〜 第四十三幕 最後の対決 〜



「は――花やしき!?」
 まだ己の目を信じられぬままに、つばさは唖然とした声をあげる。
 間違いなかった。
 それほど大きくはない観覧車と、古めかしい回転木馬。そして、周囲をぐるりと巡るコースターのレール。
 多種多様な風景をごちゃ混ぜにした浅草の街の中にも、ほかに似たような場所などあろうはずもない。
 街なかの狭い敷地に、おもちゃ箱よろしくぎっしりと乗物を詰め込めこんだ、浅草が誇る老舗遊園地――花やしきの只中に、自分たちは立っているのだ。
「嘘っ。嘘だよ。だって、こんなとこに入口なんてつくっちゃたら――」
 たった今潜ったばかりの地下からの出口を、つばさは振り返った。
 広場のアスファルトの真ん中に、ぽっかりと開いた四角い穴。何かの点検口に偽装してあるのだろう、すぐ横にはいかにも下水の蓋といった、古びた鉄板が転がっている。
 いや、でも、それにしても。
 休日ともなれば多くの人に賑わう遊園地の真ん中に、こんな入口があって。地下にはあんな空間が広がっていなんて。
「いままで、誰も開けなかったのかなあ……この蓋」
「奇術で隠されてたってこったろうよ」
 つばさの呟きに、仁矢がちいさく肩を竦める。
「茜桟敷のビルと同じだ。
 珍しいものじゃねえ。人目につかねぇように仕掛けがされた入口なんざ、街の中にいくらでも転がってるぜ」
 何をいまさら面食らってやがるんだ? そうとでも言いたげな、つまらなそうな口調で。
「……そう、なんだ」
 たくさんあるんだ、こんなのが。
 何度目の驚きになるのかももはや分からないが……なんだかまたひとつ、世界が裏返ってしまったような気がした。
 あああ、けれど今はそんなことに呆然としてる場合じゃない。
 つばさはきょろきょろと、周囲を見回した。どこへ行ったのだろう、《蛇使い》は。
 深夜を過ぎ、闇に覆われた花やしき。普段がにぎやかな場所だけに、人の気配を欠いたいまはただの静寂よりもなおいっそう静まりかえって感じられる。まるで、おとぎの国がゴーストタウンになってしまったかのような。
 怪老人と大蛇は、この遊園地の中に隠れているのだろうか。それとも、何かの術で人目を避けながら、既に周りの街の中に――

「――メリーゴーランドの、後ろ――!」

「え?」
 唐突に響いた叫びに、つばさはびくん! と身体を震わせた。
 背後から駆け寄ってくる、複数の足音。
「「――先輩!」」
 振り返ったつばさが発した声は、はからずも仁矢のそれと重なる。
 頬を微かに上気させ、眼鏡の奥の瞳にはりつめた光を宿らせて――広場の向こうから走ってくるのは紛れもない、香春 睦だった。そのすぐ後ろにもちろん、京一郎の姿も見える。
 だがしかし、つばさたちが彼らに次の言葉を投げるよりも早く。メリーゴーランドの陰から、がたんっ! という音とともに大蛇の影が飛び出した。
「――おのれっ、《千里眼》かっ!」
 憎々しげな言葉とはうらはらに、《蛇使い》の声には怯えにうわずっていた。
こちらに襲い掛かってこようとはせず、乗り物の間を縫ってつばさたちから離れていく。
「待ってよっ!」
 つばさの叫びを、むろん相手は聞き届けようはずもない。ジェットコースターの柱に身体を巻きつけると、大蛇は螺旋を描いてレールの上に登った。
「待ってってばっ!!」
 《力》を振り絞って、つばさは地を蹴った。メリーゴーランドの屋根にステップを踏み、そのまま大蛇の背後――コースターの鉄骨に着地する。
「解毒剤、渡してよっ! 渡してくんなきゃ絶対に逃がさないんだからっ!!」
「く――」
 振り向いた《蛇使い》が、苦しげに声を詰まらせる。
 が、しかし――一瞬の沈黙ののち、老人はにやりと口元を歪めた。
 細めた双眸の奥に覗く、邪な光。彼の顔に浮かぶのは、先程までの倣岸な嗤いではなく……卑屈さと狡猾さとが入り混じった、奇妙な表情だった。
「う……動くでないっ!」
 ぜえぜえと息をつきながら、黒衣の老人は叫ぶ。まさしく、追い詰められた獣があげる吠え声のように。
「忘れたか、小娘っ。先程も言うたはずじゃぞ、お前の友人が眠る病院にも、お前の家にも、わしの可愛い配下を忍ばせておるとな。
 それ以上近づいてみよ、お前の大切な者たちの喉笛をひとりずつ噛み切ってくれるわっ」
「――――!」
 老人が、余裕も矜持もかなぐり捨てて翳した手持ちの札――だがそれは、つばさにとっては最も太刀打ちのきかないカードだった。
 針金に締め付けられたように、胸の奥が冷たく縮みあがる。怒りの声を返さんと口を開きかけ、しかし言葉がうまく喉を通り抜けてはくれない。
「ず、ずるいよっ、ひきょーものっ!」
 震える声で、それだけ言うのがやっとだった。脳裏に膨れ上がる恐慌を必死に抑えながら、つばさはただ、あうあうと唇を喘がせる。
「どうとでも言うがよい。わしの耳には、誉め言葉としか聞こえぬよ。
 くく――今この場で使わずしては、何のための人質か分かりはせぬからのう」
 再び優位を握ったことを確信してか、《蛇使い》の嗤いがよりいっそう毒々しいものに変じる。
「――あーあ」
 張り詰めた一瞬の沈黙にその時、溜息混じりの声が割り込んだ。
 地上から《蛇使い》を見上げた京一郎が、やれやれとばかりに肩を竦めてみせる。
「語るに落ちるとはこのことですねえ。勝負が決すればあとは潔くというのが、奇術師の誇りというものだと思っていましたが」
「黙っておれ。勝負に負けて試合に勝つという言葉を知っておるかの?」
 挑発には応ぜずに、老人は注意深く周囲を見回した。
「おのれらが勝ちを握ったと思うておるなら、大きな間違いというものじゃよ。わしが失うたものなど、傀儡ひとつとかりそめの根城のみじゃ。
 くくっ……動くなよ。己の軽率が千絵とかいうあの娘の命を散らせるもととなったのでは、寝覚めが悪かろう?」
 しゅるっ……
 こちらに頭を向けたままで、大蛇は器用に後ずさりを始める。つばさから離れ、コースターのレールの上をゆっくりと這い滑っていく。
「――待ってよっ!!」
「動くなと言うたはずじゃぞ」
 踏み出しかけたつばさの足を、嘲りを込めた一声が縫いとめる。
 それ以上動くこともできずに、つばさは握り締めた両の拳を震わせる。
「な、何でさ――何で千絵ちゃんが――、っ、解毒剤――渡してよ、渡してったらっ!!」
 ぅくっ、と喉がひきつって、言葉が出てこない。頭の中が真っ白になって、自分が何を口にしているのかすらもわからなくなる。
 じんわりと滲む視界。零れる涙を堪えようとして食いしばった歯が、震えて細かな音をたてた。
「気の毒じゃがのう、お嬢ちゃんや」
 芝居がかった仕草で、《蛇使い》はかぶりを振ってみせる。
「わしは言うたはずじゃよ。お嬢ちゃんがわしとともに来てくれるなら、お友達を眠りから覚ましてやるとな。その申し出を拒んで茜音なぞに組する道を選んだは、お嬢ちゃんのほうじゃぞ。
 代価を払わずして品のみを手にとろうとは、虫の良い料簡ではないかね」
「――っ!」
 涙に濡れた目を見開き、つばさは歯を食いしばって《蛇使い》を睨みつけた。
 刺し貫かんがばかりの怒りのまなざしにも、しかし老人はなんら動じる様子を見せない。心地良げに眼を細めると、彼は歌うがごときに言葉を続ける。
「どうじゃ? 改めて問おうか。大切なお友達の命を助けるために、わしとともに来るつもりは――」
「余計な御託は、そろそろ聞き飽きましたよ。おじいさん」
 静かに響いた声が、《蛇使い》の口上を遮った。
「盗んだ品物を当人に売りつけようとは、ひどい泥棒もあったものです。
 夜も更けましたし、時間も惜しい。長話はやめにしませんか?」
「――また――貴様かっ」
 満悦に水を差された老人が、いまいましげなまなざしを向ける。
 数メートル離れた地上に佇む――若槻 京一郎へと。

「気がついていらっしゃいますか? おじいさん、そうやって得意げに弁を振るわれたあとは必ずひどい目にあっていらっしゃるんですが。
 今日だけで、もう何回目になります?」
 口調はあくまでも、飄々たるまま。表情は依然として穏やかなまま。
 だがしかし、言葉の奥に冷ややかな楔を潜ませて、京一郎は続ける。
「まぁいいです。それより、ひとつだけ確認しておきましょう。
 僕らの戦いには、いちおうの不文律というやつがあるはずだ。関係ない人間を人質にとったあげく、勝敗が決したあとの逃げの手に使うなどというのは、明らかにそのルールに反している。
 構わないわけですね。この後に及んでも人質を放すつもりもなければ、駒形さんに解毒剤を渡すつもりも毛頭ないと――そうおっしゃる」
「最後まで生意気な口をききよるわ。その手には乗らぬぞ。
 答えを返すならば――おう、その通りじゃとも。誇りを重んじて手札のジョーカーを出し損ねるなど、愚かしいもいいところじゃろう?
 安心せい。この場を離れ次第、人質は返してやるわ。もっとも……解毒剤が失われた以上、千絵というあの娘は一生眠り姫のままじゃろうがな。
 くくっ――はははははっ!!」
 《蛇使い》の高笑いを受け、されど京一郎の表情はわずかたりとも動かない。口元を結んだまま、彼は鼻で軽く息をついてみせる。
「だ、そうですよ――茜音さん」
 淡々と。
 こともなげに紡いだ彼の一言はしかし、場の空気をぴしりと凍りつかせた。
「――なっ――」
 哄笑の形に広げたままの口から驚愕の声を洩らして、《蛇使い》は見開いた目で周囲を見回す。今更となって、初めて彼は気づいたのだ。京一郎たちとともにあるはずの男装の少女の姿が、何処にも見当たらないことに。
 怪老人のみではない。鉄塔の下の仁矢も、コースターのレールの上で泣きだしかけていたつばさも。呆然そのものの表情で、京一郎を見据えている。
 時間そのものが停まってしまったような、その硬直を破ったのは――夜闇を裂いて閃いた光だった。
「くっ!」
 片手を顔の前にかざして、《蛇使い》が悲鳴をあげる。
 照明が。園内のライトというライトが、一斉に強い光を燈したのだ。それも、大蛇と茜桟敷のメンバーが集まる鉄塔の周囲に照準を合わせて。まさに、舞台の終幕を飾るスポットのごとく。
「――成程」
 澄んだ声が、辺りにこだました。
 足音が近づいてくる。だが、何処から響いてくるのかはわからない。
「ならば僕も、もはや遠慮会釈の必要はないわけだね」
 朗々と響き渡る口上にあわせて、照明のひとつがすうっ……とアスファルトの上を滑る。
 光の円が停まったその場所。聳え立つゴンドラタワーの鉄骨の下に――最後の役者は、姿を現した。
「――茜音さんっ!?」
「てめぇ……今更何しに来やがったっ」
 つばさの叫びと仁矢の怒声を受けて、久遠 茜音は悠然と地に降り立つ。
「何をしには酷いな、取りを飾るのは座長の当然の務めだよ。
 と、言いたいところだが――」
 にやりと唇を歪めて、彼女はつばさと仁矢にまなざしを投げた。
「どうやら、舞台の幕は既に君たちが引いてしまったらしいな。やれやれ。折角出てきたというのに、僕の役目は後片付けのみか」
 言葉とはうらはらに、どことなく満足げな口調。
 今のこの状況など、窮地でもなんでもないと言わんばかりの。
 いや――
 口にするばかりではなく、実際に。彼女の出現は場の空気を、がらりと一変させてしまっていた。
 夜の闇も、静まり返った遊園地の影絵も。今の今まで主導権を握っていた怪老人すらも、いまや久遠 茜音という少女の所作を引き立てる脇役に過ぎない。
「――さて」
 ゆっくりと、彼女は視線を巡らせる。呆然としたまま固まっている、コースターレールの上の《蛇使い》へ。
「さっさと事を済ませようじゃないか、ご老人。僕らも先を急ぐんだ。夜が明けるまでに、君が巻き込んだ人間を眠りから醒ましてやらねばならないからね。
 ――そうだろう? つばさ君」
 つばさのほうにまなざしを向け、男装の少女は唇に笑みを刻む。
 悪戯っぽい――しかしどこか柔らかな。
 あらゆる困難の鎖を不敵に断ち切る、それは微笑だった。





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