〜第二十七幕〜 千里眼、ふたたび







 茜桟敷の一員として、《千里眼》をもって怪事件を追うようになって以来――
 睦の胸にはひとつの問いが楔(くさび)のように突き立って、離れてはくれなかった。
 もどかしさと、不安と、無力感と、焦燥と。そのすべてをひとつに織り上げた、重くわだかまる疑問符が。
 自分自身の問い掛ける声が、幾度も幾度も胸中を廻るのだ。
 この『力』は、誰を助けることもできないのではないか。自分はただ、「見て」いるだけの傍観者に過ぎないのではないか――と。
 確かに《千里眼》は、隠された事象を察知することができる。ものや場所に残された記憶の残滓(ざんし)。距離を隔てた場所で今まさに起こらんとしている事件の気配。それらを見えざるアンテナで捉え、映像の形で垣間見るのが睦の『力』だった。
 けれども――その能力は、受け身なものでしかない。
 何かが、見えるまで。事件の手がかりとなる映像が、頭の中に突如として降ってくるまで。睦にできるのはただ、待ち続けることだけだ。
 そして、もしも「見る」ことはできたとしても――映像はいつも、ジグソーパズルの一片にしか過ぎなかった。
 事件といかなる関わりをもつ断片なのか。解決に向けて、どのような糸口とすることができるのか。
 解き明かすことができなければまた、待つほかはない。《千里眼》が次のヒントを捉える、その瞬間を。
 そうしているうちに、事件のほうが先に終幕を迎えてしまったことも一度や二度ではなかった。
 事件の全貌が明らかとなれば、自分の掴んだパズルのピースが何であったのかを知ることはできる。けれどももちろん、それでは全てが遅いのだ。
 あの時も、そうだった。
 茜音たちと、出会うよりも前。それまで暮らしてきた武蔵野の孤児院から、浅草に移り住む契機となった――あの事件。
 いくつもの映像を、目にしながら。手がかりを与えられながら。
 わたしは、最後まで何もすることができなかった。誰を救うこともできなかった。
 ただ、見ていただけだったのだ。
 それまでの自分の生活が。日常として受けとめてきたもののすべてが歪み、軋みをあげ、焔の中に崩れ去ってゆくその様を。
 見ていることしか――できはしなかった。


 両の瞳をぎゅっとつむったまま――睦はひとつ大きく息を吸い込んで、口を噤んだ。
 すべての音が、耳から遠のいていく。
 張りつめた静寂と、無明の闇。ただ、手の中に蠢く蛇の気配のみが、睦の感覚が捉えることのできるすべてだった。
 鱗が手のひらの肌を撫でるたびに、恐怖が鋭い悪寒となって背筋を這い登る。洩れそうになる掠れた声を、睦は必死で喉元に留めた。
 ――お願い……っ――
 胸中に、睦は祈る。
 天にでも、神にでもなく。己自身に。己の中に眠る、《千里眼》の『力』に。


 解っている。解ってはいるのだ。
 自分の《千里眼》が、自分の意志をもって発動させることはできない――ひどく気まぐれで運任せな能力なのだということは。
 でも、それでも。
 見ているだけなんて、待ち続けるだけなんて、耐えられなかった。
 知りたい。何に替えてでも。
 手がかりがやってくるのを受け入れるだけではなく。自分から足を踏み出して、近づいていくその術を。誰かの助けとなるために、自分は何をすればよいのかを。
 先程も――仁矢たちがやってくるまでの間も、睦は浅草寺の軒下でずっと瞳を閉じていたのだ。何かが瞼の裏を過りはしないかと、全神経を注いで。
 けれどもそれは、徒労に過ぎなかった。
 何もないところでいくら懸命に念じても、《千里眼》の映像はやすやすと降ってきてはくれない。場所であるなり、品物であるなり――何らかの媒介が必要なのだ。
 だから。
 発信機を咥えた蛇を目にしたとき、睦は考えるよりも早く走り出していた。
 もしもこの場を黙って見送ってしまえば、手がかりとなるものは何もなくなってしまう。つばさと、橘 千絵という少女を救うための道は閉ざされてしまうのだ。
「――――」
 閉じた瞼の、裏の闇。その暗黒の向こうへと、睦は感覚の全てを傾ける。
 コインに残ったつばさの記憶と、蛇自身が有する記憶。
 拾い上げなくてはならない。ひとすじの、手がかりの糸を。
 この闇の向こうに、明日の夜明けを探すための、その道標を。
 だが……視界を満たすのはただ、無明の闇ばかり。
 胸の奥から滲み上がる絶望に抗いながら、睦は意識の海を泳ぐ。
 自分には、これしかできないから。
 意のままにはならない《千里眼》でも、これがわたしの『力』だから。
 もう一度。どうか、もう一度だけ――
 手のひらに蠢く鱗の肌触りまでもが、感覚から遠のいていく。
 睦を包み込むのはただ、全き闇。
 その闇が――
 唐突に、とくんっ、と脈を打った。
「――――!」
 とくん――とくんっ――
 繰り返される脈動が、胸の奥の心音に重なりあう。
 その共鳴を合図としたかのように、暗黒のヴェールの向こうで一筋の光が灯った。
 ――あ――
 眩暈(めまい)にも似た揺らぎが、睦の意識を掬(すく)う。
 立っている地面の感覚が消え去り、不可思議な、されど馴染みのある気配が全身を包みこんだ。裸になって水の中を漂っているかのような、あの浮遊感。
 淡い光が、ぼんやりと闇の中に広がる。
 睦の目の前で、光陰が模様を描いた。
 それはゆっくりと収束して――ピントを合わせるように、一枚の『絵』を形作っていく。
 ――来る……
 胸に込み上げる安堵を制して、睦は意識を引き締めた。
 ここからだ、勝負は。
 見逃してはいけない、たとえ一刹那たりとも。
 走馬灯の如く廻り過ぎる映像を、余すところなく記憶に焼きつけねばならない。
 息を噤んだ睦の、そのまなざしの先に――《千里眼》の映像がいま、焦点を結んだ。


 ――……!
 その瞬間、睦は思わず息を呑む。
 目に映ったのは、星空を背に佇む黒衣の影。
 口元に刻まれた満悦の笑みは、紛れもなく《蛇使い》の老人のものだ。見上げるアングルから察するに、この蛇の持つ記憶――
 それも、たった今目にしてきた光景に違いない。なぜなら、怪老人の腕の中にあるのは。人形のように懐に抱かれた、華奢な人影は。
 ――駒形さん……っ!
 胸中にあげた叫びは無論、《千里眼》の向こうの空間には届かない。
 いや、もしも届いたとしても、つばさの耳には入りはしなかっただろう。微かに眉間を寄せ、苦悶の表情をあどけない面立ちに刻んで――彼女は完全に、意識を失っている様子だった。
 胸に波立つ動揺を必死に鎮めて、睦は《千里眼》の織り成す光景を見据える。
 うろたえている場合ではなかった。今この時、恐怖と苦痛の下にあるのはつばさのほうなのだ。
 見出さねばならない。一枚の、この絵の中から。囚われたつばさを《蛇使い》の魔手から救い出す、その糸口を。
 ――……あ!
 巡らせた睦のまなざしは、一瞬ののちに『それ』を捉えた。
 佇む蛇使いの斜め上方、視界の縁ぎりぎりのあたり。
 夜空に浮かんでいるかのような不自然な位置に、大きく弧を描いた鉄骨のようなものが見えた。
 暗いうえにほんのごく一部なので、全体の形状を推し測ることはできない。
 だが――
 見たことが、あるような気がする。この浅草の街のどこかで。
 建物の一部にしては不自然な形にカーブした、鉄筋の骨組み。クリーム色のペイントには、ところどころに錆が浮かんでいる。
 ――――!!
 手繰り寄せた記憶の糸の先で、その時、電流のように閃くものがあった。
 そうだ。
 確かに、ある。ここからすぐ近いところに。あんなふうに歪曲した鉄筋を、目にできる場所が――
 その答えへと、睦が行き着いたのと同時に。
 水面に石を投げ込んだかの如く、視界がぐにゃりと歪んだ。


「――香春先輩!」
 耳に飛び込んできたのは、仁矢の鋭い叫びだ。
 その一声に、睦の意識は現実へと引き戻される。瞳を開いた瞬間、こちらに向かって駆け出してくる仁矢の姿が見えた。
「放り出せっ! そいつをっ!」
「……え?」
 まだ半ば朦朧としたまま、睦は声を洩らす。
 その時だった。ずるり……と手の中に、鱗の感触が蠢いたのは。
 咄嗟に見おろした自分の手の指から、黒い蛇はゆっくりと這い出してきた。
「――――!」
 睦は思わず腕を振る。だが毒蛇の身体は手首に絡みつき、放り出すことは叶わない。
 獰猛な怒りを双眼に煌めかせて、蛇は素早く鎌首をもたげる。牙を生やした口が開き、零れた銀貨が澄んだ音をたてて足元のアスファルトに転がった。
 しゃああッ!
 歓喜の声とともに紅い舌を覘かせると、毒蛇は睦の手の甲に牙を突きたて――


 突きたてかけたところで、ぴたりと動きを停めた。


 ――……え?
 呆然と、睦は息を呑む。
 何が起こったのか、まったく解らなかった。
 自分の手の甲にいましも食らいつかんと顎を開いたまま、毒蛇は完全に固まっていた。そう、まさしく凍りついてしまったかのように。
 一瞬ののち、その身体からふわりと力が抜ける。蛇は睦の指からほどけ落ち、地面に転がった。
「睦さん! 仁矢くん!」
 澄んだ声が、不意に夜の静寂を裂く。
 巡らせたまなざしの先には、京一郎の姿があった。
 いつも通り、前髪に隠れて見えない双眸。だが、彼のその視線が鋭くこちらを――自分の手元を見据えているのが判った。
 と同時に――睦は理解する。今の一瞬に、何が生じたのかを。何が蛇の動きを凍てつかせたのかを。
 ――《催眠術》――
 複雑な思考を持たない存在には、複雑な催眠を施すことはできない。だが、視線で射すくめることで、金縛りをかける程度は可能なのだと――以前、京一郎から聞いたことがあった。
 術の効力は一瞬のみだったのだろう。地面に横たわった蛇は再びゆっくりと動きだし、鎌首をもたげる。
 だが、黒い毒蛇は睦の足元へ這い寄ることはできなかった。
 一瞬早く走り込んできた仁矢の蹴りが、駆け抜けざまに鋭く蛇の身体を蹴り飛ばしていた。


「――ナイス、仁矢くん♪」
 仁矢に向けてぽんと手のひらを打ち鳴らしながら、京一郎はこちらに歩いてくる。
 彼の顔を見据えたまま、睦は深く長い息をひとつついた。
 安堵したとたんに、軽い眩暈と脱力感に襲われる。『力』を使った反動だろう。《千里眼》の発動のあとは、いつもこうだ。
「ぁ――」
「おっと」
 よろめきかけた睦の肩を、すんでのところで京一郎が支える。
「大丈夫かい睦さん。あぁ、ヒヤヒヤした。今のはちょっと危なかったよ」
「……ちょっとじゃねえぜ、ったく。いきなり無茶すんじゃねえよ、先輩」
 二人の言葉に、睦はかくん、と頭を垂れた。ごめん、と言うべきところだったが、息があがってうまく言葉が出てこない。
 それに――今は何よりも先に、伝えねばならないことがあった。
「は……花やしき……の、遊園地……」
 とぎれとぎれに、睦は声を絞り出す。
「――ん?」
「駒形さんが……捕まってる……遊園地の、近く、だと思う。ジェットコースター、の……レールが、見えた、から――」
 そう――
 《千里眼》の視界の、片隅に映ったもの。大きく弧を描いて夜空にかかる、クリーム色の鉄骨。
 あのようなものが見受けられる場所は、この界隈にはひとつしかない。浅草寺と六区映画街との間に敷地を持つ老舗遊園地、「花やしき」だ。
 メリーゴーランドや小型観覧車、展望ゴンドラといった昔ながらのアトラクションの数々は、周囲の街路からでも見上げることができる。
 夜闇のために細部まで見て取ることはできなかったが――間違いなくあの鉄の骨組は、遊園地を一周するジェットコースターのレールだった。
「……花やしきか。舐めやがって、茜桟敷のすぐ近くじゃねえか」
 低く殺気立った声で呟くと、仁矢は京一郎を見上げた。
「どうする先輩? あの辺りの建物、手分けしてしらみつぶしに回るか?」
 彼の声には、焦燥の色が濃い。
 花やしき遊園地の周りは、商店や雑居ビルの建ち並ぶ繁華街だ。コースターが見える場所とはいっても、該当する路地や建物は十や二十ではきかなかった。捜索の範囲がかなり限定されたとはいえ、端から調べて回るにはそれでもまだ広すぎる。
 だが――
「――いや、その必要はないよ」
 京一郎の唇が、おもむろに言葉を紡いだ。
 睦と仁矢は、思わずはっとして彼の顔を仰ぐ。
 つかみどころのない表情も、飄々とした口調もいつも通りながら――京一郎の纏う気配には確かな変化が生じていた。
 そう。言うなれば、普段は彼の周りをふわふわと漂っているソフトフォーカスな空気が、一点に鋭くピントを絞ったかのように。
 自らのシャツの胸ポケットに指を差し入れながら、京一郎は睦に顔を向けた。
「見えたのは、花やしきのゴンドラに間違いなかったかな?」
 確認のその問いに、睦はこくりと頷く。
 京一郎の口元に、微かな笑みが刻まれた。会心の、と称しても良いであろう、穏やかに冴えた微笑が。
「OK。なによりのヒントだよ、睦さん。これで――」
 ポケットから取り出だした紙を、彼はばさりと手元に広げる。
「――これで、答えは絞れる」
「「――――」」
 睦と仁矢が落としたまなざしの先。B4版ほどの紙の上に印刷されているのは、細かな街路の地図だった。
 中央に浅草寺の敷地が見えることから、この周囲を記したものであることは判る。書店でも売っている道路マップをコピーしたと思しき、それだけであれば何の変哲もない浅草の街路図。
 だが、二人の目を釘付けにしたのは、その上に散らばる赤色の×印だった。
 一、二、三……ざっと見ても、二十ヶ所はあるだろうか。浅草寺を中心とした直径1kmほどの円の中に、それらは無秩序に記されている。
「僕の見立てに間違いがなければ――《蛇使い》の本拠はこの建物だ」
 言葉とともに、京一郎の指がそのうちのひとつを指し示した。
 花やしき遊園地の東側に面した、名称記載のない建物。
「花やしきの周りに範囲を限定できるなら、条件に合う建物はここしかない。このビルの前からだったら、ジェットコースターもかなりはっきり見えるはずだよ」
 いつもながらに柔らかな。けれども、いささかの澱みもない京一郎の声。
 二人は黙ったまま、彼の顔と、その指が示す浅草の地図とを見比べる。
 確かに、赤い×印のうち、花やしき遊園地の周囲に位置しているのはその一点のみだ。距離を隔てた他の場所からはおそらく、コースターを視界にとらえることはできないだろう。
 だが――睦にはむろん、想像もつかなかった。地図の上に記された、二十箇所ほどのポイント。《蛇使い》の根城の候補地であろうその点を、そもそも京一郎がいつのまに、いかにして割り出したのか。『条件』というとは、いったい何なのか。
 隣の仁矢も、おそらく同じだろう。少しの間を置いて、彼はじろりと京一郎を睨みすえた。
「……相変わらず、わけがわかんねぇうちにひとりで答え出しやがって」
 舌打ち混じりに、鋭い声で仁矢は口を開く。
「あやふやなまんま引っぱり回される、俺らの身にもなってみろってんだよ」
「悪いね。さっき、これから説明しようと思っていたところだったんだ」
 済まなさそうな苦笑を浮かべて、ぺこりと頭を下げる京一郎。だが仁矢は、憮然とした表情のままであさっての方向に視線をそらした。
「……んなもん要らねえよ、いまさら」
 半分拗ねたような口調で言い捨てて、彼はすたすたと数歩を歩む。
「仁矢くん?」
 京一郎の声にも応えぬまま、仁矢はアスファルトに手を伸ばして何かを拾い上げた。
 銀色に輝く、一枚のコイン。先程黒い蛇の口から零れた、茜桟敷特製の小型通信機だ。
 次の瞬間、仁矢は背を向けたままコインを指で弾いた。
 宵闇に銀の軌跡を描き――それは京一郎がかざしたの手の中に、ぱしん、という小さな音をたてて収まる。
「時間がねえんだろうが。
 ――賭けてやるよ。外してたらただじゃおかねえからな、先輩」
 振り向きもせずにそれだけ言って、仁矢は走り出した。路地の奥へ。花やしき遊園地の方角へ。
「――――」
「行こう、京一郎くん」
 仁矢の背中を見つめる京一郎に、睦は声をかける。
 それ以上の言葉は、要らなかった。仁矢の言うとおり、説明は後でだっていい。
 仁矢も、そして睦も知っている。京一郎がひとたび推論を口にした以上、それに信頼を置いて後悔するようなことには決してなりはしないのだと。
 ちいさく頷いて、京一郎はこちらに顔を向ける。その口元に一瞬くすぐったさそうな――それでいて嬉しげな微笑が過るのを、睦は見たような気がした。
「もう走っても大丈夫かい、睦さん。もしまだ辛いようだったら――」
「――怒るよ」
 笑みと、はっきりした声で、睦は京一郎の言葉を遮った。
「……悪かった。じゃ、行こうか」
「うん」
 いまいちど、同時にこくりと頷いて。それから二人は、仁矢の背を追って夜の路地を走りはじめた。


 人っ気のない裏路地を縫い、五分もかからずに三人は花やしき遊園地の側へたどり着いた。
 園の営業時間はむろん、とうに終わったあとだ。道路に面した柵の向こうでは小型観覧車やメリーゴーランドといったアトラクションが、ひっそりと夜の静寂の中に佇んでいる。
 夢の国にも、つかのまの眠りは訪れるのだ。
 昼の間はざわめきと音楽に包まれた空間であるがゆえに、夜の遊園地というものは単なる無音以上に静まりかえって感じられる。そう、まるで、時間そのものがひややかに凍りついてしまったかのような。
 入場門の斜め向かいにある商店の影に隠れて、京一郎たちは周囲をうかがった。
 花やしきの周りは広い通りとなっており、六区の繁華街に隣接しているがゆえに居酒屋の類も多い。路地裏と違って、午前一時を回ったこの時間でも通りにはまばらな人影が見受けられた。
 通行人の目につけば、怪人との対決以前に厄介事が増えることになる。このあたりが、未成年だけで事件を追うがゆえの瑣事(さじ)なのだ。
「――あのおじさん達が通り過ぎたら、例のビルの前まで一気に走ろう」
 六区の居酒屋のお客だろう――遊園地の門の前を千鳥足で歩いていくサラリーマン風の男性二人を指で示して、京一郎は言った。
「……平和そうな顔して酔っ払いやがって。
 先輩、《催眠術》でどうにかなんねえのか?」
「気持ちはわかるけど、焦って突っ走るとくだらない落とし穴に嵌るよ、仁矢くん」
 苛立ちを隠そうともしない仁矢を、京一郎が淡々とした声でたしなめる。
「あの人たちに『力』を使っているところを別の誰かに見られたら、それこそ洒落にならないからね。ここは、黙って待つのが近道さ」
 京一郎の言葉に、仁矢は短く舌打ちをして口を噤んだ。
 二人のやりとりを聞きながら、睦は塀の向こうの遊園地に視線を向ける。
 夜闇の中にその姿を浮かびあがらせた、白塗りの展望ゴンドラタワー。そのタワーの下を大きくカーブしながら横切るジェットコースターのレールは、、まさしく先程《千里眼》で目にしたクリーム色の鉄骨にほかならなかった。
 と、いうことはやはり――
「……あの、ビルなんだよね」
 まなざしを東に巡らせながら、睦は呟く。
 一見したところ、それは何の変哲もない古ビルだった。
 周囲の建物よりも頭ひとつ突き出た、4階建て。面積は狭いので、牛乳パックを立てたような細長い形をしている。一番上の部分が斜めに切り取られたように傾斜した屋根になっているのが、特徴といえば特徴だろうか。
 おそらく、築三十年は経っているだろう。剥き出しになってひび割れたコンクリートの外壁には、三階のあたりまでびっしりと這い登った蔦が見てとれた。
「そうだね。外から見る限りでは、この辺りの他のビルは条件に合わない――」
 通りの様子をうかがいながら、京一郎は口を開く。
 二人の通行人は、ちょうどすぐ目の前を通り過ぎていくところだ。千鳥足なので、じれったくなるくらいに足どりが緩い。仁矢の殺気だった苛立ちが、傍らの睦にも空気の震えになって伝わってくるかのようだった。
 そんな仁矢のほうを振り返って、
「……西側に遮るものなく空間が開けた、所有者不明の建物。それがまず、第一のポイントだったんだ」
 おもむろに――京一郎は言葉を切り出した。
 仁矢と睦は、思わず呆気に取られた表情で彼を振り返った。
「そんな条件だけじゃ絞るのが難しいかなと思ったけど、幸いこのあたりの街は建物が密接して入り組んでいるからね。西側に全く遮蔽物がないビルや家って、デパートとかを除いては意外と少ないんだよ」
 変わらぬ飄々とした口調で、語り続ける京一郎。
「……何なんだよ、西側がどうのって」
 訝しげに眉をひそめて、仁矢が訊ねた。
 京一郎が語り始めたのは、もしかすると仁矢の苛立ちを逸らすためなのかもしれない。だとすれば、その目論見は見事に成功をおさめていた。
 そして睦もまた、口を噤んだまま京一郎の声に耳を傾ける。
 先に手品を見せてからそのタネ明かしをするように論を進めるのが、京一郎流の話術だ。今はまだ、彼が懐に隠した仕掛けを推し量ることはできなかった。
「睦さんが見た、『赤地に黒の十字架』さ。あれは何かな、って思ってね」
「え――?」
 きょとんとした顔で声をあげた睦に、京一郎は微笑を向ける。
「睦さんの《千里眼》が捉えたのなら、それは何らかの手掛かりになる映像のはずだよね。で、蛇の鱗が媒介になったわけだから、たぶんその蛇の記憶……《蛇使い》の隠れ家の中で目にできるものなんじゃないか。そこまでは考えられたんだけど、さあ、その後が続かない。場所のヒントになるような、『赤地に黒の十字架』――
 ちょっと悩んだんだけど、茜桟敷からの帰り道にぼんやり空を見てたら、ふっと気付いたんだ。あるんだよ――赤地に黒の十字なんて、街のいたるところに」
 そこまで言って、彼は目の前の道路に顔を向けた。
 飲み屋帰りの男たちは、路地の向こうへ歩み去っていくところだ。あの二人の背中が見えなくなってしまえば、周囲に人通りは絶える。
「そろそろ出発の時間だね。結論を先に言おう。
 睦さんが見た、赤地に黒の十字架。たぶんそれは――建物の中から見た『あれ』だったんじゃないかな」
 京一郎は腕をかざし、件のビルの上を指差す。
 屋上は無く、西側に向けて斜面となっている天井部。その中央に設けられた、採光のための大きな天窓。
「「――――!」」
 睦と仁矢は、二人揃ってはっと息を呑む。なぜなら、そこには。その窓には――
「……思い至ってみれば、単純なことだったんだ。拍子抜けするくらいに」
 静かな声で、京一郎が呟く。


 ありふれすぎているがゆえに、普段は意識することもない『十字架』がそこにあった。
 そう。天窓の曇りガラスを四つに分割する、十文字の窓枠が。


「ビルの中からあれを通して茜色に染まった西の空を見れば、『赤地に黒の十字架』は完成するんじゃないかな。
 ただまあ、どこにでもありそうに見えて街の中じゃ実はけっこう難しい条件なんだ。
 睦さんが『十字架』以外の影は見えなかったって言ってたからね。西を見たときに視界に入るものが、空のほかには何もない窓じゃなくっちゃいけない。
 それに、中央を十文字に切った窓枠って、最近の建物ではそこそこ珍しいんだよ。
 そうやって絞っていったら、この界隈では二十箇所ちょっとくらいまでには限定することができたんだ」
 それがこの、地図の×印ってわけさ――と、京一郎は自分のポケットをぽんと叩いてみせた。
「――……」
 仁矢と睦は半ば呆けたように、京一郎の顔とビルの天窓とを見比べる。
 確かに彼の言葉通り、拍子抜けしてしまうくらいに単純な『十字架』の正体だ。だが、単純すぎるがゆえに、今の今まで意識にのぼらせもしなかった。
「そうかぁ……」
 片手で眼鏡の上から目を覆い、睦は思わずがっくり肩を落として溜息をつく。
「ん? どうしたんだい睦さん」
「ダメだなあ……。わたし、直に見たんだよ? あの『赤地に黒の十字架』。それなのに、いま言われるまで夕空だなんてぜんぜん思ってもみなかったんだもの」
「いやいや、そもそも睦さんの《千里眼》あっての推測だよ。例の十字架がなければ、何も始まらなかったからね」
 軽く笑ってから、京一郎は通りのほうに顔を戻した。
 通行人の姿は向こうの角に消え、花やしき遊園地の前にいま、人の姿はない。
「――先輩」
「ああ。
 ここからが、桟敷の幕開けだ。落ちついて、気を抜かずにいこう」
 京一郎の声に、睦と仁矢は揃ってちいさく頷く。空気が、凛と鋭く引き締まった。
「先に行かせてもらうぜ、先輩。見張りがいると面倒だからな」
 言うと同時に、仁矢が路地に走り出た。
 足音は立てず、されど迅速に。夜闇と同色のシャツの背中は、またたく間に件のビルの狭間に滑り込む。
「……はりきってるなあ、仁矢くん」
 額の上に手をかざして、京一郎はのほほんとした口調で呟いた。
 明日になったらきっと、仁矢くんはこれでもかというほど京一郎くんにからかわれるに違いない。睦はそう思った。
 そういう明日を、わたしたちは迎えなくてはいけない。
 眼鏡の位置を整えてひとつ大きく深呼吸をした時、京一郎がこちらを振り返った。
「……助かったよ、睦さん」
「――え?」
「さっきのあれがなかったら、候補のビルをしらみつぶしにあたっているうちに時間切れになっちゃうかもしれないところだった。
 びっくりしたよ。睦さんにあんな思い切ったことができちゃうなんて、正直これまで思ってもいなかったからね」
 軽く頭を下げて、彼は柔らかに微笑む。片方の頬がぴくりと動いたのは、たぶんウィンクをしたのだろう。
「――――」
 睦が咄嗟には言葉を返せないでいるうちに、向こうのビルの影から仁矢が手を振るのが見えた。よし、と呟いて、京一郎は路地に走り出していく。
 その後姿を見つめながら、睦はいささかきまりわるげにはにかんだ。
「……わたしだって、びっくりしたってば」
 あんなことするなんて、自分でも思ってもみなかったんだから。
 呟いた言葉は、もちろん京一郎の背には届かない。
 上気した頬を両手でぺちんと叩き、表情を引締めなおして。それから睦は、彼の後を追って走り出した。
 眠りに落ちた街の片隅。決戦の舞台はもう、ほんの二十メートルの先に聳えている。


 冷ややかな空気の流れが、つばさの頬を撫でた。
「……ぅ……?」
 唇から、洩れ出でた声。己自身のその声が、微かに意識の底へと届く。
 ――あれ……?
 なにを……していたんだっけ、あたし。
 ゆっくりと、つばさは目を開く。だがしかし、視界に入ったのはぼんやりと蒼い薄闇だけだった。どこか暗い場所で、自分は柱のようなものに寄りかかっているらしい。
 何だろう。こんなとこで、立ったまま寝ちゃってるなんて。いや――
 それより、ここは、どこだろう?
 靄のかかった頭のまま、口の中に溜まった唾を飲み下す。瞬間、ずきんっ……という鈍い痛みが喉を突き抜けた。
「――――!!」
 その痛みを引金に、意識と記憶は刹那に輪郭を取り戻す。
 そうだ。あたしは。あたしは――
 つばさは思わず、弾かれたように一歩を踏み出した。
 だが――
「――っ!」 
 手首に締め付けるような痛みが走ると同時に、つばさは思いっきり前につんのめってしまう。
 床に倒れそうになるのを何とか踏みとどまりながら、つばさは悟った。自分の両手が後ろで縛られて、柱にくくりつけられていることを。
「……おや。気がついたかね、お嬢ちゃん」
 芝居がかった嗄れ声が、その時、闇の中に響いた。
「――――!」
 顔をあげて、つばさは声の方向をきっと睨みつける。
 辺りにわだかまる、闇の向こう。淡い蒼のスポットがあたったように、ほんのわずかな光がコンクリートの床を照らし出していた。
 この空間における唯一の光源。それは、人工の明かりではない。
 はるかに高い天井に、天窓がひとつ開いているのが見える。辺りを無明から救っているのはただ、ガラスを通して射し込む星明かりばかり。
 ぼんやりと拡散して床に映る、天窓の四角形。光の中央に十字を刻む、窓枠の影。
 その十字の交差の上に佇んで――黒衣の怪老人は、恭しく頭を下げた。
「歓迎させてもらうよ、駒形つばさちゃん。
 ――ようこそ、わしらの城へ」






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