〜 第三十三幕 幕間 〜




 夜の帳(とばり)が、眼下に広がる街を包み込んでいた。
 大通り沿いのビルの群れも、その向こうに連なる民家と商店の屋根も、やや遠くに見える浅草寺の五重の塔も。上演がはけたのちの舞台道具のごとく、いまは穏やかな眠りの中にある。
 浅草の夜更けは長く、そして静かだ。かつての昼夜を隔てぬ歓楽が、ひとときの夢ででもあったかのように。
 都内の繁華街としては、いっそ異様といってもよいだろう。
 昔ながらの商店が街路に連なるがゆえに、街が眠りにつく時間が早く――そうした老舗(しにせ)が看板を守り続けるがゆえに、新宿や六本木に代表される新たな不夜城・東京の侵食を、いまの浅草は頑ななまでに拒み続けている。
 時刻は、午前一時を回ったところ。
 道路の街灯や車のライト、それにごくごく疎らな窓の灯りを除いては、街路を照らす光もなく。浅草は、夜という名の幕間(まくあい)にその身を沈めていた。
 むろんのこと――気づくものは、誰もおりはしなかっただろう。
 宵空の下に甍(いらか)を連ねる街を、闇に満ちた路地を。高みより静かに眺めおろす、まなざしのあろうことなど。
 浅草寺の東側、吾妻橋とは交差点を挟んだ位置に建つ、浅草松屋デパート。
 営業時間もとうに終り、人の気配も絶えた屋上庭園――浅草の街を足元に見下ろす給水塔の上に、その影はひっそりと佇んでいた。
 長身であるということ以外は、体格も、年齢も、容貌も定かではない。
 何故なら人影は、全身をゆったりと包む色濃い藍色の衣を纏っているからだ。顔もフードと夜闇に隠れ、表情はおろか面立ちをうかがうことすらかなわない。
 ああ、しかし。
 われわれは一度だけ、彼の姿を目にしたことがある。古の魔術師を思わせる長衣に身を包んだ、怪異なるこの人物の姿を。
 ――《幻燈師》――
 そう。彼はかの蒼き天幕小屋の中で、その名を持って呼ばれていた奇術師に相違ない。
 照明の消えた屋上庭園を、ふいに一陣の夜風が駆け抜ける。佇む怪人の長衣が、ふわりとその風を孕んだ。
 と――
「ふ――ふふ――」
 風音の余韻に重ねるように、《幻燈師》は声を紡いだ。
 愉しんでいるような、はたまた何かを嘲っているような。それでいて邪気が表に顕れない、ひそやかな笑い。
「始まったようですな。いや――かの老人にとってはもはや、終幕の始まりなのやもしれませんが」
 年齢を測らせない、不可思議な声だった。
 澄んだ張りは、若者の声色とも見え。しかし、絶対的な落ち着きと余裕の感じられるその口調は、幾多の場を潜った壮年のものとも思える。
「いかがいたします? 私は、いましばらく観劇に徹してよろしいのですかな?」
 他に人影も見えない真夜中の屋上庭園に、《幻燈師》は問いを投げた。
 と――
 その声が宵風に溶け消えるのと同時に。
『――そうね』
 応えは、思いもよらぬ方向から返された。
 《幻燈師》の、頭上から。浅草という街の頂のひとつである松屋デパート屋上の、さらなる高みから。
『よいのではないかしら。《蛇使い》さんも奮戦しているみたいだし、もう少しだけ見守ってあげるのが礼儀というものでしょう』
 稚い悪戯っぽさと大人びた落ち着きとが同居した、少女の声。それはまさしく、あの蒼い部屋の主である娘のものに違いない。
 何もない空間から下った声に、しかし《幻燈師》は顔を向けることすらもない。
「……奮戦、ですか」
 夜の街を見下ろしたまま発した呟きには、微かに皮肉めいた響きが宿っていた。
「先程も申し上げたかもしれませんが――しばらくお会いしない間に、ずいぶんとご寛容になられたようですな」
『成否を見届けるまでは、手を下さないできたつもりよ。これまでも』
 くすりと笑みの気配を孕んで、少女の声は応える。
 《幻燈師》は動ぜず――ただ、フードの奥で小さく溜息を洩らした。
「すでに、ひとつめの任は失敗といえましょうな。あの《軽業》の娘……おそらくはもはや、我らの側に組する見込みはありますまい」
『でしょうね。残念ながら』
 さほど残念そうな様子もうかがわせず、声は言葉を続けた。
『けれども、私が与えた任は「説得か、さもなくば抹殺」のはずよ。ふたつめは、今まさに果たされようとしているところではないかしら』
「――成程」
 一拍の間をおいて、《幻燈師》は頷く。これもまた言葉とは裏腹に、少女の言葉に納得のいった「成程」とは思えなかった。
『何か言いたげね、《幻燈師》さん』
 訊ねる少女の声に、さりとて咎めるような響きはない。彼女はあくまでも、悪戯っぽい微笑の気配を崩さぬままだ。
「いいえ――我らは、座長の留守を預かる貴女のご意志のままに」
 恭しく、《幻燈師》は己の胸に手をあててみせた。
「見届けよとおっしゃるなら、このままこの場で監視に徹しさせていただきましょう」
『ありがとう。忠心、嬉しく思うわ』
 真意の知れぬ忠誠の誓いに、真意の知れぬ礼をもって少女は応える。
『でも、それだけというわけにはいかないでしょうね。《蛇使い》さんも相当頭にきてしまっているみたいだし』
「……ですな。
 夕刻にも申し上げましたが――まかり間違っても、かの者の本性を衆目に晒すようなことは控えねばなりますまい。たとえ、いささかの犠牲を払おうとも。
 それについては、ご承知をいただけますかな」
『ええ。あなたにお任せするわ、《幻燈師》さん』
 柔らかに紡いだ答えの中に、言外の意味を滲ませて。
『気をつけてね。分かっているとは思うけど、茜音がじきじきに出向いているわ。
 私も、失うカードは最悪でも一枚にとどめたいもの』
「御意」
 頭を垂れて、《幻燈師》は重々しく答える。
「ご安心を。策もめぐらさずにあの御方の前に身を晒すほど、私は命知らずではありませんよ。
 ――知らぬままに捨て札を務めるほど、お人よしでもない」
『……しばらく会わない間に、ずいぶんと皮肉屋になったのね。《幻燈師》さん』
「これは異なことを。つい口を滑らせるのは、昔からの悪い癖です。根が正直にできておりましてな」
 肩を竦めた彼の頭上で、ふふ、と楽しげな笑い声が響いた。
『なるほど、確かに貴方だわ。滑らせた言葉の影に懐の中身を隠してしまうあたりは、お変わりないのね。
 さて――楽しいお喋りだったけど、このあたりにしておきましょうか。そろそろ、今夜の劇も大詰めが近いわ。舞台に目を向けてあげなくては、《蛇使い》さんに失礼ですもの』
「――はい」
『じゃ、よろしくお願いするわね、《幻燈師》さん』
 お使いでも頼むような、さらりとした声でそう告げて。
 《幻燈師》の返答を待たずに、頭上の気配は宵闇に溶け消えた。
 夜の屋上庭園に、再び訪れた静寂。温さを孕んだ五月の夜風が、佇む《幻燈師》の長衣を緩やかにはためかせる。
「やれやれ……相変わらず、楽しいお方だ」
 初めて頭上を仰ぐと、《幻燈師》はひとり呟いた。
 言葉に込めたは親しみの情か、はたまた皮肉と嘲りか。感情を殺した静かな声から、彼の真意をうかがうことは叶わない。
「さて――」
 ひとつ息をつくと、彼は面を巡らせる。
 この松屋デパートからは、北西側。浅草寺と浅草六区、花やしき遊園地を擁する方角へ。
 ひややかな笑いを口調に潜ませて、《幻燈師》は言葉を続けた。
「ご健闘を祈りますよ、《蛇使い》殿。貴方に与えられた『力』――筋道を誤らなければ、茜音様の手駒の幾つかは冥府への友連れとできましょうからな」


「――ぬぅ」
 槍の柄本に佇む男装の少女を見上げて、黒衣の老人は低い声を洩らした。
 憎悪も顕わな眼光を受けて、しかし茜音は微塵のたじろぎすらもみせない。凛とした面立ちに浮かぶのは、いつもながらの不敵な微笑。
「直接お目にかかるのは初めてだったね。まずは自己紹介からといこうか。
 僕が、茜桟敷の座長を務める久遠 茜音だ。以後などというものはおそらくないだろうが、ともあれお見知りおきを」
 そう言うと、彼女は優雅に頭を垂れてみせる。仕草こそは恭しかったが、敬意というものからは完全にかけ離れた挨拶だった。
「そうか……貴様が、茜音かっ」
 猛禽の唸りを思わせる声で、《蛇使い》は答える。
「話には聞いておったが、成程、礼儀知らずな小娘じゃて」
「礼を欠いているのは君のほうだろう。相手の名乗りを聞いたなら、自らも名乗ったらどうなんだい?」
 やれやれと肩を竦めて、茜音は溜息をついてみせた。
「まあ、実をいえば君の自己紹介を聞く必要は、今更ありもしないのだがね」
「……何じゃと?」
 訝しげに問いを投げる《蛇使い》。
 茜音は前髪をさらりとかきあげ、わずかに細めた双眸で老人を見据える。
「ある程度だが、君の素性は調べさせてもらったよ。無論――君が結社から与えられた、『力』の正体についてもね」
「――っ!」
 見えざる矢に射抜かれたかのごとく、《蛇使い》はくぐもった声とともに身体を震わせた。


「うーん……」
 対峙する茜音と《蛇使い》とを交互に見やりつつ、京一郎が所在無げな声を洩らす。
「どうしてああいうふうに、根こそぎいいところさらっていっちゃうのかなあ茜音さんは」
 ぼやくその声の中に、しかし側らの睦は感じ取っていた。彼が胸に宿す、安堵の色を。
「京一郎くん」
 まなざしは前に向けたまま、睦は口を開いた。
「ん?」
「……ありがと、ね」
 短くちいさな囁きに、叶う限りの想いを込めて。いまだ戦いの内にあるこの場では、それ以上の言葉を紡ぐことはできないけれど。
 先程の、あの瞬間。睦の目は、確かにとらえていた。素早く腕を振るい、毒蛇を払いのけた京一郎――彼の顔に浮かんだ、常ならぬ張りつめた表情を。
 あれは決して、計算された動きなどではなくって。
「いやいや、お互い様だよ」
 当の京一郎は、変わらずののほほんとした調子で答える。
「明日英語のノートを見せてもらう先回りのお礼ということで、さ」
「――――」
 英語のノートなんかじゃ、たとえ百回見せてあげても足りるはずがない。けれども睦は、返す言葉を呑みこんでこくりと頷いた。
 もしもいつか、京一郎くんが窮地に陥ることがあったならば。わたしは必ず、京一郎くんの力になろう。今夜、京一郎くんがそうしてくれたように。
 だから、そのために。今はまず――この夜を、越えなければならなかった。
 視線の先では、茜音と《蛇使い》とが睨みあいを続けている。いや、睨んでいるのは老人のほうだけで、茜音はむしろその眼光を涼しげな笑みで受けとめているように見うけられた。
「……僕も当初は、君が笛の音色で蛇たちを操っているのだと思っていたのだけれどね。なるほど、笛はおろか君自身もカモフラージュというわけか。なかなかに凝った仕掛けだよ」
 あたかも舞台の台詞のように、茜音の声は朗々と辺りに響く。
 黒衣の老人は、言葉を返さない。ぎりりと葉を噛み締めたまま、憎悪の焔を宿した両の眼で茜音を見上げるのみだ。
 ――……カモフラージュ?
 なんだろう。何のことを指しているのだろう、茜音さんは。
「だが、仕掛けが大掛かりになるほど露見したときの挽回は難しい。どうする? この根城から君が逃げおせられる見込みは、もはやゼロに近いのではないかな」
 睦たちがまだ知らない何かを、茜音は知っている。その何かが、《蛇使い》の心理の急所を深々と刺し貫いていることは間違いなかった。
 だが、一体それは――
 懸命に思考を廻らせながら、睦はまた、対峙する二人の顔を見回す。
「――――?」
 瞬間、微かな警鐘が胸の奥に響いた。
 見えたのだ。《蛇使い》の口元が、ひくり、と小さく蠢くのを。
 まなざしは、憎々しげに茜音を睨みすえたまま。唇の片端だけが、ほんのわずかに吊りあがる。
 あれは、笑い。押し殺した、謀みの笑み。

 ――闇に眼を光らせ、梁の上を這い交う蛇の群れ――

「――――!」
 睦は息を呑んで、びくんっ! と身体を震わせる。《蛇使い》の邪笑に重なって、閃いた一瞬の幻視に。
 考えるより早く、彼女は反射的に頭上を見上げていた。
 茜音の《結界》により、黄昏の色を映した天窓。その周囲を走る、鉄骨の梁。
 尾をもって逆さに吊り下がり、爛々と光る眼でこちらを見据える幾十匹もの蛇が。見えるはずもない薄闇の中に、けれどもはっきりと――視えた。
「茜音さん――上っ!!」
 わずかの間もおかず、必死に張り上げた声を、
「はははっ! 遅いわ馬鹿めがっ!」
 《蛇使い》の、歓喜の哄笑が掻き消す。
「油断したなっ、もらったぞ――茜音っ!!」
「――――」
 口を噤んだまま、ちらりと頭上を見上げる茜音。槍の柄の先に佇んだままの彼女を目掛けて――
 ひゅんっ! 
 風切る音とともに、刹那、十を超える蛇たちが雨のごとく降り注いだ。 






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