〜 第四十幕 乱舞 〜



 驚愕に凍りつく《蛇使い》の、そのまなざしの先で――
 水面を跳ねる飛び石さながら、《軽業》の少女は張り巡らされた足場の上を渡っていく。大蛇を中心に、大きな弧を描いて。
 その背後を。跳躍の軌跡を追うように――天井よりの照明を受けて、銀色のラインが闇に踊る。まるで少女が、きらめく曲線を宙空に描き出しながら客席を舞っているかのようだった。
 《蛇使い》は、驚愕とともにその正体を悟る。
 ロープだ。
 細い針金を縒りあわせた、ワイヤーロープ。その先端の束を片手に掴んで、少女は己の周りを跳ね飛んでゆく。
「く――」
 いまいましげに、《蛇使い》は舞台の上を見据える。
 ようやくにして、彼は理解した。先程の、舞台幕の落下の故を。仁矢というあの少年が、袖幕の陰で何をしていたのかを。
 少女が携えたロープ。所々に錆の浮いた、鈍い銀色のあの縄は――舞台幕の、巻き上げのワイヤーだ。
 あの小僧が、怪力にまかせてリールから引き千切ったに違いなかった。
 このわしの身体を、縛り上げるために。
「お……おのれっ」
 既に《蛇使い》は、鋼線の描く大いなるUの字の内側に囲い込まれていた。
「小賢しい真似をっ!」
 させるものか。そうはさせるものか。
 《蛇使い》は大蛇の顎(あぎと)をくわっ! と開き、頭を巡らせた。後方から弧を描き、自分の目の前へと跳びこんできた少女の身体を、四つの眼で射抜くがごとくに睨み据える。
 殺してやる――ずたずたに引き裂いてやるぞ――小娘!!


 ぞわり、と、鋭い悪寒が全身の肌を粟立てる。
 つばさは、はっきりと捉えていた。背後に膨れ爆ぜる、《蛇使い》の殺気を。迫る大蛇の、牙の気配を。
 手に握るワイヤーロープの束を、しっかりと握りしめた。狼狽してこれを取り落としたら、何もかもが台無しになってしまう。
 あと少し。あと少しだ。
 大蛇の周りをぐるっと一周して、この縄で囲みこんで――
 しゃぁっ!
 つばさの思考を断ち切るように、大蛇が喉を鳴らす音が響く。
 耳元で。生温かい息を、襟元に感じるほどの至近距離で。
「駒形っ!!」
 まなざしの先、舞台の上で、仁矢が叫ぶ。
「馬鹿野郎っ! 戻ってこい、駒形っ!」


 ぎゅっと握りしめた手の内に、汗が滲む。
 仁矢は息を噤んで、客席を見据えた。
 正面の足場に立つ、駒形 つばさの華奢な身体。
 そのすぐ背後、裂けんがばかりに開かれた大蛇の顎。毒液を滴らせた、牙の群。
 冷たい電流が、背中を走り抜ける。
 仁矢自身にもわからない。何故に自分の胸中が、かほどに張りつめているのか。怪訝に思う暇(いとま)すらも、今はなかった。
 ちっ! と舌打ちをして動揺を振り払うと、仁矢は手にした板片を投げ放つ。大蛇の背の上、歪んだ笑みを浮かべてつばさを見下ろす、怪老人の顔面を目がけて。
「――甘いわっ!」
 鋭い一喝とともに、《蛇使い》が手刀を真横に振るう。真っ二つに割り砕かれた板切れが、剣の海に舞い落ちた。
 だが、仁矢の援護は全くの無駄とはならなかった。
 生じたひと刹那の隙をつき、つばさがこちらに向けて跳躍する。大蛇の牙は、彼女の背を捉えることなく虚空を噛んだ。
 ――よしっ――!
 つきかけた短い安堵の息は、されど、唇を抜けることなく凍りつく。
 駒形 つばさは、あの大馬鹿は、短い一歩を跳んだだけで立ち止まって。
 そしてこともあろうに――くるりと踵(きびす)を返して向き直ったのだ。
 真後ろに。牙を照り輝かせて再び迫り来る、大蛇の顎(あぎと)に!
「――駒形っ!!」
 馬鹿野郎、何してやがるんだてめえは!
 叫びの後半は掠れて、声に紡ぐことはできなかった。


 ――だいじょうぶだよ、仁矢くんっ――
 はりつめた叫びの声を背に受けて、つばさは胸中に答えた。
 片手でしっかりとワイヤーを握り締めたまま、もう片方の手を素早くジーンズのポケットに滑りこませる。
 迫る大蛇の牙を前にして――されどつばさの心は、不可思議な落ち着きに満たされていた。
 心臓は破裂しそうに乱れ打っているのに、頭の芯は静かに冴え渡って。
 時間が、一瞬一瞬が、コマ送りのようにゆっくりと目の前を流れていく。
 読める。くっきりと。襲い来る大蛇の、牙の進路が。
 見える。はっきりと。自分のとりうる、動きの道筋が。
 つばさは、ポケットから手を引き抜く。時計を――仁矢の懐中時計を、大蛇の眼前にかざす。
 あたしの役割は、蛇の身体にこのワイヤーを巻きつけること。
 まだ、足りない。軽く引っ掛けただけじゃ、大蛇の動きを縛められはしない。
 だから。
 ――最後まで――しっかりいくよっ!
 人差し指を、懐中時計の竜頭(りゅうず)に乗せる。
 ぱかんっ、と開いた蓋。顕わになった文字盤を、毒蛇の鼻先に突きつけて。
「――てゃぁっ!」
 喉奥からの気合とともに、つばさは力の限りに竜頭を押した。

 《通信機》《レーダー》をはじめ、七つの隠し機能を併せ持つ茜桟敷の懐中時計。
 その機能のひとつである、携帯照明装置――《灯(ともしび)》が、瞬時に発動した。スイッチを押した駒形 つばさの意志に沿い、最大限の明度をもって。
 地下劇場の桟敷に、客席に、稲妻を凝縮したかのごとき白光が閃く!


「ぐっ――!」
 くぐもった悲鳴とともに、《蛇使い》は両の手で顔を覆った。
 目を開いてなどいられようはずもない。少女の手元から発されるのは、写真機のストロボを持続させたにも等しい圧倒的な烈光。大蛇の目もろともに、《蛇使い》の視界は一瞬、真っ白に染めあげられる。
 そして――
 光が止み、再び開いた老人の両眼は、そのまま驚愕に凍りついた。
 閃光の残影に滲んだ視野。目の前の立っていたはずの少女の姿は、忽然と消え失せているではないか。嗚呼、まさしく舞台上の奇術の如くに!
 ――何処じゃ――!?
 慌てて左右を見回した《蛇使い》はその時、たんっ、という足を耳にした。
 すぐ背後。大蛇の背中を打つ、靴の感触とともに。
「くっ!」
 振り返ったその眼前に、駒形つばさの姿はあった。大蛇の背に片膝をつき、決意に充ちたまなざしを《蛇使い》に向けて。
 しがみ付くように、少女は《蛇使い》の腰に両腕を伸ばす。右手から左手へ――黒衣の胴を囲い込んで、ワイヤーの束が受け渡された。
「小癪なっ!」
 怒りにまかせて振るった拳が、少女の胸元を打ちすえる。
 うっ! という微かな悲鳴を洩らし、だが彼女は腕を解こうとはしない。歯を食いしばった必死の表情で、ワイヤーを《蛇使い》の身体に巻きつけていく。
 その細い肩に、《蛇使い》は両の手をかけた。
 大蛇の頭をあげて背後を守りながら、爪先に力をこめる。みしりと骨の軋む快い感触が、指に伝わってきた。
「ぅあ――ぁくっ!」
 汗を滲ませた少女の顔が、苦痛に歪む。嗜虐の笑みを口元に刻みつつ、《蛇使い》は力の限りに彼女の肩を突き離した。
 常人離れした敏捷さと跳躍力を有するとはいえ、腕力は所詮小娘のものでしかない。少女は大きく後ろにのけぞり、尻餅をつく形で大蛇の背に倒れた。
 タイミングを合わせて、《蛇使い》は勢いよくコブラの背を波打たせる。
 こちらの胴体を縛り上げたワイヤーの束を、懸命にも握りしめたまま――されど少女は、ごろごろと大蛇の背中を転がっていく。その先にあるのは、言うまでもない剣の海。
「――串刺しになるがいい、小娘っ!」


 ぐるりぐるりと、世界が回る。
 天井の照明と、刃の群と、蛇の背中と、哄笑をあげる老人の姿とが――かわるがわるに視野を流れていく。
 ――あ――
 だめだ。だめ。このままじゃ。
 心の中の警鐘が、しかし手足の動きに繋がってくれない。両肩を苛む痛みに、全てがじんわりと輪郭を失う。ワイヤーの束が、しゅるしゅると音をたてて手の中からほどけていく。
 鋼線の乱舞を目にしながら、溶け散じようとしたつばさの意識にその時、
「――駒形っ!――」
 仁矢の鋭い声が、銃弾のごとくに撃ち込まれた。
 ――え――?
 とくん、と、胸の奥で何かが跳ねる。
 目の前を、ほどけたワイヤーが横切っていく――
「――っ!!」
 考えたわけではなく、意識したわけでもなく。反射だけで、両の腕が伸びた。宙を泳ぐワイヤーを掴みとって、蛇の胴を足で必死に蹴りつける。
 自分の身体がどう動いたのかは、自分自身にもわからない。ずりっ、とスニーカーの足裏が滑って、勢いあまったつばさは蛇の胴に抱きつくように倒れ伏した。
 危機一髪――並ぶ刃の切っ先は、すぐ鼻の先にある。
 ――ま――まだまだっ!
 息をつく暇すらもおかずに、つばさは身体を跳ね起こした。

「しぶとい小娘がっ!」
 怒声とともに、《蛇使い》は大蛇の頭を巡らせる。
 己の胴。剣の海すれすれの位置に立ち上がった、《軽業》の小娘へと。
 だが、今度こそこれで終わりだ。今度こそは。
 逃げ場はない。一歩後ろに退けばもう、待っているのは針山地獄。
 跳び退いたとて、疲弊し鋼線の束を手にしたその様では、わしの牙から逃げられはせぬ。
 大蛇の顎を開き、《蛇使い》は獲物の少女へと突進した。天空から地表の敵を龍う、龍のように。
「もらったわっ!」
 己と蛇と。四つの眼を、射んがばかりに少女の顔に向ける。さあ、見せてみよ。怯えに歪んだ可愛らしい表情を。聞かせてくれ。恐怖に彩られた悲鳴を!
 だが――
 《蛇使い》の期待に、駒形 つばさは応えはしなかった。桜色の唇を引き結んで、少女は真っ向から彼の眼を見据え返す。
 瞳に宿すは、凛然たる意志の光。か細いその四肢に充ちるは、引き絞った発条(ばね)のごとき瑞々しい『力』の気配。
 牙を剥き、少女に襲い掛かりながらも――心の片隅で、《蛇使い》は悟る。己が終に、この小娘を屈服させることはできなかったのだと。

 ――てめえのいちばんの勘違いはな、
 ――あの馬鹿を――舐めてかかってやがったことだ。

 ――くっ!――
 一瞬の雑念が、大蛇の動きに微かな硬直を生ぜしめる。
 とんっ! という靴音を響かせて、刹那、少女が跳躍した。
 虚空に描かれる放物線。その先は右でも左でもなく、ましてや後方でもなく。
「なっ!?」
 《蛇使い》は、もはや今宵幾度目になるやも判らぬ驚愕の声をあげる。
 己のすぐ眼前に。
 顎を開いた大蛇の鼻先に、少女は跳び乗ってきたのだ。脚を揃え、両腕を真横に広げて。
 軽業!
 それはまさに《蛇使い》が先日、天幕小屋で少女を初めて目にした時――道化服に身を包んだ彼女が、綱の上に決めたフィニッシュの姿勢(ポーズ)
「の――退けぇっ!!」
 半ば怖れに近い感情に圧されて、《蛇使い》は叫びとともに激しく大蛇の頭を振るう。


 その瞬間こそを、つばさは狙っていた。
 足元の蛇の頭が、つばさを投げ落とそうと凄まじい力で振り回される。
 左から右へ。右から左へ。上から下へ、下から、
 ――いまだっ!
 上へ! 振り上げられたその勢いにタイミングを合わせ、あらん限りの脚力を上乗せして。つばさは高々と宙空を舞った!
 汗ばんだ手の中に、ワイヤーを握り締める。目指すは、舞台の上。大蛇と怪老人の身体を縛ったこの鋼縄の先を、何が何でも仁矢くんの手に渡すのだ。
 だが。
 ――あ――
 天井近くまで撥ね上げられたつばさは、眼下に広がる客席と舞台に凍りついたまなざしを向ける。
 ――とどかない――
 数年来軽業を演じてきたつばさには、はっきりとわかった。自分の着地点が舞台よりもわずかに手前――凶々しく光る剣の海の中にあることが。
 滞空のさなか、いかに『力』を使えどもとりうる手はなく――刃の群は、みるみるうちに足元に迫る。
「わ――ぁっ!」
 思わず喉を洩れた悲鳴に、しかしその時、
 ……がらんっ――がんっ!
 金属のぶつかり合う、盛大な音響が重なった。
 舞台の上から、客席の刃の海へ。四角い、巨大な何かが転がり落ちた。そう。まさに、つばさの落下点をめがけて。
「――――!」
 驚き惑う暇などはむろんなく。その直方体の角に、つばさは着地する。
 降り立ったところで、はじめてつばさは箱の正体に気付いた。
 檻だ! ついさっきあたしと仁矢くんを閉じ込めた、舞台の上の鉄製の檻。
 重さ数十キロはあろうかという鉄格子の箱を、客席に投げ落としたのは言うまでもなく――
 ――仁矢くんっ――
 足場を蹴って、つばさは大きく跳躍する。真後ろへ。今度こそ、舞台の上へ。彼の側らへ。
 戻ってきた。その安堵感で脚の力が抜け、降り立つと同時に床に片膝をついてしまう。それでもワイヤーの先だけはしっかりと握り締め、つばさは叫んだ。
「仁矢くんっ、パスっ!」
 仁矢は言葉を返さない。声に出しての返事など、いまは要らなかった。
 横から伸びた仁矢の手が、ワイヤーを握り締める。力強く、けれどもどこか柔らかに――つばさの手から、鋼のロープが掴み取られた。
「てめぇってやつは――無茶苦茶やりやがってっ――」
 ワイヤーを自らの腕に絡め、客席の《蛇使い》に向き合いながら――仁矢は、殺気だった低い声で口を開いた。
 膝をついて背中を見上げる形になったつばさからは、彼の表情を見てとることは叶わない。
「――ご――ごめんっ――」
 荒い息を交えた声で、つばさは詫びた。あれだけ後先考えずに無茶したのだ、たとえひっぱたかれたって文句は言えない。
 仁矢が一瞬だけ、つばさの顔を振り返った。
 瞳に宿すは、変わらぬ鋭い光。そして、口元に浮かぶのは。 
 ――え?――
 微かな。ほんの微かな、苦笑。
「――上出来だ、馬鹿野郎がっ!」
 叫びとともに、仁矢はロープをぐいと引き寄せた。
 客席の《蛇使い》と、舞台上の仁矢。両者を繋ぐワイヤーが、ぴんと一直線に張り詰める。
「ぐ……き、貴様っ!」
 胴を縛られた《蛇使い》が、苦悶と憎悪の声をあげた。
 大蛇が頭をもたげ、牙の生え揃った口でワイヤーを咥える。
 ロープが引かれ、仁矢の足がわずかに床の上を滑った。じりじりと、前へ、前へ。刃の海が広がる、客席の方向へ。
「仁矢くんっ!」
 思わずつばさがあげた声に、仁矢ははっ、と息をついてみせた。びくついてんじゃねぇよ、とでもいうように。
「……新入りのお前に、負けてられるかよ」
 苦しげな。されど、どこまでも不敵な声が、耳に届く。
 見上げた仁矢の背中――『力』の気配が不可視の炎となって燃え盛るさまを、つばさはその時、はっきりと感じていた。
 ぎしり……と、彼の手元でロープが軋みの音をたてる。
 大蛇の怪力と、仁矢の《百人力》。刃の海を間に挟んだ、死の綱引き。
 白熱灯の光を受け、真っ直ぐに伸びたワイヤーが鈍い銀色に照り輝いた。




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