〜 第三十二幕 三つの過ち 〜




「…………」
 開いた扉の、向こう側に広がる無明の空間。
 つばさは、懐中時計から発される光をその奥に向けた。だが――
「……見えない、ね」
 そこにはただ、虚ろな闇が広がっているばかり。明かりを左右に巡らせてみても、壁のひとつだに視界に入りはしない。
 戸惑いがちなつばさの言葉にはとくに応えず、仁矢はゆっくりと扉の向こうに足を踏み入れた。つばさもまた、その横に並んで慎重に戸口を潜る。
 瞬間――
 ……かしゃっ、というシャッターを切るような音が闇の中に響いた。
「――――!」
 つばさも、耳にした記憶のある音だ。
 そう、今日の昼間。学校の廊下で。《蛇使い》の支配する奇妙な空間に迷い込んだときに。
「……来たぜ。《結界(パノラマ)》だ」
「うんっ」
 ごくりと唾を飲んで、つばさは頷いた。
《結界(パノラマ)》――茜音さんの言葉によれば、異なる空間を思いのままに造りだす奇術。その中に足を踏み入れるのは、今日一日でもう何度目になるだろう。
 いつもの校舎とは異なる、廊下と階段。茜音の紡いだ、大正時代の浅草。ついさっき目にした、人も車もいない夜の街。
 そして――いま自分の周りを取り巻いている異空間は、はたしてどんな種類のものなのか――
 ――だ……ダメだってばびくびくしてちゃっ!
 自らを叱咤すると、つばさは早鐘のように鼓動を刻む胸を、手のひらでぎゅっと押さえつける。
 こんなことで怖がってたんじゃ、千絵ちゃんを助けられない。叔父さんと叔母さんのもとへと、帰ることはできない。
 きっと表情を引き締めて、手にした照明をいまいちど闇の向こうにかざす。
 だが、淡い明かりが辺りを照らしだすその前に――
 前触れもなく、オレンジ色の光がつばさの視界に閃いた。
「――っ」
 驚きと眩さとに、思わず一瞬目をつぶって。
 そして――目を開けたつばさは、そのまま息を呑んで絶句する。
 天幕の、ステージの上。
 そうとしか思えない場所のただ中に、ふたりはいつのまにか立ちつくしていた。
 頭上と斜め前方に、煌々(こうこう)と照り輝くスポットライトの光。向こうには客席と思しき空間が広がっているのだが、照明の眩しさに視界が霞んではっきりと見てとることはできない。
 いや、しかし――つばさを驚愕せしめたのは、唐突な場所の転換だけではなかった。
「……やってくれるじゃねえか」
 険悪に呟いて、仁矢が腕を伸ばす。無事な右の手で、彼はぎゅっと握り締めた。ふたりの目の前に立ちふさがる――鉄格子の一本を。
 つばさは慌てて、ぐるりと周囲を見回す。
 右を見ても左を見ても、そこにあるのは規則正しく並んだ鉄のシャフトの群れ。
 頭上も。そして――
 いま潜ったばかりの背後の扉も、その向こうの地下通路もいつの間にか消え失せて。
 眩いライトに照らされた、天幕の舞台。その舞台の上に置かれた小さな檻の中に、つばさたちはいつの間にか閉じ込められているのだった。


 ぱしんっ! というごくごくちいさな音が、薄闇の中に響いた。
 その音を合図にして、一瞬、部屋の中にある全てが動きを停める。
 空間そのものが驚愕に凍りついてしまったかのような、はりつめた静寂。その中を。
 蛇が。
 一匹の蛇が、緩い放物線を描いて宙を舞った。
 配下にして手足たるその毒蛇が、己のすぐ横をかすめても。背後の壁に弾んで、床の上に転がっても。
 《蛇使い》は、声のひとつすら発することはできなかった。
 そして、老人の視線の先に立つ少女も。香春 睦もまた絶句したまま、すぐ目の前の少年を見据えている。
 若槻 京一郎。
「――ふぅ」
 大仰な溜息で場の沈黙を破ったのは、この沈黙の原因たる彼にほかならなかった。
 伸ばしていた腕を引いて、京一郎はぽん、と手をはたく。
 たった今、睦の首筋を這う毒蛇を電光石火の早業で払いのけた――その手のひらを。
「京一郎くん――」
「――き――貴様っ――」
 双方からかけられた声に、京一郎はきょろきょろと頭を巡らせた。呑気そのもののその所作からは、一瞬前に見せた身のこなしは到底およびもつかない。
 そう――
 毒牙が睦の首筋に食い込まんとしたまさにその時、京一郎は一歩を踏み込んで、平手で黒い蛇の身体を叩き飛ばしたのだ。かけらほどの躊躇(ためらい)も感じられない、俊敏そのものの動きで。
「く――愚かな……」
 彼の背を、《蛇使い》が呪い殺さんばかりの眼で睨み据える。
「さほどに死に急ぎたいかっ。もう少し分別のある少年かと思っておったがな」
 憤怒に押し流されそうな己を、かろうじて保っている。そんな気配をありありと宿した、怪老人の言葉に――
「買いかぶりですよ。ホントに頭のいい人間が、茜桟敷の団員なんて務めていられるもんですか」
 ひょいと肩を竦めて、京一郎はこともなげな声を返した。
「……まぁでも、あまり人のことを愚かだ何だとおっしゃらないほうがいいと思いますよ。
 そのお馬鹿さんたちに負けを喫する、ご自身のお立場というものがなくなっちゃいますから」
「――何じゃと?」
「おや。そのご様子じゃ、まだ気付いていらっしゃらないようですね」
 京一郎の口元に、微かな笑みが浮かぶ。相も変わらず飄々(ひょうひょう)とした――されど、このうえなく不敵な色を宿した微笑が。
 相手に声を挟む隙も与えず、彼は《蛇使い》に向けてすっと腕を突き出してみせた。
「――三つ」
 静かな声で呟くと、京一郎は三本の指を立てる。
「あなたの負けですよ、ご老人。あなたはすでにこの時点で、致命的な過ちを三つも犯していらっしゃる」
 柔らかながら、自信に満ちた口調。嘲るでもなく、得意がるでもなく。ただ淡々と、事実を告げるような。
 沈黙が、その場を支配した。
 傍らに立つ睦と、対峙する《蛇使い》。ふたつの視線を己の指先にひきつけて、京一郎はおもむろに言葉を続ける。
「僕らを入れてしまった時点で、茜音さんにはこの根城がバレちゃってるってことはご理解のはずですよねえ。駒形さんが持っていた発信機と同じく、僕らの通信機も発信機の役割は果たせるわけですから。
 それなのに、逃げもせず場所も変えられずに悠長に僕らと向かい合っていらっしゃる。これがまず、過ちのひとつめです」
「ふん――何かと思えば」
 片頬を歪め、《蛇使い》は嘲るように笑った。
「残念だったのう。この建物の中は、念入りの《結界(パノラマ)》が張られておる。貴様らの発信機など、外に向けてなんら用を成さぬよ」
「いやいや、それは苦し紛れのお言葉というものでしょう」
 《蛇使い》の邪笑に、京一郎は対照的なのほほんとした笑いで応える。彼はぐるりと首をめぐらせ、室内と天井とを見渡した。
「この建物の中に入ったとたん、僕たち三人の信号が一斉に途絶える。どう考えたって、ここが怪しいってことは一目瞭然じゃないですか。
 そもそも――発信機なんて問題にならないとおっしゃるなら、駒形さんに持たせたコインをとりあげたのはどういう理由なんです?」
 京一郎の指摘に、《蛇使い》は短い唸り声をあげて口を噤む。彼がいまいちど傲然たる笑みを取り戻すのに、たっぷり数秒の時間を要した。
「この場所は、仮の根城に過ぎん。露見したならば、捨て去ろうとて惜しいものではないわ。今すぐに、貴様らすべてを片付けてからじゃがな」
「おや――ということはやっぱり、茜音さんと対面する勇気は持ち合わせていらっしゃらないわけですか」
 肩を竦め天井を仰いで、京一郎は溜息をついてみせる。
「『茜音くらい、来るなら来てみるがいい』と高笑いをあげてくださるのを期待していたんですけれど――意外と弱腰でいらっしゃる」
 彼の言葉にも、大仰な仕草にも、明らかな挑発の気配があった。
 そしてその挑発は、見事なまでの功を奏している。老人の唇は憤激に震えて言葉を紡ぐことすら叶わぬ様子だ。両の眼だけがぎんと見開かれ、射殺さんばかりの視線を目の前の少年に向けている。
 常人ならばそれだけで竦み上がりそうなまなざしを受け、しかし京一郎はたじろぐ様子を見せない。
 顎に手を当てて、彼はいまいちど頭上を仰ぎ――
 刹那。
 その唇の端に、微かな笑みが浮かんだ。
 会心の。そう称してもよいであろう、凛然たる微笑。
 だがそれは、ほんの一瞬のことだ。再び黒衣の老人に向き直った京一郎は、表情を緩めて口を開いた。
「まあ、それは置いときましょう。次は、二つめです」
「――黙れ!」
 空気が震えるような老人の怒声が、建物の中に響き渡った。怒りのあまりに制御が弛んだか、床じゅうに広がる蛇たちの海がざわざわと乱れ波うつ。
「そこまでじゃ、小僧。最後の世迷い言と思うて、慈悲深く聞いてやったのが間違いじゃったわ。
 馬鹿げた軽口の代償は、高くつくぞ。貴様もそこの小娘も、生きながらにして全身を噛み千切られるがよい。どんなに懇願したとて、もはや手遅れというものじゃ」
 《蛇使い》の言葉にあわせて、二人を囲む蛇群の輪がじわりと径を縮めた。京一郎と睦は、その中央に身を寄せ合う形となる。
 睦と京一郎が、一瞬だけ顔を見合わせる。
 言葉ではない、いかなる会話が交わされたのかを知ることはかなわないが――ふたりの胸に宿るものが絶望や諦めでないことは、明らかだった。京一郎の口元には変わらぬ微笑が浮かび、睦の瞳は眼鏡の奥で静かな光を湛えている。
 老人が期待したであろう怯えの声と哀願の言葉はむろん、ふたりの唇から発されはしない。
「ええ、そうですねえ」
 いまいちど老人の方へと顔を巡らせて、京一郎が口を開いた。
「そうおっしゃるなら、お話はここまでにしておきましょうか。いえ、実は僕も――二つ目と三つ目を今から考えるのが面倒くさくなってきたところでして」
「……き――貴様――っ!!」
 完全に愚弄されていたことを明言され、老人が憤激に声を震わせる。
 もしも、怒りを誘うことが京一郎の意図であったのだとすれば。黒衣の老人はいま、京一郎の術の中にあった。奇術の力を用いずして操る、《催眠術》の術中に。
「あ、そういえば今、ご自身でおっしゃっていましたね。聞いてやったのが間違いだった――まさにその通りです。
 僕の時間稼ぎのでまかせにここまで付き合ってくださってしまったこと……それがふたつめの過ちってことで、いかがでしょうかね」
 そう言ってから、京一郎は思いついたようにぽんと手を打つ。
「そうそう。三つ目も、今思いつきましたよ。
 二つ目ともちょっと重なっちゃいますが――
 さっき、僕におっしゃいましたよね。少しでも動いたら、命はないって。
 ご自身が決められたそのルールは、守るべきだったんです。僕の言うことなんかにいちいち反応されずに、問答無用で。
 それをなさらずに――とうとう、茜音さんと僕たちの合流を許してしまった。それがまあ、最後にして最大の過ちというものでしょう」
「なん――じゃと?」
 《蛇使い》の怒声は、途中で訝しげな唸りへと転じる。
 気づいたのだ。目の前の少年が言葉の中にまじえた、不可解な一文に。
 答えるかわりに、京一郎は人差し指をすっと上に向けてみせた。
 《蛇使い》はまなざしでその先を追い、そして――
「な――!」
 驚愕の声とともに、両の眼を見開く。
 京一郎はくるりと面を巡らせ、側らの睦に悪戯っぽい笑みを向けた。彼女もまた呆気にとられた表情のまま、頭上を見上げるばかりだ。
 無理もないことだった。京一郎の指し示す先、はるか上方に開いた天窓。その向こうには――
「あれだよね? 睦さんが見たっていう眺めは」
「う――うん」
 いまだ狐につままれたような様子で、睦は頷く。眼鏡のレンズに、その奥の大きな瞳に、茜色の光を映したまま。
 そう。
 曇りガラスの向こうに見えるは、先程までの宵空の漆黒ではなく。落日を水に溶いて彩ったかのごとき、鮮やかな夕空の色。
 窓の中央に交差する木枠が、くっきりと影を刻んでいる。赤地に黒の――十字架の型を。
「な……なんじゃ、これはっ!?」
「お察しはつくんじゃないですか? こういう変に凝りまくった演出をしたがるひとを、少なくとも僕はひとりしか知りませんが」
 《蛇使い》のあげた狼狽の声に、京一郎が飄々と言葉を重ねた。
 と――ちょうど、その瞬間。
 異変は唐突に、何の前触れもなく訪れた。
 カシャァンッ! という甲高い破砕音を響かせ――見上げる彼らの視線の先で、天窓のガラスが粉々に砕け散ったのだ!
「くっ――!」
 真下に立っていた《蛇使い》が、黒衣を翻して背後に跳び退く。
 ばらばらと降り注ぐ破片に、蛇たちの海が狂ったように波立った。その隙を突いて、睦と京一郎も腕で頭をかばいつつ、数歩後ろへと退避する。
「京一郎くん――あれ――!」
 はりつめた声とともに、睦が上方を指差した。京一郎と、そして《蛇使い》の視線がその先を追う。
 建物の中。ちょうど二階ほどの高さ。
 棒状の何かが、斜めに壁に突き立ってるのが見てとれた。
 槍、だ。
 柄の部分に大きく真紅の布を巻きつけた、古めかしい長槍。銀色の穂先は深々と壁に突き刺さり、衝撃の余韻ゆえか槍身は細かに震えている。
 あまりの疾さに、目に捉えることはかなわなかったが――天窓のガラスを粉砕したものは、飛び込んできたこの長槍に違いなかった。
 ああ、しかし一体これは何なのか? 外から、しかも天窓などという奇妙な場所から怪老人の根城に投げ入れられたこの槍は、いかなる意味を持つ代物なのか?
 声もないまま注がれた三組のまなざしの先で、その時、次なる異変が巻き起こった。
 布が。槍の柄に巻きつけられていた布地がひとりでにふわりと膨らみ、解けたのだ。
 縦横二メートルはあろうかという紅の布は、風にあおられた旗のごとく、四角に広がる。
 そして――
 布地の端から、微かに白いものがのぞいた。
 指だ。
 紅の布の向こう側――何もないはずの空間からさし出された白く細い指が、布地を掴んでいる。
 次の瞬間。
 ばさり! と風切る音を響かせて、紅い布は高々と宙に投げ上げられた。
 天窓の夕空が彩りを増し、射し込む光がスポットライトのように人影を照らす。槍の柄の先に佇む、華奢な人影を。
「――あー……」
 呆然たる静寂の中に、京一郎が苦笑気味の溜息を響かせる。
「……なんでこう、さりげなくってことができない人かなあ」
「たぶん――」
 どこかまだぽかんとした表情で、傍らの睦が応えた。
「趣味……なんじゃ、ないかな」
「――聞こえているぞ、二人とも」
 朗々と響く声が、真上から彼らの会話に割って入る。いささか憮然とした声色で、さりとて悪戯っぽい笑みの気配を口調に滲ませて。
「無粋な口を挟むのは止めたまえ。僕が出向かねばならなくなったのも、そもそも君たちがふがいないからだろう」
「……き――貴様っ――」
 掠れた叫びをあげたまま、絶句する《蛇使い》。
 頭を巡らせ、その《蛇使い》をちらりと見下ろして。
「待たせたね、ご老人。ここからは、僕の舞台にしばしお付き合いいただこうか」
 彼女は――久遠 茜音は、唇に涼しげな笑みを刻んだ。


「ちょ、ちょっとっ。反則だよこんなのっ!」
 鉄格子に両手をかけて、つばさは聞く者とてない非難の叫びをあげた。
 思いっきり揺すってみせるが、そこはなんといっても鉄のシャフトだ。がたがたと檻全体が揺れるだけで、それ以上いかんともしようがない。
「……落ちつけよ」
 隣の仁矢が、溜息混じりの声でたしなめた。
「何かしらの罠があるのは、わかってたこったろうが」
「だ、だってっ」
 彼が小憎らしいくらい落ち着き払っているのもあって、ついついくってかかってしまう。
「ズルいじゃんかっ。いくら《結界(パノラマ)》っつったって、いきなりこんな――」
「《結界(パノラマ)》だけじゃねえな、きっと」
「え?」
「茜音のやつは、《転移》って呼んでいやがる。違う場所に相手を吹っ飛ばす奇術だ。《結界(パノラマ)》といっしょに、扉に仕掛けてあったんだろうぜ」
「そ、そうなんだ――」
 と思わず頷いてしまったが、いやでも、あたしが言いたいのはそんなことじゃない。そんなことじゃないんだってば。
「って、ようするにそれに引っかかって閉じ込められちゃったってことじゃんかっ!」
 事態の把握ができても、事態そのものは片付いてはくれないわけで。
 白熱灯の明かりが照りつける舞台の上。自分たちを閉じ込めるこの檻には、扉さえもついてはいない。
「……落ち着けって言ったぜ」
 一見して脱出不能なこの窮地に、しかし仁矢はいささかの動揺も見せない。
「あのじじいのことだ、閉じ込めるだけで満足するはずがねえだろうが。あわててやがると、向こうの思うつぼだぜ。
 だいたいな――」
 そこまで言ったところで、彼はふと言葉を止めた。まなざしがさらに鋭さを増し、鉄格子の向こうに広がる空間を睨み据える。
「――仁矢くん?」
 彼の顔を覗き込んで、訊ねるつばさ。だが仁矢の視線は、檻の向こうに向けられたままだ。
「ど、どうしたの? 仁矢くん――」
「……聞こえる」
「え?」
「居やがるぜ――何か」
 低い呟きが、彼の唇から紡がれる。
 ――い……居やがる?
 首を傾げて、疑問の声を発しようとした――瞬間。
 ……ず……ずず……っ
 その音は微かに、しかしはっきりとつばさの耳に届いた。
「――――!」
 擦過音。乾いた地面の上を、何かが這い擦る気配。
 よく似ている。今日一日で嫌というほど幾度も耳にした、あの音に。
 似ているけれども。
 違う。何かが違う。
 蛇の群れが蠢(うごめ)く、あの鱗の音よりも――もっと重く、もっと大きく、もっとゆっくりとした。
 背筋を這い上がるゆえなき悪寒に抗しつつ、つばさは懸命に瞳を凝らす。その刹那――
 がしゃっ! という音とともに、前方の照明が一斉に暗転した。
 周囲に残るのはただ、天井のスポットライトのみを光源とするオレンジ色の薄闇。
 光の残像が薄れると、舞台の下に広がる闇がつばさの視界に入ってきた。
 上下左右の床や壁すらも見て取ることはできない。果てなく続いているかのように思える無明の空間。
 ……ずる……ずず…ず……
 その闇の向こうで、再び何かが蠢く音が響いて。
「……な、なんだろ? あれ……」
 発した声が微かに震えるのを、自分でもどうすることもできなかった。
 そう。音の方向に目を向けて――つばさは、視野に捉えていたのだ。舞台の向こう、距離を隔てた闇の中に。
「……来やがったか」
 側らの仁矢が、低く張り詰めた声で呟く。彼もまた、わだかまる暗闇の果てに鋭いまなざしを向けて。
「う――うんっ」
 つばさは頷いた。仁矢の呟きが独り言だというのは承知のうえだったが――ひとり口を噤んでいると、緊張に押し潰されてしまいそうだったのだ。
 まなざしを逸らそうとする自分の怖気を抑えこんで、つばさは懸命に見据え返す。
 闇に向こうに輝く、仄蒼い二つの光点。
 爛々たる光を湛えて自分たちを見つめる、巨大な、この世ならざるものの双眸を――  






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