〜 第四十二幕 地上への脱出 〜



 悲鳴すらも、あがりはしなかった。
 仁矢の渾身の一撃を食らった黒衣の老人の身体は、大蛇もろともに大きく宙を舞う。ごすんっ、と床の上をバウンドし――舞台の端、袖幕の陰に転がった。
「ぐ……がっ……」
 白目を向いて呻き声を洩らすと、それきりぴくりたりとも動かなくなる。十字架のように両腕を広げたまま仰向けに床の上に伸びて、《蛇使い》は完全に気を失っているようだった。
「――――」
 つばさはしばし、呆けたようにその場に立ちつくす。
 佇む仁矢の背中と、その向こうに横たわる大蛇。
 床にたゆたう塵煙。ぼんやりと天幕の中を照らす天井のライト。
 そんな光景を目にしても――闘いは終わったのだという事実が、まだ心にわきあがってこない。長距離走を走り終わった後のように、鼓動の乱れはおさまってはくれない。
「じ……仁矢くん?――わ、うわぁっ!」
 ようやく紡ぎだしたつばさの呼びかけは、途中でうらがえった狼狽の声に変わる。
 仁矢ががくりと片膝をついて、床にくずおれたからだ。
「ちょ、ちょっとっ。仁矢くんってばっ、ねえっ――」
 駆けよって、倒れ伏した彼の背中を揺すろうとして。そこでつばさは、思わず鋭く息を呑んだ。
 仁矢が身に纏う、黒のシャツとジーンズ。そのいたるところが埃に煤け、毛羽立って擦り切れかかっている。
 闘いの中で幾度も大蛇の尾に打たれ、床に叩きつけられた――その跡に違いなかった。布地が完全に裂けている箇所も、じんわりと血が滲んでいる箇所も、ひとつやふたつではない。
 手の甲に巻いたつばさのハンカチもとうに外れ、乾きかけた血にびっしりと埃がこびりついている。
 どれほどの痛みだっただろう、この傷を受けたまま、《百人力》の力を振るって戦い続けるのは。とうに気を失っていても、何の不思議もなかったのだ。
「――っ」
 滲みかけた涙を拭い、つばさはすんっ、と鼻をすすった。
 ――待ってて、仁矢くん。
 胸の奥に呟いて、仁矢の背中をそっと撫でる。
 いまこの場で仁矢くんを手当てしてあげられないことが、ほんとうに悔しい。刻まれた傷を目にすると、鳩尾の奥がきゅうっと締め付けられるように痛んだ。
 でも。
 側らに座り込んで涙ぐんでいるだけなんて、そんなのは、違う。
 ――ひとりじゃ何もできないなんてんじゃ、茜桟敷のメンバー失格だもんねっ。
 立ち上がって、あたりを見回す。今この場でできることは、あたしが全部やっておかなくっちゃ。
 解毒剤と、脱出口を見つけるのだ。仁矢くんが目を覚ましたとき、あとはふたりでこの天幕を出るだけでいいように。いいや、仁矢くんがしばらく目を覚まさないなら、彼の身体をおぶさって地上まで連れてくくらいのつもりで――
 だがしかし、ぐるりと視線を一周させたつばさは、むむっと唸って眉間に皺を寄せた。
 天幕の中に、扉とおぼしきものはひとつもないのだ。舞台の袖の奥にも、客席の後ろにも――普通の天幕やホールなら出入口が設けてあるはずの場所が、当たり前のように壁になっている。
 ――ふ、普段どっから出入りするのさっ?
 そう思いかけて、つばさはすぐに気がついた。
 あたしたちも、へんてこな奇術でもってここに運ばれてきたのだ。確か、仁矢くんは《転移》とか言っていた――
 もしかすると、この天幕はその術でだけしか出入りできないようになっているのかもしれない。
 だとすれば。
 ごくりと唾を飲み込んで、つばさは緊張ぎみのまなざしをめぐらせた。舞台の端で伸びて横たわる、《蛇使い》と大蛇のほうへ。
 あのおじいさんから仕掛けを聞き出さなくっては、ここからは出られないということになる。
 いや、でも今もし《蛇使い》が目を覚まして動き出すようなことになってしまったら。とてもではないけれど手におえない。
「うーっ!!」
 こんがらがった唸り声を発して、つばさはぶんぶんとかぶりを振った。
 恐い。恐いけれど、どのみちやるしかないのだ。出入口だけじゃない、解毒剤の在処だって、あのおじいさんから聞き出さねばならないのだから。
 ロープ。そう、あのワイヤーロープでもう一回身体をがんじがらめにして、その辺りの柱にぐるぐる巻きにくくりつけて。それからだったらあたしでも、訊問というやつがなんとかできるかもしれない。
 そうだ。うん。そうしよう。
 なにやら奇妙にこわばった表情で深呼吸をして、つばさは舞台の袖に足を向けようとした――
 その瞬間だった。天幕の中に、異変が起こったのは。

 ジリリリリリリリリィィンッ!!

「――わひゃあっ!?」
 真ん丸に両目を見開いて、つばさはすっとんきょうな叫び声をあげた。
 ベルの音が。
 学校で火災報知器を誰かがイタズラしたときのような警報音が、何の前触れもなく辺りに響きわたったのだ。
 ――な、なんなの!? 何かまずいことしちゃった?
 慌てて巡らせたまなざしの先に、紅の光がよぎった。
 客席の壁や天井、舞台の袖。天幕内部のいたるところで、真っ赤な警報ランプが点灯している。
 と同時に。それまで室内を照らしていた照明が――天井の水銀灯が、スポットライトが、客席壁際に並んだ灯火までもが、次々と光を失っていく。
 またたく間に、辺りは凶々しいまでの紅一色に染め上げられた。
「なんなのさこれはっ!?」
 今度は声に出して、つばさは叫んだ。
 恐慌(パニック)直前のその問いに、むろん応えるものは何もない。それどころか。
「――あ!」
 警報ベルの余韻が止むと同時に、紅のランプまでもが一斉に消えてしまった。
 後に残るのはただ、完全なる無明の闇。
 ゴゴ……ゴゴゴゴゴ……
 どこかから遠く、地鳴りを思わせる音が響いてきた。
 いや、音だけではなく。近くで削岩機でも使われているかのように、足元の床が鈍く震動している。
 つばさには判らない。いったい、何が起こっているのか。何が始まっているのか。
 ただ――よからぬ仕掛けがこの地下天幕に働きつつあることだけは、間違いなかった。
 ――お、落ち着きなよっ。焦っちゃダメだってば!
 懸命に自分に言い聞かせると、つばさはポケットに手を入れた。
 先程も用いたばかりの、仁矢の懐中時計。文字盤を前にかざし、そうっと竜頭を押しこむ。
 特製懐中時計の《灯》が発する光の強さは、手にした人間の意思によって調整できるのだそうだ。つばさが念じた通り、懐中電灯ほどの明かりが舞台の上を照らしあげた。
 すぐ目の前に、意識を失い床に倒れ伏した仁矢。そしてその向こう、舞台の袖には――
「――――!!」
 刹那、驚愕の楔がつばさの心臓を穿った。
 ……いない!
 横たわっていたはずの大蛇が。黒衣の老人が。忽然と床の上から消えうせているではないか。
 ……しゅるっ……
 舞台を揺るがす低い鳴動に混じって、微かな擦過音が耳に届く。
 聞き違えるはずもない。今夜、幾度も幾度も耳にしたあの音を。
「――っ!」
 ほとんど無意識に、つばさは動いていた。倒れた仁矢の前に立ち、通せんぼの形で両腕を広げる。
 だが――覚悟していた大蛇の襲撃は、数秒の間をおいてもやってはこなかった。
 ……しゅる……るる……る……
 床を擦る鱗の音は、ゆっくりと遠ざかっていく。
 刻一刻と激しさを増す振動音に呑まれて、大蛇の気配は完全につばさの前から消え失せた。
 ――逃げた!?
 ぎょっとして、つばさは立ち尽くす。
 信じられなかった。大蛇の牙を折られて力を削がれているとはいえ、あの怪老人が捨て台詞のひとつもなく一目散に逃げ出すなんて。
 ――ちょ、ちょっとまって!?
 ゴゴゴゴ……という轟音と揺れは、刻一刻と大きくなっていく。
 ということは、もしかしてつまり――
 半ば本能的な危機感に駆られて、つばさは《灯》の光を周囲に巡らせた。
 こちらの焦燥を読み取ってか、懐中時計が放つ明かりが照度を増す。辺りの光景が、ぼんやりと視界に浮かび上がった。
「わ――わあぁっ!」
 叫び声をあげて、思わず懐中時計を放りだしそうになった。
 亀裂が。
 光が照らしだした客席の壁一面に、天井に、無数のヒビが生じているのが見える。
 空を走る雷のように、天幕の外壁には一秒ごとに新たな裂け目が広がってゆく。
 ゴゴ……ゴ……ゴ……ガンッ!……ゴッ!!……
 鳴動に混じって、鈍い激突音が響いた。
 考えるまでもない。落ちてきた壁や天井の破片が、床にぶつかる音。
 崩壊しつつあるのだ! この地下天幕は。おそらくは、《蛇使い》が作動させた何らかの仕掛けによって。
 こんっ、と、頭上から落ちてきた小石が頭を叩いた。それを機に、つばさは数秒の呆然から立ち返る。
 ――突っ立ってる場合じゃないよっ!!
 自分をどやしつけ、仁矢の側にしゃがみこむ。せいっぱいの力をこめて、つばさは彼の半身を抱き起こした。
 完全に気を失っているためか、それとも引き締まった筋肉のためか。細身な体格からは想像もできないくらい、仁矢の身体は重たく感じられる。
「ええいっ!」
 仁矢を背に負うと、つばさは獰猛なまでに荒い息をついて立ち上がった。
 へたばってる暇なんてあるもんか。ここで二人して生き埋めになってしまったら、何の意味もないのだ。
 ふらふらとおぼつかない足取りで、それでも懸命に前に進む。懐中時計が発する光で、つばさは懸命に壁を照らした。
 どこかにあるはずだった。《蛇使い》が抜け出ていった外への出口が。だが、それは一体何処に?
 ――バキンッ!
 すぐ背後で、木材が砕ける音がした。天井から落ちてきた大きな石が、床板を叩き割ったのだ。
 振動に舞い上がる床の埃が、一瞬、ライトの光の中に浮かんだ。
 床の、埃――
「――――!」
 つばさははっとして、足元に灯りを向ける。つい今の今まで、《蛇使い》の横たわっていた周囲の床を。
 そう。大蛇は出口まで、床を這っていたのだ。ならば当然――
 ――あった!
 積もる埃の上にくっきりと刻まれた、文字通りの蛇行の跡。それは舞台袖の奥に向かって進み……壁際の角で、ぷっつりと途切れている。まさしく、壁の中に吸い込まれたかのように。
 あそこだ。間違いない。
 仁矢をおぶったまま、つばさは舞台の奥に歩み寄る。片手を振り上げ、力任せに壁を叩いた。
 キィ……ッ……
 耳に響く、微かな軋みの音。
 あたかも回転ドアのごとく――何の変哲もないかと見えた白壁は、くるりと回ってつばさたちの前に口を開いた。
 闇の中へと伸びる通路。その奥に、登りの階段がうっすらと見てとれる。
 ――よしっ!
 胸に快哉を叫んで、隠し扉を潜ろうとした、その瞬間。
 ぼぐんっ!! という、ひときわ大きい破砕音が頭の上で轟いた。
 反射的に巡らせた光の中に、崩れ落ちてくる天井の破片が映る。
「――わっ!」
 驚愕に、思わず身体が竦んだ。その拍子に疲労した脚から力が抜け、つばさは仁矢を背負ったままかくんと片膝をついてしまう。
 ほんの一瞬の、されど致命的なロス。
 懸命に、扉の向こうに跳びこまんとする。だが、間に合わない。
 潰される!
 絶望が氷の刃となって、つばさの胸を貫いた。
 もうちょっと――もうちょっとなのに――!

 ゴッ!

 石の砕ける音が、耳に響いた。
 至近距離。頭の、すぐ上で。
 ――え!?
 ばらばらの破片となったコンクリートが、つばさの周囲に降り注ぐ。
 何が起こったのかもわからないまま、つばさは反射的に上を向いた。
 腕が、見えた。
 もちろん自分の腕ではない。黒いシャツの袖から伸びる、血に濡れた拳。
「じ、」
 仁矢くん! とは発音できなかった。背中から回されたもう片方の腕が、息が詰まるほど強くつばさの身体を抱きかかえる。
 仁矢の脚が、勢いよく床を蹴った。ふたりの身体は隠し扉を潜り抜け、通路の床に折り重なって倒れこむ。
 それと同時だった。扉の向こう――一瞬前までつばさたちがいた場所が、崩落した天井の瓦礫に埋まったのは。
 その上からさらに大量の土砂が落ち積もり、またたくまに扉の高さを塞いでしまう。
 鈍い破砕音が幾度も響き、その度に通路が揺れる。《蛇使い》の牙城が、地下深くに造られた天幕の劇場がいま、人知れぬまま潰え去らんとしているのだ。
 くっ……という微かな呻きの声が、その時、すぐ耳元で聞こえた。
「――仁矢くんっ!」
 はじかれたように身を起こし、つばさは倒れ伏す仁矢を見つめる。
 床に手をつき、かろうじて半身をもたげ――仁矢はしかし、わずかに顔を歪めて動きを止めた。引き結んだ口元から、奥歯を噛み締める微かな軋りが洩れる。
 仁矢は荒い息をつきながら、覚束ない動きで立ち上がろうとする。
 つばさは――発しかけた声を飲み込んで、手を伸ばした。
 仁矢の片腕をとり、自分の首の後ろに回す。肩を貸す形で、仁矢の身体を支える。
 まだ半ば朦朧とした表情のまま、仁矢は荒く息をついた。
「……じじいは、どうなった」
「逃げたみたい――この階段で」
 かろうじて搾り出された彼の問いに、つばさははりつめた声で答える。
 仁矢の喉から、くっ!……という呻きが洩れた。一歩前に足を踏み出し、しかし彼は再び大きくよろめいてしまう。
「仁矢くんっ」
「……ざまあねぇぜ……畜生がっ……!」
 焦燥と自責を滲ませた、血を吐くような声。
「ち――」
 ちがうよ、仁矢くん、ざまぁないだなんてそんな――発しかけた言葉を、つばさは喉元に押し殺す。今この場でそんなことを言ったって、仁矢にはきっと届かない。
 つばさは屈みこんで仁矢の腕をとると、いまいちど自分の肩に回した。彼の身体を支えながら、渾身の力を込めて立ち上がる。
「――駒形」
「行こう、仁矢くん」
 せいいっぱいに表情を引き締めて、つばさは声を紡いだ。
 ほんとうは。
 ありがとうもごめんねも――伝えたい言葉は、いくつもいくつもあって。
 無理も無茶も、ほんとうにもう、してほしくはなくって。
 けれどもまだ、闘いは終ってはいなかった。
 一緒にこの地下基地を脱出して、逃げた《蛇使い》を捕まえて、解毒剤を手に入れて、千絵ちゃんを助けて。それがすべて叶ってはじめて、この夜は明けるのだ。
「――ごめん。もうちょっとだけ手伝って、仁矢くん」
 もしも、朝を迎えることができたなら。どれだけかかったって、このお礼はぜったいに返すから。
 だから、今は。今だけは。
 口を噤んで、仁矢がつばさの顔を見つめた。
 こくりと小さく頷いて――そこではじめて我に返ったように、彼は険しい表情に立ち戻って階段の上に目を向ける。
 ゆっくりと足を踏み出して、つばさは歩き始めた。
 その足音に、仁矢の靴音が重なる。
 仁矢は、何も言わない。つばさも、声を発しはしなかった。
 狭い階段は、どこまでも長く続いている。
 ふたつの足音と、息遣いだけが階段に響く。
 沈黙。けれども、昼間の学校でふたりきりになったときの沈黙とは、ぜんぜん違った。どこが違うのかうまく言葉にできないのだけれど、でも、確実に。
 どのくらい、登り続けたころだろうか。
「――あ!」
 光に照らされた階段の果てに、四角く切り取られた夜空が覗いた。
 地上だ。しかも、建物の外。
「どこに……出るのかな?」
 と、思わず口をついた問いに、
「知るか。出てみりゃ判るだろうがよ」
 溜息混じりに、仁矢が口を開いた。
 ぶっきらぼうなことこの上ないその物言いが、つばさの胸に安堵をもたらす。そうそう、それでこそ仁矢くんというやつだ。
「そだね」
 一瞬だけ顔を見合わせて、限りなく笑みに近い溜息を交わしてから――ふたりは並んで、階段の最後の数段を登る。
 宵風が、つばさの頬を撫でた。
 数十分ぶりの、外の空気。
 階段から上半身を覗かせた状態で、つばさはきょろきょろと周囲を見回し、
「え?――ええええっ!?」
 そして、思わず目を見開いて驚愕の声をあげた。
 無理もない。目の前に広がるのは思いもよらぬ……けれども、普段からよく見知った光景だったのだ。
 そう。月もとうに沈んだ夜空の下、微かな星明りに浮かびあがるその影絵はまさしく――




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