〜 第三十七幕 絆 〜



「――っ」
 いまにも唇から零れそうになる泣き声を、つばさは必死に堪えた。
 手の甲で、ぐしぐしと乱暴に拭う。瞳に滲んだ涙を。それから、頬を湿らせる大蛇の唾液を。
 逆さまになった視界。その中央――舞台の上に、仁矢が立っている。はりつめた表情でこちらを見上げ、荒い息に肩を上下させて。手に巻いたハンカチは縁まで朱に染まり、もはや模様を判じることすらかなわない。
 泣いちゃダメだっ――と、つばさはもう一度自らを叱りつける。
 仁矢とともに、ここにやってきた以上は。茜桟敷に助けを求める人間ではなく、自分も茜桟敷のひとりとなることを選んだ以上は。何もしないまま、べそをかいているわけにはいかなかった。
「じっ――仁矢くんっ!」
 大きく息を吸い込んで、つばさは声をはりあげる。
「だいじょうぶだよっ。こ――こんなの、ちょちょいっと、抜け出せちゃうんだからっ」
 ああ。
 お願いだからひきつらないで、ちゃんと動け、あたしの喉。
 視界の隅に、刃の群れがよぎる。獲物を待ち構えるかのように、ぎらぎらと照り輝いている。
「――っ、かまわないから、ぶん殴っちゃえっ、こんな――ぁうぁっ!!」
 怯えに抗しながら搾りだしたつばさの声は、しかしそこでくぐもった悲鳴に転じる。
 ぐるりと回された大蛇の舌が、喉を締めつけたのだ。
 息が詰まり、一瞬、意識が霞む。全身の力が緩み、両腕が意に反して真下に垂れさがる。
 駒形っ! と名を呼ぶ仁矢の声が、どこか遠くで聞こえた。
「……はしたない口をきいてはいかんよ、お嬢ちゃん。やれやれ、茜桟敷の娘たちというのはどうしてみな、こう可愛げがないのかのう」
 溜息混じりに、《蛇使い》が嘆いてみせる。怒りの声を返すこともできぬまま、つばさは激しく咳き込んだ。
「ひとつ、仕置きをしてやらねばならぬところじゃが――はてさて、どうしたものかのう。
くくっ……やはり、この柔らかな首筋をひと噛みというのが乙なものじゃろうな」
 両足が捻られ、つばさの身体はくるりと反対を向いた。
「――――!」
 朦朧としていた意識が、恐怖に凝縮する。
 大蛇の顎が、すぐ目の前にあった。並んだ牙の向こうに覗くは、つばさの頭はおろか胴までもひと呑みにできそうな、色濃い桃色の奈落。
「いやしかし、いきなり死なせてしもうたのでは面白みがないのう……
やはり、先に手足を噛み砕いてから、あとはあの子達とともにゆっくり賞味するか――」
 愉悦に満ちた老人の声に併せて、蒼い眼がつばさの腿から足先を睨め回す。舌を這わされるかのような不快感に、つばさは背筋を震わせた。
「いやいや――肌を割いて、腸(はらわた)に牙を埋めてみたいという欲も捨てがたいな。
 そうじゃ。お前はいずれが好みじゃね、坊ちゃんや――ん?」
 老人の言葉の末尾が、その時、訝しげに跳ねあがった。
 それに重なるように、乾いた音がつばさの耳に届く。
 足音だ。ゆっくりと床を踏み鳴らす、靴の響き。
「――仁矢くんっ」
 頭を巡らせて、つばさははりつめた声をあげた。
 剣の海に架けられた、角材の足場。その上を、仁矢はこちらに向けて歩いてくる。
 いや、歩くというよりは――一歩また一歩とかろうじて足を踏み出しているような、危うげな足どり。
 地上からの転落。手に負った傷の痛み。跳ね飛ばされた衝撃。仁矢の体力が限界に近づいていることは、つばさの目にもはっきりとわかった。
 彼の肩が吐息に上下するたび、同じリズムでつばさの心臓は竦む。いまにも彼が、そのまま前のめりに倒れこんでしまいそうで。
 汗に濡れた顔をあげて、仁矢は鋭く双眸を細める。
「そいつを――離しやがれ」
 低く静かな。だが、触られば切れる刃の気配を宿した一声。
「おお、怖い怖い」
 おどけた声を発しながら、《蛇使い》はすっと身を引いた。その動きに呼応して、大蛇は渡し木の上をあとずさっていく。
 仁矢は無言で、さらに数歩足を進めた。
「わからんな。何をそう、懸命になっておる」
 大仰に息をついて、老人は呆れたように口を開く。
「その傷と疲れで、満足に戦うことができるとでも思うかの?
どうじゃね、このお嬢ちゃんをわしに譲ってさえくれれば、坊ちゃんの命は見逃してやってもよいぞ。会うてまもない小娘の命と、己の身を引き換えにせねばならん義理もあるまいて」
「――――」
 仁矢は足を止め、わずかに顔を俯かせた。帽子と前髪の陰に隠れ、彼の瞳をここから目にすることはできない。
 彼の静止を逡巡(しゅんじゅん)ととってか、老人はふふっ……と含み笑いを洩らした。
「わしも、もはやこの根城に長居をするつもりはない。ここで別れればもはや、顔をあわせることはせぬつもりじゃよ。悪い取引ではないと思うがのう――」
「何か勘違いでもしてんじゃねえのか? じじい」
 ぼそりと発された声が、《蛇使い》の言葉を断ち切った。
 むぅ、という唸りとともに、足首を握る老人の指に力がこもる。だがそれでも、つばさは視線を巡らせはしない。
 息を噤んで見据える、つばさのまなざしの先。仁矢が、ゆっくりと顔をあげる。疲労の陰は色濃く――しかし、瞳の奥には変わらぬ鋭い光を宿して。
「その馬鹿は、さっきから茜桟敷のひとりなんだぜ。新入りを売り渡して逃げ帰るほど、俺達も腰抜けじゃねぇんだよ」
「じ――」
 仁矢くんっ……と名を呼ぼうとした声が、胸の奥できゅんと詰まった。
 つばさの視線に気付いてか、仁矢はこんな状況にもかかわらず、一瞬きまり悪げに唇を歪める。
 彼は人差し指を帽子のつばにかけ、無造作に弾いた。脱いだ帽子を片手で握り折り、そのまま手早く後ろのポケットに捻じ込む。
「もう一度言うぜ。そいつを、離せ」
 落ちかかる前髪の陰から覗く、研ぎ澄まされた刃のまなざし。
 『力』が。仁矢の内側に膨れあがる『力』の気配が、つばさの肌にもびりびりと伝わってくるような気がした。
 それに呼応するように、つばさの中にもやわらかな熱気が漲っていく。朦朧とぼやけかけていた意識が、刹那に輪郭を取り戻す。
 ぎしり、と、木材の軋む音が響いた。
 仁矢がこちらに、一歩を踏み出したのだ。
「……大きな口を叩きおって」
 《蛇使い》が両腕を伸ばし、吊り下げたつばさの身体をぶらりと揺らす。
「なれば、もろともこの地下深くに屍をさらすがいい。
 離しはせぬよ。貴様がそうして強情を張る限りは、この娘は大事な人質というものじゃからのう」
 嘲笑を交えた、憎々しげな声。だがそれとは裏腹に、足首を掴む老人の指からははりつめた強張りが伝わってくる。
 つばさはちらりと、《蛇使い》の顔に視線を向ける。不快げなまなざしで仁矢を見下ろす彼の目に、つばさの姿は映ってはいない。
 考えるよりも早く――身体が、動いた。
 勢いをつけて海老のように背を丸め、老人の片腕に両手を伸ばす。
「なっ――!」
 《蛇使い》のあげた驚愕の声に、つばさははじめて自分の行動に気づいた。そのときにはもう、指は老人の手首をしっかりと掴んでいる。
「は、離さんか貴様っ!」
「離せーっ!」
 全く違う意味をこめて、はからずも《蛇使い》とつばさの言葉が重なった。
 ――頭さえ上になったら、こっちのものなんだからっ!
 こうなればもし手を離されても、近くの角材の上になんとか着地できる。人質でなんて、誰がいてやるもんか。
 両手にひしと力を込めたまま、つばさは思いきり両脚をばたつかせた。足首を握る老人の指が、少しずつ少しずつ緩んでいく。
 だが――その瞬間。
「――か――ぁっ!」
 背中を打ち据えた凄まじい衝撃に、つばさは掠れた叫び声をあげた。
 呼吸と鼓動が凍りつく。両手の力が抜け、指がほどける。つばさの身体は再び、ぶらりと逆さに吊りさがってしまった。
 勢い良くもたげられた大蛇の頭が、大槌となって背を叩いたのだ。つばさがそう悟ったのは――すぐ真横で裂けんばかりに開かれた、赤黒い顎を目にしてのことだった。
「どうやら、片腕くらいは噛み千切られねばわからんようじゃな!」
 憤激に満ちた、《蛇使い》の怒鳴り声。大蛇がぐいと頭をつき出し、つばさの肩に牙を、
 ――食いこませようとした、まさにその刹那。
 ゴッ!
 重い衝撃音とともに、世界が縦に揺れた。
 ――え!?
 何が起こったのかもわからず、つばさは目を白黒させる。
「な――何じゃと!?」
 狼狽も顕わな、《蛇使い》の叫び。老人にとっても、いまの振動は不測の事態らしい。
「何のつもりじゃ――貴様っ!」
 その言葉が耳に入ると同時に、つばさは首を巡らせた。
 今この場で《蛇使い》が怒声を投げる相手は、つばさでなければひとりしかいない。
「仁矢くんっ!?」
 つばさの声にも眉ひとつ動かさず、口元を引き結んで仁矢は佇む。剣の海を渡る角材の橋――逆さ吊りになったつばさの、すぐ真下に。
 ぎしり……と、木材が軋みをあげる。仁矢の足元から木の節に沿って亀裂が走っているのが、つばさの目にもはっきりと見えた。
 膨れ上がる『力』の気配。仁矢が足を踏みしめる。木の裂けると音とともに、亀裂が広がっていく。
 つばさたちを見上げたまま、仁矢はゆっくりと片足をあげた。
「お、おのれっ――!」
 《蛇使い》の怒りの声とともに、大蛇の尾が仁矢を打ち据えんとして振り上げられる。
 だが、巨大なるその鞭が風を切るよりも一瞬早く――
 踏み降ろした仁矢の踵の下で、乾いた破砕音とともに木材が爆ぜ散った!
 大蛇の体重を支えきれずに、角材が斜めに沈みこむ。《蛇使い》の身体が前にのめり、逆さに吊られたつばさの身体もがくんっ! と縦に動いた。
 刃の先が、ほんの1メートルの真下に迫る。
 緊張に息を呑み、しかしつばさは悲鳴をあげはしない。
 仁矢のシャツの胸が、いまやすぐ目の前にある。一八〇度逆さのいささか妙な形で、互いの視線が交差した。
 無言のまま、仁矢が両手を伸ばす。一方の手が首の後ろに回され、もう一方の手が腰のベルトを掴んだ。
 次の瞬間。
「わわわぁっ!」
 さすがに今度は、突拍子もない叫びが喉をついた。
 縦に一回転、横に一回転。ぐるりぐるりと視界が回る。
 くっ! という老人のくぐもった声とともに、両の足首が自由になった。
 つばさにはわからない。その一瞬、仁矢がどのように自分の身体を扱ったのか。わかるのはただ、彼が《蛇使い》の手から力任せに自分をひったくったのだということだけだ。
 気がつくとつばさは、横抱きの形で仁矢の腕の中にいた。
 仁矢の足元で、角材が悲鳴にも似た軋みをあげる。折れた足場はゆっくりと、剣の群れの中に沈まんとしている。大蛇の身体と、自分たちふたりを乗せたままで。
「――掴まってろ、駒形」
 舌打ちとともに発された仁矢の声に、つばさは慌てて彼の背中に手を回した。照れている時間なぞありはしなかった。
 同時に、仁矢は大きく後ろに跳躍する。舞台の方角。真横に渡された足場の上に。
「貴様あぁっ!」
 見かけからは思いもよらぬ俊敏さで背後の足場に渡りながら、《蛇使い》が絶叫する。伸ばされた尾の鞭が、真上からふたりに振り下ろされた。
 つばさを抱いたまま、仁矢はいまいちど斜め後ろに跳ぶ。
 巨大な尾の一閃を受けた角材が、打撃音とともに砕けて散った。木片が頬を打ち、つばさは一瞬ぎゅっと目を閉じる。
 一瞬の浮遊感。床を叩く靴の音。
「あ――」
 次に目を開けた時、つばさは、つばさたちは舞台の上にいた。
 すぐ眼前には、鋼の色に煌く刃の海。へし折れた幾本かの足場。距離を隔てた向こうに、とぐろを巻く大蛇の姿が見える。
 すぐ耳元に聞こえる、仁矢の吐息。
 荒く乱れているのも無理はなかった。ひといきに、向こうの角材からここまでを跳び退ったのだ。あたしを腕に抱えたままで。
 とくんとくんとくんっ――と、鼓動が早まる。自分の心音なのか、はたまた触れた仁矢の胸から伝わる脈動なのか、つばさにはそれすらもわからない。
「じっ、仁矢、くんっ」
 今更のように、頬が熱を帯びた。
「た、たてるから。だい、じょうぶだよ、おろして、もらっても」
 うまく回らない舌でなんとか言葉を紡いで、つばさはもぞもぞと身体を動かした。
 仁矢がはっと息を呑む気配。それと同時に腰の手が解け、つばさの足はいささか唐突に床へ降ろされる。よろけそうになるのを何とかこらえて、きをつけの姿勢で舞台の上に立った。
「仁矢くん」
 鼓動の乱れは、鎮まってはくれないけれど。息だけはなんとか整えて、つばさはもう一度口を開く。
「あのっ、その――あ――ありがと」
 ああ。
 なんでこんな、当たり前すぎるひとことしか言えないんだろう。
 こんなんじゃ、ぜんぜん足りないのに。それ以上言葉を重ねると、こんがらがって泣きだしてしまいそうで。
 背後から、仁矢の不機嫌そうな――微妙にばつの悪い溜息が返ってきた。
「ホッとしてる場合じゃねえんだぜ、まだ」
「う……うんっ」
 表情を引き締めて、つばさは深々と頷く。
 乱立する無数の刃の向こう。大蛇の背の上から、《蛇使い》は殺気だった目でこちらを睨んでいる。黒衣の肩が大きく上下するたびに、おのれ――おのれっ……という怨嗟の声がつばさたちの耳に届いた。
 つばさは、背後の仁矢を振り返る。
 そのとたんに、鳩尾のあたりにきゅっと締めつけられるような感覚が走った。
 汗の浮いた顔。埃にまみれた衣服。じっとりと朱の色に染まった腕のハンカチ。
 たった今、剣の山から跳び退るときに刃が掠めたのだろう。ズボンのふくらはぎが破れ、そこにもじんわりと血が滲み出している。
「だ――」
 だいじょうぶ!? 仁矢くんっ――口をつきそうになったその言葉を、つばさは唇を噛んで留めた。
 大丈夫なんかで、あるはずがないのだ。
 こんな。こんな傷だらけの有様で、仁矢くんは――
「――っ」
 洩れそうになった泣き声を呑みこんで、つばさは正面から仁矢の瞳を見据える。
 全ての音が絶えたような、一瞬の沈黙。その沈黙を破って、衝き動かされるように口を開いた。
「あ――あたし――なにができるかな」
 訝しげに、仁矢が片眉をひそめる。彼の唇が声を紡ぐ前に、つばさは無我夢中で言葉を継ぐ。
「ごめんっ。次はちゃんと自分で考えて決めるから、今だけ教えて。あたしの『力』で、どうしたら仁矢くんと一緒にあのおじいさんをやっつけられる?
 なっ、何もねえよとかじっとしてろとか、そういうのは絶対なしだからねっ!」
 『力』を何かと戦うなんて、もちろんこれまでにやったことはない。
 あたしがどんなふうに動いたって、仁矢くんの足を引っぱるだけかもしれない。
 でも、いやだ。何もできないで見ているだけなんて、そんなのはぜったいにいやだ。
 仁矢は言葉を返さず、唇を引き結ぶ。再び生じた沈黙に割り込むように、ずずっ……という重い擦過音が響きわたった。
 客席の向こう。頭をもたげた巨大なコブラが、縦横に渡された足場を伝いながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
 背の上でその動きを駆る黒衣の老人の顔に、もはや先程までの嘲笑は浮かんではいない。眼の奥に宿るはただ、背筋が震えるような憎悪と殺意の色。
 煩わしげに目を細めると、仁矢は舞台の最前列へと足を進める。
「――仁矢くんっ!!」
 両の拳をぎゅっと握り締めて、つばさはその背中にあらん限りの声を投げかけた。
「ど、どうして黙ってんのさっ!」
「……ひとにもの聞く態度かよ、それが」
 返されたのは、溜息混じりの呟き。
 つばさは思わずかっと頬を赤らめたが――いや、でももうこのさいそんなことはどうでもいい。
「わかってるってばっ。じ、仁矢くんだってさっきから人のこと言えないじゃんかっ」
 売り言葉に買い言葉の見本のような調子で口調を荒げたつばさを、仁矢はじろりと振り返る。
「うるせえ。黙って話聞けよ。時間がねえだろうが」
「へっ?」
 どんぐりまなこを見開いて、つばさはすっとんきょうな声をあげる。
 あいも変らぬ不機嫌な表情で、仁矢は一瞬だけくい、と首を動かした。その合図に、つばさは歩み寄って仁矢に顔を近づける。
 仁矢は、はりつめた視線を巡らせる。
 ゆっくりと舞台に迫り来る大蛇へ。それから、舞台の脇の袖幕へ。天井から吊り下がる大幕へ。最後にもう一度、つばさの顔へと視線を戻した。
「……ひとつだけ、手がある。一か八かだけどな」
 低くひそめた、それでもなお鋭い声が彼の唇から紡がれる。
 しばし口を噤んだのちに、仁矢は言葉を続けた。
「キツいぞ。やるって以上は、途中で泣き言言うんじゃねえぞ」
 つばさの瞳を見据える、仁矢のまなざし。甘えを許さない険しい光が、つばさの胸の奥に昂まりを呼び起こす。
「言うわけないじゃんか。さっきから何聞いてんのさっ」
 こくんと頷く。唇を尖らせたつもりだったが、嬉しさが笑みになって零れてしまったかもしれない。
 一瞬の不機嫌そうな沈黙をおいて――仁矢はつばさの耳元に顔を寄せると、静かに口を開いた。




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