第四話 『偽りの軛(くびき)』(前)
辺りに甘くたちこめるのは、濃密な麝香(じゃこう)の香り。
天井にひとつ、それに四方の壁にふたつずつ掛けられた燭台(しょくだい)――九つの炎が淡く照らしあげる部屋の底に、香炉から流れ出でる煙がゆるやかにたゆたっている。
この世の贅を集め尽くした――そうとしか形容しようのない、豪奢(ごうしゃ)な部屋だった。
床一面を覆う毛織物の絨毯(じゅうたん)。棚に並ぶ陶器。随所にちりばめられた装飾品の数々。
ただひとつ惜しむべき点を挙げるとすれば、それらの取り合わせにあまり美観というものが感じられぬことだ。
ひたすらに高価な品物を取り集めた――喩えるならば、化粧の作法を知らぬ女が最上の紅や粉で顔を塗り固めたような滑稽(こっけい)さが、その部屋には色濃く浮き出てしまっていた。おそらくそれは、部屋の主の感性に拠(よ)るものであろう。
奥にしつらえられた椅子に、ひとりの男が腰を沈めている。
女であれば二人並んで座れそうな、ゆったりとした肱掛け椅子。だがその男は座っているというよりもむしろ、肥満した身体を肘掛の間に押し込んでいるといった態があった。
紅い衣を身に纏(まと)った、禿頭(とくとう)の商人――ムルドゥ=ハキム。
「ふうう」
天井を見上げ、彼は大きく息をついた。
「やれやれ、年甲斐もなく遊郭になど出向くものではないわい」
ゆっくりと頭を振ってひとりごちる。しかし言葉とは裏腹に、その顔に浮かぶのは涎でも垂らさんばかりの淫猥(いんわい)な笑みだ。先ほど街の娼館で抱いた娘の肌の感触を、彼は立ち込める麝香の煙の中で思い出してるのだった。
南方より流れた麻薬を捌(さば)き、邪魔な者を次々と暗殺者の兇刃(きょうじん)にかけてゆく、バフシャールの夜の実力者、ムルドゥ=ハキム。『血衣の商人』の異名をとる彼のこのような姿を目にすれば、都の者たちは驚きに目を見開かずにはいられまい。
実際、彼は噂されるほど暴虐でも残虐でもなかった。ただ、己の欲望を満たすことを邪魔する者をに排除することに対して、良心が痛まないというだけのことだ。
臆病ですらある。
自分の下した命令の結果、相手の家族が幼い子供ともども皆殺しになったと聞いても別に心は痛まない――だが、自分の目の前で血が流れるのは御免だし、それが自分の血であるのはなおさら御免だった。
彼にとってこの世でもっとも安全な場所――それが、館の最上階奥にあるこの自室だ。
交易と、時には略奪に近い行為によって集めた装飾品の数々。すべてのものは望めば手に入る。宝物も、そして女も。
それにしても、先程の娼館の娘は上玉であったな。
気だるい余韻のなかで、彼はまたひとつ息をついた。
毎日抱いてもそうそう厭きはこないだろう。だが、毎日繁華街に出向くのは少々億劫(おっくう)だ。
――買い上げるとするか、この館に。
娼館の主とて、この自分の頼みをよもや断りはすまい。断ったならば、それはそれで別のやり方がある。
胸中にそこまで呟いたときに、ふと、扉を叩く音がムルドゥの思考を遮った。
「……ふむ、イルヴァンじゃな。入れ」
少しばかり姿勢を正して、彼は口を開く。誰何するまでもなかった。この時間にムルドゥの個室に立ち入ることを許されている人間は、都広しといえども一人しかいない。
軋みなく扉が開き、ひとりの男が恭(うやうや)しく礼をして部屋の中に歩みいった。
「失礼をばいたします、ムルドゥ様。本日の報告に参りました」
右の目に眼帯をあてた、貧相な小男だ。薄い唇の端に浮かぶ笑みが、狡猾そうな――砂漠で倒れた獣の肉を喰らう禿鷹(はげたか)にも似た印象をかもし出している。
イルヴァン――ムルドゥ=ハキムの懐刀(ふところがたな)と呼ばれる男。
数人の腹心の中でも、彼だけは常に別格だった。それは、暗殺や密売といった汚れ仕事を彼が一手に引き受けているからにほかならない。
このような夜更けに個室の扉を叩いて咎められぬのも、他の部下達の耳には入れられぬ報告を行う時間が必要であるがゆえだ。
「どうじゃったな、東方絹の買いつけは」
「うまく事が運びましたよ。絹交易商のハーベル殿より、市場に出回る価格の七割で卸すとの確約をとりつけて来ました」
ムルドゥの問いに、イルヴァンはきびきびとした口調で応える。
「ふむ、予想以上の首尾じゃな。七割では向こうの収益も無に等しかろう」
「はい――ふふふ、されどハーベル殿は度量の大きいお方、快く引きうけていただきましたよ――快くね」
「ふふふ、誰ぞ人質にでもとったか」
「お人聞きの悪い。まあ、必要に応じて多少なりとも手荒な手はとらせていただきましたがね」
イルヴァンとムルドゥ――燭台の焔と香炉の紫煙(しえん)が織り成す薄闇の中、ふたりは顔を見合わせて暗く笑った。
「……今回は、いつにもましてハッサンが役に立ってくれました」
「ほう」
ムルドゥは、普段よりイルヴァンに付き従っている傴僂(せむし)の男の顔を思い起こす。
「ならば彼にも、褒美のひとつはとらせてやらねばの。ここに呼ぶがよい」
「申し訳ございません。只今ハッサンは、私の用事のために館を離れておりまして」
「このような夜更けにか」
「――はい」
内面の感情を――歓喜を押さえこんだかのような声と表情。己の腹心がいつにもなく上機嫌なことに、ムルドゥはここに至って気がついた。
「何かあったのか? お主、ひどく浮かれておるように見えるが」
「……ふふふ、お目が鋭い。ムルドゥ様に隠し事はできませんなあ」
イルヴァンは破顔した。封をしてあった毒の瓶が開いたかのような笑みが、痩せた相貌(そうぼう)のうえに広がる。
「実は、これからそれをお耳に入れようと思っていたのですよ。ムルドゥ様に、近々ひとつ面白い余興をお目にかけられるかも知れませんからね」
「――ほう、余興とな」
「はい」
扉よりの隙間風が、燭台の明かりをひとつ揺らめかせた。イルヴァンの隻眼(せきがん)の中で、映る焔が妖しく踊る。
「……へへっ。さあて、どこからお話したものでしょうかな――」
「……これ以上ハルシアを悲しませるな、キルギス」
馬上のキルギスに向って、シャザムは声を絞リ出すように言った。
キルギスは何も応えない。後ろに数人の男たち――おそらくは、都の商人の部下だろう――を従えたまま、冷めたまなざしでシャザムを見下ろすのみだ。
「わかっているはずだ。ハルシアがどれほど、兄であるお前の身を案じているか――」
二人の間を吹きぬける、砂を孕んだ夕刻の風。落ち窪んだキルギスの目にかかる髪が、虚ろになびいて揺れた。
「キルギス――」
「……それだけか?」
キルギスの口から、初めて言葉が紡がれた。楔(くさび)を打ちこむかのような、ひえびえとした声が。
「何?」
「そんな取るに足らないことを言うためだけに、わざわざこの岩場で俺たちを待ち伏せていたのかと――そう訊いている」
「――――」
シャザムは思わず口を噤(つぐ)んで、嘲笑を露わにしたキルギスの顔を睨(にら)みすえた。
もとより、キルギスが自分の言葉に耳を傾けてくれるなどと思ってはいない。だが実際にこうしてすげなく拒絶されると、やはり落胆は大きかった。
そう――
ここは部族の集落より西に半日ほど馬を駆った、東西に連なる岩山の上。
都より出でて集落に至るには、この切通しを抜けるのがなによりの早道だ。道は険しいが、手綱を握るのに慣れた者ならばさほどの労を要しない。集落への帰途、キルギスは必ずここを通るはず――そう考えシャザムは単身、一昼夜の間彼を待っていたのだ。
部族の者たちには、鍛錬を兼ねた遠乗りと偽りを告げてある。
ハルシアが知れば必ず、自分も着いてゆくと言い張るだろう。同行を許そうと断ろうと、彼女に要らぬ心痛を課すことは間違いない。そう思ってのことだ。
いまキルギスと対峙し、シャザムは己の判断が間違いではなかったことを確信していた。この男の心は自らが造りあげた疑心の砦の中で、もはやとりかえしのつかぬほどに歪み、荒んでしまっている。
「ご苦労なことだな。さては、ハルシアに頼まれでもしたか?」
言葉を失っているシャザムの上に、キルギスの嘲るような声が降った。
「違う――!」
かぶりを振り、思わず声を荒げるシャザム――しかしその先を制して、キルギスは言葉を続ける。シャザムの怒りを誘うことを、愉(たの)しんででもいるかのように。
「わが妹なれど、愚かな女だよ。俺の真意を――何が部族の為となるのかを理解しようともせずに、お前のような男と乳繰りあっているのだからな。
俺が知らないとでも思っているのか、お前とハルシアの逢瀬を。おおかた、枕語りにでも俺を止めてくれと頼まれたのだろう? ふん、娘の浅知恵が考えそうなことだ」
「――ハルシアを――」
挑発だということは判っている。判ってはいても――
「ハルシアを、侮辱するな!!」
己の声に怒気が混じるのを、シャザムは抑えることができなかった。むろんのことその言葉は、キルギスの嘲笑の仮面を突き崩すことはない。
「おやおや、普段とは違って随分と表情が動くことだな、シャザム」
「……キルギスさん」
声は唐突に、キルギスの背後から響いた。
「そのへんで止しておきましょう。日が暮れちまいますよ」
いつの間にかキルギスのすぐ後ろに馬をつけた痩身の男が、薄ら笑いを浮かべながら西空を指差す。はなから相手にするつもりがないのか、馬を下りているシャザムのほうには目もくれない。
物言いこそ卑屈だが、一行の主導権を握っているのはこの男のようだった。
一瞬、キルギスの目にさっと緊張の色が浮かぶ。
「――はい」
キルギスは振り返って一礼し、再びシャザムに視線を戻した。その顔には再び、嘲りをはらんだ笑いが甦っている。
「そう言うわけだ、シャザム。俺たちも先を急ぐのでな。これ以上お前のくだらん戯言に付き合っている暇はないんだよ」
馬の歩を進め、横を通りぬけようとするキルギス。
無言のままで腕を挙げ、シャザムはその馬脚を制した。
「何のつもりだ?」
「通すわけには、いかない」
キルギスに――というよりはむしろ己に言い聞かせるように、彼は呟く。
そうだ。このまま彼を、村に行かせるわけにはいかない。
シャザムは知っていた。
十日ほど前、遠乗りの際に出遭った交易商の一団から偶然聞き出すことができたのだ。キルギスが取引きを行っている、都の商人の名を。ムルドゥ=ハキムというその商人の、都での悪行を。そして、キルギスが村に持ち込もうとしている品がなんであるのかを――
数瞬の沈黙ののち――鋭い眼差しでキルギスを睨みすえたまま、シャザムは口を開いた。
「部族の未来を憂うというお前が、何故村に麻薬(ハッシシ)をもたらそうとする?」
「――――!」
キルギスの嘲笑に初めて、深い亀裂がはいった。稲妻にでもうたれたように彼は一瞬身体をぴくりと震わせ、そのまま凍りつく。
一瞬のその隙を衝いて、シャザムは剣を抜き放った。
「な、何を――」
キルギスの驚愕の声には耳を貸さず、そのまま疾風のごとき一閃を走らせる。むろんキルギスの身体にではない。彼の馬の鞍から吊られた、布の荷袋に――
「先のお前の言葉ではないが、知らないとでも思っているのか? 麻薬を村人に広めて交易の糸口にしようなど――恥を知れ」
ざさあっ……
切り口から零れ落ちる純白の粉――それは岩地に落ちる前に、夕風にさらわれて虚空に散ってゆく。
「き……貴様に――何が解る!」
知的な相貌という仮面をかなぐり捨てて、キルギスは喚いた。
胸の底に広がる憂鬱の暗雲に、シャザムは思わず眉をひそめる。目の前にいるのはもはやハルシアの兄であって、ハルシアの兄ではない。妄執にとり憑かれ、いつのまにか手段と目的とを取り違えてしまったひとりの哀れな男だ。
何が彼を、ここまで歪めてしまったのか。
ハルシアに……ハルシアになんと言って告げればいい?
「あーあ」
シャザムの心痛と、キルギスの逆上――その双方を茶化すように、溜息とも欠伸(あくび)ともつかない声が響いた。
キルギスの後ろに馬を進めていた、痩身(そうしん)の男だ。やれやれといった感じの声と表情。だが蛇を想わせるその両眼には、鋭い光が宿っている。
「見られちまいましたねえ、キルギスさん。どうします? これは問題ですなあ」
「――わかっています」
キルギスが応える。静かな、だが冷静さとはかけ離れた震える声で。額にびっしりと浮かんだ汗が、張りつめた色を浮かべる彼の顔をひとつまたひとつと流れ落ちてゆく。
ゆっくりと――キルギスの眼差しがシャザムをとらえた。
血走った瞳だった。シャザムがかつて見たこともないほどに、暗い輝きを湛(たた)えた瞳だった。彼の中に残っていた最後の理性が溶け落ちるその瞬間を、シャザムは確かに目にしたように思えた。
「キルギス――」
思わずあげた声も、もはや彼の耳に届いてはおるまい。
熱にうかされた病人のような動きで、キルギスは腰に差した剣の柄に手を伸ばした。
「待て――キルギス――!」
抜き放たれ、高く掲げられた刃が落日を照り返し、鈍い光を放つ。
絶望というものを象徴するかのような、禍々(まがまが)しく紅い煌(きらめ)きを――
To be continued……
|