第五話 『嵐の使者』


「――おう、よしよし」
 あやすように、ハルシアはそっと馬のたてがみを撫(な)でた。
 背の低い彼女では、爪先立ちをして精一杯に腕を伸ばさなければ首を撫で下ろすことはできない。
「ととと……」
 はたから見ればかなり危うげな動作だろう。危うくよろけて倒れそうになる。
 主人の苦労を察したのか、栗毛の馬は静かに頭(こうべ)をたれた。ハルシアは思わず瞳を細めて、その首の辺りに頬を寄せる。
 宿に隣接した馬小屋の中には、他にも数頭の馬たちが繋がれていた。荒い息遣い、そして時折ちいさないななきが薄暗い屋内に響く。その馬小屋に並んだ馬の中でも、ハルシアたちの愛馬はひときわ大きく、堂々とした貫禄があった。三日前の晩――この都にたどり着いた時にはさすがに疲弊した様子だったが、いまやもはやその残滓(ざんし)も見受けられない。
 ハルシアは水を浸した布を絞ると、首筋に優しくあてがった。
 オアシスを基盤に発展した都とはいえ、水は無料ではない。だがそれでもハルシアは、宿の主人から水を買い求めて毎朝愛馬の身体を拭っていた。
「……苦労を掛けちゃうよね、あなたにも」
 何十日もの間、他の町に立ち寄ることもなく不毛の荒野を駆け続けさせたのだ。これくらいのことはしてやらねば、さすがに申し訳がない。
 せめて、これが敵討ちの旅でなかったならば――そう、ハルシアは思う。これほど急いで駆けさせることもなかったであろうに。
「――――」
 ――仇を討つということは、一体何なのだろう。
幾度となく繰り返してきたその疑問を、彼女はいま一度胸に呟いた。
 シャザムを奔走(ほんそう)させてその刀を血で濡らし、目の前にあった筈の幸福をはるか先に遠ざけ、村の人々にも愛馬にも負担を強い――今となっては誰が定めたとも知れぬ掟に縛られて。
 兄であるキルギスを失ったことは確かに、たとえようのない悲しみをもたらした。だがそれは悲しみであって、憎しみや憤りではない。憤りがあるとすればそれは、誤った道に墜ちていった兄を救うことができなかった自分に向けられるものだ。敵を討つことなど、望んではいないのに――
 ハルシアの心は憂いの輪の中を巡り、そしてまた、いつもの袋小路に行き着いた。
 どうしようもないのだ。
それが砂の部族の掟であり、自分達が砂の部族の人間である以上は。
 幸福という名の土地に至る門は一つしか用意されていない。そしてその前には、敵討ちという門番が立っている。
 ハルシアは小さくかぶりを振って、額をこつん、と馬の首のあたりにつけた。
「――……もう、すこし」
 かすかな声で、自分自身に言い聞かせるように呟く。
 もう、すこしだから。
 もうすこしで、全てが終わるから。そうすれば――
 顔をあげると、栗毛の馬は不思議そうにハルシアのほうを見つめていた。胸中の憂いを振り払って、彼女ははにかんでみせた。
「……帰りは、ゆっくりだからね」
 たてがみのあたりを、掌でぽんぽんと叩く。ころころと変わる主人の様子に戸惑ってか、馬は黒く濡れた瞳でじっとハルシアを見おろしている。
 この都から帰路は、山脈の麓、河沿いの迂回路を通ろう。もはや急がねばならぬ理由はない。途中のオアシスや町に立ち寄って馬を休めながら、ゆっくりと村へ帰ろう。そして――
 そして、わたしはシャザムと婚礼の誓いを挙げるのだ。
 自分の口元が微(かす)かにほころんでいるのに気付いて、ハルシアは軽い嫌悪の念に囚われた。
 現金なものだ。未来に想いを馳(は)せただけで、こうも簡単に浮かれてしまうなんて。わたしの心はいつのまにこんなに軽くなってしまったのだろう。
「――ふぅ」
 羞恥(しゅうち)を紛らわすように、声に出して大きく息をついたそのときだ。
 ハルシアは、背後に立つ人の気配に気付いた。
――あ……。
 頬がかぁっと熱くなる。見られた? 見られていた? 今の一連の仕種を。
 いつもそうなのだ。気を引き締めているとき以外、いつでも自分は隙だらけになる。
 慌てて振りかえった。
 戸口から差しこむ外光――その光を切りとるように、佇む痩身(そうしん)の影。一瞬のまばゆさに瞳を細めた後で、ハルシアはその風貌を認めた。
 三十過ぎと思しき男。初めて見る顔だ。だが――
 頬にのぼった血がまたたくまにひいてゆくのが、自分でもわかった。
 顔の右半分には刀傷がはしり、眼には黒い眼帯をあてがっている。だが、その男の相貌を印象づけているのはむしろ残った左眼のほうだろう。
 蛇の眼。そう、獲物を見据える毒蛇の眼とでも言えばいいだろうか。嘲笑、憎悪、欲望――ありとあらゆる負の感情を凝縮したような、暗く濁ったまなざし。
 見定めるかのようにハルシアを捉えたまま、その眼がさらに細まった。
 笑ったのだ。
 うなじのおくれ毛がざわりと逆立つ感覚が、ハルシアを襲った。
 あの、わたしに何かご用でしょうか――緊縛を解くためのその一言は、喉のあたりでつかえて声にならない。
 視線がぶつかったのは、実際にはほんの数秒の間だっただろう。だがハルシアにとってそれは、一刻にも等しい張りつめた時間だった。
 ハルシアの怯えを楽しむように、眼帯の男はくくっ……と喉を鳴らし――そして、おもむろに戸口の前から歩み去っていった。
「……ふうっ」
 緊張が長い息となって喉を抜け出てゆく。自分が息を停めていたことに、ハルシアはようやく気がついた。
 ――なんだったんだろ……いまのひと。
 記憶の糸を手繰り寄せても、これまでに顔をあわせた憶えはない。だが向こうは、明らかにこちらを見知っている気配があった。
 思わず両腕で、そっと自分の身体を抱く。先程までは心地好い涼しさを感じていた馬小屋の空気が、急にうそ寒くなったような気がした。
 胸の底、微かに芽吹くゆえなき不安。
 それは砂嵐が訪れる前――遠く地平に響く風の唸りを耳にした時のものにも似た感覚だった。



 もう、後戻りはできない。
 ひとたび偽りに手を染めたならば、終わりをも偽りの手にゆだねるほかはないのだ。
 この言葉を、もう幾度心に呟いたことだろう。
 シャザムは寝台に腰を下ろし、刀をじっと見つめていた。
 しばらく視線を落としたのち、おもむろに鞘にしまう。そうしてまた、ゆっくりと鞘から引きぬく。そんなことを二度三度と繰りかえす。
 窓からさしこむ陽の光を受け、刀身は鈍く輝いた。あたかも、シャザムに決心を促すかのように。
 そう、もはや決行の日はいつなりとも構わないはずだ。
 ムルドゥ=ハキムは毎夜、街外れの己の館に帰る。娼館に泊まらないのは身の用心のためだろう。街中に数多の敵がいることを知っているのだ。
 だが、警戒からくるその行動の規則正しさが、逆に襲撃を容易にする。
 剣術そのものも都の衛士ごときにひけは取らぬが、砂の部族の特技はむしろ暗殺だ。警備が固ければ固いほど、その安堵(あんど)の隙をついて標的の喉元に迫る。
 ムルドゥ=ハキムの館、側を守る衛兵の質、警備の規模。それらを考慮するに、夜陰に乗じての暗殺は決して不可能とは思えなかった。
 にもかかわらず、シャザムは迷っている
 ――ハルシアを同行させて良いものだろうか。
 己の身ならば守る自信がある。だがハルシアを伴って襲撃を成功させ、館から脱出するとなると、果たして――
 わかっている。
 ハルシアとて、己と等しい剣の腕を誇る少女だ。ただ――
 シャザムは低い天井を見上げ、溜めていた息を吐き出した。
 俺は、怖いのだ。たとえひとかけらとはいえ、ハルシアが傷を負う懸念が残されていることが。
 できることならば、連れて行きたくはない。
 単身でハキムの館に乗りこみ、商人の喉元に刃を突き立てる。そしてすぐにハルシアを伴い、この都を脱出して部族の村に帰る――そうできるならば、俺は今夜にでも襲撃を決行するだろう。
 だがハルシアは、俺が単身商人の館に赴くことを、俺ひとりが身を危険にさらすことを決して承知するまい。そういう少女なのだ。
 いっそ、黙って宿を抜けだすべきか――
 そこまで考えたとき、不意に部屋の扉が叩かれた。
「……ハルシアか?」
 もう厩から帰ってきたのだろうか。シャザムは鞘に収めた刀を卓の上に置いた。
 言葉による返答はなく、ただ、扉を叩く音が響く。
 違う、これはハルシアではない。
「――誰だ?」
 鋭く細めた瞳で扉を見据え、その向こうの相手に誰何(すいか)の言葉を投げかける。
 今度も返答はない。返答の代わりに、木製の引戸は勢いよく開け放たれた。
「――――!」
「いよぅ」
 思わず刀を手繰り寄せたシャザムの耳に、調子外れに陽気な声が届く。戸口にはひとりの男が、右手を揚げておどけた挨拶を送っていた。
 宿屋の人間でもないようだ。
 痩せた身体と相貌。右の目にかけた眼帯。残った左目と薄い唇がつくりだす表情は、粘りつくような小狡い笑み。
「おっと、そんな怖い目で睨まないでくれよ」
「……俺の部屋に、何の用だ?」
 男の軽口を、シャザムは氷壁にも似た声で遮(さえぎ)った。おおかた、旅の人間に物を売りつけるたちの悪い商人だろう。そう思ったのだ。
「つれないねえ。知らねえ仲でもないだろうに」
「俺は、お前のような男は知らない。部屋を間違えたにしては礼儀が欠けているな」
 言いながら――シャザムはふと、脳裏に棘(とげ)のような違和感を感じていた。この男、どこかで会ったような気がする。飄々(ひょうひょう)としながら毒気を孕(はら)んだ、この口調――
「……ほぉう」
 残された左の目が、すうっ……と針のように細まる。形ばかりの笑みが消え、男は酷薄な――おそらくは本来の――顔を剥(む)き出しにした。
「――……」
 その表情の変化が、シャザムの記憶の琴線(きんせん)に触れる。眼帯をしているゆえ気が付かなかったが――あの男に似ているのだ。
 胸中に生じた細波を、しかしシャザムは一瞬で打ち消した。
 そんなはずはない。あの男――キルギスが連れていた商人はあの時、俺が殺したはずだ。
 顔を深々と切り裂き、腹を薙(な)いで。
 顔を――


目の前の男の顔には、斜めに走る深い傷跡が見てとれる。


「おいおい、忘れちまったのか? そりゃあちょっとあんまりってもんじゃねぇかい」
 男は眼帯に手をかけ、それを取り払った。蚯蚓(みみず)が貼りついたような醜い傷跡が露(あら)わになる。
 刀傷だ。
「少なくとも俺は、忘れたこたぁなかったぜ。へへへ、忘れられねえのさ、この傷が――あん時にあんたに斬られたこの傷がどうしようもなく疼くんでな! え、シャザムさんよ!」
 男の喉から迸った声が、シャザムの魂に鋭い刃を撃ちこんだ。ゆっくりと寝台のほうに歩み寄ると、彼は芝居がかった仕種で自らの短衣をつまんでみせる。
「なんなら、腹の傷も見せてやろうか?」
「――――」
 その言葉に応える余裕など、シャザムには無論あろうはずもない。
 唐突に刀を突きつけられた幼子のようにただ、目の前の男の顔を見据えるのみだ。見開かれた瞳で。凍りついたそのまなざしで。
 視界が歪み、全ての音がさあっ……と引いていくような感覚が、シャザムを襲っていた。
 眼帯の男の顔が一瞬揺らぎ、キルギスの横に馬を並べた商人の顔に重なる。それを起点に、あの日の記憶が数しれぬ記憶の破片と化してシャザムの心に降り注いだ。
 黄昏の色に染め上げられた、拭い去れぬ罪。
 兇刃(きょうじん)を振るい、落日よりもなお紅き血の雨を降らせてあの岩場に封じこめたはずの、忌まわしき惨劇。
 その封印より洩(も)れいでた過去が今、人の形をとって目の前に立っている。
「ひゃはははははっ、どうした? 亡霊でも見てるみてぇな顔してるぜあんた。まあ無理もねえよなあ。俺だって、助かったのがいまだに信じられねえくらいさ。大変だったんだぜ、あんたが行っちまってから息を吹き返して、ようやく這いずって馬に乗ってよ。ここまで帰りついたはいいが、傷口が膿んじまってなあ――熱にうなされて、一月は起きられなかった。お陰でこんなにやつれちまったぜ」
 雷に撃たれでもしたようなシャザムの反応に気をよくしたのだろう、眼帯の男はひどく饒舌になった。その声すらもが、渇いた風のようにシャザムの耳を通りぬけてゆく。
「だがなあ――ほんとに俺は、生きててよかったって思うぜ。こうやってもう一度、あんたに巡り会うことができたんだからな。
 会いたかったんだぜぇ。本当は大勢ひきつれてあんたの村まで行きたかったが、ハキム様は無益なことは許されねぇお方でなぁ、俺ひとりの私怨で勇猛な砂の部族様を敵に回すなんてこたぁとても言い出せねえ。
 解るかい? そうやって臍(ほぞ)を噛んでるところにあんたのほうからわざわざ出向いてくれた――それを知ったときの俺の嬉しさが。
 ……おい、聞いてんのか、シャザムさんよ?」
 男は不快そうに眉をひそめる。
 シャザムは確かに男の言葉を聞いていた――シャザムの耳は。
 だがそれは、意味を成す言葉として頭に届くことはなかった。虚ろな空洞と化した彼の脳裏にはただ、
 ――生きていた。あの岩場での惨劇を知る者が生きて、いま俺の目の前に立っている。
 その事実だけが、異国の呪文のように巡り廻っていたからだ。
 微かな苛立ちの色を浮かべて、男はそんなシャザムを見下ろしていた。――が、不意に口元を歪めると、あさっての方向に視線を逸(そ)らしてみせる。
「……ハルシアちゃん、っていったよなあ」
「――――!」
 口笛でも吹くかのように呟いた男の一言が、シャザムの神経を射抜いた。
 はっと顔を上げた瞬間、再び振り返った眼帯の男と視線が交差する。男は痩せた顔に、満面の笑みを浮かべていた。
「ひゃははっ、やっぱりちゃんと聞いてくれてたみてぇだなぁ。そうでなくっちゃ、喋るこっちも張り合いがねえ。それにしても――へへっ、効果覿面(てきめん)だなぁおい。ハルシアちゃんか」
 拳を握って、シャザムは男の顔を睨(にら)みすえた。男がハルシアの名を口にするたび、彼女が汚されたような気がする。
「そう怖い顔をするなよ。
 いま、噂のハルシアちゃんとやらをちらっと下で見てきたぜ。いやあ、いい娘じゃねえか。あれなら邪魔な兄貴をぶった斬ってでも手に入れようって気になるわなぁ。お前の気持ちはわからんでもないさ。
 ――あ、悪いな。横、座らせてもらうぜ」
 寝台に腰を下ろし、男は服を手で払った。大量の埃(ほこり)が舞い上がり、真新しい敷布の上に砂がぱらぱらと零れ落ちる。
 側らの刀身に伸びようとする己の腕を、シャザムは懸命に留めねばならなかった。
 判っている。この男が自分を挑発しているのだということは。神経を逆撫でするような言動でこちらの怒りを誘い、その怒りを愉(たの)しんでいるのだ。
 だが、それでも――
「……何が、目的だ」
 感情を必死で押し殺し、シャザムはようやく言葉らしい言葉を紡ぎ出した。
 この男が、自分を嘲弄するためだけにここを訪れたのでないことは確かだ。復讐のためであるならば、いっそ早々と牙を剥いてくれたほうがやりやすかった。
「目的?――そうさな、敢えて言えば気晴らしってやつだ」
 肩を竦めて、男はとぼけるように笑う。こちらの心を見透かしたうえで、あくまでも柔らかく首を締めにかかってくるつもりに相違なかった。
「言っただろ、あん時に。せいぜい派手にのたうち回って俺の気を晴らしてくれってな。その続きさ。
 ……ちょっとばかり、借りも大きくなったことだしなぁ」
 男は指先で己の顔の傷をなぞり、それからおもむろに眼帯をかけた。
 遠くから街の喧騒(けんそう)が聞こえてくる。
 窓より差しこむ午後の陽射しは、あくまでも柔らかく穏やかだ。にもかかわらず、部屋の中はひんやりとした緊迫に覆われていた。
 シャザムは口を閉ざしたまま男の顔を見据える。この男の仕掛けた舞台の上に、為すすべもなく乗せられている自分。判ってはいても、どうすることもできない。
「……それにしても――可哀想なもんだよなぁ、あのハルシアちゃんって娘も。気付いてねぇんだろう? あんたに騙されてるってことに」
 芝居がかった哀しげな声で、男はつかの間の沈黙を破った。
「――何?」
「あんたたち、『仇討ち』とやらにこの都にやって来たんだってな。誰を討つんだい? ハキム様があの娘の兄貴の仇? ひゃははははっ、御機嫌な筋書きじゃねえか。すました顔してあんたも役者だなぁ。ひょっとするとキルギスとかいうあの頭でっかちより、よっぽど商人の才覚ってやつがあるかも知れねえぜ。
 さっき、下でけなげに馬の世話なんかしてるハルシアちゃんを見てよぉ、俺はよっぽど注進してやろうかと思ったぜ。お兄さんを谷に突き落として殺したのは、おすまし顔のあんたの色男だってな!」
 眼帯の男は腹を抱え、身体を折り曲げて笑い転げた。痩せたその手のひらで、シャザムの肩をぽんぽんと叩いてみせる。
「いや、わかってるぜ。あれは事故だったよな。世にも不幸な事故だ。あんたはキルギスを殺したりなんざしていねぇ――どうだい、俺がその証人になって口添えしてやるから、これから愛しのハルシアちゃんに真実ってやつを告白しに行かねえか? ひゃははははははっ!!」
「――――」
 怒りが、静かな焔となってシャザムの中を満たしてゆく。自制に努めなければ、今すぐにでも目の前のこの男を斬り殺してしまいそうだった。
 だが――
 臨界に達しかけた憤怒(ふんぬ)を遮るかのように、ひとつの疑問がふとシャザムの胸中に芽吹く。それは得体の知れぬ不安の暗雲となって、またたくまに彼の心に広がった。
 ――なぜこの男は俺達の、バフシャール来訪の目的を――
「どうして何もかもお見通しなんだ?――って顔だなあ、え?」
 シャザムの顔を上目遣いにのぞき込んで、男は下卑た笑みを浮かべる。
「種明かしをしてやるよ。俺の部下に密偵の名人がいてな――あんたら、ハキム様の屋敷の前からずうっと見張られてたのさ。通りを歩いてるときも話してるときも――それから、
へへっ、さかりのついた野良犬みてぇに番(つが)ってるときもなぁ」
「――――」
 男の言葉を、その意味するところを解するのに数秒の時を要した。そして――解した瞬間、逆上の白い炎がシャザムの脳裏に爆ぜた。
「――貴様っ――!」
 煮え立つ全身の血に衝き動かされるように、腕が剣の鞘を取る。
 柄を握り締め、いまにも刃を抜き放そうとしたその刹那――男の指がシャザムの手首を掴んだ。骨ばったその手からは想像もつかない力が、シャザムの腕を締めつける。
「ま、落ち着けや」
 シャザムの耳元に口を寄せ、男は囁いた。
「あんた、あの女のこと言われるたんびに人をぶった斬るのか。物騒な奴だな。
 けど、まさか宿屋ん中で人を殺すほどとち狂っちゃいねえだろう? ここは砂漠の真ん中とは違う、人殺しにゃあきちんと罰が下るぜ。ほら、いまのあんたの声で宿の誰かが来るかも知れねえぜ。俺は困らねえがよ」
「――――」
 キィ……という床の軋(きし)む音が扉の向こうで聞こえる。廊下を誰かが通っているのだ。
 震える腕を、それでもシャザムは刀身から離した。
 ここでこの男を斬り殺すのはたやすい。だがそうなれば、自分だけではない――同行者であるハルシアにも連座の罪が下ろう。その一念の糸だけが、理性をシャザムの中に繋ぎ留めた。
 ――足音が、ゆっくりと階段を下ってゆく。
 シャザムは男の顔を睨みすえたまま、刀を寝台に放った。まなざしで人を殺せるならば、目の前のこの男をたちどころに打ち斃(たお)せるに違いなかった。
 窓から差しこむ陽が、急に翳りをみせる。
 再び部屋を満たす、薄氷にも似た沈黙――それを破ったのは先のものとは別の、階段を登ってくる軽い足音だった。
 シャザムの鼓動が早まる。あの足音は――ハルシアのものだ。
 もしもハルシアが、この場に帰ってきたならば――
「……ちっ」
 眼帯の男が不意に、露骨な舌打ちを洩らした。
「時間切れか――まあいい、今日のところはな」
 面白くもなさそうに肩を竦めると、寝台から腰をあげる。扉に向って二、三歩を歩んだところで立ち止まり、シャザムに背を向けたまま口を開いた。
「――都の西外れに、いまは使われてねぇ古い礼拝塔がある」
「……何?」
「三日後の昼二刻過ぎにそこへ来い。独りでだぜ。ゆっくりと話の続きをしようや」
 扉に手をかけ――そこで男はいま一度、こちらを振り向く。
 痩せた顔に浮かんでいるのは、毒気に満ちた凄絶な笑みだった。今の今まで包み隠していた、これがこの男の本来の顔に違いなかった。
「なぜ三日後か解るか? あんたにじっくり悩み抜いてもらうためさ。見張りがいる以上、どのみちあんたらはこの都から逃げられねぇ。二人揃(そろ)って俺の獲物ってやつだ。
 へへっ、それから、あんたの大事なハルシアちゃんに目を光らせとくんだな。俺は――あ、名前を言ってなかったな。このイルヴァン様は舌から生まれたって言われるほどお喋り好きでなぁ。ついつい気が変わって、あの娘に真実ってものを教えてあげたくなっちまうかも知れねぇぜ。
 ひゃはっ――ひゃはははははははははははっ!!」
 雑言と哄笑とを撒き散らしながら、眼帯の男――イルヴァンと名乗った男は扉を開け、悠然(ゆうぜん)と部屋を歩み去ってゆく。
 発する言葉すらもないままに、シャザムはその背中を見送っていた。


 
 男が開け放っていった戸口に、数秒をおかずしてハルシアが姿を現した。
 可憐なその顔を覆う、怯えの影。イルヴァンというあの商人と廊下ですれ違ったことは明らかだ。いや、おそらくはそれだけでなく――
「シャザム……」
 後ろ手に扉を閉めながら、彼女は不安げに呟いた。
「……顔、真っ青だよ?」
「――そうか?」
 平静を装って、手のひらで自分の顔を撫でてみせる。額に触れた指は、じっとりとにじむ汗に濡れた。
「少しばかり、疲れがでたのかも知れないな」
「――シャザム」
 とってつけたような言い訳を遮り、ハルシアの唇は再びシャザムの名を紡いだ。一瞬の沈黙をおいて、彼女はおずおずと言葉を続ける。
「いま……部屋からでていったひと……だれ?」
 シャザムの顔色のことを言っておきながら、蒼ざめているのは彼女とて同じだった。
 やはり見ていたのだ。イルヴァンが哄笑とともにこの部屋から出てゆくところを。
「――誰でもない」
 小さくかぶりを振って、シャザムは断じた。心の震えが声に伝わらぬよう、できうるかぎりの注意を払いながら。
「旅人の宿を回る、たちの悪い物売りだ。要りもしないものを売りつけにきたから、すぐに追い払った」
「でもっ――」
 廊下ですれ違ったとき、ねめつけるような視線を投げかけられたのかもしれない。痛々しいほどの動揺を見せて、ハルシアは首を横に振った。
「なんか――様子が変だったし――あの男のひと、笑ってて……ね、何もなかった? わたし、なにかあったんじゃないかって――」
「いま言った通りだ。心配するようなことじゃない」
「ほんとう? ね、シャザム。だって――」
「――何もありはしなかったと言っただろう」
 反射的に、シャザムは語気を荒めてハルシアの言葉を遮っていた。
 苛立ちからではない。むしろ恐れ――己の身を案じてくれるハルシアに偽りの言葉を繕いつづけることへの恐れが発した、それは声だった。
 部屋に沈黙が落ちる。我に返って、シャザムは気がついた。目の前に立つこの最愛の少女に、自分が出会ってより初めて鋭い言葉を投げつけてしまったことに。
 顔をあげ、ハルシアを見る。
 前触れもなく鞭を受けた仔羊のように、彼女は身を竦ませて立っていた。どこまでも深く澄みわたる水晶の瞳。その奥にさした驚きと哀しみの翳(かげ)りは、そのまま見えざる刃となってシャザムの心を抉る。
 口を開きかけ――しかしシャザムは声を発することができなかった。己の口から出ずるいかなる言葉も、偽りとなることを知っていたから。
 刻が水底に沈んだかのごとき、永く重い数秒が過ぎた。
「……そう、だよね」
 ふいに――ハルシアの唇がかすかな声とともに綻ぶ。
 氷が溶けるような微笑が、ゆっくりとその顔に広がっていった。
「ごめんね。なんだかわたし、緊張してすぐおろおろしちゃって……仇討ちにきたのに、こんなんじゃぜんぜんだめだよね」
 えへへ、とはにかんで、ハルシアは拳で自分の額を軽く小突いてみせる。
「――――」
 無理をしているのは明らかだ。
 自分とあの商人との間に何事かがあったことを、彼女が察せないはずはない。察していながら知らないふりをして――知らないふりをしながらそっと自分を気遣ってくれる。
 昔からそうだった。昔からずっと、ハルシアはそういう娘だった。
「――ハルシア――」
「ほんと、シャザムが一緒にいてくれて良かったよぉ」
 寝台に腰を落としたシャザムの側らに、ハルシアはゆっくりと歩み寄った。
「わたしひとりじゃ、あんな怖いひと追い払ったりできないもん。わあ、この砂……あのひとが? ひどいよねえ」
 寝台の上に散乱した砂を、彼女は丁寧に払ってゆく。
 憂いの陰を包み隠し、柔らかな微笑を宿す横顔。シャザムは言葉もなく、ただ見つめていることしかできない。
 窓の外から低くうなるような音が聞こえる。風がでてきたのだ。
 先程までの穏やかな陽射しは何処へ消え去ったのか――
 街路を渉(わた)り哭(な)風の音は、砂嵐の近いことを告げていた。




To be continued……