〜 第三十八幕 凶刃 〜



「――おのれぇっ――」
 低く歪んだ憎悪の声が、空気を震わせた。
 大蛇はもう、つばさたちのすぐ眼前に迫っている。怒りに唇をわななかせて、《蛇使い》は血走った双眸でふたりを見下ろした。
「……もう容赦はせぬぞっ。貴様ら二人とも、生きたまま腸(はらわた)を引きずり出して結び合わせてくれるわっ」
「さっきまでは容赦してくれてたってのかよ。芸のねえ脅し文句はいいかげん飽きたぜ、じじい」
 暗い熱気を宿した老人の怒声を受け、仁矢はこともなげに肩を竦めてみせる。彼は今一度唇を結ぶと、側らのつばさにちらりと鋭い視線を投げた。
 ――準備はいいか?
 まなざしに込められた声ならぬ言葉が、その時つばさには、確かに聞こえた気がした。
 ――うんっ!
 こちらも声には出さずに、つばさは頷く。ちいさく、けれどもはっきりと。
 ふたりは同時に、眼前の大蛇へと視線を戻した。
 ゆっくりと、自分たちに覆い被さるように頭をもたげる巨大コブラ。胸部の広がりに天井の照明が遮られ、辺りが闇に包まれたかのような錯覚を生ぜしめる。
 つばさはごくりと唾を飲んで、ジーンズのポケットの中に手を差し入れた。
 中に入っているのは、仁矢から預かった懐中時計だ。いざというときのこれの使い方も、ひとつだけだけれども今、教えてもらったばかりだった。
 滑らかな円盤をそっと指に握り締め、大きく深呼吸をする。ゆっくりと、ゆっくりと、意識を両足に集中していく。
 ――やるしか……ないんだよねっ!
 胸中に一喝して、つばさはわだかまる不安の暗雲を振り払った。
 仁矢に短い言葉で伝えられた『策』は、容易なものとは決して言えはしない。つばさがどこかで失敗を犯せば、その時点で何もかもがおしまいになってしまうだろう。
 けれども。
 心臓のリズムの高鳴りは、緊張のゆえのみではなかった。
 つばさは確かに感じている。はりつめた胸の奥底に、燃え立つような昂揚を。
「――最後の最後まで小生意気な子供らじゃ。
 待っておれ。今すぐに、悲鳴も洩らせぬようになるまで可愛がってくれるわ」
 悪意そのものを音にしたような、老人の声色。それを耳にしても、つばさの思いは揺るぎはしなかった。
 恐くない、わけではない。だが、怯えよりも怖れよりも、胸に漲(みなぎ)るのは柔らかな力だ。
 
 ――その馬鹿は、さっきから茜桟敷のひとりだぜ。

 仁矢の言葉を、つばさは脳裏に反芻(はんすう)する。
 茜桟敷の、ひとり。部外者でもお客さんでもなく、そう認めてもらえたのならば。この闘いの鍵となる策の成否を、あたしの『力』に委ねてもらえたのならば。
 あたしの舞台は、ここにある。
 今ならば、相手が神様だって勝てる気がする。
 ほんの少しだけ膝を屈めて、つばさは両のふくらはぎに力を込めた。息を噤み、まばたきすらも止めて眼前の大蛇を凝視する。
 鱗に覆われた頭が、ぴくりともたげられた。蒼い双眼に、光が鋭く閃く。
 ――来る!
 考えるよりも早く、つばさの両脚で『力』が爆ぜた。
 ふたりの足が床板を蹴る音が、刹那の狂いもなく舞台の上に重なる。
 跳躍。仁矢は左へ、つばさは右へ。開いたその狭間に大蛇の頭が、巨大な槌のごとくに振り下ろされた。
 盛大な打撃音を響かせ、砕けた床の破片が周囲に飛散する。一瞬でも避けるのが遅れていたら、骨を折られるくらいでは済まなかっただろう。
 袖幕の脇に降り立ち、つばさはくるりと踵を返した。
 まなざしの先、舞台の中央。大蛇の背の上で、《蛇使い》が左右に視線を巡らせる。
 口元に浮かぶは、愉悦の笑み。思案しているのだ。あたしと仁矢くんの、どちらを先に獲物にするかを。
 つばさは床に手を伸ばして、木材の破片を拾い上げた。
「やぁっ!」
 力任せに腕を振り、《蛇使い》めがけて投げつける。
 ぱんっ、という乾いた音が舞台の上に響いた。
 木材が、老人の身体を打ち据える音――では、ない。
「――!」
 つばさは思わず息を呑む。
 老人の、指が。こちらに向けて伸ばされた手が。つばさが投げた木片をがっちりと掴んでいた。
「……なるほど、のう」
 ゆっくりと、《蛇使い》が振り向く。まなじりが裂けんばかりにぎんと見開かれた目が、つばさを捉える。
 ……ぱきんっ……!
 握り締められた木片が、微かな音を響かせて砕ける。指を開き、細かな破片と化した木材を床に零しながら、老人は凄絶に嗤った。
「なかなかにけなげな嬢ちゃんじゃのう。さほどまでに、先に四肢を引き裂かれたいか!」
 大蛇の首が、こちらに向けてゆらりともたげられる。
 老人と蛇、獰猛なる二対の視線を正面から受けて、つばさは唾を呑み下した。不敵に挑発の言葉を返してやりたいところだったが、さすがに唇がうまく開いてくれない。
 舞台の反対側に、ちらりとまなざしを送る。仁矢の姿は袖幕の陰に隠れ、ここからではもう見えなかった。
 ――よしっ!
 心の中で頷くと、つばさは客席の側に目を向けた。
 照明を照り返し、ぎらぎらと輝く刃の群。その上を縦横に交差する、角材の足場。
 ず……ずずっ……
 鱗が床を擦る音が、耳に入る。大蛇の頭が、《蛇使い》がゆっくりとこちらに近づいてくる。
 ――3、2、1――
 姿勢を低くして、つばさはしっかりと床を踏みしめた。まだだ。もうちょっとだけ引きつけてから。
 視線の先で、蛇の顎がゆっくりと開き――
 ――いくよっ!
 自らに、自らの中に潜む『力』に活を入れ、つばさは床板を蹴る。
 身体が、一陣の風になる。
 刃の海を越え、客席の中央高くに渡された角材の上へとつばさは降り立った。
 振り返った舞台の上で、大蛇の牙が一瞬前まで自分の立っていた空間を捉えるのが見えた。
「――こっちだよっ、こっちっ!」
 上擦りながらも、無我夢中で何とか声をはりあげる。《蛇使い》が、ゆらりとこちらに向き直った。
「……何度目にしても、素晴らしい『力』じゃのう。惜しくもあり喜ばしくもありじゃ。かように優れた奇術師の芽を、このわしの手で摘み取ることができるのじゃからな」
「な――なんだかわかんないけど、やれるもんならやってみなよっ!」
 あああ。やっぱりどうしてもこの、挑発というのは苦手かもしれない。叔母さんが口喧嘩をするときの物言いなぞを、必死に思い起こしながらやっているのだけれど。
「くくくっ。おう、してやるとも。
 その脚も腕も首も頭も胸も腹も腰も、残らず丹念に喰らい尽くしてやるぞ」
 手近な角材に身体を巻きつかせ、《蛇使い》はゆっくりとこちらに這い進んでくる。
「ときに、坊ちゃんの姿が見えないようじゃが、どうしたのかね。恐くなって、逃げ隠れでもしておるのか?
 お嬢ちゃんをひとりきりで戦地に立たせるとは、心もとない連れじゃのう。茜桟敷の絆とやらも、たかが知れたものじゃて」
「うるさいっ!」
 半ば本気で怒りの声を発してから、つばさははっと気付いて口を噤む。
 いけない。こんな調子じゃ、すぐにぼろが出てしまいそうだ。せっかく相手の目を、うまく欺けているというのに。
 這い寄る大蛇の向こう側、舞台の脇につばさはちらりと目を向ける。
 いまはとにかく、時間を稼がなくてはならない。仁矢くんが仕度を整えるまで、老人の目をこちらにひきつけて。
 つばさは、再び足元を蹴った。
 真後ろへ。客席のいちばん後方、壁の際に貼りつくように渡された足場へ。くるりと宙で身を翻し、五メートルの距離を一瞬で跳躍する。
 ――す――すごいっ――
 着地する自らの足音を聞きながら、つばさは思わず息を呑んだ。
 『力』を解き放ったことは、いままでにも幾度もあった。身体の奥の、熱を帯びた脈動を抑えきれなくなるたびに。人っ気のない夕暮れの公園や路地を探して、見る者もいない舞いを踊ってきた。
 けれども――いま自分の中に溢れる『力』は、そんな時とは比べ物にならない。
 床を離れた瞬間、脚に見えざる羽根が生えたかのような。その一瞬だけ、自分の周りから重力がなくなってしまったかのような。
 ――その調子だよっ――思いっきり動け――あたしの、脚――
 迸る活力に惑いながらも、つばさは懸命に、自分の中に声を投げる。
「おやおや、鬼ごっこを楽しもうという寸法かね。じゃが、逃げ回るだけでは埒があかぬぞ」
 うるさい。そんなことをいっていらあれるのも、今のうちだけだってばっ。
 進路を変えて這い寄ってくる大蛇を、つばさはせいいっぱいに険しいまなざしで睨み据えた。
 壁に背を預け、腰を落として周囲をうかがう。次は、どこへ跳べばいいだろう。
「つき合うてやってもよいのじゃが、わしもさほどの時間があるわけではなくての。少しばかり、手荒な手段をとらせてもらうとするか」
 ――えっ!?
 老人の不可解な言葉に、眉をひそめたその時。
 ぱきんっ! という甲高い音がつばさの耳に届く。
 大蛇の尾が、ゆっくりと真上に向けてもたげられた。《蛇使い》の位置よりも高く、天井の水銀灯に届かんばかりに。
「――――!」
 つばさは、驚愕に身を竦ませた。
 水銀灯の明かりを受けて、尾の先にぎらりと銀色の光が閃く。
 絡めとられ、床から引き抜かれた――直刀の、刃が。
 大蛇の尾が唸りをあげて空を切った瞬間、つばさは考えるよりも早く真横に跳び退いた。
 その肩の脇を。首筋からほんの数十センチ左を。風を纏った直刀が、銀の稲妻のごとくに突き抜ける。ガッ! という音を立てて壁に刺さった刃に、つばさは凍りついたまなざしを向けた。
「よくぞ躱したのう。じゃが、これはどうじゃ?」
 大蛇の尾が、再び刃の群れの中に潜る。触手のように巻きついて、直刀を根元から引っこ抜く。
 今度は二本。
 尾の先がひょいと振られて、対なる刀を宙に放り上げる。怪鳥の翼よろしく真横に広げた《蛇使い》の両手に、それぞれの刃がしっかりと収まった。
「そうら、行くぞ行くぞ。見事な舞いを見せてみよ、嬢ちゃんや!」
 老人の哄笑にあわせて、大蛇の尾がつばさに襲いかかる。刃の海の上を掠めるように、低く横殴りに足元を狙って。
「わぁっ!」
 慌てた声をあげて、つばさは足場を蹴った。
 客席の横手、壁際に突き出た角材めがけて、力の限りに跳躍する。
 刹那。
 ――あ――!
 ぞくっ……と、鋭い悪寒が全身を貫いた。
 視界の隅に過ぎるのは、《蛇使い》の顔に宿る歪んだ笑み。
 振りかぶったその腕に、握られる直刀。
 ――……まずいっ!!
 これが、狙いだったのだ。今の一撃の。
 あたしを、跳びあがらせることこそが。
 ひゅっ!
 風を切って、飛来する刃。切っ先が狙うは、つばさの着地点。
 よけられない。宙空にあるつばさには、躱しようがない。
「――っぁ!」
 身体を捻り背を反らせて、つばさはせいいっぱいに姿勢を変じる。
 ほとんど同時だった。
 足が、角材の上に降り立つのと。

 脇腹に――冷たい衝撃が走り抜けるのと。

「ぁぅ――」
 掠れた声を洩らしながら、つばさはまなざしを向ける。
 ああ。
 違う。刺されたんじゃない。痛みもないし、血も出てはいない。
 けれども。
 お腹のすぐ横を――ほんの1センチの脇を掠めた直刀は、つばさのTシャツを貫いて後ろの壁に縫いとめていた。
「あ――あ――!」
 頭の中が真っ白になる。心臓が、胸の奥で狂ったように跳ね踊る。
「くくっ――よい格好じゃのう、お嬢ちゃん」
 耳に響いた《蛇使い》の嗤いに、視線を巡らせて。瞬間、今度こそつばさの精神は、はりつめた恐怖一色に染まる。
「さあ、いよいよショウもたけなわじゃよ。どこを刺し貫かれたいかね?」
 愉悦に満ちた声で問いながら、黒衣の老人は右腕を振り上げる。手の内に握られたもう一振りの刀を、見せつけるように高々とかざして。
「っ――このぉっ!」
 つばさは刃に手をかけて、壁から引き抜こうとした。だがどれほど懸命に力を込めても、深々と突き立った直刀はぴくりとも動いてはくれない。
 半ばパニックに陥りながら、Tシャツを裂き千切らんと身体を逸らす。
 視界の隅に、ゆっくりと刀を振りかぶる《蛇使い》の姿が映った。
 間に合わない。
「た――」
 助けて。
 口をつきそうになる悲鳴を、つばさは必死に堪える。噛み殺した声の代わりに、瞳に涙が滲む。
「咲かせておくれ、お嬢ちゃん。綺麗な、紅の華を!」
 《蛇使い》の陶然たる口上に合わせて――刃の切っ先が、ひときわ凶々しい煌きを帯びた。




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