〜 終 幕 〜





 信号が、青に変わった。
 一瞬の間をおいて、歩道の雑踏が一斉に交差点に溢れ出る。大通りの両側から横断歩道を行き交う人の群は、まるでちらつくモザイクの模様に見えた。
 ポケットに手を突っ込んだまま、立ち止まること数秒。周囲の人ごみがはけてから、赤城 仁矢はゆっくりと歩き始めた。
 雷門の並び――この界隈随一の老舗酒場である神谷バーの前から、松屋デパート・吾妻橋方面に渡る横断歩道。浅草の大きな通りが集まる地点だけに、まだ陽は高いとはいえ人も車も多い。雑踏が嫌いな仁矢は、普段はあまり足を向けない交差路だ。
 もっとも、今日はすこしばかりの用事があるので仕方がなかった。
 松屋デパートの前に渡ったとき、制服姿の警察官が二人、歩道を歩いてくるのが見えた。むろん彼らは仁矢の姿など目にとめず、そのまま通りを渡って雷門方向に歩み去っていく。
 例の、『高校性集団昏倒事件』の捜査の続きだろう。
 眠り続けていた高校生たちは、昨日意識を取り戻した。だが、彼らのうちのひとりは行方不明になったままだ。少年の行方と事件の原因とを探るため、浅草の街には未だ警官の姿が目立った。
 だが。
 ――見つからねえぜ、あんたらには。
 警察官達の背中にちらりと視線を投げて、仁矢は胸中に呟く。馬鹿にするわけではなく、さりとて同情するわけでもなく、淡々と。
 あの怪老人の奇術の仕掛けかたは、決して巧みとはいえなかった。隠蔽も完全には程遠く、おそらく町中を探せば活動の痕跡を見つけることは可能だろう。若槻先輩が、土手で蛇の鱗を見つけたように。
 けれども、そこまでだ。
 事件の糸口に偶然行きついたとしても、警察には――既存の常識に中に生きる人間たちには、それを糸口と気付いて手繰り寄せることはできない。《力》をもって織り成された事件を解くには、境界線のこちら側に足を踏み入れなければならないのだ。
 振り返り立ち止まった仁矢の視線の先で、信号は明滅して赤に転じる。全てを押し流す水の流れのように、車の群が通りを走り始めた。
 今回のこの事件は、都会の只中に起きた未解決の怪異として人の噂にのぼるだろう。だがそれすらも、さほどの時を経ずして忘れ去られていく。
 人々の心に檻のように沈殿した不安の欠片が、臨界を越えるその日までは……
「――――」
 ふと我に返って、仁矢は舌打ちをした。
 先日あの《幻燈師》とかいうふざけたピエロが語った絵空事に、脅かされている思考に気付いたのだ。
 何故こんなことに、自分は危機を感じているのだろう。
 ――関係ねえだろうが、俺には。
 こんないけ好かない街が、どうなろうと。
 そうとも。茜音が言うような、街を護るなんて御託は自分の知ったことではない。茜桟敷に身を置くのは、ただの退屈しのぎだ。あそこにいれば、誰かをぶん殴って憂さを晴らす機会には事欠かない。
 そう。ただそれだけの――
「――っ」
 仁矢は、微かに眉をしかめた。
 先日の戦いで負った手の傷が、鈍く疼いたのだ。
 ポケットから腕を抜き、仁矢はちらりとまなざしを落とす。
 昔から、怪我の治りはいいほうだ。家に帰ってから傷を洗い、無造作に包帯を巻きつけただけだったが、傷が膿むようなことはなかった。
 或いは、ハンカチを巻きつけられて手早く傷口を塞がれたのも、何らかの効があったのかもしれず――
 …………。
 気づかぬうちに、仁矢の眉間の皺は深くなっていた。
 ――……何だってんだよ、畜生が。
 声には出さずに、悪態をつく。何に、というわけではない。強いて言えば、自分の胸の奥でもやもやとわだかまっている得体の知れない塊に対して。
 あれ以来だ。あの、《蛇使い》との戦いの夜。駒形 つばさとかいうあの訳のわからないお節介焼きと、地下通路を潜ってから――自分の思考は、奇妙な具合にもつれたままになっている。

 ――この世に自分ひとりしか人がいないみたいな顔してっ。ばかにしないでよっ! 自分がそっぽ向いてりゃ相手も心配しないなんて思ったら大間違いだっ!

 錆びついた扉の前で、真正面から投げつけられたあの言葉を。仁矢は、払いのけることができなかった。
 うるせぇ、黙ってろ。そう怒鳴りつけて、会話を断てばいいだけのことであったのに。
 言い返せなかった。唇も、身体も、動かなかった。
 圧されてしまったのだ。襟首を掴み、貫くようなまなざしとともに発せられた、彼女の一声に。
 一対一の喧嘩だったら、おそらくあの時点で自分は負けていただろう。
 そしてそれから、仁矢の中の歯車は狂ってしまった。
 打ち身の痕が、ときおり鈍く痛むように。あの馬鹿の言葉に打ち据えられた自分の中のどこかが、疼きを生じるのだ。
 苛立たしいことに、仁矢には判らなかった。何故に、あの夜のたかだか数十分の出来事が、かほどに心の制御を乱すのか。
 判らなかった。
 あいつが――駒形 つばさが茜桟敷に加われば、この不可解な困惑に煩わされる時間は今後も続くだろう。それがわかっているにもかかわらず、どうして自分は彼女の加入にあれ以上の異を唱えなかったのか。
 今からでも遅くはない。怒鳴りつけてでも、追い出すべきではないのか。
 だが、その簡単なことが仁矢にはできなかった。
 どこか、割り切れない。
 割り切れない考えというものが、以前から仁矢は嫌いだった。割り切れなければ、振り捨てることができないからだ。
 振り捨てて、拭い去って、胸の中を空っぽに近づけておく。余計なものを抱え込んで、闘いに隙を生じぬように。
 それが、自分のやり方だったはずだ。
 それなのに――
 もう幾度めかの信号が、赤から青に変わった。デパートの前をゆく人の群が、立ち止まったままの仁矢を避けて流れていく。
 ちっ、と舌打ちをして、仁矢は軽くかぶりを振った。
 ――関係ねえだろうが、俺には。
 いまいちど、胸の中に繰り返す。わだかまる不可解な靄を、強引に拭い去る。だが、うまくはいかない。
 俺には関係ない――その言葉すら、いつもより容易く呟けなくなってしまっている自分に。心の片隅にわだかまる違和感に、かすかな戸惑いを覚えながら。
 交差点に背を向け、松屋デパートの入口を潜った。
 エスカレーター脇の売り場表示にちらりと視線を向け――
 そこで仁矢は、なんとも形容のしがたい表情を浮かべる。
 緊張。さりとて、闘いを前にしての鋭くはりつめた顔つきとはまた違った……いまにも一滴の汗が、頬を流れ落ちていきそうな。
 仁矢が今日ここを訪れたのは、ひとつの借りを返すためだ。
 借りを借りのままにしておくことは、仁矢の流儀に反した。
 たとえ相手が誰であっても。
 否。
 相手が相手であるだけに、ことさらに。
 ――畜生がっ。
 仁矢は自分自身をどやしつけた。
 何をびくついてやがるんだ。俺らしくもねえ。
 今日の俺は、俺らしくねえことばかりだ。
 そう。
 あの日、川べりの階段で駒形 つばさとぶつかってから。思えば仁矢は、ことごとくこれまでの自分を踏み外し続けているのだった。
「――――」
 惑いを払うようにかぶりを振って、帽子を目深にかぶりなおす。
 汗を滲ませた手のひらを、固く拳と握り締めて。
 どこか悲愴な雰囲気で息をつくと、仁矢は意を決したようにエスカレーターに足を乗せた。



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