〜第三十幕 地下通路







 ……ずるり……
 全き闇の中に、その音は重く陰鬱に響き渡った。
 擦過(さっか)音。鱗が地面と擦れあう気配。
 だがしかし――違う。
 今宵、この街の片隅に人知れず蠢(うごめ)き続けてきたあの音とは、確実に何かが違う。
 さらに重く。さらに凶々しく。まるで、大地の底のさらに底から聞こえてくるかのように。地を這う鱗の気配は、無明の闇を震わせる。
 周囲の空気は冷たく、じっとりと湿り気を帯びていた。
 土黴(つちかび)の臭いに混じって闇に漂うのは、微かな、されど鼻をつく異臭。腐った肉の発する――いわゆる、死臭といわれる種類のものだ。
 冷気と、うっすらわだかまる臭気。腐肉を詰め込んだまま放置された冷蔵庫の中というのは、ちょうどこのような感じかもしれない。
 ……ずるり……
 何一つ見えるものがない暗闇の底で、再び何かを引きずる重い音が生じて。
 そして――それに重なるように。
 ――く――くくっ……
 くぐもった嗤い声が、辺りに響いた。
 その声が何処(いずこ)から聞こえるものなのか、無明のこの空間においては確かめる術もない。
 否。そもそもそれが本当に「声」であるのかさえも、定かではない。
 ――さあ……
 淀んだ闇そのものが、震えて紡ぎだしたような。
 ――来るがいい……此処へ……
 おおよそ人の喉が発するものとは思えぬ、低く歪んだ呟き。
 悦楽の色を潜ませて、それは湿った空気の中にこだまする。
 ……ずるり……
 そしてまた――正体の知れぬ蠢動の気配。
 ――くく……くくくくくっ……
 しわがれた嗤いの声はやがて、調子の外れた哄笑へと転じていく。
 ――くくっ……ははっ……はははははははははっ……


 冷たい空気の流れに頬を撫でられ、つばさは意識を取り戻した。
「……う……」
 まず最初に感じのは、肋骨の辺りに走る鈍い痛み。その痛みを引き金に、記憶が胸の中で焦点を結ぶ。
 そうだ。あたしは、床に開いた大きな穴に落ちて――
 ……とくんっ。
 思考を遮るように、耳元で心臓の音が響いた。
 自分は、大の字の腹ばいになって地面に倒れているらしい。明かりになるものは何もなく、周囲をうかがうことはできなかった。
 あちこちを打ったらしいけれど、動けないような怪我はしていないみたいだ。これは、仁矢くんがとっさに庇ってくれたからなのかも――
 ――じ……仁矢くんっ!?
 つばさは、びくんっと身体を震わせた。仁矢は。自分の巻き添えをくって一緒に落っこちてしまった彼は、一体どうなって――
 つばさは、必死に身を起こそうとした。だが、意識の目覚めに身体がついていっていないのか、まだ手足にうまく力が入らない。
 ……とくんっ、とくんっ。微かな心音が、耳に響く。
「じ――仁矢くーんっ!」
 つばさは、掠れた声を闇に響かせる。湿った空気の中に、それは幾重にもこだまして。
 そして――その瞬間。
「……何だよ……」
「ひゃわぁっ!」
 驚きのあまり、もう少しで自分の舌を飲み込んでしまうところだった。仁矢の声が、予想もしなかった場所――すぐ至近距離で響いたからだ。
 ……とくんっ。
 と同時に。つばさは気がついた。耳元に聞こえる、心臓の音。これは、自分の鼓動などではない。
 うつ伏せになった自分が頬をつけているのは、冷たい地面ではなくって。ほんのりとぬくもりを感じさせる、シャツの布地――
「――! ――!!」
 神経に高圧電流でも流されたかのように、つばさは跳ね起きた。こともあろうに――自分は、彼の身体を下敷きにしてしまっていたのだ。
「ご――ごめんっ! 仁矢くんっ!」
 もうどうしたらいいかもわからないまま、つばさは手探りで仁矢のシャツの肩の辺りを掴んだ。
「ほんとーにごめんっ。だ、だいじょうぶだった?」
「うるせえな……近くで喚くんじゃねえ」
 舌打ち混じりの声とともに、仁矢はつばさの指を振り払う。姿は見えないが、すぐ目の前で彼が身を起こす気配があった。
 彼の無事を知り、つばさはひとまず息をつく。その途端に言いようのない羞恥心がこみ上げ、頬がかぁっと熱くなる。
 いや、でも、違う。恥ずかしがっているよりも何よりも、今は。
「……ご……ごめんっ」
 数秒前とは違う意味で、つばさは謝罪の言葉を絞りだした。
「――あん?」
「あ――あたしのせいで、仁矢くんまで落っこちてきちゃってっ――」
 なんだかもう、消えてなくなってしまいたいくらいだった。《蛇使い》の罠にも気付かず、仁矢がかけてくれた警告の声にもぼーっとして反応できず――挙句の果てに、自分ひとりではなく彼を巻き添えにして。
 この失敗が、茜桟敷の作戦にもたらしたマイナスは、計り知れない。謝ったからといって、許されるものではなかった。
 それ以上声を紡ぐこともできず、つばさは暗闇の中で俯く。
 と――すぐ近くで、仁矢がうっとうしげに溜息を吐くのが聞こえた。
「――馬鹿か、てめえは」
 闇ゆえに、仁矢の姿を見ることは無論できない。だが、彼が不機嫌なまなざしで自分を睨んでいるのが、つばさにはわかった。
「ば――」
 馬鹿とは何さっ! とつい反射的に言い返しそうになって、つばさはかろうじて口を噤む。何を言われようと当然の立場なのだ、自分は。
 だが、続けて仁矢が発した声は、覚悟した非難の言葉ではなかった。
「お前のせいだったら、それが何だってんだ? 役にもたたねえ事をうじうじ言ってんじゃねえ」
「――――」
 思わず、息を噤(つぐ)んで。つばさは仁矢を、彼の姿を呑む暗闇を見つめる。
 糾弾の言葉などより、さらに鋭く。仁矢のその声は、つばさを刺し貫いていた。
 非難ではない。さりとて、慰めなどでは決してない。そんなことは時間の無駄だといわんばかりに――彼が立ちあがる気配が、すぐ目の前から伝わってくる。
「じ――」
 仁矢くんっ。どういう言葉を継いでよいかもわからないまま、彼の名を唇に紡ぎかけたその時。
 闇の中に、ぽうっ……と明かりがともった。
 目の前に立つ仁矢が、胸の高さにかざした手の中から。小さな電球ほどの淡い光が、周囲を照らしている。
 仁矢が持っているのは、あの古めかしい懐中時計だった。茜桟敷の地下で若槻先輩見せてもらったものと、まったく同じ型のようだ。
 先程はこの時計が発信機のレーダーにもなるところを目にしたばかりだが――それと同じ文字盤の部分が、いまは懐中電灯のように淡いオレンジの光を放っている。
 見上げるつばさのまなざしが、光の向こうにいる仁矢の視線とぶつかった。彼はふっと視線をそらすと、つばさに背を向ける。
「仁矢くんっ――どこいくの!?」
「出口探すに決まってんだろうが」
 投げかけた問いは、これ以上ないくらいぶっきらぼうに返された。
「上で、先輩たちがあのじじいの相手をしてんだ。こんなところでぐずぐずしてられるかよ」
「あ――あたしも、行くっ!」
 すくっと立ち上がって、つばさは叫ぶ。
「来るんじゃねえ」
 振り向きもせずに、仁矢は鋭い声で即答した。
「邪魔だ。ここで座ってろ。出口が見つかったら呼びに来るからよ」
「やだよそんなのっ。行くったら行く」
 声を張り上げながら、つばさは仁矢の正面に回ってずずいと顔を近づける。
「置いてかれたって、勝手についてくからっ」
 何もしないで待っているなんて、そんなことできるもんか。
 こちらを睨んだまま、仁矢がちっ! と舌打ちをした。
 今の一瞬で、察してくれたのだろうか。もはや何を言われようとも、自分が一緒に出口を捜しにいくつもりなのを。頼む。察してってばっ。
 一瞬の間をおいて、彼は憮然とした表情で息をついた。
「……勝手にしろ。けどな――」
「け、けどっ?」
 訊ね返したつばさを、仁矢は険しいまなざしで睨みつける。
「ついて来るんだったらごめんだの自分が悪いだの、うざったいことをいつまでもぐずぐずほざくんじゃねえ。
 俺が落っこちたのは、俺が間抜けだったからだ。くだらねえことを喋ってる暇があったら、さっさと上に戻る道を探すぞ」
「あ――」
 つばさが返す言葉に詰まっているうちに仁矢はぷいと視線を逸らして、照明を周囲に巡らせた。
 淡い光に、うっすら苔の生えた土の壁が浮かび上がる。
 学校の廊下を縦横二倍に広げたような、大きなトンネル通路。その末端に、自分たちは立っているらしい。
 鋭い眼をさらに険しく細めて、仁矢は辺りを見回す。彼のその横顔を見つめながら、
「……う、うんっ」
 数瞬遅れて、つばさはこくりと頷いた。
 彼が何と言ってくれたとしても、今のこの状況が自分のせいだということは明らかだ。
 けれども――いくらそれを口にしたところで、事態を好転させることはできはしない。
 今やるべきは一刻も早くこの穴の底を抜け出し、先輩たちと合流して《蛇使い》をやっつけることだった。動きもせずにしょげているだけなんて、ただのひとりよがりだ。
 ちいさくかぶりを振って胸の靄を払うと、つばさは顔をあげた。
 目の前ではちょうど、仁矢が懐中時計の光を真上にかざしているところだ。
 たった今、自分たちが落っこちてきた落とし穴。ジグザグに緩く蛇行した竪穴のはるか上方に、錆びついた大きな鉄扉のようなものが見える。あれがおそらく、開いた床の裏側なのだろう。
「やっぱりな。閉まってやがるか」
 いまいましげに舌打ちして、仁矢は光を真横に戻した。
「ってことは……こっちへ行くほかはねえってこったな」
 まっすぐに伸びた、トンネルの奥。ライトの光も届かぬその先には、ただただ無明の闇が満ちている。
 ごくりと唾を飲みこんで、つばさは仁矢の言葉に頷いた。
 意識を失う前に自分が耳にした、鉄の軋み。あれはおそらく、落とし穴の床が元通りに閉じる音だったのだろう。いずれにしても、この高さでは自分の『力』でも跳びあがって脱出することはできない。
 進むことのできる道は、ひとつだけ。何処へ続くとも知れぬトンネルの奥のみだった。
 短く息をつくと、仁矢は無言のままで歩き始める。つばさもまた、せいいっぱいに表情を引き締めてその後を追った。
 闇と静寂の中にただ、ふたつの足音だけがこだまする。
 仁矢の歩調はかなり早い。
 懐中時計から発される光で前方を素早く照らしながら、トンネルの奥へ奥へと彼は進んでいく。ちなみに、空いた片手はポケットに突っ込んだままだ。
「転ぶと危ないよっ、手、出してないと」
 つばさが遠慮がちにかけた声は、完膚なきまでに黙殺された。くだらないことに耳を傾けている暇はないとばかりに、仁矢は鋭い足音を響かせる。
 本当は、走り出したいところなのだろう。地面を叩く靴の音からも、無言の背中からも、つばさは仁矢の苛立ちを感じとることができた。
 けれども、彼がそうしないのは――先程の落とし穴のような仕掛けがあることを、警戒してのことに違いない。
 道は、一本しかないのだ。落とし穴に嵌まった間は、問答無用でこっちに進めといわんばかりに。進む先にあの怪老人の施した罠が待っているであろうことは、つばさにも簡単に想像がついた。
 尽きることも、曲がることもなく――地下通路は、まだ先へ続いている。
 とくん、とくんっ。静けさゆえ、緊張に高鳴る自分の心音がはっきりと感じられてしまう。意識したとたんに、それはだんだんとボリュームをあげていく気がした。
「じ……仁矢くんっ」
 前を行く仁矢の背中に、つばさは思わず声をかける。
 ひんやりと湿った空気の中に、呼びかけはかすかにこだまして。
 考えもなく発した言葉だったのだが――唇が紡いだその音にふと、ひとかけらの違和感が胸を掠めた。
 ――あれ?
 何だろう。何か、どこかがおかしい。今の自分の物言いは。
 ……『仁矢くん』?
「――――っ!」
 瞬間、つばさはどんぐりまなこを見開いて石化した。
 いつの間に。いつの間にあたしは、彼のことを『仁矢くん』などと呼んでいるのだろう。ついさっきまで、『赤城くん』だったはずなのに。
 ああ。あああ。
「……何だよ」
 足は止めぬままに、当の仁矢くんが訝しげな表情で振り返った。
 両頬の皮膚の内側で、ぼんっ! と熱気が爆ぜる。手と脚をまっすぐに伸ばしてほとんどおもちゃの兵隊のように歩きながら、つばさは懸命に声を押し出そうとした。
「じっ――ぁ――じ、うぁぅ」
 ああ、うまくいかない。どっちで呼んだらいいのかわからない。
 こちらを見る仁矢のまなざしが、さらに怪訝そうに細められた。
 ――ええいっ!
 もうこうなったらしょうがない。構うもんかああもう構うもんか。
「仁、矢、くん」
 なにやら奇妙に厳かな声で、仁矢の名を口にして。そこでまた、つばさは言葉を出しあぐねてしまう。そもそも、言わなければならないことがあって話しかけたわけではないのだ。
「じ、仁矢くんの持ってるその時計――先輩たちも持ってたやつだよね。発信機のレーダーにもなるっていう――」
 切羽詰って、どうでもいいことを訊ねてしまった。ああ、こんな時だっていうのに、何やってるんだろうあたしは。
 案の定仁矢は、何だこいつはという感じの呆れた表情で視線を前方へ戻した。こころもち早まった彼の歩調に、つばさは顔を真っ赤にしたままついてゆく。
「……くだらねえ玩具だ、茜音の奴が作った」
 面白くもなさそうに、仁矢は言い捨てた。
「電灯に、レーダーに――ほかにもいろいろごちゃごちゃくっついてるらしいけどな。俺が普段使うのは、通信機能くらいのもんだ」
「――ふうん。通信機にもなるんだ」
 そう頷いてから、つばさははっと気がついた。
「ね、ねえ仁矢くんっ」
「――あ?」
「通信機になるんだったら――先輩たちと、話さなくっていいのっ?」
 二人の先輩は今、あの部屋の中で《蛇使い》の老人と相対しているはずだ。通信機があるのならば、自分たちがひとまず無事だということを知らせておかなくっちゃいけないのではないだろうか。
 それに何より、先輩たちも今どういうことになっているのか――
 仁矢はしかし、振り向きもせずにちいさくかぶりを振った。
「駄目だ」
「――え? だ、ダメって――」
「さっき一回、やってみた。通じやしねえ。若槻先輩にも、香春先輩にも。
 この地下通路――たぶん結界(パノラマ)が張られてるぜ。通信を遮断するためのな」
「――――」
 つばさは思わず、自らのTシャツの胸をぎゅっと掴んでいた。
 先輩たちに、通信が通じない。仁矢の告げたその事実は、不安の影となって背筋を這い登る。
 結界(パノラマ)。今日一日のうちに幾度も目にすることになった――現実とは切り離された空間を造り出す奇術。
 だが、それゆえなのだろうか。先輩ふたりに通信が繋がらないのは、本当に結界のためのみなのだろうか。
 もしかすると、先輩たちは。あの怪老人と対峙している先輩たちは。通信を受け取ることもできないような、危機のただ中にあるのでは――
「――ビクつくようなことじゃねえさ」
 絡み合う思考を遮ったのは、ぼそりと紡がれた仁矢の呟きだった。
 胸中の不安を読まれたような気がして、つばさはじっと彼の背中を見つめる。闇を裂いて歩む仁矢の歩調には、わずかばかりの迷いも見受けられない。
「あんなふざけたじじいに、簡単にどうこうされる先輩たちじゃねえ」
 淀みなき口調で、仁矢は断じた。
 強がりや、気休めではなく。心からそう思って口にしていることがはっきりと判る、芯のある声。
 つばさは、思わずちいさく息を呑んで。それから――仁矢の背中に、こくりと頷いた。
 若槻先輩と香春先輩には、あたしは今日の昼間に出会ったばかりで。ふたりのことはまだ、ほとんど何も知らない。あの《蛇使い》を前にして、先輩たちがほんとうに無事でいられるのか。心配を完全に拭い去ることは、できはしない。
 だが、それでも。
 不思議な力が胸の奥で静かに漲るのを、つばさは感じた。茜桟敷の中に自分がいま、身を置いていることへの、それは心強さ。
 そう。不安に縮こまっている前に、今はまず――仁矢くんとともにこの地下通路を抜けて先輩たちと合流するために、自分にできることを残さずやらなくっちゃいけない。
 心の中でおうっ、と気合いをいれると、つばさはまなざしを前方に戻す。
 その、刹那。
 視界いっぱいに、仁矢の後頭部がとびこんできた。
「わ!――んぷっ!」
 避ける暇もあらばこそ。立ち止まった仁矢に、つばさは背後から思いっきり追突してしまう。
 ――いたたっ……いたたたたたたっ。
 鼻の頭をおさえながら、よろよろと二、三歩あとずさって。つばさはじんわりと涙の滲んだ目で、仁矢の背中を睨みつける。
「な――何さっ? 危ないなあもうっ!」
 抗議の声に、しかし仁矢は応えなかった。替わりに彼は、手にした光源をくいっと揺らしてみせる。
「え?……あ!」
 光の先に、つばさは答えを見た。仁矢が唐突に足を停めた、その理由を。
 地下トンネルは、すぐ先で行き止まりとなっている。
 ぼんやりと円を描く明かりの中に浮かぶのは、苔を生やした土の壁。そして、その中央には。
 ――と……扉?
 まるで、錆びた鉄の塊のように。ずっしりと重量感を持った片開きの扉が、ふたりの目の前に立ちはだかっていた。
「うわぁ……」
 仁矢の横に並びながら、つばさは思わず声を洩らす。
 普段から使われているようにはとても見えない、ぼろぼろに腐食した扉だった。中ほどの高さに三本ほど太い閂(かんぬき)が渡されているのだが、ほとんど棒の形をした錆にしか見えない。
「なんか……すごい扉だね」
 われながら間が抜けた感想とともに、つばさは仁矢のほうを振り向いた。
 ――……え?
 刹那、つばさは微かに瞳をしばたかせる。
 あいも変わらず黙り込んだまま、険しいまなざしで扉を睨みすえる仁矢。
 その額にじっとりと汗が滲んでいるのが、一瞬だけ目に入ったのだ。
 なんだろう? いま歩いてきたこのトンネルの中は、湿り気のせいか少し肌寒いくらいなのに。
 ――急いだから、ばてちゃったのかな。
 そういえば、耳に入る仁矢の吐息はほんのすこしだけ荒いような気がする。
 だが、だいじょうぶ? とつばさが声を発する前に、仁矢は扉の正面に歩み寄った。手探りで簡単に扉を調べてから、いちばん上の閂に手をかける。こんなに鉄の棒がわたしてあるのでは、さすがに蹴り開けるわけにもいかないのだろう。
 ごりごりと、錆びた閂を抜こうとする音。だが、なかなかうまくいかない様子だ。
 背後からつばさが見ているところでは、それも当たり前のことだった。仁矢は懐中時計を握ったままの手で、無理矢理に鉄軸をずらそうとしている。もう片手はポケットに突っ込んだままなのだから、ものぐさもここに極まれリだ。
「ああもうっ」
 見るに見かねて、つばさは仁矢の横に並んだ。
「めんどくさがってないで、両手使いなよっ。時計、あたしが持って照らしてるからさ」
 言うが早いか、仁矢の手の中から金色の懐中時計をひったくった。今夜はなんだか、非常に手癖が悪くなったような気がしなくもない。
 煩わしそうに舌打ちをして、仁矢はつばさに背を向ける。そのままの姿勢でポケットから手をさっと引き抜き、再び閂と格闘を始めた。
 身体が邪魔になって、これでは仁矢の手元を照らせやしない。
「もうっ!」
 憤りの声をあげながらつばさは背伸びをして、後ろから仁矢の肩越しに向こうを覗き込んだ。
「何やってんの――さ――」
 発しかけた言葉は――しかし、途中で掠れて凍りつく。
 見えたのだ。仁矢の手元が。
 いままでポケットに突っ込まれていた、左の手。
 つばさの胸の奥で、胃袋の辺りがきゅっと縮みあがった。
 暗がりの中、黒いシャツなのではっきりとはわからないけれど――袖口のあたりがじっとりと濡れて見えるのは、何なのだろう?
「じ――仁矢くんっ!?」
 時計を握った腕を強引に割り込ませて、つばさは仁矢の腕の先に光をあてた。
「――――!?」
 そして今度こそ。つばさは、両の目を見開いて息を呑む。
 どくんっ! と心臓が跳ね、冷たい電流が背中を滑り降りた。
 仁矢の手の甲が、真っ赤に染まっている。
 中指の付け根辺りから、袖口にかけて。縦に走った傷口から、今もまだじわじわと滲む血が。シャツの袖にゆっくりと版図を広げて。
「あ――あ――」
 先程、岩肌のどこかに擦ってできた傷に違いなかった。地上のあの部屋から、この地底に落ちてくるときに。
 つばさは震える指で、傷口から離れた仁矢の手の先に触れる。せいいっぱいに柔らかく、指を握って。けれども、それ以上どうしたらいいのかもわからない。
 すうっ……と音の遠のいたつばさの耳に――
 仁矢の荒い息と、ぎりっ……と奥歯を噛み締める音とが、微かに響いた。






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