〜第二十五幕〜 袋小路







 夜の路地裏に、足音だけが響く。
 じれったくなるくらいゆったりとした歩調で前を歩む黒衣の老人と、数歩隔ててその背中を追う自分。アスファルトを叩く二つの靴音が、真夜中の路地裏にはりつめたリズムを刻む。
「――……」
 つばさは、きょろきょろと周囲を見回した。
 全き静寂に支配された、無人の街路。商店街と仲見世(なかみせ)を抜け、大通りや交差点をいくつも横切ったはずなのに――《蛇使い》の言葉通りつばさはまだ、通行人のひとり、自動車の一台すらも目にしてはいなかった。
 建ち並ぶ家や店舗には、明かりを灯した窓も見受けられる。街灯はしらじらと路地に光を落とし、信号機も黙々と自らの仕事をこなしている。にもかかわらず、街の中からは人の気配だけが、拭い去ったように消え失せているのだ。
 かりそめの異空間を造り出す、《パノラマ》という名の奇術。茜音さんや若槻先輩に説明されて、頭ではわかっているつもりなのだけれど――それでもやっぱりまだ、夢の中にでもいるような気分になってしまう。
 とくん、とくん……と、静かなだけに、自分の心臓の音がはっきりと意識できる。
 老人の黒衣の背中を、つばさはじっと睨み据えた。
 どこへ向かっているのだろう? あたしは、どこに連れて行かれようとしているのだろう?
 《蛇使い》は無言のまま、路地の角を曲がった。大通りから離れて、まただんだんと家々の建て込んだ路地裏に入りこんでゆく。
 とくん、とくん、とくん。胸の奥で、鼓動があやうげに跳ねあがる。ダメだ。ダメだ。びくびくしちゃダメだ。叱りつけたって、心臓はいうことを聞いてはくれない。
「ちょ、ちょっとっ」
 それ以上の沈黙に耐えかねて、つばさは声をはりあげた。
「さっきからぐるぐる歩いてばっかじゃんかっ! まだなのっ? おじいさんの秘密基地ってっ」
 せいいっぱいに尖がらせた声のつもりだったが――自分で聞くだに迫力というものが欠けていた。これじゃまるで、駄々っ子がぐずっているみたいだ。
 《蛇使い》は答えず、後ろを振り向きもしない。だが、老人がにんまりと浮かべる笑みの気配は、背中を見ているだけではっきりと伝わってきた。
「な、何で黙ってんのさっ! か……帰っちゃうよ、帰っちゃうんだからね、あたしっ」
 引くに引けずに、つばさは空回りした強がりの言葉を繰り返す。
 と――その時だった。
《蛇使い》が急に足を止め、つばさのほうを振り返ったのは。
「わ――ととっ!」
 あやうく黒衣の懐にとびこみそうになって、すんでのところでつばさは立ち止まる。
「……済まなかったのう、お嬢ちゃん」
 老人はさも楽しげな笑いとともにこちらを見下ろすと、骨ばったその手をつばさの頭に置いた。
「ちと疲れてしもうたかな? じゃが、お嬢ちゃんに歩いてもらうのはここまでじゃよ」
 柔和な、まさしく猫撫で声という言いかたがぴったりな声色。蜘蛛の脚を思わせる長い指が、いとおしむようにつばさの髪の上を這う。
 思わず腕を振り払いそうになるのを、つばさはすんでのところで堪えた。
 俯いて身を強張らせながら、ぎゅっと拳を握り締める。いよいよだ。いよいよこれから、この黒衣の老人の基地に入るのだ。
 ――し……信じてるからねっ。お願いだからねっ。若槻先輩っ、香春先輩っ、茜音さんっ――じ、仁矢くんっ……
 同じ夜空の下にあるはずの四人に、心の中で呼びかけて。それからつばさは、佇む老人の向こう側をおそるおそる覗き込んだ。
 だが――
「――へ?」
「おやおや、どうしたねお嬢ちゃん」
 呆然と声をあげたつばさに、《蛇使い》がからかうような笑みを向ける。
 いや、実際からかわれているに違いなかった。なぜなら、つばさの視線の先には。路地のいちばん奥には――
「な、何、これ……ちょっとっ、ふざけちゃダメだよっ!」
「これは心外じゃ、ふざけてなどはおらぬよ。最初から、お嬢ちゃんをここへ案内するつもりで歩いてきたのじゃがのう」
「う、嘘だよっ。だって、だってっ」
 つばさは《蛇使い》の脇を擦り抜け、人っ気のない路地の奥へ足を進めた。目を凝らしても無論のこと、そこに広がる光景は変わりはしない。
「行き止まりじゃんか、ここっ!」
 そう――切れかけた街灯が照らす道の先は、紛うことなき袋小路となっていた。
 いまは車は見えないが、もしかすると駐車場代わりにでも使われている空間なのかもしれない。三方を囲むのは、古びた高いブロック塀。その向こうに建っているのも何の変哲もないアパートで、怪老人のアジトとはとても思えない。
「わ、わかったっ。ヒミツの入口とかがあるんだっ。おじいさんの『力』で、隠してあったりとかするんでしょ」
 つばさは走り寄って、正面の塀をぺたぺたと触ってみた。けれども、指に触れるのはただ苔むしたブロックのみだ。
「……いいや、違うな」
 いささか大袈裟な仕草で、黒衣の老人はかぶりを振ってみせた。
「建物やその入口を人の目から隠し続けるには、思いのほか大きい術力が必要でのう。悔しい話じゃが、わしにはちとしんどい。
 例えば、お嬢ちゃんが入った茜桟敷の扉……あれなぞは茜音の強大なる『力』あってこそ、永きにわたって通行人から隠されておるわけじゃ」
「――――」
 老人がこともなげに口にしたその言葉が、ひとかけらの氷塊となってつばさの背中を滑り降りた。
 バレている。夕方に、茜音さん達といっしょに喫茶・茜桟敷に入ったことが。
 いや、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。あたしは学校で、茜桟敷のみんなによってこのおじいさんの手から救い出されたのだから。そのあとでリーダーである茜音さんに会ったということは、かんたんに想像できるだろう。
 けれど。けれども――
 振り返って、つばさは不安げなまなざしで《蛇使い》の顔を見上げた。
 どこまで――どこまで知っているのだろう? この、黒衣の怪老人は。
 《蛇使い》は相変わらず、柔和とすら言ってもいい笑みを口元に湛えている。瞳孔の細い――まさしく爬虫類のそれを思わせる双眼から、思惑を読み取ることはかなわない。
 ゆっくりと、両腕を広げて。つばさを壁際に追い込むように歩を進めながら、彼は再び口を開いた。
「ゆえに、な。わしのように街の中ににわかの牙城を築かねばならぬ奇術師は、細やかなうえにも細やかな注意を払うものなのじゃよ。
 ……ことが終わるまで、決して己の居場所を突き止められることないようにの」
 とくんっ……と、胸の奥で心音がひときわ大きく跳ねる。
 紡がれる嗄れ声までもが、見えざる無数の糸となって全身に絡み付いてくるようで――つばさは思わず、一歩を後ずさった。コインを入れたジーンズの後ろポケットを、もうちょっとのところで手のひらでかばいそうになってしまう。
 《蛇使い》が、一歩つばさに歩み寄る。余裕ある、ゆったりとした足どりで。
 圧されるように、つばさはまた一歩後ろへ下がった。
 だが、それが最後だ。無情にも、背中が背後の壁にぶつかる。夜気に晒されたコンクリートの冷たさが、シャツを通して肌に伝わった。
 すうっ……と伸ばされた老人の腕。乾いた爪先が、つばさの喉に触れる。全身の皮膚が、ぞわりと一斉に粟立った。
「やぁ……っ!」
「――解ってくれるかのう、お嬢ちゃん」
 洩らしたつばさの声にかぶせるように、《蛇使い》は優しげな声で言った。それとは裏腹の、歪んだ悦びの笑みを顕わにして。
 かぶりを振ることもできない。開こうとした口の中で、歯がかちかちと音をたてた。
 喉元を撫であげた老人の指が、くい、とつばさの顎を掬う。
 されるがままに顔を上げたつばさのを満足げに覗き込んで、《蛇使い》は言葉を継いだ。
「今宵、わしが目的を果たすにはまだしばしの時間がかかる。それまでは――
 ……発信機などという無粋なものを、わしの根城に持ち込ませるわけにはゆかないのじゃよ」



「――止まったみたいだぜ、先輩」
 自らの懐中時計を覗きこんでいた仁矢が、低い声でぼそりと呟いた。
 浅草神社と大通りの間にある、古い雑居ビルが建ち並んだ一角。蛍光管の切れかけた街灯が、明滅を繰り返しながらぼんやりと路地裏を照らしている。
「にしても、ずいぶん遠回りしてくれたもんだ」
「……やっぱり、用心なんだと思うな」
 溜息混じりの彼のぼやきに答えたのは、横を歩いていた睦だ。
「向こうも、駒形さんとわたしたちが協力していることは察してるはずだし――わざとゆっくり歩いて、わたしたちが何を仕掛けてくるか様子をみてるのかも」
「……とっとと根城に潜り込んでくれりゃ、頼まれなくっても仕掛けてやるってのにな」
 面白くもなさそうに息をつくと、仁矢は地図の上に明滅する紅い点を睨み据える。
 仲見世から、デパートや商店街のある大通りへ。そこから北東に入って、古い民家や小さな寺社が建ち並ぶ区域へ。それからまた、南に街路を下って住宅街へ。《蛇使い》と駒形つばさが今立ち止っているのは、浅草寺の北側に張り巡らされた細い路地の一本だった。浅草寺を咥えこんだ大きな逆Cの字のコースを辿って、彼らはスタート地点のすぐ近くまで戻ってきたことになる。
 仁矢の苛立ちには、理由が無いわけではなかった。
 大通りや交差点を堂々と横切っていく進路の選び方から推し量るに、《蛇使い》たちは間違いなく《パノラマ》の中を歩んでいる。
 それに対して、仁矢たちは現実の夜の街を行かねばならない。茜音が随所に置いてくれている『死角』が助けにはなるものの、人の目を慎重に避けながらの移動は決して容易いものではないのだ。
「――動かねえな。どうやら、ここらしいぜ」
 仁矢の呟きに、睦もちいさく頷いた。
 住宅街の中の袋小路。つばさの位置を現す光点は、壁際にはりついたままだ。
 懐中時計の文字盤に浮かんだ地図を覗き込んだ後で、睦と仁矢は同時に顔をあげて、はからずも同じ方向――すぐ後ろを歩む京一郎へとまなざしを巡らせた。普段ならお決まりである彼の合いの手が、先ほどから全く入ってこなかったからだ。
 自らの懐中時計を手のひらに開いて、京一郎は何事かを考え込んでいる様子だった。空いた右手の指で、ときおりわしゃわしゃと髪の毛を掻き回しながら。
「――京一郎くん?」
「――え?」
 睦が声をかけると京一郎ははじめて、ぽかんとした表情で顔をあげた。自分に向けられたふたりのまなざしに気付くと、彼は照れたようにひとつ咳払いをしてみせる。
「あ、何かな? 睦さん、仁矢くん」
「……おいおい、しっかりしてくれよ」
 やれやれとばかりに、仁矢が肩を竦めた。
「駒形が、あのじじいの巣に着いたみたいだぜ。
 どうするんだ? 俺らは。突っ込むのか、もう少し様子見んのか」
「ああ、そうだね――うん」
 返ってきた声は、やはりいまひとつ精彩を欠いている。
 苛立たしげに片眉をはねあげて、仁矢は再び口を開きかけた。だが――
「何か、気になるの? 京一郎くん」
 それより一瞬早く、睦が京一郎に問い掛ける。
 彼女の声で、京一郎の意識はようやく思考の淵から戻ってきたようだった。彼にしては珍しい戸惑いの色を苦笑に隠して、京一郎はかぶりを振ってみせる。
「ああ、いや……気になるって程じゃないんだ。ただ、僕の思っていたのと少しばかり場所が違っててさ。そうか、ここが入口か……ちょっと、読み違ったかもしれないな」
 ふたりに語っているとも独り言ともつかない口調で、京一郎は呟く。
「……先輩よ」
 横を歩いていた仁矢が、険悪な声とともに横目で京一郎を見た。
「ん?」
「……隠し事は抜きだって言ったよな。いいかげん、ひとりで考えんのは抜きにしねえか?」
 仁矢の声とまなざしは、微妙に殺気立っている。低く鋭い、脇腹に拳銃でも突きつけて喋っているような、そんな口調だ。
 いささか慌てて、京一郎ははたはたと手を振った。
「あ――いやいや、隠し事ってわけじゃないよ。ただ、まだちょっと僕の中で考えがまとまっていないところがあったんで、さ。
 ごめんごめん。ひとまず、駒形さんのところにもうちょっと近づこうか」
 京一郎の言葉に、仁矢は無表情のままほぉ、と声を漏らす。これ以上凄みを持たせることはできないのではないかという感じの声だった。
 京一郎は、わずかに苦笑したまま視線を道の先に戻す。何事もなかったように歩き出そうとした、その彼の足を、
「……それで――その『考え』ってどんなふうなの?」
 投げかけた睦の問いが、再び地面に縫い止める。
「――へ?」
 呆けたような声とともに振り向いた京一郎に、彼女は穏やかな微笑を向けた。
「あ、いいよ歩きながらで。
 ……わたしじゃわからないかもしれないけど、聞くだけでも聞いておきたいなあ、って思って。ほら、あとになって『あの時に聞いていれば、ここでちゃんと動けたのに』なんてことになったら、わたしも仁矢くんも嫌だもん。
 それに――」
 眼鏡の奥のまなざしが、わずかにいたずらっぽい光を宿して細められた。
「ほんとうは、話しちゃってもいい――って思ってるでしょう、京一郎くん」
 柔らかなはにかみとともに発された睦の言葉に、京一郎はう、と口ごもる。
 そう。
 若槻 京一郎という人間は口が軽いようでいて、肝心のところでは鉄壁のガードを持っている。まだ話すべきではないと判断したことに関しては、言葉の端にのぼらせるようなミスは決して犯さない。
 だから逆に――彼が何かをほのめかすような言動をとったならば、それは「話してもいい」というシグナルなのだ。茜桟敷に入団してよりいくつかの事件を経ての付きあいで、睦にはすっかりそのあたりを把握されているのだった。
「うーん……」
 困ったなあ……とばかりに街頭を見上げ、人さし指で頬を掻く京一郎。その後ろで呆気にとられている仁矢に、睦がこっそりと振り返って片目をつぶってみせた。
「そうだなあ――いや、確かに隠すようなことじゃないんだけれど、どこから話したものか――」
 手のひらの上の懐中時計を覗き込むように、京一郎は俯いてひとりごちた。
 地図の上で点滅する光点は、いまだ袋小路から動かない。三人がいま歩いている路地からは、角をふたつほど曲がって数十メートルの地点。不用意に近づけば、《蛇使い》が根城に入る前にこちらの動きを察知される危険がある。
 こころもち歩調を緩めながら、京一郎はひとりちいさく頷いた。口元から戸惑いの色を拭い去り、彼は側らを歩む睦に顔を向ける。
「――実はね、睦さん。睦さんにもう一度確認を取っておきたいことがあるんだ」
「え?」
 今度は、睦のほうが不意をつかれる番だった。きょとんとした表情を浮かべて、彼女は京一郎の顔を見上げる。
「わ……わたしに?」
「――うん。睦さんが昨日茜桟敷の地下で見た《千里眼》のことで、さ。
 あの中で、まだひとつだけ何なんだか解き明かせないままの映像があったよねえ」
「――――」
 彼の言葉に、睦は口を噤んで思考を巡らせた。
 昨日の夕暮れ。喫茶・茜桟敷の地下室で、蛇の鱗を手に取った瞬間に発動した《千里眼》。浮かびあがる走馬灯のように、意識の闇をよぎっていったふたつの幻視。
 ひとつは、黄昏の公園を歩む少女――駒形 つばさの姿だった。
 そして、いまひとつは。
「あ――うん」
 睦は、こくりと頷く。
 今ひとつの映像は、確かにあのときも――今にいたるまで、正体を掴めてはいなかった。今日一日で目まぐるしく事件が動いたので、すっかり問題の外に追いやっていたのだ。
 緋色の絵の具を一面に塗り立てたような、真っ赤な背景。その背景を縦横四つに分割した、くっきりと黒い十文字のシルエット。
「――そう」
 睦の胸中の映像を覗きこんだかのように、京一郎は頷く。
「睦さんが言っていた、『紅地に黒の十字架』――その映像
をもう一度だけ、思い出してみてほしいんだ」






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