〜第二十九幕〜 奈落







「……ったく……」
 露骨に辟易とした顔で、仁矢は建物の側面を見上げる。
「どういうわけで奇術師のやつら、こんな胡散臭い古ビルばっかり根城に選びやがる」
 はるかに高い位置まで、びっしりと蔦の這い登った煉瓦の壁。
 見渡す限り、窓の類はひとつも見受けられない。ここからでは目にすることのできない上部の天窓が、おそらく唯一の通気孔なのだろう。
「まあ、一語で言えば趣味ってものだろうね」
 京一郎が隣で、のほほんと口を開いた。
「それに関しては、われらが茜音さんもいい勝負だと思うよ。茜桟敷地下の胡散臭さは、そんじょそこらの幽霊ビルなんて裸足で逃げ出すだろうし」
「……でも、この建物――それを抜きにしても拠点にするのにぴったりだったんじゃないかな」
 古びた壁にまなざしをめぐらせて、呟いたのは睦だ。
「外からは覗けないし……入口がここひとつしかないなら、出入りを見張るのも簡単そうだもの」
 眼鏡の奥の瞳に、緊張の色が宿る。
 仁矢と京一郎もまた、彼女が見据える先へと視線を向けた。
 両開きの、大きな鉄製の扉。もとは臙脂色であったとおぼしき塗料はぼろぼろに風化し、あちこちに錆が浮き出ている。
 ビルの裏側に設けられたこの扉が、内部に至る唯一の出入口であるらしい。少なくとも、周囲の細い路地を一周してみた限り、ほかにドアの類は見受けられなかった。
「――唯一、というのはあまり気に入らないねえ。睦さんの言う通り、向こうにとっては侵入者への対策が立て易いわけだ」
 扉の中央についた大きなドアノブに指を触れて、京一郎が口を開いた。内側に錠がかかっているためか、それともぎっしりと浮かんだ錆びのせいか、静かに力をこめても取っ手はわずかなりとも回りはしない。
「どうするかな。もしかしたらここのほかにも、中に入るルートはあるかもしれないよ。このドア、どう見てもしょっちゅう使っている風じゃないからね。
 少しばかり、探してみるかい?」
「――そんな悠長なことやってられるかよ」
 ぼそりと呟いたのは、仁矢だった。
 抑えたトーンの中に、獣の唸りを思わせる危うげな響きを宿した声。京一郎と睦は、思わず振り返る。
 ふたりのまなざしに気付くと、仁矢はふっと視線をそらし、きまりわるげに短い息をついた。
「陰険そうなじじいだ、どこから行ったって罠はあるだろうぜ。正面突破がいちばん面倒がすくねえんじゃねえのか」
 少しばかり語調を早めてそう言うと、彼は扉の正面から数歩後ろに下がった。細道を隔てた向かいのビルの壁に背を預け、ゆっくりと両の拳を握りしめる。
「……ぶち開けられるぜ、それぐらいの扉ならよ」
「――わたしも、それがいいと思う」
 うん、と頷いて、睦が京一郎のほうを向き直った。
「この向こうに駒形さんが捕まっているんだとしたら――やっぱりもう、回り道なんてできないよ」
「OK。じゃ、今回は強行突入の方向でいこう」
 おそらく、ふたりの返答を初めから予想していたのだろう。口元に迷いなき微笑を刻んで、京一郎は首を縦に振った。
「一刻も早く、駒形さんを救いたい――と、仁矢くんのマナザシも真剣にそう言っていることだしね」
「……さっさとそこを退けよ、先輩。ドアと一緒に蹴り飛ばすぞ」
 あながち冗談には聞こえない仁矢の言葉に、京一郎は慌ててその場を離れる。
 不機嫌に舌打ちしてから、仁矢は両の目を閉じた。
 握りしめた拳にぐぐっ……と力がこもり――それに合わせたように、彼を取り巻く空気の質が鋭さを増していく。
 京一郎と睦には、肌で感じることができた。鋭いまなざしで、扉を睨み据える仁矢。彼の中に『力』の気配が膨れあがる、その様を。
 短く、そして長い数秒の沈黙の後――
「――行くぜ」
 短い声とともに、仁矢はゆっくりと瞳を開いた。


 はあっ……はあっ……
 肩で息をしながら、つばさは必死で《蛇使い》を睨み据える。
 目を逸らしたら、まばたきのひとつでもしたら、そこで全てが終わってしまいそうな。そんな気が、なぜかしてしまう。
 そのまなざしの先。《蛇使い》は。黒衣の怪老人は――
 床に乱れのたくる、蛇たちの渦の中。資材の山に足をかけたところで、むぅ、と唸って足を止めた。
 よしっ……と、つばさは拳を握り締める。手の中にある黄金色(こがねいろ)の笛は、掴んで数十秒もしないというのにすでにぐっしょりと汗に濡れていた。
 勝負は、ここからだ。
「ち……千絵ちゃんを眠らせちゃった蛇の毒――解毒剤、あるんでしょっ。持ってきて。今すぐここに持ってきてよっ。でなかったら、絶対にこの笛返さないんだからっ!!」
 声の震えを必死に抑えながら、ありったけの声でつばさは叫ぶ。
 待ってて、千絵ちゃん。もう少し。もう少しだから――
 資材の山の頂上と麓。つばさと《蛇使い》はしばし、沈黙のうちに対峙した。
「も……もしも、じゃよ」
 先に口を開いたのは、老人のほうだ。口元に笑みを形作り、不気味なまでの猫なで声で。
「もしも、わしがお嬢ちゃんのお友達のために解毒剤をもってきてあげたならば――
 お嬢ちゃんは、わしとともに来てくれるのかね。最初の約束通り」
「――――」
 約束、という言葉に、つばさはほんの一瞬だけ返答に詰まった。
 けれども、あれは決して対等に結ばれた約束なんかじゃない。
 ゆっくりと、だがきっぱりと首を横に振る。
「……何故じゃね。何故そんなに、嫌がるのかのう」
 《蛇使い》の双眸が、すうっ……と細められた。
「わしがあれほど、素晴らしさを語ってあげたというに。奇術の『力』を自在に使うことのできる、理想の――」
「――うるさいっ!」
 怒りをこめた一喝で、つばさは老人の声を遮った。
「行かないったら、行かないよ! 《東京大魔術計画》なんかに、あたしは絶対に加わんないんだからっ! 東京をめちゃくちゃにしちゃうなんて、そんなことさせるもんかっ」
 いまこのときも、病院のベッドの上で眠りつづけている千絵ちゃん――それを思うたびに、鳩尾(みぞおち)の奥が軋んで潰れそうになる。
 あたしだけじゃない。千絵ちゃんのお父さんも、お母さんも。クラスの友達も。堪えられないくらいの不安の中にあるに違いない。
 東京を、この街を壊すというのは。そんな不安を、痛みを、悲しみを、幾百、幾千、幾万と、街中にもたらすということだ。
 目の前の老人は、その後ろにいるであろう《東京大魔術計画》の奇術師たちには、それが解らない。きっと、解ろうともしていない。
 仲間になんて、加われるはずがなかった。
「……正直、理解できんのう」
 はりつめたつばさの表情を見上げ、《蛇使い》は首を傾げる。
「ひとつ、聞かせてはもらえんかな。お嬢ちゃんがこのような街を守りたいと思う、その訳を」
「――理由なんかじゃ――ないもんっ」
 つばさは応えた。胸に宿る力を、まっすぐ声にこめて。
 今あたしがここにいるのは、この街を守ろうと思ったからではない。茜音さんにも伝えた通り――千絵ちゃんを助けたい、ただ、それだけだ。
 でも、あたしは。あたしは――
 この街で一緒に暮らす、叔父さんと叔母さんが好きで。この街で出会った、千絵ちゃんが好きで。学校の友達が好きで。駒形座のみんなが好きで。いきつけのお風呂屋さんが好きで。仲見世のざわめきが好きで。夕暮れにのんびりと渡る吾妻橋が好きで。隅田川の土手が好きで。浅草寺境内の屋台が好きで。アーケード商店街の賑わいが好きで。
 きっと絶対に、これからこの街で出会って好きになるひとたちがいて。好きになるものがあって。
 なくせない。なくさせない。壊させるわけには、いかない。
「あたしは、ずっとここにいるよ。この街に。ついてなんて、行くもんかっ!」
 黄金の笛を両手で胸の前にかざして、つばさは叫ぶ。
「早く、解毒剤持ってきてよ! 千絵ちゃんがちゃんと目覚まさなかったら、絶対に許さないんだからっ!」
「……ふむ」
 《蛇使い》は、大きくかぶりを振った。
「成程、な。やはりお嬢ちゃんは、《東京大魔術計画》には賛意を示してはくれぬか」
 微かに俯くと、彼は足元を見渡す。
 蛇たちの奔流はもはや止めようもなく、老人の黒衣にも胸の辺りまで数匹の毒蛇が這い登っていた。彼自身が未だ牙にかからないのが、不思議なくらいだ。
「当ったり前でしょ。さっきから言ってるじゃんかっ」
「……最後にもう一度だけ聞くぞ。わしとともに来てくれるつもりはないのかね」
 声を荒げるつばさに、《蛇使い》は静かな声で問いを重ねる。
「ないってばっ! 何があったって、絶対に行かないっ。
 解毒剤おいて帰ったら、あたしを連れてこいって頼んだひとにも伝えてよ。いくら誘いに来たって、無駄なんだからねっ」
 声を荒げて、つばさはかぶりを振った。
 大声を出し続けたせいか、心臓が破裂しそうに脈打っている。はぁはぁと息をついて、つばさは片手で胸元を押さえた。
「そうか――」
 俯いたまま、《蛇使い》が小さく溜息を紡いだ。
 ――え……?
 その刹那、つばさの脳裏をひとかけらの違和感が掠める。
 黒衣の老人の双眸は落ちかかる白髪に隠れ、つばさの位置からは見下ろせない。
 だが、何だろう? ほんの一瞬だけ、その唇が刻んだ表情は。
 あれは――嗤い?
「――それは、残念じゃ」
 怪老人が、呟く。言葉とは裏腹の、歪んだ歓びを声に滲ませて。
 肩を竦めた失望の仕草も、どこかそらぞらしく。
 正体不明の悪寒が、つばさの背を這い登った。と、それに時を同じくして――
 周囲の空気が、一瞬にしてその質を変える。
 その変化の正体に、つばさは一瞬遅れて気がついた。
 静寂、だ。
 止んでいる。ほんの数秒前まで、ビルの中を満たしていた音の群れが。鱗の、擦(こす)れ合う気配が。
「――――!!」
 思わずまなざしを巡らせ、そしてつばさは驚愕に凍りつく。
 資材の山の下、床にわだかまる薄闇。その闇の中から、幾千の眼がこちらを見上げている。ほの蒼く光る、蛇たちの双眼が。
 ――ど……どうしてっ!?
 パニック直前になりながら、つばさは手の中の笛と《蛇使い》の顔を相互に見比べる。そんな、そんな。毒蛇を操るこの笛は、確かに奪ったはずなのに。
 黒衣の老人は、つばさのまなざしに応えなかった。彼の視線はつばさのほうではなく――部屋の上方の、何もない空間に向けられていたのだ。
「聞いておるのじゃろう? この娘は、計画に組する意志はないそうじゃ」
 しわがれた声が、闇に響く。つばさではなく、ここにはいないはずの何者かに向かって。
 呆然と立ち尽くすつばさに、《蛇使い》はゆっくりと視線を戻す。深い皺の刻まれたその顔に浮かぶのは紛れもない、嘲りと喜悦の笑み。
「残念じゃったのう、お嬢ちゃんや。その笛は、な」
 言いながら、老人は歩き始めた。資材の山を離れ、様々な配線や鎖が垂れ下がった壁際のほうへと。
「別に、この子らを率いるのに不可欠なものではないよ。わしの愛用の品であることは確かじゃが」
 まさしく、その言葉の通り。歩む彼の足元で、蛇の群れは進路を空けて二つに割れる。その動きには、一糸乱れたるところもなく。
「――――」
 絶望と、そして混乱がつばさの胸に膨れ上がった。
 騙されたのだ、自分は。黄金色の笛を奪い取られ、狼狽を装った《蛇使い》と――彼が操る蛇たちに。
 だが、何のために? 何のために、怪老人はそのような芝居を?
「……話しておらんかったかのう、お嬢ちゃん」
 つばさの心のうちを見透かしたように、《蛇使い》はにんまりと笑みを浮かべた。
「わしは、わしの雇い主からこう言われておるのじゃよ。
 お嬢ちゃんを説得して、同志とするべく連れてくるように。それが叶わぬときは――命を奪うように、とな」
 じゃらっ……
 壁際に釣り下がった数条の鎖。そのうちの一本に、老人の黒衣の袖が触れる。
「お嬢ちゃんはあくまでも、わしらのところに来るつもりはない。わしは、この子たちのためにお嬢ちゃんの柔らかな肉と血が欲しい。……互いの願いは、めでたくも合致したというわけじゃ」
 細められた老人のまなざしが、離れたつばさをじんわりと貫いた。肌の内側を侵蝕されるような不快感と恐怖に、全身の皮膚が粟立つ。
 これが、答えだった。つばさの疑問への、世にもおぞましき回答だった。
 あたしの、命を奪うために。生きながらにして、蛇たちの餌食とするために。《蛇使い》は、不利を装ってあたしの拒絶の言葉を引きだしたのだ。
 おそらくは、笛を奪われる隙を生じたのも油断ゆえではなく。両の手をいましめる縄が、甘かったのも――
 刹那、つばさの思考は、足元に響く音によって遮られた。
 しゅる……しゅるるるるるるるるるっ!!
 蛇たちが、這い登ってくる。一斉に、あたかもひとつの生物のように。資材の山の麓(ふもと)から、つばさの立つこの頂上を目掛けて。
「ぁ――あっ!」
 涙に滲む眼で足元を見下ろし、つばさは何とか退路を見出した。
 蛇たちが一時にこちらに殺到したため、床の中央にわずかばかりの空白地が生じている。
 安全地帯とは、もちろん言い得ない。だが、ほかに蛇たちの牙を一瞬たりとも避ける場所は、建物の中に残っていなかった。
 切り札としての役をなさなかった黄金の笛を手放し、つばさは数メートルの距離を跳躍して床に降り立つ。
「……茜桟敷の幕は降りてしまったのう、お嬢ちゃん」
 声に振り向くと、壁を背に佇む《蛇使い》と視線がぶつかった。老人は歪んだ笑みを満面に浮かべ、朗々と言葉を紡ぐ。
「舞台は既に、宵の部じゃ。お嬢ちゃんにはこれから、わしのための題目(プログラム)で踊子を勤めてもらおう。闇と血に彩られた、甘美なショウの、な。
 さあ――幕を開くとしようか」
 感極まった彼の声が、吹き抜けの空間にこだまする。
 その、残響の尾を打ち消すように。
 ――ガンッ――! というくぐもった打撃音が闇を震わせたのは、その時だった。
「え――!?」
 音に背を向けていたので、つばさにはそれが何であるのか判らない。
 だが、《蛇使い》の顔に浮かんだ訝しげな表情から察するに、彼にとってもそれは不測の事態であるようだった。
 ――ガンッ――!
 先程よりもさらに大きく響いた音に、つばさも思わず首を巡らせる。
 反対側の壁際高くに積まれた、資材の群れ。今の音は、その向こう――隠れて見えない壁の奥から聞こえてきたようだ。立てかけられた鉄パイプと板が、まだびりびりと震えている。
「な――」
 何じゃ、と、老人は口にしようとしたのだろう。だが――
 ――ガンッ――!!
 三度目の音は、それよりひと刹那早かった。
 いや、今度は衝撃音のみではなく。
「わぁっ!」
 つばさは思わず、両腕で自分の頭を庇う。
 壁に沿って立てかけられた資材が一斉に弾き飛ばされ、盛大な音をたてて床に転がった。一瞬遅れて盛大な埃が舞い上がり、視界を覆う。付近の床を這っていた蛇たちが、散り散りに逃げ出していくのが見てとれた。
 ――な……何っ?
 おそるおそる顔をあげたつばさの頬に、吹き込む夜風が触れる。
 舞い上がる埃の向こうに、四角く切り取られた風景があった。ぼんやりと街灯に照らされた路地裏と、向かいのビルのものとおぼしき白いコンクリートの壁。
 そこではじめて、つばさは理解する。倒れた資材の向こうにあったのが、両開きの扉だということ。誰かが外側から、勢いよくそれを開け放ったのだということを。
 そう――誰かが。
 吹き込む外気に、みるみるうちに埃のヴェールは晴れてゆく。その、向こうに。
「あ――」
 呆けたような声を洩らして、つばさは見た。本当ならば、今この場にいるはずがない――ここに辿り着けるはずはない、三つの人影を。中央に立ち、鋭いまなざしでこちらを見据える、少年の姿を。
「先輩っ……じ、仁矢くんっ!?」


 薄闇の向こうから響いたつばさの声に、仁矢はまなざしを向ける。
 資材や古い調度品が無造作に置かれた、吹き抜けの空間。その中央近く――室内で唯一広くのぞいた床の上で、彼女は数多の蛇たちに囲まれて立ち尽くしていた。
 つばさの大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。驚きの叫びをあげたきり言葉が出てこなくなってしまったのか、唇がぱくぱくと声なき声を紡いだ。
 その姿を視界に捉え、仁矢は誰にも気取られぬくらいに短く息をつく。すんでのところで、自分たちは間に合ったらしい。
 だが、無論まだ安堵するには早かった。
 仁矢は鋭く目を細めて、部屋の奥を睨み据える。間につばさを挟んだ、反対側の壁の際。闇に溶け込むように佇む、黒衣の老人を。
「――くっ!」
 くぐもった歯噛みの音が、仁矢の耳にも届いた。《蛇使い》の顔に浮かぶ表情は、一瞬にして驚愕から憎悪へと転じている。
 部屋の中に一歩足を踏み入れながら、仁矢は老人の手に視線を向けた。うかつに踊りかかるわけにはいかない。飛び道具の類を持っているおそれもあるからだ。
「――――」
 瞬時、仁矢は訝しげに眉を顰める。
 老人の黒衣の袖から伸びる指。その指が掴んでいるのは武器の類ではなく――
 壁から吊り下がった、一条の鎖。
 それを目にした刹那、微かな警鐘が仁矢の脳裏に鳴り響く。明確な理由あってのことではない。ただ、漠然とした危機感。
 無意識にすばやくまなざしを巡らせ――そして、その視界が再びつばさの姿を捉えたとき。
 ――――!!
 危機の予感は、電流となって仁矢の背を突き抜けた。
 立ち尽くすつばさの、足元の床。
 ちょうど彼女の両足の間を通る形で、細い線がまっすぐコンクリートの上を走っている。あまりにも不自然な、それは、継ぎ目。
 仁矢がそれに気づくのと全く同時に、つばさを囲んでいた蛇たちが一斉に動いた。
 つばさに襲い掛かったのではなく。その逆に。打ち上げ花火の爆発のごとく、素早く彼女の足元から逃げ散じて――
「――駒形っ――!!」
 パズルの断片が答えを組み上げるより早く、仁矢は鋭い叫びとともに床を蹴っていた。本能が発する信号に、衝き動かされるように。
「――そこを退け! 早くっ!!」


「――え?」
 その瞬間、つばさの思考回路は完全に停止してしまっていた。
 扉を開いて、茜桟敷の三人がビルの中に入ってきて。
 足元を囲んでいた蛇が、一斉に頭をかえして散っていって。
 仁矢が、叫び声とともに自分に向かって駆けてきて。
 一瞬のうちにいくつもの驚愕と不可解を詰め込まれ、考えがそれを処理しきれなかったのだ。
 だから。
 耳に入った仁矢の言葉が頭まで届くまでに、わずかなずれが生じた。
 ――ど……退けって……?
 反射的に身体を動かす前に、その理由を考えてしまった。
 一秒にも満たない、ごくごく一瞬の躊躇(ちゅうちょ)
 それが――致命的な遅れになった。
 心の空白から立ち戻り、仁矢の声に従ってその場を離れようとしたまさにその時。
 背後で、じゃりっ! という鈍い音が響いた。
 そう、まるで、引っ張られた鎖が軋みをあげるような。
 と、同時に。
 唐突な振動が、つばさの両脚を揺らした。
 思わず足元に目を向け、そしてつばさは驚愕に凍りつく。
 床が――ない。
 ちょうど自分の立っている場所を境にして、コンクリートの床が真っ二つに裂けていく。あたかも、跳ね橋を真下に向けて開いたかのように。
 その向こうに覗くのは、ただただ無明の奈落。
 跳び退こうとしても、もう遅かった。踏みとどまろうとしても、叶わなかった。
 ずるりと床の上を滑ったつばさの足は、空しく虚空を泳ぐ。
「――ぁ――!」
 掠れた悲鳴を上げながら、つばさは両の腕をばたつかせた。
 その、手首を。
 がっちりと、強い力が捉える。
「――――!!」
 見開いた、つばさのまなざしの先。初めて目にするくらい張り詰めた表情を宿した仁矢が、腕を伸ばすのが見えた。


「――馬鹿野郎っ!」
 舌打ちとともに、仁矢はつばさの手首を握る指に力を込める。
 強引に引っぱりあげた彼女の身体が、目の前に浮き上がった。
 この時ばかりは迷いなく――いやむしろ、迷う暇すらもなく。つばさの背にもう一方の腕を伸ばして、仁矢はつばさの華奢な胴を抱き寄せる。
 だが、そこまでだった。
 仁矢の身体は、意志に逆らって大きく前によろめく。つばさの腕を掴まんがために、彼自身の足もまた、傾斜する床の上に踏み込んでいたのだ。
「ちっ――!」
 舌打ちをしながら、仁矢は渾身の力を込めて足を踏み出した。視界の先、開いた陥穽(かんせい)の向こう側にある、足場の床を目掛けて。
 だが――届かない。届きようがない。仁矢の足が踏んだのは、対岸にははるかに遠い虚空だった。
 抱いたつばさの身体ごと、仁矢は奈落の顎(あぎと)の上に投げ出される。
 回る視界の片隅に、《蛇使い》の歪んだ笑みが過ぎった。
 ――畜生がっ……!!


 ――仁矢くん――っ――
 重力に引かれながら、つばさは声なき声をあげる。
 助けを求める悲鳴ではなく。窮地に引き込んでしまった謝罪でもなく。それはただ、純然たる叫び。
 仁矢の肩の向こうに、はるか上方の天窓が見えた。星空を切り取る、窓枠の十文字の影。一瞬のうちに、それはすうっ……と遠のいて。
「仁矢くん! 駒形さんっ――!」
 耳を掠めたのは、睦先輩の悲痛な声。
 その刹那、つばさの身体を抱く仁矢の腕に、強い力がこもった。
 視界がぐるりと巡る。吹きぬけの光景が遠のきながら真横に流れ消え、つばさの目の前にはただ仁矢のシャツの肩と、その向こうに広がる奈落の闇がとびこんできた。
 ――あ――
 驚きが声となって喉を抜ける前に。
 どんっ! という鈍い衝撃とともに、つばさの身体は横に弾んだ。
「――っ!」
 耳に響く、仁矢のくぐもった呻き。
 ――仁矢くんっ!
 その叫びもまた、声にはならない。
 再度の衝撃とともに、つばさは仁矢に抱かれたまま真横にバウンドして。
 ごくごく短い落下感が全身を包み、そして――
 三度目の、最後の衝撃が来た。
「――ふ――ぁぁっ――!」
 仁矢のシャツの胸と触れあったつばさの胸を、どんっ、と鈍い打撃が打ち据える。肺の中の空気がひとときに喉を抜け出で、肋骨が軋みをあげた。
 視界の闇が、意識の闇へ溶け消えるその瞬間――
 つばさの耳ははるか上方に、何かがゆっくりと閉ざされる重い響きをとらえていた。






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