第一話 『恋人たち』


 太陽は紅く揺れ潤みながら、遠い地平に姿を消そうとしている。
 見渡す限りの砂の上を、緩やかに渉る風。
 空気の流れはすなわち、気温の変化の顕(あらわ)れだ。焼けつくような昼は終わりを告げ、月神の支配する時間がやってくる。
 この時間ともなれば、砂漠の上を動くものは何もない。交易の旅人たちも、日が沈めばその足を止め、かりそめの宿の支度を始める。
 風だけが支配する、無人の荒野。

 いや――

 あれは何だろうか。遠い地平にたたずむ、いくつかの影は。
 それらは先程より、微塵たりとも動かない。
 さりとて、樹木の類であるはずはない。年に数度の雨を除いてはまったく水のない死の砂漠だ。
 人――だった。
 馬に乗った二人の旅人を、うす汚れた衣をまとった数人の人影が取り巻いている。
 交易都市の近くを縄張りとし、通りかかる商人を襲う盗賊たちだ。
 馬上の影は動かなかった。ふたりとも外套を目深にかぶっており、その表情をうかがうことはできない。恐怖のため凍りついているのか、それとも包囲を突破する機会をじっとうかがっているのか――
「よお――何か言ったらどうだ」
 しびれを切らして先に沈黙を破ったのは、盗賊のほうだった。頭領とおぼしき髭面の男が、円月刀の切っ先を馬上の影に向ける。
 後ろに乗っていた小柄な人影が、一瞬びくりと身体を震わせた。それを怯えゆえと見て取ったのだろう、頭領はにやにやした笑いを浮かべる。
「へへへ、そうか。しゃべらねえと思ったら、びびっちまって声もでねえか」
 刀の先を威嚇するように揺らしながら、彼は馬上の二人に嘲りの言葉を吐いた。怯えた手中の獲物をなぶる――彼がもっとも好む時間だ。
「安心しろよ、命までとりゃしねえ。俺らの目当ては金と食いもん、それと馬よ。もっとも、馬なしで生きて都につけるかはお前らの運次第だがなぁ」
「…………が」
 頭領の(じょうぜつ)を、低く涼しい声が遮った。それが馬上の人影――手綱を握る、背の高い影だ――によって発されたものであることに、盗賊たちは数秒遅れて気がついた。
「あん? 何だって」
「『命ばかりはお助けを』ってやつですよ、親方」
 部下のひとりが、頭領に相づちを打つ。盗賊たちが品のない笑い声をあげた。

「――屑どもが」

 その笑いのなかに、男の声は氷の楔(くさび)のごとく突き刺さった。
 はじめ、盗賊たちは何を言われたのか理解できなかった。この状況で『獲物』が発する言葉としては、それはあまりにも場違いだったからだ。
「な――」
 数秒を経て、放心は怒りに変わった。
「てめえっ!」
 頭領の怒声を合図にして、盗賊たちはいっせいに刀を抜き放つ。
 馬上の男は動じた様子もなく――左手を外套にかけ、顔を露(あらわ)にした。
 精悍な――そんな形容が似つかわしい青年だ。浅黒い肌に、彫りの深い顔。伸びた前髪に半ば隠れた瞳は、涼しげだが、射すくめるような鋭さをも備えている。
 都で安隠(あんのん)たる暮らしを営むものの目ではなかった。砂漠の集落に居を構えた部族――その部族の出身であることは間違いあるまい。
 六対二という圧倒的な数の優勢を得ながら、盗賊たちはわれさきに斬りかかろうとはしなかった。
 部族の民の剣技は都の衛兵をも凌ぐ――そんな噂を耳にしたことがあったからだ。
 馬上の青年はそんな盗賊たちなど目にも入っていないかのように、
「……ハルシア」
 表情を動かさぬまま、一言、静かに口を開いた。
 後ろに乗った人影がこくりとうなずく。
「自分の身を守る用意をしておいてくれ」
「……うん」
 その声に、盗賊たちは一瞬軽く息を呑んだ。なぜならば、声は――
 ハルシアと呼ばれた小柄な影が、静かにフードを脱いだ。
 おお、という驚嘆のどよめきが、盗賊たちの間にわき起こる。
 少女だった。
 歳の頃は十六、七であろうか。青年と同じ、やや褐色がかった肌。長い髪は二つの束に編んで、胸の前に垂らしている。
 青年が鋭く硬質な印象を与えるのに対し、ハルシアと呼ばれたこの少女の持つ雰囲気はあくまでも柔らかく、穏やかだ。
 だがそれは決して弱々しげなものではない。いかに砂塵に汚されようとも再びもとのように澄みわたる砂漠の泉――オアシスの水を想わせる意志の強さを、彼女は大きな二つの瞳の中に備えていた。
 砂地に突然一輪の花が咲いたかのような少女の出現に、盗賊たちはしばし呆けたように声を失う。
「へ……へへへへへ」
 いち早くわれにかえったのは、やはり髭面の頭領だった。今の今まで怒りに歪んでいた顔を緩め、下卑た笑みとともに馬上の二人を見すえる。
「へへへ……そうかぁ、女か。そうならそうと早く言やあいいのによ」
 自分に向けられた邪(よこしま)な視線に気づいてか、少女は青年の外套をきゅっと握りしめた。青年は表情ひとつ変えず、野犬でも見るかのように盗賊たちを眺めおろしているだけだ。
「おい、お前・・・・・・金なんざ置いてかなくっていいぜ。食いもんも、馬もな。そんかわり・・・・・・へへへ、解んだろう?」
 応えは沈黙。
「おっと、そう恐い顔をするもんじゃないぜ。よおぅく考えてみな。ここで二人とも殺されんのと、金も馬もなくさねえで都に着けんのと、どっちが得だと思う?
 それによ、お前の連れ合いだって、別にとって食おうってわけじゃねえ。俺たちが大事に飼ってやろうってんだぜ?」
 頭領の言葉に、盗賊たちの間から品のない笑いが洩れた。
 青年が臆病風にふかれて首を縦に振れば、少女は自分たちの手に落ちる。拒否したならば、青年を殺して彼女を奪う。どちらに転んでも結果は同じだ。
 清楚なこの少女の身体を思うさまに汚せる歓びに、盗賊たちは高揚していた。一月ほど前、同じように強奪してきた商人の娘を衰弱死させて以来、彼らは女の身体というものにありついていなかったのだ。
 それゆえ――彼らは気がつかなかった。
 先程より石像のごとく動かぬ青年。その青年の中で、急速に膨れ上がる気配に。
「な、悪いこたあ言わねえ。ここは――」
 頭領は言いさし――そして、言葉を失った。
 切れ長の瞳を、すうっ・・・・・・と細めた青年。幽鬼のような動作で、彼は腰に差した刀の柄に手をかける。
「な、何だてめえ――」
「・・・・・・ハルシアを、侮辱したな」
 氷神の吐息のような声が、青年の唇から紡がれた。
 峻烈(しゅんれつ)な眼差しが、盗賊たちを貫く。
 その刹那、彼らは知った。目の前の青年は無表情であれ、決して無感情ではないことを。鋭いその瞳の奥に、凍てつく炎にも似た激情を秘めていることを。
 ――ひゅ!
 青年の手元から、刃が閃く。
 馬上から喉元を狙ったその一撃を、頭領はすんでのところで躱(かわ)した――かに見えた。
 だが。
「ひょ・・・・・・ふうっ!!」
 奇妙な悲鳴とともに、彼は髭に覆われた口元を押さえる。その指の間から滴り落ちる血が、乾いた砂の上に紅い斑点を刻んだ。
 べちゃっ――という湿った音をたて、何かが地面に叩き付けられる。
 舌、だった。根元から切り取られた、赤黒い舌。
「う、ごおおほおおお!」
 頭領の苦悶の声が続く。
 青年の一閃は、盗賊の頭領の舌を刹那のうちに切り飛ばしていたのだ。
 何という疾さ。そして、何という正確さか。
 おそらく青年は相手の喉を裂くことも、こめかみを叩き割ることもできただろう。だが彼は、あえて舌を斬ったのだ。連れの少女に、下衆な侮辱の言葉を吐いた舌を。
「ほ――ほれほひはひゃあ!」
 俺の舌が――と言ったつもりなのだろう。だが頭領の叫びは、いっそ滑稽なほどに言葉というものを成していない。
 そしてそれが、彼がこの世で発した最後の声となった。
 うずくまる彼の頭に、青年の斬撃が真上から叩きつけられる。宙に真紅の華を散らして、頭領はうつぶせに地に崩れた。むろん即死だ。
「お……」
「親方っ!」
 驚愕に満ちた盗賊たちの声をよそに、青年は静かに馬から降りたった。夕暮れの風が砂を巻きあげ、彼の足元に小さな渦をつくる。
「……シャザム!」
 悲痛な声で、少女が青年の名を呼んだ。だが彼はちらりと彼女を振り返っただけで、浮き足だった盗賊たちのほうへと足を向ける。
「だめっ……シャザム……」
 少女――ハルシアは彼を追って馬を降りようとした。だが彼の代わりに手綱をとり、馬を落ち着かせるだけで今は手一杯だ。不安と憂いをはらんだ眼差しで、歩くシャザムの背中を見つめることしかできない。
 そのシャザムの正面に、ふたりの盗賊が立ちはだかった。
 ひとりは、片目を眼帯で隠した小男。
 もうひとりは、太った禿頭の男。
 この群れのなかでは頭領への忠が厚かったのか、目の中に憤怒の炎を燃やして刃をかざす。
「畜生が……」
 禿頭が唸るような声で言うと同時に、
「手足ぶった斬ってから、てめえの見てる前であの女ぁ斬り刻んでやる!」
 怪鳥(けちょう)を想わせる叫びと動きで、小男がシャザムに踊りかかる。
 だが、怒りに任せた斬撃などこの青年に到底通じるものではなかった。
 右の肩口を狙った突きを軽くかわすと、蝿でも払うように無造作な一閃を相手の胸元に叩きこむ。
 小男の身体が一瞬びくんと跳ねてから力を失い――それで終わりだった。
「あ、あああ……」
 串刺しになった小男の姿を目の当たりにし、禿頭が絶句する。
 もしも――青年の剣が自由を奪われたこの一瞬に勝負を懸ければ、彼にも万にひとつの勝機があったかもしれない。
 だが、無抵抗のものをなぶり殺すことには長けていれど、互角以上の相手との闘いなどほとんど経験のない盗賊だ。いままで自分たちが振りまいてきた『死』というものを眼前につきつけられ、驚愕と恐怖に一瞬動きを止める。
 そしてその刹那の隙が、文字通り彼の命取りとなった。
 シャザムが刀を横に払うと小男の屍は刃から外れ、糸の切れた傀儡(くぐつ)のように倒れこんだ。
 禿頭の盗賊のほうに向かって。
「なっ……!」
 驚くいとまもあらばこそ。
 鋭い踏みこみとともに繰り出したシャザムの斬撃は、屍の頭ごしに男の頚動脈を切り裂いていた。
 ――ソンナ、バカナ。
 声にならぬ叫びをあげた口から鮮血を奔らせ、禿頭の男は仰向けに地に倒れる。
 シャザムは眉一つ動かさない。無表情に――しかし双眸(そうぼう)の奥に峻烈な炎を宿して、三つの屍から顔をあげた。
 ゆっくりと視線を巡らす。その先には、恐怖に立ちすくむ残り三人の盗賊たちの姿があった。
 


「ちっ……!」
 盗賊たちのうち二人が、舌打ちをしてシャザムに背を向ける。
 砂地を蹴り、猛然と疾走するその先は、少女――ハルシアの乗った馬だ。
「ハルシア!」
 シャザムの口から初めて、鋭い声が飛んだ。
 その声を背に、盗賊たちは歪んだ笑みを浮かべる。
 思った通り、青年の泣き所は連れあいのこの少女だ。人質に取れば、形勢は一気に逆転する――
 結論から言えば、それは大きな誤算だった。
 彼女を馬から引きずり下ろそうと、その足に手をかけようとしたその瞬間――二人の盗賊たちは、何かが風に翻る音を頭の上に聞いた。
 思わず見上げた彼らの目前。黄昏の空を背に、少女は外套を脱ぎ捨てる。
 盗賊たちは見た。彼女の澄んだ瞳に宿る、哀しげな光を。彼女の華奢な両手に握られた、一対の短剣を。舞い降りる鳥のごとき柔らかな動きで、彼女が地に降り立つその様を。
 
「――・・・・・ごめんなさいっ・・・・・」

 悲痛な囁(ささや)きが風の中に響いた。刹那――
 降り立ったその片脚を軸に、少女の身体はふわりと回った。
 部族の女達に伝わる、「舞」を基盤とした剣術。
 ハルシアの手に握られた二つの短剣が、虚空に半円を描く。銀に輝くその軌跡の上に、盗賊たちの利き腕があった。
「う――」
「ああああっ!」
 得物を取り落とし、血に濡れた腕を押さえて、二人の男達は砂の上に転がる。
 傷はそれほど深くはない。だが同胞三人をまたたく間に斬り倒されたこの状況で、それは彼らに戦意を喪失させるに十分だった。
 うめき声をあげる盗賊たちを、ハルシアは哀しみに陰った瞳で見つめる。
 優美とすらいえるその剣術に見合わず、人に刃を向けるのは初めてのことなのかもしれない。整ったその顔は蒼ざめ、血濡れた刃を握る手は小刻みに震えていた。



 ハルシアの無事を確かめ、シャザムは小さく安堵の息を洩らした。そして、残るひとり――目を見開き、呆然と立ちすくむ盗賊のほうへと向き直る。
「あ……ああ……」
 おそらく、この盗賊団の中ではいちばんの新入りなのだろう。少年の幼さすらとどめたその顔は、あまりの事態を前に完全に凍りついている。
 無理もあるまい。無力な羊と思って襲った相手は、死の牙を隠し持った狼だったのだ。
「く……来るなぁっ!」
 がたがたと震える手で円月刀を構え、声をあげてみせる。だが、シャザムが冷たい一瞥を(いちべつ)向けただけで、その虚勢はもろくも崩れ去った。
「ひいっ!」
 背中を向け、あさっての方向に走り出そうとする。だが柔らかな砂に足をとられ、三歩とゆかぬうちに地に転がった。
 シャザムが一歩足を踏み出す。あいもかわらぬ無表情の仮面を、精悍な顔に貼り付けたまま。夕日の映し出す長い影が、盗賊の上にかかった。
「……!……!!」
 いやいやをするように首を振り、若い盗賊は尻餅をついた状態のままあとずさった。刀など、とうに近くの地面に投げ出している。
 シャザムがまた一歩、足を進める。
 盗賊があとずさる。腰が抜けているのか、うまくいかない。
 もう一歩。
 もう一歩。
 もう一歩。
 二人の間に横たわる距離が、ゆっくりと縮まってゆく。
 シャザムは緩慢(かんまん)な動作で刀を掲げ、最後の生贄の上にそれを振り下ろし――
 
「だめぇっ……!!」

 振り下ろしかけたところで、彼の動きは止まった。
「…………ハルシア……?」
 その唇から、軽い困惑の声が紡がれる。
 いつの間に駆け寄っていたのか。ハルシアが後ろから縋(すが)りつくように、シャザムの身体に腕を回していた。
「だめ……シャザム……」
 哀願するような――それでいて、母が子をあやすかのような声と口調。
 後ろから胸に回した手に柔らかな力を込め、ハルシアはシャザムをぎゅっと抱き締める。広い背中に顔を埋めたまま、ちいさく首を振った。
「やめよう、もう――ね、シャザム」
 シャザムは動かない。視線だけでちらりとハルシアを振り返り――それからまた、呆然と砂の上にへたり込む盗賊に目を向けた。
「シャザム――」
 祈りの言葉のように、ハルシアがみたび恋人の名を囁(ささや)く。
「――――」
 長く深い溜息が、シャザムの口から洩れた。その息とともに、彼の中に張りつめていた闘気がすうっ……と薄れ、溶け消えてゆく。
 彼は振り上げた刀をゆっくりと降ろすと、腰の鞘に収めた。
 命拾いをしたな――そうとでも言いたげな冷たい眼差しで盗賊を睨むと、そのまま踵を返して馬のほうに歩を向ける。
「――行くぞ、ハルシア」
「あ……う、うんっ」
 そっけない声で名を呼ぶシャザムに、ハルシアは頷いて後を追った。ほのかな安堵(あんど)の笑みをその唇に浮かべて。
 足元で、砂塵がちいさく渦を巻く。



 紅より藍へ、刻一刻と転じつつある夕の空。
 冷えゆく澄んだ空気の中に、甲高い嘶(いなな)きが響き渡った。
 青年と少女、二人を載せた馬がつかのまの戦場を後にしようとしている。
 馬首が向く先は、先ほど太陽が身を沈めた西の涯。地平にわだかまる砂塵にはばまれ目にすることはできないが、その方角には地方随一の交易都市、バフシャールがあるはずだ。
 シャザムに手綱を任せ、ハルシアは辺りに視線を巡らせた。
 地に横たわる屍、苦痛の声をあげる負傷者、無傷ながら、抜殻のように座りこんで動かない歳若き盗賊。
 可憐な彼女の顔が、憂いの陰に沈む。己の懐に、ハルシアはそっと手を差し入れた。
 今一度、ひときわ高い声で馬が嘶く。前足で力強く砂を蹴り、今にも駆け出そうとしたその刹那――
 懐から抜かれたハルシアの腕が、宙に向けて何か小さなものを放った。
 麻で織り上げられた、握りこぶしほどの袋。それは緩やかな放物線を描き、座り込む盗賊の目の前に舞い落ちる。虚ろに空をさまよっていた盗賊の視線が麻袋をとらえ、ついでハルシアの顔を見上げた。
「膏薬(こうやく)です――これで、手当てを――」
 風に掻き消えるその言葉が、若い盗賊の耳に届いたかどうかは定かでない。
 次の瞬間――馬は砂煙を巻き上げ、勢いよく走り出した。
 遠ざかる盗賊たちの影が地平に霞み、砂塵の果てに没するまで、ハルシアはじっと後方を見つめつづけていた。
 



 巻きあげた砂をはらみ、幾筋もの風が大地の上を駆ける。
 あるものは互いにぶつかりあって砕け散り――
あるものはすれ違ったまま、再びまみえることのない砂を地の彼方へ運ぶ。
 気まぐれな風と、それに吹き流される砂塵。
 それは、運命と人との関わりにも似て――
 ひとつの物語が、ここに幕を開けようとしている。




To be continued……