぶ縁日の雰囲気にも似ている。
 都心や臨海部の、洗練された繁華街とは異なる――けれども、歩いているだけで心が浮きたつような。ざわめきの中に身を委ねたくなるような、柔らかな喧騒。
 そんな雑踏にあふれた繁華街はしかし、一本脇道に入ればまた違った貌(かお)をのぞかせる。
 小料理屋や居酒屋といった飲食店と旧い民家とが、モザイクのように軒を連ねた細い路地。街灯りと喧騒のメインストリートからひとつ角を曲がっただけとは思えない、まるで江戸の裏小路にでも迷い込んだかのような庶民的な街路が、人々を迎えるのだ。
 静と動。喧騒と静けさ。商業区と居住区。相反する性格を持つ路地がごくごく自然に隣接しているのも、この街ならではの風景なのだろう。そう――狭い街路だが、懐は広い。
 そんな路地裏の、いちばん奥のほう。穏やかな薄闇の中に、その二階家はこぢんまりとしたたたずまいを見せていた。
 褪せた小豆色の瓦屋根と、板を打ち付けた外壁。木枠に擦りガラスをはめ込んだ、引き戸の玄関。最近は下町でも珍しくなった、旧い造りの一軒家だ。
 戸の脇には朝顔と鬼灯(ほおずき)の苗鉢が置かれ――そしてその鉢のちょうど真上のあたりに、板に達筆な筆文字で記した表札が架けられている。
 玄関の中から洩れる灯りにぼんやりと照らされて、表札の文字は次のように読めた。
 ――『浅草・駒形座 座長  駒形 三紀夫』

「……………………ただいまぁ」
 そうっと引き戸を開けて、そのまま玄関に立ち止まること十数秒。つばさはようやく意を決して、声をあげた。さすがに、いつもの威勢のいい「ただいまっ♪」はでてこない。
 一瞬たりとも間をおかずに、どたどたっ! と切羽詰った足音が廊下の奥から聞こえてくる。
「おかえりっ、つばさ。あああもうっ、遅かったから心配したじゃないのさ」
 そう言いながら駆け寄ってきたのは、叔母の昌江(まさえ)だった。
 おそらく、台所仕事の真っ最中だったのだろう。つばさの前に立ってから、彼女はびしゃびしゃのままの両手をあわてて前掛けで拭う。
 浅草に生まれ育って五十年。普段は多少のことでは動じない、性格風貌ともに『横丁の肝っ玉母さん』を絵に描いたような叔母なのだが――つばさに向けたその瞳は、泣き出してしまいそうな不安の色が満ちていた。
「……ごめん、叔母さん」
「ばかっ、怒ってるんじゃないよあたしゃ」
 ぺこりと下げたつばさを頭を、昌江の指がわしゃわしゃと荒っぽく撫でた。
「大丈夫だったかい? つばさ。千絵ちゃんが倒れたっていうし、あんたはあんたで取り乱しちまって保健室運ばれたって聞いたし――あたしゃよっぽど、中学まで迎えに行こうかって思ったんだよ。それをあの宿六が、恥ずかしいから止めろなんて薄情なことを――」
「――おいおい。つばさの前で宿六なんて言葉は使ってくれるなよ」
 呆れたような声とともに、戸口の向こうから背の高い影が現れた。
 見世物小屋『駒形座』の座長を務める、三紀夫(みきお)叔父さんである。
 さらりと七三に撫でつけた、清潔感のある灰色の髪。どこか飄々とぼけた印象を与える顔立ちに、よく似合う鼻の下の髭。舞台の上では燕尾服が映えるすらりとした長身は、どっしりした印象の昌江叔母さんとはなんだか対照的だ。
「あ……ただいま、叔父さん」
「おかえり、つばさ。――大変だったな、きょうは」
 静かなまなざしをつばさに向けて、三紀夫は言った。ごく短い、けれども真摯な響きのこもった、腕でしっかりと抱きとめるかのような一言。
「――――」
 答えることも頷くこともできずに、つばさは目を伏せる。
 なんだか、ひどくうしろめたい。柔らかな叔父のまなざしを正面から見つめ返すことが、どうしてもできなかった。
「ああもうっ、何だってそうのうのうと落ち着いてるんだいあんたはっ」
 どんっ、と床を踏み鳴らしながら、昌江が彼に食って掛かる。
「つばさがこんなにしょげ返ってるってぇのに――もうちょっとこう、気をかけてやれないのかいっ。ああ嫌だ嫌だ、こんな冷血漢と所帯持ってたなんざ、いままで思ってもいなかったよ」
「冷血漢とは心外だなあ」
 困惑気味な声とともに、三紀夫叔父さんは鼻の下の髭を人差し指で撫でる。
「心配すればいいってもんじゃないさ。つばさが一大事だってのに、俺たちまであたふたしたらどうしようもないだろう。
 特に、だ。お前がどたばたしてると、このボロ屋が傾くぞ」
「――どういう意味だいそりゃっ!」
「わわわっ、落ち着いて叔母さんっ」
 つばさは慌てて、わたわたと手を振った。
 わかってはいるのだ。毎日のように口喧嘩を繰り広げつつも、叔父さんと叔母さんは駒形座の中でも、この横丁でも有名なおしどり夫婦なのだということは。
 わかってはいるが、やっぱり止めないわけにはいかない。今日の場合、言い争いの原因が自分への心配と気遣いにあるのだからなおさらだ。
 つばさの声に、三紀夫と昌江ははたと顔を見合わせた。三紀夫の人差し指が、昌江の眉間のあたりをちょこんとつつく。
「ほうら見ろ。こんな時に俺らがつばさに気苦労かけてどうする」
「――ぐ」
 言葉に詰まって、昌江は恨めしげなまなざしで三紀夫を見上げる。すると三紀夫の口元に、ほんのかすかな苦笑が浮かんだ。
「はは、済まん昌江。まあ、今のは俺も悪かった。
 ほれ、こんなところで三人顔突き合わせてるのもなんだ。夕飯にしようや」
 昌江の背中をぽんぽん、と叩いて。それから彼は、拗ねた子供のような表情をつばさに向ける。
「聞いてくれよつばさ。昌江のやつなあ、今の今まで俺にもご飯食べさしてくれなかったんだぞ。『あの子が帰ってくるまでガマンしな。こんな時くらいいっしょに食卓を囲まないで、何が親代わりさ』とか言ってな」
「――え?――」
 思わずきょとんと目をしばたかせて、つばさは叔母の顔を見つめる。
 廊下の柱に架かる時計が、示す時刻は7時40分。夕食の早い駒形家では、いつもならばそろそろ片付けに入っている時間だ。つばさも、今日はてっきり叔母さんたちは先に食べているものかと――
「――馬鹿っ、何いらないことくっちゃべってんだいあんたっ!
 ああつばさ、嘘だよ嘘。別に待ってたわけじゃないんだからねっ」
 怒っているとも慌てているともつかない口調で言うと、昌江は照れたようにまなざしを逸らした。
「ほら、昨日が公演の打ち上げだっただろ? 遅くまで飲んで食ってしたもんで、今日はどうにも胸がやけてさ。いつもの時間になっても、なかなかお腹が空かな――」
 どこか上滑りした口調で、昌江がそこまで喋ったところで――ぐううっ、という音が彼女のお腹のあたりから聞こえてきた。
「――っ!」
 計ったようなタイミングで起こった腹の虫の裏切りに、昌江はこれ以上ないというくらいに気まずげな表情を浮かべる。
 恰幅のいい身体をちぢこませた彼女を見て、三紀夫が声をあげて笑った。それにつられて、つばさも思わず笑みをこぼしてしまう。
「笑うんじゃないよあんたっ! 何だいつばさまでっ!」
 耳まで真っ赤になって、昌江は声を張り上げた。だがそれでも、三紀夫とつばさの笑いはやまない。
 わかってはいた。今まで自分のために夕食を待っていてくれた叔母を、笑ったりするのは失礼この上ないってことは。
 でも、それでも。
 笑わないと、涙ぐんでいるのがバレてしまいそうで。笑っていないと、このままぽろぽろと泣き出してしまいそうで。
 ぬくもりが。
 いつだって自分を包み込んでくれる、この家の空気の温かさが――今日はことさらに、じんわりと胸に染みた。
 昌江叔母さんも三紀夫叔父さんも、何よりもあたしのことを心にかけてくれる。本当の娘みたいに。ううん、きっとたぶん、それ以上に。
 ああ。
 それなのに。それなのに、あたしは。
「――ああもうっ、二人ともさっさとご飯にするよっ。せっかくあっためた味噌汁が、まぁた冷めちまうじゃないかっ」
 昌江はそう言うと、肩をいからせて踵を返した。どすどすと足音を響かせて、足早に廊下の奥に歩いてゆく。
「待てよ、おい。でかい図体して、相変わらず照れ屋だなぁお前も」
 いたずらっぽい笑みとともにひょいと肩をすくめて、三紀夫は彼女の後を追った。
 その――ふたりの背中に。
「お、叔母さん、叔父さんっ」
 つばさは思わず、はりつめた声をかけていた。
 ん? という表情で振り返るふたり。彼らの顔を見つめたまま、つばさはごくりと唾を飲み込んで懸命に言葉を捜す。
「えっと、その……ありがと――ごめんね」
 ああ、ダメだ。
 こんな、ありきたりな言葉しか出てこない。胸の奥に膨らんだかたまりの、百分の一だってうまく唇から紡ぎ出せやしない。
 三紀夫と昌江の顔に、同時に柔らかな苦笑が浮かんだ。
「変な子だねえ、なに謝ってんだい。怒ってないってさっき言っただろ」
「そうそう。ほら、早くあがってきなさい。せっかくの夕飯を冷ましたら、それこそ謝っても昌江が許してくれないぞ」
 ううん、そうじゃない。そうじゃなくって。今日、迷惑とか心配をかけてしまったことだけじゃなくって。
 下唇をきゅっと噛んで、つばさは心の中でかぶりを振った。
 あたしはずっと、叔父さんと叔母さんを騙してきたのだ。
 こんなにもふたりは、自分のことを思っていてくれるのに。心配してくれるのに。
『力』のこともなにも、ひとつとして打ち明けずに。ちょっと運動神経のいい普通の子供のふりをして、育ててもらってきたのだ。
 そして、また。
 あたしは叔父さんたちに、大きな嘘をつこうとしている。
 ふたりに黙ったままで、危険の中に身をさらそうとしている。もしかしたら、そのままこの家に帰ってこられなくなってしまうかもしれない、そんな危うげな夜の中に。
 ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。叔父さん、叔母さん。
 胸の中でどれほど繰り返しても、思いは伝えられない。伝えるすべは、今はない。
「つばさっ、ご飯よそっちゃうよっ」
 廊下の奥、戸口の向こうから、叔母の快活な声が響く。それといっしょに、味噌汁の香ばしい匂いがつばさの鼻に届いた。
 ああ、今日のお味噌汁の実は大根だ――と、何の気なしにつばさは思う。思ったとたんになぜだかまた、じんわりと涙が目に滲んだ。
「何やってんだい、つばさっ。さっさと制服着替えてきなっ」
「はーいっ!」
 制服の袖でぐしぐしと目をぬぐって、つばさはせいいっぱいの声をあげた。

 *
 
 ――闇が。
 夜闇よりもなお冥い無明の暗黒が、空間を満たしていた。
 辺りの空気は冷たく、じっとりとした湿度が感じられる。
 漂うのは、土黴の臭いと生臭さが混じり合った、鼻をつくような臭気。
 そして、澱んだ闇の中に微かに響くのは――
 しゅる……しゅるるる……
 ああ、そうだ。世にもおぞましきあの音。鱗と鱗がこすれあう、蛇たちの饗宴の気配。ときおり、きいぃ……という細い鳴き声が、摩擦音に混じる。
 と――
 無明の闇の中に、小さな光が灯った。
 針の先程に細かな、ふたつの紅い光点。
 眼だ。
 細く鋭い光を湛えた、毒蛇の双眸。
 全き闇の中において、それは異界への誘い灯のごとくに凶々しい輝きを放つ。
 はじめは一組のみだった光点は、またたく間に周囲の闇へと伝播してゆく。ものの数秒をおかずして、無数の紅い煌めきが闇に散りばめられた。
 それはあたかも、紅い星空を思わせる光景だ。これがすべて蛇の目なのだとすれば、その数はおそらく数千匹をくだるまい。
 数知れぬ蛇たちの蠢く、闇に覆われた空間。さすれば、この空間の主はまがいもなく――
「……おお……お前達……」
 嗄れた声が、闇の中に紡がれた。
 それに呼応するように、周囲からはきぃ…きぃぃ…という甘えたような鳴き声があがる。
「済まなかったのう……今日は、あのような苦しい目に合わせてしもうた……」
 老人の声色――《蛇使い》の声は労わりの口調を帯びて、配下の蛇たちを柔らかに撫でた。
「この借りは今宵、しかと返してやろう。そう、お前達の受けた苦しみを、幾倍、幾十倍にもしてあやつらに味わわせてやるのじゃ。あの、茜桟敷の小僧どもにな」
 暗さゆえ、むろん《蛇使い》の姿は見えない。
 だが、彼の声が孕む気配は――歪んだ憎悪の念は、目に見える表情よりも如実に周囲の闇へと伝わった。まるで怪老人の憤怒が、そのままこの空間に乗り移ったかのようだ。
 蛇たちの蠢く音さえも一瞬、はたと絶えた。
 その静寂をついて切り出された《蛇使い》の声はしかし、再び不気味なまでの穏やかさを取り戻している。
「心配かね、お前達。じゃが懸念は無用だよ。
 わしらには切り札がある。お前達のおかげでわが手に握ることができた、あのお嬢ちゃんの友人の命がな。あのお嬢ちゃんは、わしらのもとにやって来ざるを得ないのじゃよ。
 ……くくっ……くくくっ……」
 悦に入った、乾いた嗤いが闇に響く。
 オペラ役者が舞台で発する台詞よろしく、歌うような抑揚をつけて《蛇使い》は言葉を続けた。
「喜ぶがいい、お前達。もうすぐ、とびきりの馳走を与えてやることができるやもしれん。もしもあのお嬢ちゃんがわしとともに来ることを拒めば、そのときは――
 柔らかなあの身体、生きたままお前達にくれてやろうぞ」
 主の言葉を、解することができるのであろうか。蛇たちの蠢く音はいっそうの興まりを帯びて響き――そこかしこから、歓声ともいうべき鳴き声があがる。
「くくっ……よしよし、頼むぞお前たち。お前達こそがわしの手、わしの脚、わしの眼じゃ。あの娘に与えられた、素晴らしき『力』とこの身体じゃが――かような街の中では、衆目にさらすわけにはゆかぬゆえ、な……」
 謎めいた、その言葉とともに。
 ゆらり……と、何かが起き上がる気配が生じた。
 ぬばたまの闇の底から、何か、巨大なものが。
「……行こうか」
 厳かとさえ言える口調で、《蛇使い》の声は告げた。
「陽は没した。今宵いまこそ、わしらの舞台の幕を開くときじゃ」

 *

「ふううっ……」
 夕食と洗いものを終えて二階の自分の部屋にあがるなり、つばさは仰向け大の字に布団に倒れこんだ。
 いつもは布団の上げ下ろしはつばさの担当なのだが――今日はきっと、叔母さんが敷いておいてくれたのだろう。
 柔らかな羽毛の感触が、身体をそっと包み込む。背中に触れるのは、陽に干した布団の心地良い温もり。
 とろけてしまいそうな平穏がここにあった。この家に引き取られてから五年間――いまではごくごく当たり前に浸りこんできた幸せな空気が。
「…………」
 天井に下がった傘つきの電燈を、つばさは見るともなしに眺める。
 なぜだろう。
 今夜は、家の中で心地良さを感じるたびに、胸の奥が締め付けられるように痛い。
 すぐ耳元で、囁く声が聞こえる気がする。ここは、お前なんかが居てよい場所ではないのだと。お前なんかが身を委ねてよい幸福ではないのだと――
「――っ!」
 つばさは、両のてのひらでぱしっと頬を叩いた。
 ――ええいっ、こんなこと考えてたってどうしようもないじゃんか、あたしってばっ!
 すんっ、と短く鼻で息を吸って、声なき声を無理矢理頭からひき剥がす。
 ついさっき、何が何でも千絵ちゃんを助けるって誓ったばかりなのに。ちょっと油断したらあたしはまた、うじうじ落ちこもうとしている。
 ――ダメだよ。悩んでたって千絵ちゃんは助けられないんだからっ。
 いまのあたしが考えなくっちゃいけないのは、そのことだけのはずだ。何のつもりであたしは、自分のことばっかり考えてるんだろう。
 ごめん、千絵ちゃん。心の中で友人に詫びて、つばさは布団の上に身を起こした。
 ポケットの中を探り、小さな金属板をてのひらに握る。
 茜音さんから渡された、特製の発信機。さっき制服から着替えたときに、ジーンズのポケットに移しかえておいたのだ。
 ひんやりと冷たい金属の感触は、つばさの手の中でまたたくまに体温になじむ。
 指を開いてしげしげと眺めたそれは、どう見ても外国製の古いコインにしか思えなかった。茜桟敷の地下で『実演』を目にしていなかったら、これが高性能の発信機だなんてとても信じられないだろう。
 つばさはいまいちど、両手で胸に抱くようにして金属片を握りしめた。
 五百円玉程の大きさしかないこのコインに、全てがかかっているのだ。千絵ちゃんの、そしてあたしの運命が。
 この発信機を、《蛇使い》の本拠に持ち込むことができるかどうか。
 何もかもが、それで決まる。
「……頼むよっ」
 声に出して、つばさは呟いた。なかば、手の中のコインに願いを込めるように。なかば、自分自身に言い聞かせるように。
 ――よし。
 こくりと頷いて、つばさは発信機を後ろのポケットに差し込んだ。持ち物を調べられた時のためにどこかに隠したほうがいいのではないかとも思ったが、結局ちょうどいい場所が見つからなかったのだ。
 身支度はいとも簡単に、これだけで終わってしまった。あとはもう、眠りについてその時を待つしかない。
「それにしても……」
 と、つばさは自分の格好をちらりと見おろす。
 ――……Tシャツとジーンズで寝ちゃうなんて、ホントは行儀悪いよね。
 きまりわるげに眉間にしわを寄せてはみるものの、こればかりは仕方がなかった。
 もしも寝ている間に怪人がやってきたとしたら――そんな時にこんなことをいっている場合ではないのかもしれないけれど、やっぱりパジャマのままで連れていかれるのは恥ずかしい。
 それに、いざという時は自分で窮地を切り抜けなくてはならないのだ。動きやすい服装をしておくに越したことはないだろう。
 今回は、お行儀うんぬんはひとまず置いておくしかない。
「――さて」
 枕元の目覚し時計が、示す時間は9時20分。いつもならばまだちょっと布団に入るには早いけれど、もしかしたら今夜は夜中に起きることになるのだ。せめてそれまでは、しっかり寝ておかなくっちゃいけない。
 立ち上がり、電灯の紐に指をかけて――灯りを消す前に、つばさは今一度部屋の中を見渡した。
 叔父さんが買ってくれた勉強机と、旧い木の箪笥。押入れの引き戸と、物干しへの出口。ちょっと古びた、畳の床。
 いつも通りの部屋だけれど、もしかしたらこれが見納めになってしまうかもしれないのだ。もしもあたしが、あの怪老人にそのままどこか遠くへ連れ去られてしまったなら。
「うーっ」
 声をあげて、つばさはぶんぶんとかぶりを振った。
 ダメだダメだ。余計なこと考えて落ち込んでる場合じゃないって、何度言ったらわかるんだろうあたしってば。
 感情の揺れを断ち切るように、電灯の紐を引く。
 室内に落ちる、暗闇の帳。布団の上にとさっ……と倒れこみ、つばさひとつ大きな深呼吸をした。
 とくん、とくん――と、胸の奥がはりつめたリズムを刻む。穏やかな静寂の中に、自分の心音だけが響いているような気がする。
 夜が、始まろうとしていた。いつもとは違う、長い夜が。
 その向こうにあるのがどんな夜明けなのか、いまのあたしにはまだ分からない。分かるのは、千絵ちゃんを絶対に助けなくっちゃいけないってことだけだ。たとえ、あたしがどんな目にあったとしても。
 ――ごめん、叔父さん、叔母さん。
 これからあたしは、叔父さんたちに内緒でとっても危ない場所に行こうとしてる。もしかしたら心配をかけちゃうかもしれないし、もしかしたらもう帰ってこられないかもしれない。
 でも、どれでも。これだけは、あたしが行かなくっちゃダメなんだ。
 ――待っててね、千絵ちゃん。
 千絵ちゃんは、こんなひどい目に遭わなくっちゃいけない理由なんて何もなかったのに。あたしなんかの友達になってくれたばっかりに。
 あたしが、千絵ちゃんを助けるから。絶対に。どんなことがあっても、千絵ちゃんのところに解毒剤を届けるから。
 だから――もうちょっと、もうちょっとだけ待ってて、千絵ちゃん。
 大切なひとたちに、今一度胸の中で呼びかけて。それからつばさは、そっと両の瞳を閉じる。
 長い午後に、知らずくたびれていたのかもしれない。揺れる心とはうらはらに、眠りの波は驚くほどに早くやってきた。



 …………。
 リィ……ィィイイン……
 澄んだベルの音が、どこか遠くで鳴っている。
 まどろみの海の向こう。夜の静寂(しじま)の中で。
 ……リイィィィィィイン……
 繰り返し、繰り返し、いつ果てるともなく響いている。
「う……?」
 ちいさな声を洩らして、つばさは目を開いた。
 部屋を満たすのは、穏やかな夜の闇。窓から射し込む月明かりだけが、室内の家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
 ……リイィィィィィイン……
 何の音だろう、これは。
 隣の叔母さんたちの部屋の目覚ましが間違いで鳴っているのだろうかとも思ったが――いや違う、この音はもっと遠く、階下のほうから聞こえてくるような気がする。
 ……リイィィィィィイン……
 ――……電話……?
 そうだ。どこかで聞き憶えがあると思ったら、これは廊下に置いてある電話のベルの音だ。
 静寂の中で、つばさは耳を澄ました。
 ……リイィィィィィイン……
 間違いない。よそのではなく、鳴っているのはうちの電話だ。
 つばさは枕元の目覚し時計を掴んで、射し込む月光にかざした。
 長短の針が、いちばん上でぴったりと重なっている。時刻はいま、夜中の12時。
「うー……」
 どうしてこんな時間に電話が――と、起掛けの寝ぼけ頭で数秒考えて。そこでつばさは、はっと息を呑んで身を起こした。
 ――バカバカっ、どうしても何もないじゃんかあたしってばっ!
 夜中の12時に電話をかけてくる人間は、この家の知り合いにはいない。少なくとも、誰も出ないのにこんなに何回もベルを鳴らし続けるような人間は。
 となれば、これは。この電話の主は。
 茜桟敷のメンバーの誰かか。はたまた――
 暗闇の中で、つばさ静かに立ち上がる。
 電灯の紐に手をかけて――けれども、明かりを点けるのは思いとどまった。隣の部屋で眠っている叔父さんたちに、見つかってしまっては大変だ。ただでさえ、この電話のベルでいつ起きてきてしまうかも分からないのに。
 ……リイィィィィィイン……
 ――ああもうっ。今行くから静かにしててっ。
 無茶な注文をつけつつ、つばさは部屋の外に出た。
 抜き足差し足、かつ全速力。壁と手すりを頼りに、いそいそと暗い階段を降りてゆく。
 淡い闇に覆われた、一階の廊下の突き当たり。常夜灯が投げかけるオレンジ色のスポットの下、台に置かれた古い電話機。
 ……リイィィィィィイン……
 静寂の中に、呼出音が鳴り響く。
 それはどこか、公演の開幕を告げるベルの音にも似て――
 始まろうとしている。演目すらも判らない、真夜中の舞台が。
 つばさは歩み寄って、電話に手をかけた。
 ステージの袖で固まっているわけにはいかない。
 舞台にあがらねばならなかった。茜桟敷一座の、団員として。 
 ごくりと唾を飲み込んでから、つばさは受話器をとる。
「……もしもしっ」
 はりつめたつばさの声に、応えたものは沈黙だった。
 完全なる、無音。周囲の物音も、息遣いさえも聞こえてはこない。
 けれども。
 その瞬間、何故だかつばさは感じとっていた。受話器の向こうの人間が、にやり――と歪んだ笑みを洩らすのを。
 回線の向こうに満ちた凶々しい気配が、受話器を通じてつばさの耳元に流れいでてくるような。それは、そんな沈黙だった。
「……《蛇使い》のおじいさん――だよね?」
 できうる限りに声を抑えて、つばさは問う。
 さらなる数瞬の沈黙の後に、受話器から初めて微かな音が洩れた。
 十数時間前に学校の教材室で聞いた、背筋が粟立つようなあの音。
 鱗の擦れあう、蠢動の気配。そして――
『……嬉しいよ。待っていてくれたようじゃな、お嬢ちゃん』
 静かな口調の中に歓喜の色を孕ませて、老人の声は応えた。

第二十四幕『罠』に続く




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