〜第二十六幕〜 危機







「――――!!」
 胸の奥を氷の手でわし掴みにされたかのように、全身が冷たく竦みあがった。
 動けない。声すらもあげられない。どうして? という問いだけがただ、ぐるぐると頭の中を巡る。どうして、発信機のことが――
 《蛇使い》の乾いた指先が、いまいちどつばさの喉元を撫であげた。
「……不思議じゃとは思わなかったかい、お嬢ちゃんや」
 これ以上ないくらい満足げに笑って、老人はつばさの瞳を覗きこむ。
「お嬢ちゃんがわしからの電話を取るまで、お嬢ちゃんの家の人間が誰も目を覚まさなかったのはどうしてじゃと思う? お嬢ちゃんにしかベルの音が届かなんだは、何ゆえじゃったと思うかね」
「……あ……」
 掠れた声が、つばさの唇を洩れ出でた。
 そう。確かに先程、階下の電話はゆうに十回以上の呼出音を響かせていた。あの時は自分しか目を覚まさなかったことに、ほっと息をついたのだが――普通に考えれば、あまりにも不自然だった。
 ということは。つまりあの廊下は。
 目を覚ました時にあたしがいたのはもう、いつもの家の中ではなくって――
「《パノラマ》の中で起きたことはのう、それを張った術者は、自在に見聞きすることができるわけじゃよ。
 そうそう、お嬢ちゃんがあの少年にかけた電話、な。そもそも、繋ぐも繋がぬもわし次第じゃったのじゃが……わしはこう見えても、慈悲深い人間じゃてのう。くく、その心根ゆえに、謀りごとを知って難を逃れるという幸運を天が与えてくれたわけじゃな」
「――っ!」
 頬をかぁっと染めて、涙に滲んだ瞳でつばさは《蛇使い》を睨みあげた。
 聞いていたのだ。この老人は。あたしの、あの電話を。
 熱い怒りが、胸の奥で弾ける。汚されたくない場所に土足で足を踏み入れられたかのような――そんな気がした。
 だが、その憤りも、胸に膨れあがる絶望の暗雲を払いのけることはできない。
 ――ご……ごめんっ……仁矢くんっ……
 彼の言う通りだった。聞かれているかもしれないという可能性を、最初に考えておくべきだったのだ。
 悔やんでも、すべては遅い。
「どうやら、今宵の勝敗は決したようじゃな」
 愉悦をまじえた声で、つばさの胸に楔を打ち込んで。《蛇使い》は、つばさの首から、すっ……と指を引いた。黒衣の懐に差し入れたその手が、芝居がかった仕草で黄金色の横笛を取り出だす。
「じゃが、安心してよいからのう、お嬢ちゃん。ひとたび約束を違えられたくらいで、わしは可愛いお嬢ちゃんを見限ったりはせんよ。
 言うた通り、これよりわしの隠れ家に招待してあげよう。ただし……困った玩具(おもちゃ)は抜きにしてじゃが、な」
 言葉に続いて、細い笛の音が袋小路に響く。遠い異国の舞曲にも似た、寂しげでどこか凶々しい旋律――
「――――」
 陶然とした《蛇使い》の表情を見据えながら、つばさは静かに膝を曲げ、姿勢を低くして身構えた。
 どうすればいいだろう?
 『力』を使えば、この場を逃げることはできるのかもしれない。後ろの壁は、背丈の倍足らず。楽に跳び越せる高さではある。
 けれども、それじゃダメだ。それじゃ、この怪老人の基地をつきとめることはできない。
 かといって、このまま発信機を奪われたら。あたしは居場所を知らせることもできずに連れて行かれて、もしかするともう戻ってくることは――
「おっと……下手な動きはせぬが吉というものじゃよ」
 途切れたメロディとかけられた声とが、つばさの意識を思考から引き戻した。
 《蛇使い》が、自分を見おろしている。柔和に細めた眼の奥に、暗い光を宿らせて。
「どうやらお嬢ちゃんは、すっかり忘れてしまっておるようじゃな。どうしてお嬢ちゃんが、わしの言葉に従わねばならないのか。
 言い忘れておったが……お嬢ちゃんの周りにはわしの可愛い蛇たちを、数匹ずつ忍び込ませておるのじゃよ。病院にいるお友達のところにも、それから、お嬢ちゃんの家の中――家族の枕元にものう」
「――――!!」
 心臓を、正面から撃ち抜かれたようだった。
 声すらあげられないまま、つばさは震えるまなざしで老人の顔を見上げる。
 そんな。そんな――
「わかったかな。わしがこの笛である旋律を吹いて合図を送れば、あやつらは一斉に動き出して牙を剥く。
 眠らせるばかりが、あやつらの毒ではないぞ。ひとつ、試してみるかな」
 言って、《蛇使い》は横笛を口元に運ぶ。
「や――やめてっ!!」
 伸ばした手で、つばさは黒衣の袖をぎゅっと掴んだ。
 枯枝のように細い老人の腕はしかし、つばさが懸命に引っぱってもわずかほどにも動きはしない。《蛇使い》は楽しげにつばさを見おろすと、こともなげに金色の笛に唇をあてる。
「――や――やぁっ――」
 掠れた声で叫んで、つばさは首を振った。
 もう、虚勢を張ることなんてできはしなかった。
 この老人がほんの少し指を動かし、ひとつ息を吹いただけで。自分の大切なものは、護りたいものは、根こそぎに奪われてしまうのだ。
 すうっ……と、力が抜けた。身体中の血が、どこかに開いた底無しの穴に吸い込まれていくかのように。
 声が、うまく出てこない。発することのできない叫びが、またたくまに涙に変わって瞳の縁を零れ落ちた。
「……わかってくれたようじゃな」
 つばさの泣き顔を見おろして、黒衣の老人は満足げに頷く。
 口元に浮かぶ、勝ち誇った笑み。つばさの何もかもを掌握し、絶対の優位と支配を握った悦びが、その表情にはありありと浮かび出でていた。
「はじめから素直にわしの言うことを聞いてくれたならば、泣かせるつもりはなかったのじゃがな。
 じゃが、まあ良い。
 夜はまだ長いが、このようなところで刻を無駄にするのは本意ではないからのう。行くとするかな――お前たち」
 しゅるるっ……という音が――
 耳に憶えのある、背筋が寒くなるようなあの音が、老人の語尾に重なった。
 塀の上から。電柱の陰から。家の軒下から。一匹、また一匹と、黒い鱗の蛇たちが路上に滑り出してくる。
 しゅる……るる……しゅるるるるるっ!
 十匹、二十匹――五十匹――まるで、壊れた堤防から流れ出す水流のように。街灯に照らされたアスファルトの上には、無数の黒い線模様が広がっていく。
「あ――」
 螺旋(らせん)を描いてジーンズのふくらはぎを這い登らんとする蛇たちを避け、つばさは後ずさる。だが、背中に触れた冷たい壁の感触とともに、ここが袋小路であることをあらためて思い知らされただけだった。
 ――しゅるっ!
 摩擦音が、すぐ耳元に聞こえる。
 反射的にまなざしを向けて、つばさは見た。見てしまった。自分の肩の上で鎌首をもたげて、双眼を爛々と光らせる一匹の蛇を。
 あげようとした悲鳴はしかし、唇を滑りでてはくれなかった。一瞬早く、凄まじい力が首筋を締めつけ、つばさの声と息とを喉の奥にせき止める。
「――! ――!?」
 蛇が喉に巻きついたのだということを悟るのに、数秒を要した。悟ると同時に、これまでとは比べ物にならない恐怖がつばさの心にのしかかった。
 首を、締められている。あたしは、今。
「――か、ぁ――っ!」
 首に巻きつく蛇の身体に両手をかけ、力の限りに引っぱった。だが、まるで結び付けられた荒縄のように、蛇は喉から離れてはくれない。
「本当ならば、ひと噛みで眠らせて連れて行ってあげるつもりじゃったのじゃがのう――」
 嗤(わら)いを押し殺した《蛇使い》の嗄れ声が、どこか遠く聞こえる。
「手間をかけさせてくれた、ささやかなお仕置きというものじゃ。少しばかり、苦しい目にあってもらうよ」
「――つ――はぁっ……」
 とぎれとぎれに息を搾り出すたびに、肺の中の空気がだんだんと少なくなってくのが分かる。
 崩れ落ちるように、つばさは地面に両膝をついた。身体を這い登る蛇たちを、振り払う力ももはや残ってはいない。
 ――し……死んじゃう……死んじゃうよぅっ……
 涙で滲んだ視界が、ぼんやりと白く霞んでゆく。
 しゅる……
 揺らぎかけた意識の片隅で、つばさは気付いた。腿を這い登った一匹が、ジーンズの後ろのポケットに頭を滑り込ませるのを。
 ――あ――
 心の奥底が、ぴくんと波立った。
 そこは、そのポケットには。
 ――……発信……機……
 朦朧としたまま、つばさが視線を落としたその刹那。
 喉に巻きついた蛇が、くぐっ……とその輪を縮めた。



 明滅を繰り返していた切れかけの街灯が、ふわりと消えた。
 路地の片隅で向き合う三人のうえに、色濃い夜の闇が落ちる。
「……二つほど、確かめておきたいんだ」
 きょとんとした睦と訝しげに目を細めた仁矢を前に、京一郎は再び口を開いた。
「そうだね、まずひとつめは……睦さんが《千里眼》で見た、十字架のバックの紅の部分なんだけど――
 本当に、十字架以外のものは何も見えなかったかな? どんな細かいものでもいいから、思い出せたら教えてほしいんだ」
 その問いに、睦はしばし瞳を閉じて――それから、申し訳なさげに口を開く。
「ごめん。何も……見えなかったと思う」
「ああ、いやいや。別にいいんだ。どちらかっていうと、それを確認したかったんだよ」
 残念そうなそぶりも見せず、彼はのほほんと言葉を続けた。
「じゃあ、ふたつめだ。今度は十字架のほうだけど――太さはどれくらいだったかな。くっきりと太い十字架だったかい」
「ううん」
 睦は、今度は考えることなく首を横に振った。
「すごく細かった。
 一瞬見えただけだから、どれくらい近くにあの十字架があったのかわからないけど……もしすぐ目の前だったんだとしたら、幅は4,5センチしかないんじゃないかな」 
 言いながら彼女は、人差し指と親指で数センチほどの幅をつくってみせる。
「――うん」
 京一郎はまた、深く頷いた。自分の考えがある程度正しいことを確信した――そんなふうにも見える表情だった。
「……で、何なんだよそれが」
 それまで腕を組んで黙っていた仁矢が、尖った声で口を開く。彼にしては珍しく、急くような苛立ちを口調に滲ませて。
「ひとりでわけのわかんねぇ納得してねえで、結論だけ言えよ。その、十字架ってのに何の意味があるんだ?」
「……たぶん――睦さんが見たのは、鱗の持ち主の蛇が目にした光景だと思うんだ。それも、この浅草のどこかにある《蛇使い》の隠れ家の中で、ね」
 少しばかり声のトーンを落として、京一郎は答える。仁矢と睦は思わず小さく息を呑んで、彼を顔を見据えた。
「……どこかこの近くに、そんな場所があるってことか? 墓場か何かかよ」
 仁矢の洩らした言葉に、となりの睦が首を横に振る。
「ううん。お墓なんかの十字架とは、たぶん違うと思う。横の棒が、もっとずっと長かったし……」
「そうだね。十字になっているけれども、きっと本物の十字架というわけじゃない」
 京一郎が、ちいさく頷いて言葉を続けた。
「僕の想像が正しければ、睦さんや仁矢くんも普段から見慣れているものだよ。
 もしもそうだとすれば、《蛇使い》の本拠はこの街の中で、十数ヶ所くらいには限定できるかな。ただ――」
「ただ、何なんだ?」
 語調を荒げて、仁矢が訊いた。
 つばさのいる地点にこれ以上近づけない今、動きがあるまではここで待つほかはないのだが――それでもやはり、決戦を前に気が張り詰めているのだろう。
 刺すような彼の視線を受け、京一郎は一瞬だけ沈黙した。かすかな困惑の色を孕んだ溜息が、その唇から洩れ出でる。
「……ただ、いま駒形さんが立ち止っている場所は、それとは違うんだ。こんな、隙間なく家が建て込んだ場所のはずは――」
 沈黙。
「――京一郎くん?」
 唐突に途切れた彼の言葉に、睦が問いの声を投げかける。
 京一郎は、俯いていた顔をあげた。今の今まで浮かべていたのほほんとした笑みが唇から消え、いささかの緊張が表情に宿っている。
「ごめん、睦さん、仁矢くん。この話は、ちょっと後回しだ」
「――先輩!?」
 抗議の声をあげかけた仁矢に、京一郎は懐中時計の文字盤をかざしてみせた。
「――駒形さんたちが、動き出した」
 ガラスの板の中央で、明滅する紅い光点。その周囲を、黒地に白の線で描かれた地図が急速にスクロールしてゆく。
 発信機が――つばさが、動いているのだ。先ほどまでの緩慢な移動とは、うってかわったスピードで。
「こっちに……来てる!?」
 張りつめた声をあげたのは、睦だった。
 そう――地図上の紅い点は明らかに、この路地に向かって進んでいる。
「おい先輩、なんなんだ? これは」
 訝しげな仁矢の問いに、さしもの京一郎も答える声を持たない。とにかく、つばさをとりまく状況に何らかの変化が生じたことだけは明らかだった。
「駒形のやつ……何かあって、逃げ出してきたんじゃねぇだろうな」
「はちあわせしちゃうよ、このままだと」
 ふたりの視線が、京一郎に集まった。
 懐中時計の文字盤の上では、地図が滑るようなスクロールを続けている。角を曲がり、塀を乗り越え――いま彼らのいるこの場所まで辿り着くのに、もうあと三十秒はかかるまい。
「ひとまず――隠れて様子を見よう」
 京一郎は、短くそう判断を下した。
 つばさが逃げてきたのであれば、《蛇使い》はすぐその後を追ってくるだろう。あの怪老人と今ここで対面するのは、どう考えても得策とはいえない。
 三人はビルとビルの間の狭い隙間に身を隠し、しゃがみこんでおのおのの懐中時計に視線を落とした。
 発信機の点はまた、路地の角を曲がる。この場所までは、あと30メートル。20メートル――
 息をひそめて、京一郎たちは待った。つばさのスニーカーの靴音が、路地の向こうから聞こえてくるその時を。
 だが、しかし。
「――――!」
 三人は、はっとした表情で互いの顔を見合わせる。
 紅い点は、すぐ目の前の路を通過中だ。にもかかわらず、アスファルトを蹴る足音はわずかたりとも耳に入ってはこない。
 その代わりに、ひっそりとした夜の静寂の中に響くのは。
 ああ。聞き覚えのある、乾いた鱗が地面と擦れあうあの音は――!?
「――仁矢くん!」
 京一郎が制止の声をあげたときにはもう、仁矢は弾かれたように立ち上がり、走り出していた。黒いシャツの後ろ姿はあっという間に、建物の向こうに見えなくなる。
 京一郎と睦はやむなくその後を追い、ビルの陰を抜けた。
 仁矢の姿を探し回る必要はなかった。すぐ目の前の十字路に、彼は立ち止っていたからだ。
 いや、その背中は立ち止っているというよりもむしろ、呆然と立ち尽くしているように見受けられた。両の拳だけをただ、ぎゅっと固く握りしめて。
「仁矢くん。どう――」
 どうしたの? という睦の問いかけは、最後まで発されることなく途切れて消えた。
 見えたのだ、仁矢の背中越しに。彼の動きを凍てつかせたものが、何であるのかが。
 睦が、京一郎までもが、声もなくその場に立ち尽くした。
 絶望的な沈黙の中、しゅるる……という乾いた摩擦音だけが真夜中の路地に響きわたる。
 十字路の向こう側に立つ、街灯の下。一匹の蛇がゆっくりと鎌首をもたげ、京一郎たちを見返した。
 仄蒼く光る双眼に、湛えるは嘲りの色か。
 街灯の明かりを照り返し、蛇の口元に咥えられた小さな金属が、鈍い煌きを帯びる。
 そう――古風なデザインを施された、一枚の銀貨が。


 誰も。
 言葉を発することは、できなかった。
 押しつぶされそうに重い沈黙の中で、黒い蛇が咥えたコインを見据えるのみだ。
「……くっ」
 仁矢は、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
 この銀貨が――つばさに渡された発信機がここにあるということは。
 それはつまり、つばさと《蛇使い》はもはやこの近くにはいない、ということだった。
 あの怪老人はまんまと、つばさを自分の根城に連れ去った。だからこそこうして、奪い取った発信機を手下の蛇の一匹に咥えさせ、仁矢たちのもとに運ばせたのだ。
 勝利を宣言するために。無益な追跡を、愚弄するために。
 蛇はくるりと身をよじり、左右に尾を振りながら遠ざかってゆく。仁矢たちの前を離れ、路地の奥にわだかまる闇の中へと――
 ちっ! と舌打ちをして、仁矢は一歩を踏み出した。
 たとえ、今のこの状況に何の影響を与えることはできないとしても。このふざけた蛇を悠々と主人のもとへ帰してしまったのでは、腹の虫が収まりそうにはなかった。
 だが――その時だ。
 走り出そうとした仁矢の横を、一瞬早く駆け抜けた影があった。
「――――!」
 驚愕に息を呑んで、仁矢は目の前に翻る長い黒髪を見る。
 ――香春――先輩!?
 ほんの一瞬だけ視界をよぎった、睦の横顔には――眼鏡の奥の瞳には、普段の彼女からは想像もつかない張りつめた光が宿っていた。
 足音に危機を察してか、黒い蛇は建物の隙間に逃げこもうと進路を転じる。しかし、一刹那早く、睦はその道筋の前に立った。
 呼吸を整えるように、ひとつ大きく息を吐いてから。彼女は身を屈め、ゆっくりと手を伸ばす。鎌首をもたげて口から牙を覗かせた、黒い蛇の頭へ。
「――睦さん!」
「先輩!」
 京一郎と仁矢の、叫びが重なる。
 だが、おそらくはその声すらも、彼女の耳に届いてはいなかっただろう。口元をきゅっと引き結び、これ以上はできないくらいに真剣な光をまなざしに宿して、睦は指を広げ――黒い蛇の頭を、ふわりと手のひらに包み込む。
 ――――。
 全ての時間がその動きを停めた、それは一瞬の出来事だった。
 空いた片手の指をそっと蛇の胴に添え、そして――
 そして睦は、何かに祈るかのように、両の瞳を閉じた。






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