活気、喧騒、雑踏、白熱、坩堝(るつぼ)―― いかなる言葉をもってすれば、言い表すことができようか。いまこの時、街路に満ちるこの空気を。 通りを行き交う人、人、人の群。 否、行き交うなどという状態ではもはやない。他者と袖を触れ合わせずに歩むことはできず、そもそも人の流れに抗って進むことはほとんど不可能だった。 浅草・仲見世通りは雷門から浅草寺観音堂までの数百メートルを繋ぐ、真っ直ぐな歩道だ。 もとより週末ともなれば観光客に賑わう通りなのだが――今日のこの日は、いつもの人出とはまた様相が異なった。立錐の余地もないとはよく言われるが、これでは錐どころか針も立てられまい。 身動きすることも叶わぬ、混雑の極み。人の声。ざわめき。 だがしかし、そのざわめきの中には、不思議と不快の色は感じられない。青い五月の空の下、街路に満ちるのはそれに相応しい晴れやかな喧騒だ。 互いに押しあいへし合いされながらも、眉を顰める者とておりはしない。 何故なら、今この通りにある人々は皆、望んでこの混雑の中に身を置いているからだ。同じ熱気を、同じ活力を胸に宿して。 それゆえに――おもちゃの箱をひっくり返したように混沌としていながら、辺りの気配はどこか凛と引き締まっている。 活気、喧騒、雑踏、白熱、坩堝―― いかなる言葉をもってすれば、言い表すことができようか。いまこの時、街路に満ちるこの空気を。 否。いかなる言葉をもってしても、それは叶うまい。一語、ただ一語を除いては。 ――おおうっ! 不意に、ひときわ大きなざわめきが雑踏の中に波打った。 通りの奥、浅草寺の観音堂の方向から、歓声のうねりは伝わってくる。幾十、幾百のまなざしが、一斉にその源へと向けられる。 ――ぇえぃさぁっ! ――ぉおぃさぁっ! ざわめく人々の声よりもさらに威勢良く、仲見世通りに響きわたる掛け声。 雑踏の向こうから、熱気の核がやってくる。 半被を纏った老若男女が担ぎ上げた――金色の神輿が。 祭。 そう。この場の空気を表す語はやはり、祭というその言葉のみをおいてほかにないのだ。 浅草・三社祭。この街が一年のうちで最も沸き返る三日間の、今日はその中日だった。 仲見世商店街、両側に並ぶ店舗の朱塗り。 祭半纏の藍、黒、臙脂。 行き交う人々の服の色彩。肌の色と、髪の色。 ありとあらゆる色を集めた、彩りの河のその中を―― 陽光に照り輝く金色の神輿が、ゆっくりと、そして勢い良く進んでいく。まさしく急流を御する舟のごとく、上下に左右に小さく大きく揺れながら。 ――ぇえぃさぁっ! ――ぉおぃさぁっ! ――ぇえぃさぁっ!! ――ぉおぃさぁっ!! 活き活きと発される掛け声が、周囲の空気を凛と引き締める。繰り返し、繰り返し。それはあたかも、浅草の街そのものが響かせる鼓動の高鳴りのよう。 熱気と昂揚はむろん、担ぎ手たちのみのものではない。 神輿の勇姿に見とれる者。拳を振り上げる者。掛け声に加わる者。手拍子を打つ者。 この通りにいま、見物人はひとりもいない。 浅草の街に身を置く全ての者が、祝祭の参加者だ。三社祭とは、そういう祭なのだ。 一艇の神輿が雷門の方角に過ぎ去るとすぐにまた、次の神輿がやってくる。 三日間の祭りのうち、いわゆる三社様――浅草神社の神輿が氏子に担がれるのは最終の日だ。二日目の今日は、各町内の神輿が競って浅草の街を巡る。 その数は、実に百以上。 庶民の街である浅草らしさが最も強く感じられるのは、むしろこの中日のほうといえるかもしれない。 ――ぇえぃさぁっ!! ――ぉおぃさぁっ!! 掛け声とともに、次の神輿が仲見世の交差点を渡った。 何処の町内会の神輿だろうか。 藍色に染めあげられた、揃いの半被。担ぎ手の息は、この上もなくぴったりと合っている。 その老若男女の中に、ひとり――ひときわちいさな担ぎ手の姿があった。 前後の二人に比べて、下手をすると頭ひとつぶんは背が低い。 まだ子供神輿を卒業して間もない年頃だろう。華奢でしなやかな身体に纏う半被も、いささか丈が長く感じられる。 はちまきを巻いた短めの髪と、墨で引いたようなくっきりと濃い眉。一見少年のようにも見受けられるが――起伏は少ないながらも柔らかな身体の線は、稚い少女のものだった。 「――ぉおぃさぁっ!!」 桜色の唇が、凛と声を発する。大きな瞳に湛える光は、真剣そのものだ。 神輿が上下するたびに、短い髪が揺れ踊る。上気した頬を伝う汗が、光の珠となって空に散る。 五月の涼風を人の形にしたような、溌剌たる少女―― 「つばさ〜っ!」 ざわめきをついて、通りの脇、人ごみの中から呼び声があがる。 「――ぉおぃさぁっ!!」 掛け声を発しながら、担ぎ手の少女は一瞬だけ横にまなざしを巡らせた。 雑踏の中に声の主を見つけたのだろう。大きなどんぐりまなこが、さらにぱっちりと見開かれる。 さすがに言葉を返すことは叶わねど、少女は――浅草駒形座が看板娘・駒形 つばさは、晴れ晴れとした笑みを刻んで歓声に応えた。 ――千絵ちゃんっ―― つばさは、胸中に友人の名を呼ぶ。 道の脇、溢れかえるような人ごみの中。それでも橘 千絵の姿は、声を聞いてすぐに見つけることができた。 「つばさ〜っ!」 再びの歓声とともに、彼女はぶんぶんと手を振った。ポニーテールの髪が、呼応するかのように左右に揺れる。 「つばさー、こっち向いてこっちっ」 ――む、無理だってばっ! 掛け声を張り上げながら、つばさは心の中で抗議の悲鳴をあげる。 上下左右に、勢い良く揺れ動く神輿。前後の担ぎ手の威勢の良い躍動。ちょっとでも気を抜いていると、またたくまに吹っ飛ばされるか押しつぶされるかしてしまいそうだ。 ぇえぃさぁっ!! 「ぉおぃさぁっ!!」 せいいっぱいの声をあげつつ――実のところつばさは神輿が出発してからずっと、焦りまくっているのだった。 ――こ――こんな、――凄いな――んてっ。 心の中の叫びすらも、神輿のリズムに揺さぶられて細切れになる。 今年が初めてだった。つばさが、子供神輿ではない町会の本神輿を担ぐのは。 ――つばさももう中学生だ。そろそろ担ぎ手を経験してもいいんじゃないか? という叔父さんの提案に、 ――そうだねえ。いずれうちの一座を背負って立つ身なんだ。お披露目は早いに越したことはないよ。お前さんもたまにはいいこと言うじゃないか。 と、叔母さんが珍しく諸手をあげて賛成し……当人が口を挟む暇もなく、つばさは担ぎ手にノミネートされてしまったのだ。 普通、未成年は神輿に添い歩くあたりの役どころが適当なのだが――町会の人たちもつばさ=担ぎ手案を歓迎してくれたらしく。嬉んでよいやら困ってよいやら緊張してよいやら、ぽかんとしているうちにお祭の当日はやってきてしまった。 そんなわけで、今である。 「ぉおぃさぁっ!!」 神輿が揺れるたびに、掛け声に加わるたびに、胸の奥に漲る力。祭の熱気が際限なく身体の芯に注ぎ込まれていくような、そんな気がする。 わくわくする。誇らしげに思う。この渦の中に、自分が身を置けることを。 けれども―― 担ぎ手としての役目を自分がきちんと果たしているかというと、これはかなり危うげだった。 なにしろ背丈が足りないので、担いでいるというよりはほとんど、必死につかまっているといった按配なのだ。 揺れにあわせて胸とお腹、背中と腰とお尻が交互に突き押されるので、足元もあやしくなる。きちんと踏みとどまっていなければ、サンドイッチされて身体が宙に浮いてしまうだろう。 ぇえぃさぁっ!! 「ぉおぃさぁっ!!」 せめて掛け声ばかりは勇ましくと、お腹に力を込めるけれど。頭がぽうっとなって、次の息を吸い込むのも忘れてしまいそうだ。 ――し――しっかり――しなくっちゃ! お神輿のゴールは、雷門の向こうの大通り。こんなところでへこたれるわけにはいかない。 ――行くよっ――まだまだっ! 胸の中で気合を入れなおして懸命に前方を見据えた、その瞬間。 「――つばさ〜っ!」 千絵の声が、再びつばさの耳に入った。 「カッコいいわよーっ! 頑張んなさいっ、つばさっ!」 すぐ近くだ。ちょうど、つばさの真横辺りから。 どうやら、声援を送りながらお神輿にぴったりとついてきてくれているらしい。 ――ありがと、千絵ちゃんっ! 返事をすることができないのが申し訳ない。 つばさは唇に笑みを刻み、 「ぉおぃさぁっ!!」 掛け声とともに、一瞬だけ横にまなざしを巡らせて―― ――わわっ! 刹那、驚きにどんぐりまなこを見開いた。 見えたのだ。千絵の姿が。 彼女が――首から提げた大きなカメラのレンズを、こちらに向けているのが。 あれは確か、千絵ちゃんがお父さんからお下がりを貰い受けたという愛用品だ。 証拠写真の収集は探偵のたしなみよ♪――などといいながら調査活動に携行するのを、つばさも何度か目にしたことがある。 いや、それはいいとして。 ――ま、待ってってば千絵ちゃんっ。 こっちにレンズを向けているということはやはり、つばさを撮影しようとしているのだということで。 ――ダメだってば、こんなとこ撮っちゃっ。 汗はかき放題だし、顔は真っ赤になっているし、髪の毛だって襟元だってそうとう乱れているだろう。この混雑の中でなら恥もかき捨てだが、後に残すにはあんまりないでたちだ。 火照った頬が、更にじんわり熱くなる。 「つばさ〜っ」 再び耳に響く、千絵の声。 今度は、斜め前からだ。いつの間にか神輿を追い越したらしく――こちらにしっかりとレンズを向ける千絵の姿が、視界の隅によぎる。 かしゃり。聞こえるはずもないシャッターの音が、何故だか耳に届いた気がした。 「ぉおぃさぁっ!!」 という掛け声に、 ――千絵ちゃんっ!! という抗議と牽制の叫びを込めてみたが、もちろんそんなものが届くはずもない。 「つばさっ」 上機嫌な声がざわめきの中に響き――次の瞬間、最大級の追い討ちがつばさを襲った。 「いい表情(かお)なさいっ! 現像できたら、赤城くんの靴箱にでも一枚忍び込ませてあげるからっ」 「ゐ¥&+ゞっ!!」 な、ななななな。 ――何さそれっ!? ちょっとそんななんでここで仁矢くんの名前が千絵ちゃんってば待ってよその、あの、 胸中に炸裂したパニックの爆弾が、一瞬だけ足運びを狂わせた。つばさは、すぐ前の担ぎ手――横丁の豆腐屋主人の留吉さんの背中に鼻と頬っぺたを打ち付けてしまう。 「わぷっ」 幸か不幸か祭の熱気の中、つばさの混乱に気付いた者は誰もいなかった。 ぇえぃさぁっ!! ぉおぃさぁっ!! ぇえぃさぁっ!! ぉおぃさぁっ!! 茹で上げられたように頬を染めるつばさを連れて、神輿は雑踏の仲見世を往く。人の海の向こうから、雷門がゆっくりと近づいてくる。 そういえば茜桟敷のみんなは、今日はどうしているんだろう。そんな疑問が、ふと心を過ぎる。 もしかするとこの人ごみのどこかから、このお神輿を観ているのかもしれない。茜音さんも、若槻先輩も、香春先輩も。 仁矢くんも―― うわああ。ダメだってば集中しなくっちゃ。 ぐぐっと眉をしかめて、つばさは無理矢理に表情を引き締めた。 「ぉおぃさぁっ!!」 正体不明な胸の靄を払おうと、思いきり声を張り上げる。だがしかし、ひとたび回り始めた混乱の渦はそう簡単に収まってはくれない。 頬の火照りと、祭の熱気。長いお風呂からあがったときのように、頭の芯がぽうっとのぼせあがる。 つばさは軽く頭を振った。またもや真横に回りこんで楽しげにカメラを構える千絵の姿が、視界の隅をよぎった。 ――馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿千絵ちゃんの馬鹿ぁぁっ! 悲鳴に近いつばさの心の叫びをよそに、神輿は雷門に向けて進んでいく。 ★ 浅草の街、東の際を、隅田の水は今日も悠然と流れゆく。 祭に酔いしれる人々の熱狂など知らぬげに、いつもと変わらぬ静けさで。 しかしまた――祭に酔いしれる人々をそっと見守るように、いつもと変わらぬ優しさで。 太陽ははや西に傾き、水面の輝きにも茜の色が濃い。その流れの上に、吾妻橋の朱塗りが鮮やかに映えていた。 流石に三社祭の中日、橋の上にも隅田の土手にも、行き交う人の姿は数多い。橋の袂にある水上バスの乗り場も、いつにない行列が築かれつつある。 土産物の紙袋を提げた親子連れ。船の着くの待ちながら、隅田の流れを眺める老夫婦。これからさらに臨海部に遊興へ繰り出そうかという若者たち。 彼らの顔は、皆一様に晴れやかだ。祭の空間の中に身を置いたその余韻が、おそらくは誰の心の中にも残っている。 彼らの眼前、夕の陽に染め上げられた街並みは、どこまでも美しく穏やかに。 嗚呼、しかし。 人々は、決して知ることはあるまい。 黄昏が、街角に光陰を刻むが如く。華やかなる祭の影にも、わだかまる闇が在ることを。 今、まさにこの時。夕闇の何処かより己らを見つめる、邪なる眼差しの在ることを。 台東区の浅草から隅田川を渡れば、そこは墨田区だ。 本所・向島・深川といった、江戸を想起する地名が残る区域――墨東と呼ばれたこの一帯も、しかし刻の流れと無縁ではありえない。 浅草の対岸、吾妻橋と東武伊勢崎線陸橋を挟んだ川沿いにも企業ビルやマンションが錚々(そうそう)と建ち並び、リバーサイドのイメージを形成している。 墨田区役所も、そんな川辺のビル群のひとつである。 19階建て地上55メートルという高さは、30階を越えるビルが当然となったこの東京において、もはや高層建築の区分には入るまい。だがそれでも、隅田川に向かって拓けた空間に屹立する姿は、十分に過ぎるほどの存在感を有していた。 そんな墨田区庁舎の屋上に位置する、非常時用ヘリポート。 一般市民は当然立ち入ることはできないが、ここは隅田の流れを望むには絶好の展望台でもある。雷門すぐ脇の吾妻橋から上流に遡って、東武伊勢崎線鉄橋、言問橋、桜橋――千住の大橋に至るまでの橋の博覧会を、視界におさめることができる。 不意に――澄んだ風が、黄昏の空を駆け抜けた。 対岸の浅草。祭の雑踏はビルの陰に隠れて見えねど、浅草寺界隈のアナウンスが風に乗って微かに聞こえてくる。 神輿渡りを見終えた観光客達が隅田川の散策に流れたのか、土手の遊歩道をそぞろ歩く人影も、日没が近づくに連れてまた増えてきたようだ。 夕風は止み、辺りには再び静けさが戻った。 刻が動きを停めたかのような、美しくもどこか禍々しいその静寂の中―― 「……良いものですな、祭というのは」 不意に、低く呟く声があった。 落日に染まるコンクリートの上に、すう……と長いシルエットが伸びる。 隅田の流れを足元に見下ろす、庁舎屋上の縁。今の今まで、確かに誰の姿も見うけられなかったはずのその場所に――忽然と佇む影ひとつ。 「私のごとき身でも、心が洗われるのを感じます」 芝居における台詞の如き、朗々たる調子で影は言葉を続ける。 そう、それは確かに台詞なのであろう。言葉の裏にある真意は、純粋なる感慨なのか皮肉めいた嘲りなのか。声と口調から推し量ることは叶わない。 トランプのジョーカーを思わせる道化服と、貌を隠した白磁の仮面。三日月形にくり抜かれた両眼の奥には、ただ底知れぬ闇を湛えて。 そう、その姿はまさしく、《幻燈師》の名をもって呼ばれる怪人のものであった。 漆黒と色濃い藍とに染められた衣装は、朱一色に染め上げられた風景の中でどこかミスマッチだ。その違和が、道化師の姿に一層の不吉な気配を与えていた。 「……貴方も、そうは思いませぬかな?」 遥か下方を流れる隅田川を見おろしたまま、《幻燈師》は静かな声で呟く。 と―― 『おやおや、こりゃあまた《幻燈師》様とは思えぬお言葉で』 不意に、いまひとつの声が彼の問いに応えた。 甲高い声色だ。必要以上に抑揚をきかせた口調は、喜劇役者めいた滑稽さを帯びている。 が、しかし―― 『祭にときめく童心なんぞは、とっくに放り出してしまいやしたよ。こうして上から眺めるならまだしも、中に混じりたいとは露ほども思いませんな』 おどけた口ぶりでありながら、陽気な印象を一切感じさせないのは――言葉の底に潜む、冷ややかな嘲笑の色ゆえであろう。 「……貴方の人嫌いは、どうやら相変わらずのようですな」 敬いを装いつつも礼を欠いたその物言いに、しかし《幻燈師》は気を悪くした様子も見せなかった。相手の口上をむしろ楽しむかのごとく、仮面の口元に手をあてる。 「まあ、無理もありますまい。貴方にとっては――」 『おっと』 《幻燈師》の語りを、飄然たる声が遮る。 『同情は無しにしておくんなまし。人嫌いは、あの一件が元ではございませんや。 いかなる道を辿ったにせよ、あたくしにゃこちら側が性に合っていたんでさあ。お陽様の下で祭に加わるより、宵闇の中で来るべき宴の仕度にいそしむ方がねぇ』 ひひひっ、という下卑た嗤いが、言葉の後に続いた。 嗚呼、それにしてもこの声は、一体何処より響いてくるのであろうか。夕闇に彩られた屋上に、佇むは《幻燈師》独りであるというのに。 「成程。それは心強いことです」 《幻燈師》は、深々と頷いてみせた。少なくとも、口調と仕草は満足げに。 かたや、姿を見せぬあやかしの声。かたや、仮面に表情を隠した道化師。顔を見受けることが叶わぬのと同じように、双方の言葉から真意を読み取ることも叶わない。 「貴方が貴方個人の望みを成した後も、計画に組していただけると――今の言葉は、そう捉えてよろしいということでしょうな」 『今更のように何をおっしゃいます』 芝居がかった畏まりの気配をまじえて、声は応えた。 『あたくしの望みは、もとより大魔術の成就。ほんの前座に過ぎませんや……あたくしの、個人的な遊興なんぞは』 語りの主は、ここでニヤリと笑みを浮かべたに違いない。言葉の最後で、その声色は暗く歪んだ。 「遊興にしては、随分な力の入れようですな」 《幻燈師》が、苦笑じみた声を洩らす。 「拝見しておりましたよ。先日の、浅草駅での一幕は。見事なお手前だ 『ひひ、こりゃあお恥ずかしい。 いや、ねえ。数十年の間、あたくしの頭ん中で練りに練った舞台ですよ。気合が入らぬ言ったら嘘になりまさ。 ですが、《幻燈師》様。演出が意に添いませんなら、おっしゃってくださいまし。この機会を与えてくださったご恩、仇でお返ししたのでは心が痛みますからな』 「いいえ、どうぞご存分に」 ゆっくりと頭を振りながら、蒼の道化は応えた。 「《力》を用いて織り成される貴方の見世物もまた、大魔術計画の礎のひとつとなりましょう。 ……この街にはまず、怪異が必要なのです。衆生の寄りかかる常識と安寧を、少しずつ侵食していくために」 『ひひ、そういうことでしたら、お任せくださいやし』 声はまた、邪笑の気配を帯びる。 『ここより先、とっておきの演目を用意してございますよ。 彼奴らには――あの老いぼれどもには、光栄に思ってもらわねばなりませんなぁ。この東京を騒がす一大舞台の、主役を勤めることができるのですから。ひひ、ひひひ、ひひひひひひひひひっ――』 あたかも壊れたレコードの音色のごとく、乾いた嗤いはしばし夕空に響き続けた。 「期待していますよ」 静かな声で告げながら、《幻燈師》は片手を掲げた。 「では――良き舞台を」 『承知いたしやした。とくとご覧あれ、《幻燈師》様』 恭しげな口上をもって応えると――それを最後に、『声』の気配はふつりと途絶えた。遂に仕舞まで、姿を現すこともなく。 あとにはただ色濃い夕闇と、佇む《幻燈師》の影だけが残された。 川面より舞いあがる風が、蒼色の道化衣装をはためかせる。屋上の縁から半ば身を乗り出す姿勢で、怪人は足元に広がる街を一望した。 夕闇はその色濃さを増し、街路にはひとつまたひとつと、窓の明りが灯りつつある。 今日一日の祝祭を終え、しばしの休息に沈まんとする浅草の街―― 「――さて」 この街の何処かに、彼らもまたその身を置いているはずであった。夕闇が彩る舞台の上で、遠からず新たな闘劇を演じることとなる――かの少年少女たちも。 「競うべき相手にかような言葉を送っては、お叱りを被りましょうが――」 フフフ、と、蒼の道化師はさも愉快げに笑いの声を洩らした。 「期待していますよ、貴方達にも」 《幻燈師》は真横に右腕を差し上げ、手袋を嵌めた指で空を握りしめる。 ばさりと音をたてて、藍色の大布が夕風に翻った。あたかも何もない虚空から、道化師の手によって引き出されたかのように。 腕を振り、《幻燈師》は藍の布で己の身を包み込む。 その影から覗く白磁の仮面。三日月型の眼の奥に、愉悦の光が踊る。 「良き舞台を、茜桟敷の諸君」 次の刹那――布地は風に煽られ、夕空に高く舞い上がる。 されど、嗚呼。その内に包まれていたはずの道化師の姿は、屋上の縁から忽然と消え失せていた。 川向こうに広がるは、暮れなずむ街角。落日は線香花火の玉のように揺れ潤みながら、ビル街の彼方に沈みつつある。 紅の一色に染め上げられた世界。 その片隅に蠢く不穏な影など、夕闇は何も知らぬげに。はたまた、全てを知るかのように。 ただただ美しく、ただただ禍々しく。 そして――茜色の舞台は、今再びその幕を開ける。 |