〜 第三十一幕 そして、扉の開くとき 〜




「くく――くははははははははっ!」
 歪んだ哄笑が、薄闇を震わせる。
 黒衣の老人はいつ果てるともなく、しわがれた笑いをあげ続けた。片手で顔を覆い――指の間から、ぎんと見開いた眼で獲物たちを見つめながら。
 《蛇使い》の声に併せて、ざわざわと蠢く床一面の蛇たち。黒く波打つその海の中に、少年と少女は為すすべもなく取り残されていた。
 睦は、仁矢たちを呑み込んで蓋を閉ざした床の陥穽(かんせい)を見据えたまま。京一郎は、何事かを考えるようにこころもち俯いて。ふたりとも、さすがに頬から血の気が引いているように見受けられる。
「くはっ――ははっ――いや、愉快な夜じゃ。そうは思わんかね、茜桟敷の諸君」
 歌でも歌いだしかねない調子で言うと、《蛇使い》は両の腕を広げてみせた。
 細めた双眸にも、笑みを刻む口元にも、もはや彼は歓喜の色を隠そうともしない。
 無理もないことだった。彼がつばさに仕掛けた罠は、おそらく彼自身思ってもいなかった効果をもたらしたのだ。茜桟敷のメンバーを分断し、戦闘力のある仁矢という少年を奈落の底に落として。揺らぎかけた趨勢(すうせい)の天秤を、一瞬にして再び己の側に傾けるという――
「どうした? 坊ちゃんや」
 沈黙したままの京一郎に、《蛇使い》は嘲りの声を投げる。
「すっかりとおとなしくなってしまったものじゃのう。昼間の軽口は、どこへ行ったのじゃ」
「ああ――いえいえ」
 軽くかぶりを振って、京一郎は自らの沈黙を破った。
「すみませんねえ。ちょいと突然、困ったことを思い出しちゃったものでして」
「何じゃね」
「や、たいしたことじゃないんですが……」
 《蛇使い》の問いに、彼はぽりぽりと頬を掻いてみせる。
「学校の英語の宿題、まだやっていなかったんですよね。明日授業があるのに、帰ってからじゃできないかなあ、なんて」
「くくっ、何を言い出すかと思えば。そんなものは、もはやこなす必要はないよ。違うかね」
「とんでもない。出席番号順では、確実に僕が指される番なんです」
 顔をあげてひょいと肩を竦めた京一郎は、もはや完全に飄々(ひょうひょう)とした調子を取り戻していた。
「学業と調査活動の両立というのも、頭の痛い問題でしてねぇ。
 そうそう。仁矢くんなんかも授業をおさぼりしがちで、そろそろ出席がまずくなるはずなんですよ。明日寝坊したりしないように、できればあまり遅くならずに帰してあげたいところなんですけれど」
「なに、心配は無用じゃよ」
 ここぞとばかりに、《蛇使い》はにやりと唇を歪める。
「仁矢と言うたか、あの少年はな。ちょうど今、お嬢ちゃんと一緒に扉を開こうとしているところじゃよ。その先に何があるのかも知らぬままにのう。
 くくっ。あと数分もすれば、学業の不安も消えるじゃろうて。跡形もなく永遠にな」
「なるほど。いや、それはよかった」
 勝ち誇った老人の声に報いたのは、しかし、この場には決してそぐわぬ安堵の溜息だった。
 訝しげに眉を顰めた《蛇使い》に、彼は悪戯っぽい微笑を向ける。
「ということは、今の時点では仁矢くんも駒形さんもなんとか動けてはいるわけですね。
 まあ、落とし穴くらいでどうにかなってしまう仁矢くんたちじゃないってのはわかってはいたんですが――おじいさんがそうおっしゃってくださるなら、間違いないでしょう」
 うんうん、とひとり頷く京一郎を、《蛇使い》はいまいましげに睨みつけた。
 気が付いたのだ。いつの間にか再び自分が、はるかに歳若いこの少年に主導権を奪われつつあることを。
「……他人の安否を気にかけるより、自分たちのことを案じたらどうじゃね」
 黒衣の老人は、浮かべた笑みに毒々しい悪意の色を滲ませた。
「わかっておるのじゃろう? 口ばかりで何を語ったところで、この勝負は既に終わっておるのじゃと。
 敗者の作法というものを、坊ちゃんには教えてやらねばならんな。
 強がりは止めて、慈悲を乞うことじゃよ。己の身はともかく、側らにあるお嬢ちゃん――彼女の命ばかりは助けてはもらえまいか、とな。
 跪いて涙ながら真剣に頼み込めば、わしとて心が動くかもしれんぞ。どうじゃね、ひとつ――」
「――そういうことは、言わない約束になっているんです」
「む――」
 その瞬間、《蛇使い》は鼻白んだように唇を噤んだ。
 なぜなら、彼の言葉を遮ったのは。静かに、淀みなく響いたその声は、眼前の少年が発したものではなく。
 眼鏡の奥の瞳に澄んだ光を宿して、少女は――睦は、正面から老人のまなざしを見つめ返す。
 淡いそばかすの浮いたその頬は、こころもち蒼褪めてはいる。だが、彼女の顔に宿る表情は、膝を屈する敗者のものでは決してありえなかった。
 柔らかな力に気圧されてか、《蛇使い》は口を結んだまま、不快げに片眼を細めて少女を睨み据える。
 蠢く蛇たちの気配を背後に、しばしの沈黙が部屋を支配した。


「――じ――仁矢くんっ!!」
 胸の奥が破裂しそうな数秒の沈黙のすえに、つばさはようやく声をあげた。
「血、でてるじゃんか、こんなにっ! ダメだよほっといちゃっ。な、なんで怪我したって言ってくれないのさっ!」
 口を開いたら、今度は言葉が止まらなくなる。
 責めるようなことじゃないのに。そもそもあたしが怪我させたようなものなのに。
 だんまりを決め込んだ仁矢に、心ならずも声を荒げてしまう。
「仁矢く――」
「……うるせえな。黙ってろ」
 錆びた刃物のような低い呟きが、言い募るつばさを遮った。
 一瞬だけつばさが怯んだその隙をついて、仁矢は強引に腕を振り払う。何事もなかったように背中を向けると、彼は再びがちゃがちゃと閂(かんぬき)を引き抜き始めた。
「だ――だからっ。ダメなんだってばそのままにしといちゃ!」
 もう一度彼の横に身を割り込ませて、つばさは叫ぶ。鬱陶しがられようが、うるさいとと言われようが、このまま放っておくことなんてできるもんか。
 仁矢の手の甲を、斜めに走る傷。こびりついた泥の間から、いまもじわじわと血が滲んでくる。掠り傷や擦り傷と呼べるような浅い傷口ではなかった。
「バイキンはいっちゃうよそんなんじゃっ。ねえっ」
 焦りが先立って、言葉はどんどん空回りしてしまう。
 むろん仁矢は答えない。だが、彼の額には汗が滲み、顔色はオレンジの電球光の中でもはっきりわかるくらいに蒼褪めている。
「それに――その、ほらっ――無理してひどくしたら、包帯ぐるぐる巻きになっちゃうよ? 明日学校で、クラスのひとにどうしたのって聞かれちゃうよ?」
 言うことは、なんでもよかった。仁矢の沈黙の壁を、崩せるのであれば。彼が自分自身の怪我を、もうちょっと気にしてさえくれるのであれば。
 説得力など二の次に、つばさは浮かぶがままに言葉を積みあげていく。
「そうだよっ、茜桟敷のこと内緒にしなくっちゃいけないのに、わけも話せないような怪我して怪しまれたらまずいじゃんかっ」
 と――ちょうどそこまで喋ったところで、ギギ……ィン!! という甲高い金属の軋みが洞窟の中に響いた。
 仁矢が、ひとつめの閂を外したのだ。
「……黙ってろって言ったぜ」
 金属音の余韻に重ねるように、仁矢は溜息混じりに呟いた。
「いるかよ、んなこと訊いてくるような馬鹿が。わけのわかんねえこと心配してねぇで、おとなしく突っ立ってろ」
 言い捨てる。そんな表現がぴったりな、かけらほどの感情もこもらない声。
「で、でもっ――」
 反論の言葉を発しかけて、そこでつばさはびくりと身を竦ませる。
 氷の壁のような、仁矢の背中がそこにあった。ただ黙々とふたつめの閂を外しにかかる、後ろ姿が。
 何故だか――その背中を目にしただけで、さっきの声を耳にしただけで、つばさにはわかった。わかってしまった。
 おそらく、ほんとうに。仁矢が包帯を巻いて学校に行っても、理由を訊ねてくるクラスメイトはおりはしないのかもしれないと。
 学校中で恐がられている『札付きの不良』なのだという――昨日聞いた話が、脳裏に甦った。
 いや、でも。でもっ――
「でも、だって、だけどさ。そんなままでうちに帰ったら――おうちのひとだって、びっくりして心配しちゃうよ?」
 震える唇で。ほとんど祈るように、つばさは声を紡いだ。
 お願いだから。お願いだから、『ああ、それもそうだな』と肩を竦めてこっちを振り返ってってばっ。
 だが、つばさの内心の叫びはむろん叶いはしなかった。
 仁矢は背中を向けたまま、強引にふたつめの閂を引き抜く。
 錆びた鉄棒を握る、仁矢の手――その手の甲に滲む血が、ライトの光を鈍く照り返した。
「いねえってんだよ、んな面倒なものは」
 わずらわしげに、仁矢が呟く。その言葉に、つばさの心臓は冷たく跳ねた。
 ――い、いない……って――
 考える余地はない。どうやったって、ひとつの意味以外にはとりようのない言葉だ。
 「いない」の主語は、つばさが口にした「おうちのひと」に他ならず――
 考えなしに踏み出した自分の足が禁域を踏んだことを、つばさは悟らねばならかなった。
「ご――」
 ごめん、と思わず言いかけて、つばさは口を噤む。先程仁矢に言われたことを思いだしたからではない。そうでなくとも、それはこの場でいちばんかけてはいけないひとことのような気がした。
 擦れ合う鉄の音だけをバックに、しばしの沈黙がふたりの間に生じる。
 それ以上、仁矢は何も語らない。たった今言葉を発したことすら不覚だったとでも言わんばかりに、沈黙の壁の向こうでひとり扉と向き合っている。
 自分の背筋が冷たく竦みあがるのを、つばさは感じた。怖いのではなく。悲しくても、ひとの身体は、竦む。
「――っ」
 俯きかけた顔をあげると、つばさは腕を伸ばした。
 仁矢が格闘している、三つ目の閂。血にまみれた彼の指が握るそのすぐ横を、せいいっぱいの力で握り締める。
 何だ? という表情で、仁矢が振り返った。訝しげなまなざしがすぐ至近距離にあったが、今度は怯まない。
「あたしが、やる」
 一文字一文字を確かめるように、つばさは言葉を紡いだ。
「仁矢くん、いまのうちに傷の泥だけでも落としなよ。このくらいだったら、あたしでも引っこ抜いて開けられるから」
「…………」
 仁矢は、何かへんてこなものでも目にするようなまなざしでつばさを見た。しかしそれはほんの一瞬だけで、彼はさらに不機嫌の色を強めてふいと顔を逸らす。
「仁矢くんっ」
「離れてろ。邪魔なんだよ、そんなところにいると」
 声の中に苛立ちを滲ませて、仁矢は口を開いた。
「お前ん家の雨戸開けるのとは違うんだぜ。罠でもあったらどうすんだ。どうにかできんのかよ?」
「仁矢くんこそ、罠とかあったらどうするのっ? 今だって怪我しちゃってるのにっ」
 咄嗟に返したつばさの問いに、彼は答えなかった。
 会話は終わりだとばかりに口元をひき結ぶと、再び閂と格闘を始める。額に浮かんだ汗の一滴が、彼の頬を伝うのが見えた。
「こ――答えらんないからって黙ってごまかさないでよっ。そんなんでもう一回怪我なんかしたら、ボロボロになっちゃうじゃんかっ」
 空いた片手で、つばさは仁矢の肩口を掴む。
「触るんじゃねえ」
 軽く半身を捻って腕を払うと、仁矢は鋭い一声をつばさに叩きつけた。
「何言ってやがるんだ? どうでもいいだろうがよ、んなことは」
 突き放すような、一言。
 お前には、関係ないだろう。そんな言葉を、はっきりと言外に滲ませた――
「い――」
 刹那――つばさの胸の奥で、何かが熱く弾けた。
 怒りであるのか悲しさであるのか、それとも別の何かであるのかもわからない。ただ、抑えることのできない感情の塊。
「いいかげんにしなよっ! 馬鹿っ! わからず屋っ!!」
 通路じゅうに響き渡るような叫び声とともに、つばさは仁矢のシャツの襟元をひっ掴んでいた。
 不意をつかれたがためか、仁矢の動きが凍りつく。その一瞬につばさは、ありったけの力で彼の身体をこちらに振り向かせた。
 赤城 仁矢の胸倉掴んで怒鳴りつける――などというのはこれまで浅草東中学校の誰もなし得なかった偉業なのだが、もちろん今のつばさにそんなことを考える余裕はない。
「どうでもいいってのは何さ! 何がどうでもいいの? 仁矢くんが大怪我して、ほんとに誰も彼もがどうでもいいなんて思うとでも思ってんのっ?
 さっきからそうやって、この世に自分ひとりしか人がいないみたいな顔してっ。ばかにしないでよっ! 自分がそっぽ向いてりゃ相手も心配しないなんて思ったら大間違いだっ!」
 ああ。
 何をあたしは、仁矢くんを怒鳴ったりしているんだろう。
 ちらりとそう思っても、喉と舌とはもう指図なんて聞いちゃくれなかった。
 まるで、決壊したダムのように。胸の中の爆発が、支離滅裂なまま喉を滑り出てゆく。
「怪我した仁矢くんが扉開けようとしてんのに、ピンピンしてるあたしがどうして後ろで黙って立ってなきゃいけないのっ? あたしは何さっ。
 こんな――こんなっ、ぽーっと突っ立って見てるだけなんだったら、最初っから茜桟敷になんて行くもんかっ!
 ひとりで全部やるのが俺の役目だなんて、勝手に決めないでよっ!! 馬鹿っ! おたんこなすっ!」
 違う。
 違うんだってば。あたしは、こういうことが言いたいんじゃなくって。
 怪我してるのにひとりで無理したら、あたしも心配だし先輩たちもきっと心配するし。だからあたしにも手伝わせてよって、それだけ解ってほしいだけなのに。
 つばさのすぐ目の前に、仁矢の顔がある。
 鋭いそのまなざしの奥で、微かに光が震えた。
 どこか、呆然としたような。己を失ったような。仁矢という少年の顔にそんな表情が浮かぶのを、つばさは初めて目にした。
 胸の奥からせりあがってきた次の言葉が、喉元に詰まる。うくっ……としゃくりあげると同時に視界が滲み、つばさはようやく、自分がべそをかいていることに気づいた。
 仁矢の襟元を掴んでいた指を、つばさは力なく解いた。手に持ったままのライトの光が、闇の中で大きく揺れ動く。
 仁矢は、何も言わない。つばさも、何も言えない。この世の全てを覆い尽くすような沈黙の中にただ、自分の荒い吐息の音だけが響いている。
 すんっ、と鼻を啜って、つばさは俯いていた顔をあげた。
「……手」
 一言だけ、ようやく唇から紡ぎだして、仁矢の胸の前に片手をさし出す。
「――――」
「手、出して。薬とか絆創膏とかなんにもないけど、泥だけでも落としてからそこの扉開けようよ」
 なおも黙って立ったままの仁矢――傷に触れないように、彼のその左手をそうっと握りしめる。ぴくん、とちいさな震えが手のひらに伝わったが、つばさは指を離さなかった。
「さ――さっき電話で、言ってくれたじゃんかっ。今晩が明けるまで、後悔するなって」
 彼の顔を見据えて、つばさは懸命に言葉を重ねていく。空いた片手で、ジーンズのポケットから素早くハンカチを取り出しながら。
「言ったんだから、仁矢くんも協力してよっ。危ないことぜんぶまかせちゃって、怪我したのもほっといて、そのせいで仁矢くんがぶっ倒れたりしちゃったら、一生後悔してやるんだからっ!」
 ふううっ! とほとんど殺気だったような息を吐いてから、つばさは畳んだままのハンカチの一角を口にくわえた。
 転んで怪我して薬がなかったら唾つけときゃいいって、叔母さんがいつも言っているあれは、ほんとうに正しいのだろうか。ああ、どうか正しいことでありますように。
 おそるおそる。震える手で。意を決して。でも躊躇(ためら)いつつ。呼吸を止めて。
 つばさは唾液で湿らせたハンカチの角で、仁矢の傷の周りをそうっと拭う。
 刹那、仁矢の拳がぐっと固く握り締められた。指に伝わる筋肉のこわばりに、つばさはあやうくハンカチと懐中時計をとり落とすところだった。
 仁矢は声を洩らさない。洩らさないけれど、でも。痛くないなんてことはありえないはずで。
「――す、すぐ終るからっ。ごめん、ガマンしてっ」
 そう口走ったものの、さりとて急いでごしごし傷口を擦るわけにはいかず。緊張と焦りに挟まれて破裂しそうになりながら、つばさはなんとかこびりついた泥を落とし終えた。
 尖った岩にぶつけたのだろう。手の甲に開いた傷口からは、いまもじんわりと血が滲み続けている。
「――っ」
 つばさはハンカチを細長く巻いて即席の包帯を作ると、仁矢の手に巻きつけた。長さが足りないので一周しただけで結び目を作るしかなかったが、とにかく何とか傷口は覆えたはずだ。
 今この場で、自分にできるのはここまでだった。あとは……一刻も早く全てを終えて、きちんと手当てをするほかはない。
 いつの間にか額にびっしり浮かんだ汗を手で拭い、深く長い息をついて。
 それからつばさは、ゆっくりと仁矢の顔を見上げる。
 目が合った。
 口を噤み、心なしかちょっと呆然としたようなその表情から、彼の感情を読み取ることはできない。できないけれど。
 ――お……怒ってる……かな、やっぱり。
 先程からの自分の言動がビデオの早回しのように胸に甦り、頬が一気に熱くなった。
 ああ、いつもこうだ、あたしは。カッとなると、ひとつのことしか見えなくなる。
 いきなり胸倉掴んで怒鳴りつけたうえに、わけのわからないことを喚きちらして。触るな構うなと言われたのに、力ずくでお節介をやいて。気分を害していないはずがないだろう。
 でも。
 ――しょうがない――よねっ。
 恥ずかしさはあるものの、ああ、やめときゃよかったという後悔はなかった。
 あのままぜんぶ任せて後からついてくぐらいだったら、怒らせて嫌われてしまったほうがまだましというものだ。
「さ――行こっ」
 せいいっぱい威勢のいい声で言うと、つばさはくるりと扉に向き直る。とりあえず今は、さっさと前に進まなくては。
 残る一本の閂に、手を伸ばそうとした――その瞬間だった。
「――駒形」
 低く静かな仁矢の声が、背後から自分の名を呼んだのは。
 はっとして、つばさは一瞬動きを停める。その間に、仁矢はつばさの真横に歩を進め、閂のシャフトを握りしめる。
 ざりっ……という濁った音とともに錆が舞い散り、最後の閂は横滑りして扉から外れた。
「……さっきも言ったがな。この先にあるのは間違いなく、じじいの仕掛けやがった罠だ」
 そこまで言ったところで、不意に口を噤む仁矢。
 しばしの沈黙が、ふたりの間に生じる。戸惑いとも迷いともつかない何かが彼の中に揺れているのが、側らのつばさにも感じられた。
 やがて――仁矢はちいさく息をつくと、ちらりとこちらにまなざしを向ける。だが、彼の横顔を見据えていたつばさと目が合うと、一瞬でまた視線を逸らしてしまった。
「気を抜くんじゃねえぞ。さっさと地上に戻って、あのじじいをぶっ潰すぜ」
 仁矢の口調は相も変わらず、不機嫌でぶっきらぼうだ。
 だけれども――
「う――うんっ!」
 思いっきり勢いよく、つばさは頷いた。胸の奥に漲る力を、声にこめて。
 たぶん、これが初めてだった。
 部外者でもなく、保護する相手でも厄介者でもなく――同行者として、冒険をともにするものとして、仁矢に声をかけられたのは。
「いわれなくったって、わかってるってばっ」
 ついついそんな返答になってしまったが、声はきっと昂揚を隠し切れなかっただろう。
 いま、この瞬間。つばさはようやく、茜桟敷のひとりとなれたような気がしていた。
「ありがと、仁矢くんっ」
 思わず唇を滑りでてしまった最後の一言は、どう考えても余計だった。
 仁矢は扉のノブに手をかけたまま、露骨に腹立たしげな舌打ちをする。おそらく、つばさが今晩耳にした中ではいちばんぎこちない舌打ちを。
 がちゃり、と、彼の手の中でノブが回った。
「開けるぜ」
「おうっ」
 短いそのやりとりの語尾に重なるように――
 軋みの音を地下道に響かせて、今、ゆっくりと扉は開く。


 重苦しい沈黙がしばし、吹き抜けの部屋を支配した。
 薄闇の向こうから、爛々(らんらん)と光る《蛇使い》のまなざしが睦に向けられる。己の口上を遮られたことへの不快を、その奥に宿らせて。
 背筋を這い登る恐怖を懸命に押し殺し、睦は正面から老人の双眸を見つめ返した。
「……やれやれ。何故にお嬢ちゃんたちは、わしの厚意というものを喜んではくれぬかのう」
 口元を歪めると、《蛇使い》は大仰に肩を竦めてみせる。
「お嬢ちゃんひとりでも、この場を逃げられるかもしれぬのじゃよ。素直に口を噤んで祈っておってはどうじゃね」
「――ありがとうございます。でも――じぶんのことはじぶんで決めますから」
 せいいっぱいにはっきりとした声で、睦は答えた。こんなとき、茜音さんのように「不敵な笑み」というものを浮かべられたらと思うのだけれど、そればかりはうまくいかない。
「……ほう」
 笑みの形に、黒衣の老人が眼を細める。
「わしの申し出には、乗らぬということか。
 ならばお嬢ちゃん、お嬢ちゃんに待っているのは確実な死だけじゃよ。この子らは屍肉よりも生餌を好むゆえ……断じて、楽な死に方ではないぞ。柔らかなその血肉を貪り尽くされて、誰知らぬ廃屋の地下に屍を晒したいかな?」
 しゃあっ……と、周囲の蛇たちが一斉に細い鳴き声をあげた。
 彼らの眼が、主たる老人の眼が、舐めるように身体の上を這う。背筋を走る寒気に身をこわばらせながら、睦は怯えに俯くことだけはすまいと両の手を握り締めた。
 この場において《千里眼》という自分の能力が戦力となりえないことは、わかっている。
 もしかしたら、この場を離れてしまったほうが足手まといにならずにすむのかもしれない。
 だが、それでも。
 庇われ見逃されて戦列を離れることだけは、したくなかった。
 それがもし、ただのわがままに過ぎずとも。茜桟敷に名を連ねるひとりである以上、幕が下りるその時までは舞台の上に自らの身を置いていたかった。
「――あ、ダメですよ脅かしても。こういうときの睦さん、仁矢くんより頑固ですから」
 張り詰めた沈黙に、京一郎がひょいと言葉を挟んだ。
「ご厚意はとってもありがたいですが、遠慮しときましょう。睦さんひとりのけ者にしたりしたらあとでめちゃめちゃ怒られちゃいますからね。
 やっぱり仁矢くんたちとも合流して、四人そろってここを出ることにしますよ」
 休日の予定でも話すような、いつもながらののほほんとした口調。
 それと相反して、黒衣の老人の顔には険悪な表情が宿ってゆく。
「――京一郎くん」
 視線は《蛇使い》から逸らさぬまま、睦は口を開いた。
「ん?」
「宿題、いちおうやってあるから。明日の一時限目の間だったら、ノート、わたしの見てもいいよ」
 睦のその言葉に、京一郎はほんの一瞬だけ間を置いて――
「いや面目ない。恩に着るよ」
 澱みない軽やかな声で、礼を返す。
 それだけで。短いそのやり取りだけで、十分だった。
 自分も、京一郎くんも、まだ諦めてはいない。
 明日の一時限目という時間が、自分たちのもとにあることを。言葉だけの強がりではなく、睦は確かに信じていた。
「……小娘が」
 《蛇使い》の声が、薄闇を震わせる。
「やはり、茜音の息のかかった者どもは誰も彼も同じのようじゃな。小僧どもと違って、少しは可愛げもあろうかと思っておったが……残念じゃよ」
 底知れぬ悪意を顕わにしたその眼光を、しかし睦はたじろぐことなく見据え返す。いまにも空気か軋みを上げそうな。そんな沈黙がしばし、場を支配した。
「よかろう。ならばわしも、考えを改めるとしようかのう」
 凄惨な笑みが、黒衣の老人の唇に宿る。
 彼は胸の前に腕をかざし、静かにこちらを指差した。だがそれは一瞬のことで、長い爪を生やした指先はすう……と弧を描いて床を指し示す。
「――……?」
 何の――合図だろう。これは。
 睦は戸惑いながらも、自分たちを取り巻く蛇の群れにまなざしを巡らせた。ちらりと京一郎の姿が見えたが、さすがの彼も怪老人の動作の意味を図りかねているようだ。
 そして――襲撃は、思わぬ方向からやってきた。
 ……とんっ。
 刹那、睦の右肩を何かが強く打ち叩く。
 ――え……?
 びくんと身を震わせながら、反射的に顔を向けて。
「――――!!」
 睦は、零れそうになる悲鳴を必死に押し殺した。
 蛇が。
 肩の上に乗った一匹の黒い毒蛇が身をくねらせ、自分の喉元に今にも巻きつかんとしている。
「――睦さんっ」
「動くでない! 小僧!」
 声とともに振り向いた京一郎を、《蛇使い》の鋭い一喝が打ち据える。
「――っ」
「そうじゃ。そのまま固まっているがいい。くくくっ、ようやく狼狽の声をあげてくれたな。わしが聞きたかったのは、お前のそういう声じゃよ。くくっ――ははははっ」
 愉悦(ゆえつ)の色を宿して、響き渡る哄笑。
 京一郎が唇を噛んでちらりと頭上を仰ぐのが、睦の目に入った。
 そう。上だ。黒衣の老人は、天井の梁の何処かに潜ませていた蛇を、真下にいた自分の肩の上に飛び降りさせたに違いない。
「動くでないぞ、二人とも。
 もし動けば――そやつを退けることはできたとて、ここにいる全てのわが子らが一斉にお前たちに襲い掛かる。逃れるすべはまずあるまいて。
 そのまま黙っておれば――なに、首筋をひと噛みじゃ。苦痛を感じるまもなく最後を迎えることができよう。
 京一郎というたな。頭の良いお前じゃ、計算くらいはできるじゃろう? 二人揃っての苦痛に満ちた死か、その娘一人の苦痛のない死か。得意の勘案で、どちらでも好みのほうを選ぶがよいわ」
 挑発めいた《蛇使い》の口上にも、さすがに京一郎は言葉を返すことはできないでいる。
 そして睦も――奇襲を予期できなかった自分を呪いながら、さりとて喉元の蛇を払うことはかなわない。周囲を取り囲み、いまにもこちらに跳び掛らんと鎌首をもたげた数千の蛇の群れ。互いにとって、互いが人質とされた形だった。
「よい眺めじゃのう。いや、できることならしばしの間このまま堪能ていたいものじゃが――」
 《蛇使い》の満悦の声が、どこか遠く聞こえる。その間にも、蠢く蛇の鱗はゆっくりと睦の喉を撫で続ける。
 怯えが、恐怖が表情にあらわれぬよう、睦は懸命に唇を噛みしめた。
 すぐ目の前に立つ京一郎がほんの微かに腕を上げ、拳をぎゅっと握るのが視界に入る。
 張り詰めた表情。だが、前髪の奥の瞳の色は、うかがうことはできない。
「見ておるがいい、小僧。己の不遜と愚が招いた、これが結末というものじゃ」
 言葉に続いて、《蛇使い》はひゅう、と掠れた口笛を吹き鳴らす。
 細い舌が首の上をちろりと這うのを、睦は悪寒とともに感じ取った。
 そして――
 毒蛇は睦の視界に入るように、いまいちど首をもたげて。
 裂けんばかりに顎を開くと、白くぬめり光る牙を睦の喉に、






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