第四話 『偽りの軛(くびき)』(後)



 ――ヴン!!
 唸りをあげる剣の一撃が、頭上から肩口を襲う。
「くっ……」
 身体をずらし、シャザムは自らの刀でキルギスの攻撃を受け流した。
 柄から腕を這い上がる、痺(しび)れたような感覚。本気だ。キルギスは本気で俺を斬り殺そうとしている。
 部族の老師のもとで剣技を学んだシャザムにとって、むろん逆上にまかせたキルギスの剣など児戯に等しい。勝つこと自体は容易だろう。難しいのは、身体を傷つけずに彼を馬上から落とし、組み伏せることだ。
 シャザムはちらりと周囲に視線をめぐらせた。痩身(そうしん)の男をはじめ同行の者たちも剣に手をかけ、おのおの機会をうかがっている。幸いここは岩場の上、転落を恐れるがゆえ下手な動きはできまい。
 だが、横槍を入れられる恐れがないとはいえ、いったいどうすればこの場を――
「おのれぇっ!!」
 怪鳥(けちょう)のごとき叫びとともに、二撃目が来た。
 真上から頭を狙うその一閃を、シャザムは斜めに構えた刀で正面に受ける。
「……キルギス……!!」
 わかっている。もはや理解を求めて言葉を交わす余地など残されてはいないことを。だがそれでも、シャザムは一厘の望みに縋(すが)らずにはいられなかった。
「何度言えばわかる……ハルシアを……悲しませるな」
「悲しむ? 悲しむだと!?」
 キルギスは薄い唇の端を、引きつるように歪ませた。
「くっ……くはははははっ!!」
 乾いた――まさしく不毛の岩地を吹き抜ける風にも似た哄笑が、彼の口からほとばしる。
「さぞかし喜ぶだろうよ。厄介者の俺が消えれば、貴様のもとに走るためにもはや何の邪魔も無いというものだ――」
「違う!――ハルシアは――」
 怒りの声が、思わず口をついてでた。この男は一度でも、妹であるハルシアの心痛をおもんばかったことがあるのか――?!
 憤りを込めてキルギスを睨(にら)んだシャザムは、しかしその刹那、驚きに言いさした言葉を呑む。
 キルギスは――泣いていた。
 血走ったその眼に、涙こそは見えない。だが確かに、キルギスは泣いていた。かんしゃくを起こした幼子のように、くしゃくしゃに顔を歪ませて。
「黙れ!! 貴様の口から出づる妹の名など聞きたくもない!!!」
 立ち尽くすシャザムの頭上に、絶叫に近いキルギスの声が降った。
「村の未来を憂うほどに孤立してゆく俺の気持ちが、貴様などに解るものか!! 最後まで俺の味方だった妹を俺から奪ったのは貴様だ、シャザム!! 死ね! 死ね! 死ねぇぇぇ――っ!!」
「な――」
 キルギスの叫びは、楔(くさび)となってシャザムの心に突き立つ。
 シャザムは知った。妄執(もうしゅう)の奥に隠れた、目の前の青年のもうひとつの心を。むきだしの哀しみと孤独を。そして、彼が自分に向ける憎悪の理由を。
 誤解だった。
 病み荒んだ彼の心は、実の妹をも不信の霧に覆い隠してしまったのか。恋路(こいじ)の中にあれど、ハルシアが実の兄を見捨てるなどと。
「違う!! 聞け、キルギス!」
 聞いてくれ。
 ハルシアは、お前のことを――
 言葉を紡ぐより早く、キルギスの剣が振り降ろされた。
 シャザムには、動揺から生じたわずかな隙があった。
 それゆえに。 
 キルギスの斬撃を払う刃に、シャザムは手心を加えることができなかった。
 ――キィン――!
ふたつの鋼が触れ合う澄んだ音が、夕風の中に尾を引いて響きわたる。
 そして――
 弾かれたキルギスの剣の切っ先は偶然にも、彼自身の駆る馬の首筋に深々と突き刺さった。
 偶然――そう、好ましくない偶然は、ときに悲劇の名を冠(かん)する。
 ――それから数瞬のうちに起こったことを、シャザムは断片としてしか思い出すことができない。ただ破片となった記憶の残滓(ざんし)は、今でも繰り返し悪夢の中に現れて彼を責め苛(さいな)む。

 甲高いいななき。

紅一色の空を背景に、両の前脚を高く挙げて暴れ狂う馬影。

 その背中から跳ね飛ばされるキルギス。

 商人の一行のあげた、驚愕(きょうがく)のどよめき。

 地を転がり、岩の向こうに消えたキルギスの身体。

 長く尾を引き、そして唐突にとだえる悲鳴。

 はるか下方より聞こえた、果物が潰れるような音。

 己の口をついた、声を限りの叫び――

「キルギス――っ!!」
 己の発したその声で、シャザムは数秒の忘我(ぼうが)から立ち返った。
 膝が、肘が、全身が小刻みに震えている。胸の底に黒く深い渦が生じ、すべての力がその中に吸い込まれていくような――眩暈(めまい)にも似た感覚が全身を襲った。
「――キルギス」
 掠れた声で、今一度キルギスの名を呼ぶ。
 もしかしたら、岩のすぐ下に落ちただけなのではないか。途中に引っかかっているのではないか。そんな無にも等しい希望に賭けて。
 だが、彼の声に応えるのは岩場を抜ける風の音だけだ。
 いまだ暴れつづけるキルギスの馬――いまや主を失った駿馬を避けて、シャザムは岩場の淵に歩みよる。その場にいるキルギスの連れの一行のことなど、完全に視界入らなくなっていた。
 身体が、いうことを聞かない。自身の剣が引き起こした結果を目にすることを、心のどこかが拒んでいるのかもしれない。
 それでもシャザムは岩の縁に辿りつき、断崖の下を覗いた。
 そして、彼は知った。知らねばならなかった。キルギスとの和解を成す機会が、もはや永久に失われてしまったことを。
 彼の痩身は、遥か下方の岩の上にうつ伏せに倒れていた。
 ただ、うつ伏せなのは首から下だけだ。頚骨(けいこつ)を折ったのだろう――彼の顔は上を向き、見開かれたふたつの瞳が永遠の怨嗟(えんさ)を宙に投げかけている。
(キルギスハ、死ンダ)
 シャザムの心の中で、呆然とそう呟く声がした。
(俺ハ、キルギスヲ殺シタ。殺シテシマッタ)
 世界のすべてが色あせ、風に晒(さら)された砂山のように溶け崩れてゆく。
(ハルシアノ、兄ヲ、殺シテシマッタ)
 憂いを孕(はら)んだ愛しい少女の横顔が心をよぎり、そして霞み消えた。
(コノ刀デ、俺ガ殺シテシマッタ)
 心を苛むのは、人を殺めてしまった罪の意識ではない。これでもう、ハルシアと結ばれることは決してあるまいという絶望だ。部族の掟が、否、それ以前にハルシア自身が、キルギスを殺した俺を決して赦(ゆる)しはすまい。
 抜き身の刀を手に携えたまま、シャザムは呆然と立ちつくす。
 ――その時だ。
 鋭い殺気と、風切る刃の気配とを、彼は微かに感じとった。
 ふらりと身体を横に逸らしたのは、ほぼ無意識のなせる業だ。だがそれがシャザムを、キルギスと同じ運命を辿ることから救った。
 外套の袖が、浅く切り裂かれる。
「――――!」
 思わず振り返ったシャザムの目の前に、男は立っていた。
 蛇を想わせる細い双眸(そうぼう)。酷薄な――それでいて粘りつくような笑いを浮かべた口元。キルギスの連れていた小男だ。
 ここまで容易に後ろをとられたのは、やはり自失がゆえだろう。いつのまにかシャザムは、断崖を背にして半円状に取り囲まれていた。
「……よお、やってくれたなぁ」
 男が、抜き身の刃をちらつかせながら口を開いた。口調こそは飄々(ひょうひょう)としているが、むろんそれは表面のみのことだ。声とそして眼差しに宿る憎悪の色を、彼は隠そうともしていない。
「へへへ、女のためだかなんだか知らねぇが、同郷のもんを崖からぶち落とすたぁ――砂の部族の男もなかなかやるじゃねえか。
 ――ま……それはともかく、だ。あいつにはかなり投資がしてあったんだがなあ。それも全部無駄になっちまった」
 刀の背で自分の肩を軽く叩きながら、男はわざとらしく天を仰いでみせた。
 他の男たちは、彼の部下のなのだろう。剣の柄に手をかけたまま、ゆっくりと包囲の輪を縮めてくる。
「お前をぶった斬ったところで、銅貨一枚戻ってくるわけじゃねえが……
 せいぜい派手にのたうち回って、俺の気を晴らしてくれや。シャザムさんとやら」
 ――そんな男の口上を聞くともなしに聞きながら、シャザムは細い溜息をついた。
 相手は全部で六人。後ろは崖。一斉に斬りかかられれば、助かる術は無きに等しい。
 いいだろう。
 殺すならば、さっさと殺すがいい。
 俺は、取り返しのつかぬ過ちを犯した。ハルシアの為を思いながら、自らハルシアと結ばれる道を絶ってしまった。生きてこのまま集落に戻ることなどできようか。集落に戻って彼女に、キルギスを手にかけてしまったことを伝えるなど――
 いっそここで死ねば、俺がキルギスを殺したなどとは誰も思うまい。真実を見た者は、俺を除けばここにいる男たちだけなのだ。
「――――」
 そこまで考えたときだった。
 不意に己のものならぬ己の声が、心の中でそっと囁く。
(真実ヲ見タ者ハ、俺ヲ除ケバココニイル男タチダケ)
 柄を握る手に、ぐっと力がこもった。馬鹿な。俺は何を考えている。
「――殺せ」
 痩身の男が、短い声で部下に命じた。
 シャザムに向けられた幾本もの剣先が、落日の残照(ざんしょう)を受けて紅く照り輝く。
(ココニイル、男タチダケ)
 シャザムは反射的に地を蹴っていた。
 真正面――痩身の小男の肩を、半ば跳び越えるようにして。それと同時に、斜め下から斬り上げるように刃を走らせる。肉を切り裂く確かな手応えが柄を握る掌に伝わった。
 包囲の外へ軽やかに降り立つと、シャザムは振り返る。
「ぐ……あぁあぁああああっ!!」
 驚愕に立ち尽くす部下たちの間で、男が絶叫をあげてうずくまっていた。
「ぉ俺の顔が、顔がああぁぁっ――」
 たった今斜めに切り裂かれた顔面を、彼は両手で押さえる。指の間から湧き出す鮮血は彼の外套を、そして足元の岩を瞬く間に赤黒く染めてゆく。
「こっ、殺せ! そいつを、殺――……ぐほっ!」
 憎悪の叫びを、男は最後まで紡ぐことができなかった。踏みこみながら振るったシャザムの刃が、彼の下腹部を真横に深々と抉(えぐ)っていたからだ。
 吐血だろう。押さえた指の間から血をふきだし――小男は祈りを捧げる異国の神教徒のように、前屈みにくずおれて額を地にぶつけた。そしてそれきり、もはや微塵ほども動こうとはしない。
 一瞬にして主を失いどよめく男たちを、シャザムは眺めまわした。
(ココニイル男タチヲ殺セバ、真実ヲ知ルノハ俺ノミダ)
 それは、魔のもたらす囁(ささや)きだった。
 俺は狂っているのかもしれない。シャザムは思った。
 構うものか。
 心に流れこむ闇に、彼は門を開く。
 ハルシアとの日々を、この手に入れるためならば。
(ココニイル男タチヲ、生カシテオクワケニハイカナイ)
 動揺し、浮き足立った数人の男たちの方へ――シャザムは刀を振りかざして岩地を蹴る。
 ――刻一刻と涼しさを増す夕風の中に、紅の霧が踊った。

 

 ……静謐(せいひつ)な月の光に照らされてもなお、キルギスの死顔は憎悪に彩られて見える。この形相を、おそらく自分は一生忘れることができまい。
「……キルギス……」
 横たえた彼の身体を前に、シャザムは地に膝をついて座りこんでいた。
 岩場の上。たった今シャザムは、崖下から必死の思いでキルギスの亡骸を引き上げてきたばかりだ。
 冷え冷えとした夜気に混じる、鼻をつくような血の匂い。その源は、周囲に散乱した数体の屍だった。あるものは喉笛を真横に切り裂かれ、あるものは肩口から腕を落とされ、自らの撒き散らした鮮血の中に転がっている。
 シャザムは、ひとりたりとてこの場から逃がしはしなかった。そう、逃がすわけにはいかなかった。
 主を斃されて動揺する男たちをひとりふたりと斬り殺し、恐れをなして逃げようとした者の背中に刃を突き立てた。
 悲鳴と剣戟(けんげき)に満ちた一刻前が嘘のように、今、岩場の上は死と静寂とに包まれている。そのただ中で月明かりを浴びながら、シャザムはキルギスの屍に向って頭を垂れた。
 キルギスが今にも起きあがり、怨嗟の声を投げかけてくるのではないか。シャザムはふと、そんな錯覚にとらわれる。
 ――最後まで俺の味方だった妹を俺から奪ったのは貴様だ、シャザム!!
「……すまん、キルギス」
 声に出して、シャザムは呟いた。
 キルギスの言葉に対してではない。そしてまた、為してしまった罪に対してでもない。己がこれからとろうとしている行為への、それは謝罪だった。
 お前の言葉通り、俺はお前からハルシアを奪い去る。
 偽りをもって奪い去る。
 呪わば呪え、キルギス。
 俺は――
 満天の星々と澄んだ月だけが、シャザムを静かに見おろしていた。



 ――今夜も、あの時と同じ月が夜空に架かっている。
 高い窓の向こうを見つめながら、シャザムは思った。何故だろう。満ちた月を目にするたびに、己の罪を責められているような気がするのは。
 あの日――
 キルギスの亡骸を集落に運び、シャザムはハルシアに告げた。遠乗りに出た岩場で、偶然にキルギスの遺体を見つけた、と。
 ひとつの偽りは、それを繕(つくろ)うためにまたひとつの偽りを産む。
 シャザムは、キルギスの仇を探すとて偽りの旅に出で、偽りの仇の名をもたらし――そしてとうとうこうして、偽りの仇討ちにハルシアを伴って集落を出るに至った。逃れることのできぬ偽りの頚(くびき)が、いつしか自分の足を深々と捉(とら)えていたのだ。
 ただひとつ、真実の欠片がそこにあるとすれば――キルギスと取引きを行い、彼をそそのかして集落に麻薬(ハッシシ)をもたらそうとしたのが、バフシャールの大商人ムルドゥ=ハキムであるというその一点のみだった。
 憂いに沈んだハルシアの可憐な横顔を見るたびに、幾度心に迷いを憶えたことだろう。いっそ真実をあらいざらい吐露してしまいたいと、どれほど思ったことだろう。
 そして、今も。
 ハルシアの安らかな寝息が、燭台の焔(ほのお)が織り成す薄闇の中に響いている。触れ合う肌から伝わる、柔らかな温もり。繊細なその身体を抱くのは自分のほうなのに、何故かいつも抱かれているような心地がする。
 ハルシア――全てを信じ、全てを受け入れてくれるこの少女を、俺は偽りをもって手に入れんとしているのか……
 ――違う!
 シャザムはかぶりを振った。
 キルギスが妄執にとり憑かれ、死に至ることとなったのは元を辿ればあの商人に因がある。彼を殺し、晴れて婚礼をあげるのになにを迷うことがある。何があろうともハルシアを永遠に己が胸に抱くと、心に誓ったのではなかったのか。
 だがその呟きに、心の奥底からまた別の自分が皮肉げに囁く。
 何を言うか。理由がなんであれ、キルギスを殺したのはお前にほかならぬ。殺人の罪と虚言の罪。お前はふたつの呵責から逃れたいだけだ――
 ひしめく幾つもの思考が、彼の中で軋みをあげかけたその時。
「……ぅ…………」
 微かな声が、シャザムの耳に入った。
 起こしてしまったのか――彼ははっとして、側らのハルシアに視線を向ける。
 だが、彼女は眠ったままだった。先ほどまでぴったりと寄り添っていたのだが、シャザムが身を起こしたせいだろう――いつの間にか、二人の肌の間にはかすかな隙間が生じている。
「……ぅ……ん……」
 吐息混じりのちいさな呻(うめ)きが、ふたたびハルシアの唇から洩れた。
 不安げに眉を寄せ――彼女は眠りの中の落ちたまま、ぎこちない手探りでシャザムの肌を求めている。そう、あたかも母とはぐれてしまった幼子のように――
 唇が震えるように開き、声なき言葉を紡ぎ出す。
 聞き取ることはできずとも、シャザムはハルシアの唇の動きから知ることができた。
 ――呪文のように繰り返されるその呟きが、自分の名であることを。
 ほどなくして彼女の手は、シャザムの肌を探りあてた。ゆっくりと身体をずらして、彼女は再びシャザムの身体にぴったりと寄り添い、柔らかな頬をあてる。
 ハルシアの可憐な顔から不安の表情が溶け消え、唇は何事もなかったかのように、いとけない寝息を紡ぎはじめた。
 ――ハルシア……。
 シャザムは長い息をつき、そしてゆっくりと頭を振った。胸の底にわだかまる迷いの靄を払うために。
 そうだ。
 ここまでやって来ておきながら、いまさら何を惑う。
 俺は、ハルシアを失うわけにはいかない。たとい百の罪、千の偽りを重ねることとなろうとも、愛しいこの少女を失うわけにはいかないのだ。
 床の上に、シャザムはゆっくりと半身を倒した。
 隣に眠るハルシアの肌の温もりが、ほのかに身体に染み渡ってくる。その温かさに心の張りをほぐされるかのように、シャザムは眠りの淵へとひかれてゆく――
 いまは、休むことだ。このまま身を起こして悩み詰めていたところで、いかなる道が拓けようか。
 ハルシアの寝顔にいま一度まなざしを向けた後で、シャザムはまぶたを閉じる。
 眠りの帳(とばり)は、十を数えぬうちに降りてきた。



 消し忘れられた燭台の焔だけが、弱々しく壁を照らしている。
 聞こえるか聞こえぬかの、ふたつの寝息だけが響く部屋――安らぎに満ちたその静寂を、不意にかすかな軋(きし)みが破った。
 床の上で寄り添って眠る二人は、むろん目を覚ますことはない。それほどの小さな音だ。
 天井の隅。
 引き戸のように板の1枚がゆっくりとずれ、わずかな隙間が開いた。その向こうに広がる闇の中から、浮き上がるように男の顔が覗いた。
 炎の明かりに照らされてもなお土気色の肌。濁った瞳。表情というものが死に絶えたかのような、仮面じみた顔。それは商人の館の前でハッサンと呼ばれていた、傴僂(せむし)の男のものだ。
 まなじりひとつ動かさず、どんよりとした瞳で彼は眼下に眠る二人を眺めやる。眠る少女は、一糸まとわぬ裸身。それを目にしてさえ淫猥(いんわい)な色ひとつ面に浮かべぬのが、かえって不気味なくらいだった。
 しばしの後――天井の板は再び横に引かれ、元通りに閉じる。
 それと時を同じくして、蝋(ろう)が燃え尽きた燭台の焔は頼りなく揺らぎ、ジジジ……という音と一筋の紫煙(しえん)を残して消えた。
 全き闇が、部屋の中を支配した。




To be continued……