〜 第四十一幕 死闘の果て 〜



 気の遠くなるような、それは数秒だった。
 老人も大蛇もそして仁矢も、もはや微塵たりとも動きはしない。両者の間を渡るワイヤーロープの軋みと、仁矢の息遣いだけがつばさの耳に届く。
 「仁矢くんっ――」
 立ちあがり、つばさは仁矢の隣に並んだ。
 ワイヤーを固く握った、仁矢の両手。左手に巻かれたつばさのハンカチはもはや、乾いた血で赤黒い一色に染まっている。
 彼のその指に、自分の指をそうっと添えるように。つばさもまた、ワイヤーロープをぎゅっと握り締める。
 わかってはいた。大蛇の怪力と、仁矢の『力』。自分の腕力などでは、その均衡に石を投じることはできはしないと。
 それでも――見ているだけなんて、耐えられなかった。
 引っ張る。ロープを。せいいっぱいに。
 すこしでも、ほんのわずかでも、力を添えたかった。
 身体の火照りゆえか、彼の『力』の発露ゆえか――触れあう仁矢の腕と肩から、灼けるような熱気がつばさの肌に伝わってくる。その温もりを種火に、柔らかな活力がつばさの胸に爆ぜる。
 瞬間――
「ぐ――っ!?」
 《蛇使い》のくぐもった声が、遠く客席に響いた。
 少しずつ、少しずつ、だが確実に。大蛇のもたげた鎌首が、前へと傾いでいく。からみついたワイヤーロープに引かれ、巨体が角材の上からずり落ちてくる。
 力の均衡が、崩れつつあった。
 凌いでいるのだ。仁矢の《百人力》が、大蛇の怪力を!
「く――ぅ――き、貴様貴様貴様ぁぁっ!」
 呪詛の声をあげながら、《蛇使い》が右へ左へ身体を捻る。だがしかし、黒衣の胴にしっかりと巻きついたロープは容易に解けはしない。
 大蛇の頭が、さらに前へとずれ落ちる。
 力比べの天秤は、もはや完全に仁矢の側に傾いていた。
 《蛇使い》が表情を歪ませる。憎悪と、そして恐怖とに。そう、このまま角材の上から引き落とされれば、老人を待っているのは鋭い切っ先を並べた剣の群。
 ――仁矢くんっ?――
 どうする。どうするのだろう、仁矢くんは。このまま大蛇と老人を、刃の海に落としてしまうつもりなのか。
 つばさは思わず、側らの仁矢に視線を向ける。
 彼の横顔に浮かんでいたのは……つばさが予測だにしていない表情だった。
 訝しげな。どこか呆然とした。信じがたいものでも目にするかのようなまなざしで、仁矢はワイヤーを握る己の両手を凝視する。
「ど――」
 どうしたの仁矢くんっ? その問いをつばさはしかし、声に紡ぐことはできなかった。
 再び前方へ――客席の大蛇へ向けられた仁矢の目に、鋭い光が閃いた。それと同時に、
「離れろ! 駒形っ!!」
「へ? ――ひゃぁっ!?」
 叩きつけるような仁矢の叫びが、耳に響く。
 意図を解するだけの暇はなかった。真横から仁矢の体当たりを食らったつばさの身体は、ごろごろと床の上を転がる。
 旋回する視界に、蒼く煌めく大蛇の双眸がよぎった。
 刹那、つばさの心臓は冷たく竦み上がる。眼前に繰り広げられる、あまりにも信じがたい光景に。
 飛んでくる! 蛇が。宙を。
 引きずり落とされるよりも早く、全身を発条と化して跳躍したのだ。
 勢いよく。矢のように。刃の海を越え、舞台に、こっちに向かって――
「死ぬがいいっ! 小僧ぉぉ――っ!」
 獣の咆哮に等しき絶叫を宙に響かせ、襲い来るその先には。
 ――仁矢くんっ!
 倒れ伏したまま、つばさは声にならない叫びをあげた。



 実際にはそれは、数秒にも満たない時間のうちの出来事だ。
 だがその時、仁矢には――仁矢の目には、全ての光景がコマ送りのようにゆっくりと流れて見えた。


 ―― 〇秒――


 息を噤んで、彼は正面を睨み据える。
 両眼を爛々と光らせ、まっすぐに跳びかかってくる大蛇の頭を。
 先程は、無様に頭突きを受けて床に転がった。助けに入ったつばさの身体をも巻き添えにして。
 それよりも、さらに比べ物にならない勢いを持った大蛇の突進。だが――
 ――二度も食らってたまるかっ!
 滾(たぎ)るがごとき気合いと、凪いだ水面のごとき冷静さとがいま、胸の奥でひとつに融け合っていた。


 ―― 〇.五秒――


 全身に充ちるは、かつて経験したこともない『力』の気配。臨界を超え、不可解なまでに躍り狂う灼熱の脈動。
 故も知れぬその『力』の奔流を、訝しがる暇(いとま)も今はなく。
 仁矢は刹那にして、己のとるべき動きの流れを脳裏に組み上げる。


 ―― 一秒――


 飛来する大蛇の巨体。張りを失い、緩んだロープが宙に踊る。
 力の限りに、仁矢は腕を振った。
 前から、後ろへ。手の内にある鋼の縄を、勢いよく後方へ放り投げる。
 ワイヤーが再び、ぴんと空中に伸びた。


 ―― 一.三秒――


 同時に。
 仁矢は迷いなく、一歩を前に踏み出す。大きく。舞台の縁ぎりぎりの位置へ。
 眼前に迫る大蛇の頭。背の上の《蛇使い》。
 両者を縛り上げたワイヤー――つばさが命を賭して老人の身体に巻きつけた、鋼の縄の根元を。仁矢はいまいちど、しっかりと掴み取る。
「――ぬ!?」
 怪老人が、短く声を洩らした。


 ―― 一.六秒――


 両手でワイヤーを握り締めたまま、仁矢は身体を捻った。
 縄を肩にかけ、片足を軸にぐるりと一八〇度背後へ向き直る。
「――っぁっ!!」
 気合いの声とともに、仁矢は姿勢を落とした。
 背負い投げの形で、渾身の力を込めて縄を引く。


 ―― 一.八秒――


 巻きつけたハンカチが擦り切れ、灼けつく痛みとともに紅い雫がシャツの袖に散った。
 構うことなく、仁矢は前方へ身体を傾ける。
 相手の突進の勢いに、もてる限りの『力』を上乗せして。毒蛇の巨体を、舞台の奥へと投げ飛ばす!
 ――くたばりやがれっ!!


 ―― 二秒――


 片膝をつき、そのまま前のめりに床に倒れ伏す仁矢。
 その、背中の上を。
「なっ――ぁあぁあぁあぁっ――!」
 文字通りに長き尾をひいて、《蛇使い》の驚愕の叫びと大蛇の身体が飛び過ぎていく。
 そして――
 

 ――ゴゥンッ!!
 

 身を起こしたつばさの耳に、盛大な打撃音が響いた。
 まるで、天幕を揺るがすような――
 いや、比喩ではなく。舞台の床と壁は一瞬、鈍く揺れ動く。
 縄を掴まれ、仁矢に背負い投げを食らった大蛇と《蛇使い》。その巨体が、舞台背後の壁へと激突した衝撃に。
 盛大な埃と破片が舞いあがり、大蛇の巨体はその白煙に隠れて見えなくなる。周囲の壁に、蜘蛛の巣にも似た巨大な亀裂が広がった。
「あ――」
 がらがらと崩壊を続ける舞台の壁を、つばさはただ息を呑んで見据える。その足元にも、壁の破片がいくつもいくつも転がってきた。
 朦朧と霞んだ風景。舞台の白壁に開いた大穴と、《蛇使い》を呑みこんで崩れた瓦礫の山とが、うっすらとその向こうに覗く。
 動くものは何もない。崩落が止むと、嘘のような静寂が舞台を支配した。
 つばさは、まなざしを仁矢に向ける。
 たった今、凄まじいまでの『力』をもって決着の技を放った彼は――わだかまる埃の中、ゆっくりと立ち上がった。
 天井の照明が、スポットライトのように彼の痩躯を照らし出す。
 肩を上下させて荒い息をつきながら、仁矢は険しいまなざしを舞台の奥に向けていた。壁の前に築かれた、瓦礫の山へと。
「――仁矢くんっ」
「来るんじゃねえ!」
 駆け寄ろうとしたつばさの足を、叫びの刃が縫いとめる。
「……まだだ」
「え?」
 その言葉に、思わず首を傾げたその瞬間。


 ――ガシャァッ!!


 破砕音とともに、盛大な白煙が舞台の上に広がった。
 山が。瓦礫の山が、あたかも噴火のごときに爆ぜ崩れる。
 その下から、巻き上がる煙を貫いて現れたのは。
「貴様ぁぁあぁぁあぁぁっ!」
 大蛇の背を駆る、黒衣の老人!
 埃にまみれ、ずたぼろに裂けた長衣を靡かせて。幽鬼さながらのいでたちと形相で、《蛇使い》が咆える。
「あ――!」
 つばさは喉から、掠れた声を洩らした。
 大砲に撃ち出されたかのように、瓦礫の中から伸びた大蛇の首。裂けんがばかりに開かれた顎が、真正面から仁矢の胴を咥えこむ!
 みしり、という肉と骨が軋む音に重なって――
 轟きわたる絶叫が、天幕の薄闇を震わせた。


「じ――」
 仁矢くん!!
 発しかけた悲痛な呼び声を、つばさはしかし、喉元に止めた。
 違う。
 違ったのだ。
 驚愕と苦痛に彩られたあの絶叫は、仁矢が発したものではなく――

「な――あ――ぁあっ!!」
 血走った両の目を皿のように見開いて、《蛇使い》は凍りつく。
 大蛇の、口が。
 憎むべき小僧の身体をひと息に食いちぎらんとした、己の牙が。
 動かない。それ以上、ぴくりたりとも動いてはくれない。
 ――こ――こやつっ――
 まなざしにあらんかぎりの呪詛をこめて、老人は眼下の敵を睨みつける。
「くっ――」
 呻きとも笑いともつかぬ声で、少年は応えた。
 大蛇の顎は、牙は、彼の身体に達してはいない。
 渾身の力を込めたはずの突進は、少年の腕に――傷つき血に濡れた二本の手にがっちりと受け止められ、阻まれていた。
 信じられぬ。馬鹿な。そんな、馬鹿な。
 少年は……少年の指は、蛇の牙を掴んでいるのだ! 刃そのものの鋭さを有し、毒液を滴らせた――その毒牙の一対を。
 ゆっくりと、だが凄まじいまでの力で、少年は大蛇の牙を握り締める。
 ぎぃいっ!……と、大蛇が苦悶の鳴き声をあげた。歯牙の根が軋む鋭い痛みは、身体を同じくする《蛇使い》にもそのままに伝わってきた。
「こっ――小僧がぁっ!!」
 大きく身を乗り出し、《蛇使い》は腕を振り回した。
 握り締めた拳で、少年の頬を力の限りに打ち据える。鈍い打撲音が、舞台に響いた。
 だが、それだけだ。
 少年の唇からは、苦痛の声のひとつすら洩れいではしない。
 彼は、静かに顔を上げた。落ちかかった前髪の間から、鋭い双眸が《蛇使い》を睨み据える。
 瞳の奥に宿るは何者にも屈することなき、凄烈なる意志の光。
 半ば本能的な恐怖に圧され、《蛇使い》は思わず身を竦ませる。

 おそらく――その刹那に、勝敗は決した。

 ぱきんっ……!
 はりつめた静寂の中に、微かな音がこだまする。
 大蛇の、牙が。
 少年の手によって折り砕かれた二本の毒牙が、白熱灯の光に照り輝きながら宙に舞う。
「――がぁ――ぁっ!!」
 ――シギャアァアァ!!
 《蛇使い》の絶叫と毒蛇の咆哮とが、凄絶な二重奏(ハーモニー)を天幕に響かせた。
 大蛇の身体が狂ったようにうねり、床の上にのたうつ。その動きを制することもできぬまま、老人は蛇の頭もろとも上下左右に振り回された。
 だが、それすらもほんの一瞬のこと。
 無言のままに伸ばした少年の片手が、黒衣の襟首を掴んだ。有無を言わさぬ力で、《蛇使い》の身体は彼の正面に引き寄せられる。
 少年の顔が、すぐ目の前にあった。唇の端に滲む血を拭いもせぬまま、彼は鬱陶しげに目を細める。
「……くだらねぇ舞台に、長々とつきあわせやがって」
 淡々と。無愛想な、冷めた口調で。
 振り上げた斬首の斧のごとき、静かな凄みを帯びた声で。
 呟きながら――赤城 仁矢は、空いた片手を固く握り締める。
「もうアンコールは無しだぜ――これがてめえの幕だ、じじい」
「止め――」
 《蛇使い》が、掠れた声を紡ぎ終えるより早く――
 うなりを上げた拳の一撃が、老人の頬を音も高らかに張り飛ばしていた。




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