第九話 『裁きの扉』
黄昏が、遠方に広がる街を包みこんでいた。
一部の商館や塔を除き、バフシャールの街並みを構成する建物は同質の石材をもって造られている。それゆえこの時刻に高い窓から見下ろした街路は、まさに淡い紅一色に染めあげられて見えるのだ。
街の中心部から遠く離れたこの館の窓からは、都の全貌が一目に見渡すことができる。市場も、歓楽街も、反対側の街外れにそびえる礼拝堂も。それらの風景は、砂煙の帳の向こうに淡く霞んでいた。
風が出てきたのだ。それは、太陽に熱せられた砂漠と冷えはじめた大気が織りなす空気の流れだった。この風が止めば、都の上には夜が訪れる。
「なあ……」
回廊の窓から街外れの礼拝堂の影を眺めながら、護衛の男は側らの同僚に呼びかけた。
「あん?」
顎髭を蓄えた同僚は、欠伸混じりに答えた。退屈を感じているのはやはり同じらしい。
商人ムルドゥ=ハキムの館、最上階に位置する回廊。
館の主の部屋のすぐ近くに配置された護衛は、重要な職務でありながら事実上は閑職に近かった。理由は単純だ。下の護衛を擦り抜けるなり片付けるなりしてここまで登ってくることのできる侵入者など、そうそうおりはしない。
立っているだけで給金が入るのはこの上ない魅力であるし、その点に関しては何ら不平もない。だが、たまの気晴らしでもなければこのまま石像にでもなってしまいそうなのもまた確かだった。
「……ハキム様は、今晩はお出かけになると思うか?」
問いかけた彼に同僚はかすかに声をひそめて、
「……なるんじゃねえか?」
にやりとした笑みとともにそう答える。推測というよりもその声には、むしろ期待の色が濃い。
「……だよなあ」
彼もまた、込みあげる笑みを隠そうとはしなかった。
館の上部を担当する衛兵たちの、ひそかな楽しみ――それは、商人が夜の街に出向いた隙を見はからって催すささやかな酒の宴だ。
たとえハキムが出かけても、その片腕のイルヴァンが館にいる日はとても酒盛りなどできはしない。だがここのところ、イルヴァンも何やら慌ただしく動きまわり、街に出ている日が多い。となれば――
「ああ、早く陽が沈まねえかなぁ」
暮れゆく都の遠影を窓ごしに眺めながら、彼は欠伸(あくび)混じりにつぶやいた。
「好きだなぁ、お前も」
肩を竦めて、同僚がたしなめる。
「たいがいにしておけよ。酒飲んでる間に何かあったら、俺らイルヴァン様になぶり殺しにされるぜ」
「馬鹿か、お前」
彼は軽い笑いとともに、己の足元を指で差した。
「ここは館のてっぺん近くだぜ。何かあったら下の奴らが片付けてくれるさ」
「だけどよぉ」
「だけど何だ。嫌ならお前は飲まねえでいいんだぜ」
にやりと笑うと、同僚の髭面にも鏡で写したように同じ笑みが広がった。
「お前も人が悪い。誰が飲まねえと言ったよ」
「――ほうら、やっぱり飲みてぇんじゃねえか」
彼は鼻を鳴らして、再び窓のほうに向きなおった。直下に見えるのは館の敷地。その向こうには、かつては都の中心であったという遺跡群が広がっている。そのいずれもが、崖の上からでも見下ろしたかのように小さかった。
「心配すんなよ、肝っ玉の小せえ奴だな。この高さを登ってこられんのは、鳥か蜥蜴(とかげ)ぐれぇのもんさ。だいたい――」
ふと。
そこまで言って、彼は言葉を止めた。
錯覚であろうか。視界の片隅――窓の外で、何かが動いたような気がしたのだ。そう、衣服の一部にも見えなくはない、白い布のような何かが。
――……?
思わず窓から身を乗り出し、左右を見渡してみる。さりとて地上五階の窓の外を動くものなどあろうはずもなく、目に映るのはただ館の壁を舐めるように吹き過ぎる砂風ばかり。
「――やべえな。おい、俺ぁ呑む前から酔いが回ったらしいぜ」
苦笑いとともに叩いた軽口。
だが――その声に、同僚は応えを寄越さなかった。
「ん?」
訝しげに視線を巡らし――
そして、彼はそのまま驚愕の矢に射られて動きを停める。
「お……おい」
引きつった笑いとともに、喉からは思わず掠れた声が洩れた。
「ふざけてんじゃねぇよ、おい」
彼は駆けよって、同僚の肩を揺さぶる。回廊の壁に凭れるように倒れ、もはやぴくりも動きはしない彼の身体を。
反応はなかった。
息絶えているわけではない。衣服の上からも、その胸が微かに上下していることは見てとれる。だが何をもって昏倒させられたのか、彼が目を覚ます気配はない。
話し声の絶えた回廊は、異様なまでの静寂に包まれた。窓の外を吹きゆく風の音だけが、不吉な笛となって彼の耳に届いた。
驚愕を押しのけるように、膨れ上がる戦慄。
何かがこの廊下に潜んでいる。衛士をひとり、音もなく昏倒(こんとう)させうる腕をもった何者かが。
先程窓の向こうに見えた布のような何かが、いまひとたび脳裏を過った。
――窓からだと? ばかばかしい――
だがそのばかばかしい方法以外に、賊が侵入した経路は考えられない。
剣の柄に手をかけ、彼は立ち上がった。
「――誰だ! 何処にいる!」
鋭い叫びが回廊の静寂を裂く。
消えゆくその残響に混じって、彼の耳は布の擦れあう音を捉えた。
すぐ近く――真後ろに。
「――――!」
振り向く暇すら与えられない。巡らしかけた首、うなじの辺りに鋭い手刀の一撃が叩きこまれた。
痛みを感じたのはほんの一瞬だ。視界が大きくぶれ、傾きながら暗転してゆく。
意識を失う最後の一瞬――
彼の耳はすぐ後ろに、哀しげに紡がれた溜息を捉えていた。
いつからだろう。
幼き日よりすぐ隣に佇んでいた、儚げなその少女。彼女がかけがえのない存在として、己の心の中に棲まうようになったのは。
シャザムは困惑した。
部族の剣士として何にも惑わせられることなく生きんと誓っていた自分が、よもや他人に心奪われることになろうなどと――
だが、固い岩にも一輪の華が深く根を張るように、その想いはいつしか彼の中で静かに膨れあがっていった。そうして気づいたときには、もはや抑えることすら叶いはしなかった。
哀しいまでに澄みわたる瞳。晩秋の陽射しにも似た、憂いと優しさを秘める微笑。摘まれる刻を待つ花にも似た、か細い肩――
その全てを、自分だけのものにしたかった。
生来より感情を表に顕すことは好まない。好まぬうえ、不得手でもある。
それでもシャザムはおそらく生まれ出でて初めて、胸中に留めるにはあまりにも膨れ上がりすぎたその想いを唇にのぼらせた。
――愛している。
ただの一言だけの求愛。
言葉を飾ることなどできなかった。
その一語に何かを付け足すことも、何かを差し引くこともシャザムは知らなかった。ハルシアの答えを聞くよりも早く、華奢な肩を抱き寄せてその唇を奪った。
ハルシアは――澄んだまなざしでまっすぐにシャザムを見つめた。接吻に濡れ潤んだ唇がゆっくりと綻び、答えを紡いだ。
――……わたしも、だよ。
彼女の肩を――細かに震えるその身体を己の身体と融けあえとばかりにきつく抱きしめながら、シャザムは誓っていた。この先のいかなる苦難からも、彼女を護り抜くことを。
衣の胸を隔ててもなお、柔らかな温もりがシャザムの胸に伝わった。
燭台の灯火が消えるかのように、柔らかな温もりは不意にシャザムの身体を離れた。
頬に触れるのはただ、硬く冷たい石の感触のみだ。
ほんの一刹那、シャザムは失念した。何故に己がこのような石床の上に横たわっているのかを。だが、胸に走る鈍い疼きが意識を失う前の記憶を呼び覚ました。
ほんの束の間、夢を見ていたらしい。ハルシアと初めて結ばれた、あの頃の夢を。
否――夢ではないのやも知れぬ。人は死を前にして、これまでの生涯を一瞬の幻の中に振り返る。長老から、そんな話を聞いたことがあった。
礼拝堂の中は、沈黙と闇に包まれている。陽が暮れて光が射しこまなくなったのか、それとも己の眼がもはや光を捉える力を失っているのか。
傷はもう痛まない。癒えたわけでは決してあるまいが。
うつぶせに倒れたまま、シャザムは大きく息をつく。明らかだった。死を司る神が、この薄闇のどこかで息を潜めて己の力尽きる時を待っていることは。その手から逃れるのは、もはや不可能であるということは。
何故(なにゆえ)に、このようなことになったのだろう。
揺らぐ意識の中で、シャザムはぼんやりと問うた。
あの日、ハルシアとの絆を胸に誓った自分。今ここで、何もできぬまま息絶えてゆこうとしている自分。その二つが同じ刻の流れの中に並んでいることを、シャザムはどうしても信じることができなかった。
俺はどこで、道を間違えたのだろう。
キルギスを刃にかけたその時から、運命の道はこの場所に向かって定まっていたのであろうか。
嘘に嘘を、偽りに偽りを重ねてかような破滅へと辿り着くことが、彼を殺めたことへの罰だったのであろうか。
自嘲めいた笑みを唇に浮かべて、シャザムはかぶりを振った。
もう――いい。
惨めな死こそが、俺には相応しいのだ。最愛の少女をも数年にわたって欺いた卑劣な男に、幸いを得る資格などもとよりあろうはずもない。
だから、これは――
これは、報いなのだ。
たゆたう闇の中に、シャザムは己の意識の最後のひとかけらを沈めようとした。
だが、その時だ。
唐突に、雷光にも似た鋭い怒りがシャザムの胸の奥深くで弾けた。
お前は――お前は何を考えているのだ。
それは、己自身への怒りだった。たった今胸中に呟いた諦めに対する怒りだった。
惨めな死こそが、自分には相応しい。そう、それは確かだ。俺は死に値する罪を犯した。犯し続けてきた。
だが、ハルシアはどうなる。いつでもお前を信じてくれた、最愛の少女は。あの隻眼の商人が彼女にいかなる災いをもたらそうとしているか、お前は聞いていなかったわけではあるまい。
それに目をつぶって、この場所での死こそが報いなどと――真にお前はハルシアを想っていたのか? 真にお前が守りたかったものは彼女ではなく――
「――――!!」
シャザムは目を見開いた。
鋭い刃で、魂の根幹を深々と突き刺されたかのようだった。
もはや動かなくなっていた身体が、怒りと驚きに大きく震える。意識が、活力が、急速に輪郭を取り戻してゆく。
真にお前が守りたかったものは彼女ではなく――
彼女を愛する己自身だったのではないのか?
自分自身の問う声が、楔(くさび)と化して胸の底に突き刺さった。
――違う――
心の中で、シャザムはかぶりを振る。
――俺は。俺はハルシアを――
されど、呟く声はあまりにも弱々しい。
つい先程。自分はこの礼拝堂の中に入るまで気が付きはしなかった。あの隻眼の商人が、自分をここにおびき寄せたうえでハルシアの残る宿を襲うという可能性に。彼女の身を案じるならば、まず最初に憂慮せねばならぬ事態であるにもかかわらず。
商人とその一味を屠(ほふ)ることのみに、自分は心の全てを奪われていた。
忌まわしき過去を知るものを、ひとり残さずこの世から消し去ることを。ハルシアに過去の罪が露見する恐れを絶つことを――俺は、彼女を護るよりも先に考えてしまったのだ。
「――く――ぁ……!!」
声を失ったはずの唇から、低い呻きが洩れる。
「……ぁあっ……くぁっ……」
シャザムは泣いていた。音も光もない闇の底、声をあげて嗚咽していた。あたかも、己の不注意で大切な宝物をなくしてしまった幼子のように。
愛するがゆえの嘘だと、ずっと心の中で呟いてきた。
忌まわしい過去を剣もて拭い去ってこそ、その先に幸福があるのだと信じてきた。
どれほどの罪を背負おうと、どれほどの血を流そうと、それを手に入れることを誓った。
それすらが偽りだった。己の狡猾と怯懦から、己をたばかるための偽りに過ぎなかったのだ。
その挙句に、俺はここにいる。
どこかで道を間違えたのではない。常に行くべき道を避け続け、惨めな死の袋小路に俺は倒れている。
それはまさに報いというものだ。だが――
シャザムは掌を強く握り締めた。痺れるような感覚とともに、右手の指の間に硬質な何かが触れる。
刀の柄だ。
――だが、死を司る神よ。俺にもう少しだけ時間をくれまいか――
長刀を握ったまま、シャザムは身を起こそうとした。だが拠り所にした腕はくたりと力を失い、彼は再び冷たい床の上に崩れこむ。肺腑に衝撃が走り、喉の奥から溢れた血が唇の端を伝った。
許されないのか。
もう、間に合わないのか。
シャザムは礼拝堂の扉のほうに、ゆっくりと這いずった。数歩の距離が、まるで砂漠ひとつを越えるかのように遠い。
――俺は、もう一度だけ剣を振るわねばならぬ。
衣を引きずる音だけが、礼拝堂の中に響く。
――己を守るためではなく。
扉の前。シャザムは刀の柄に両の掌を添えた。
――ハルシアの――彼女だけのために――
床に突きたてた刃を支えに、シャザムは懸命に半身を起こす。
もう一度だけ。
もう一度だけ。
もう一度だけ。
「――――っあぁぁぁぁっ!!」
声にはならない――されど辺りの空気を震わせるかのごとき叫びが、シャザムの喉からほとばしった。
きぃ――という微かな軋みが、風の音の中に響いた。
むろんそれを耳にしたものは誰もいない。
ここは都の外れ、今は打ち捨てられて砂塵にさらされた古い礼拝堂の前なのだ。
――きぃ――
再びか細く尾を引く軋みの音。大きな鉄の扉がゆっくりと外に向けて開いてゆく。
その向こうに佇んでいたのは、ひとりの青年だった。
誰かが目にしたならば、立ったまま息絶えているのではないかと思ったに相違ない。それほどまでに、彼の様相は凄惨を極めていた。
東方の白磁のように、血の気を失った肌。死の陰りに彩られた顔。そして、全身に散った未だ乾ききらぬ鮮血。
されどただひとつだけ、彼が死者ではない証しがあった。
それは、瞳に宿る光。己の歩む道の先を、射抜くように見すえる峻烈な意志の光だ。
吹きつける風が、砂塵をまとって彼の身体を打った。衣を染める血がまたたくまに、こびりつく砂の色に隠されていく。
彼は――シャザムは足元に視線を移した。
吹きつける風に舐められて半ばかき消されながらも、砂の上に残る歩幅の小さな足跡。それはこの礼拝堂の前から、街の中央部へと向かっている。
疑いはなかった。これは、あの隻眼の商人のものだ。
砂の部族の戦士が恐れられる理由はふたつある。
ひとつは、常人の域を離れた敏捷力によって繰り出される剣技。
そして――もうひとつは、敵の痕跡を追ってどこまでも砂漠を渉る、その追跡の能力だ。
シャザムは歩きだした。熱に浮かされたような、それでいて一歩一歩を踏みしめるような歩調で。先程までの苦痛と脱力が嘘のように、身体は軽かった。
もはや、自分は死んでいるのかもしれない。彼はそう思った。死を司る神のささやかな慈悲によって――或いは己自身の意志によって、屍と化した身体が傀儡のごとく動いているのかもしれないと。
ならば――。
溶け落ちんとする夕空を見上げ、シャザムは瞳を細めた。
美しかった。哀しいほどに美しかった。
黄昏を奇麗だなどと思ったのは、どれほどひさかたぶりのことなのだろう。
ひとつ息を吸い、ひとつ息を吐き、そしてシャザムは前方に視線を戻す。
これまでに、いくつもの道を違えてきた。
最後の道だけは、間違えるわけにはいかなかった。
ムルドゥ=ハキムは麝香(じゃこう)に香る煙を深々と吸いこんで、椅子に深々と身を沈めた。
城とも呼ぶべき屋敷の、最上部に位置する私室。
この部屋には時間というものの感覚が存在しない。陽光の射しこむ窓がないからだ。燭台のみを明かりとする薄闇に覆われた室内には、いつでも香の煙が靄のようにたゆたっている。
ハキムはこの部屋で起きたい時に起き、眠りたい時に眠る。食べたい時に食べ、女を抱きたくなったら部下に命じて階下からこの部屋まで呼びつける。
彼自身が取引に口を挟むことはほとんどない。富がある程度まで蓄えられれば、あとは部下に任せ、申し訳程度に報告を聞くだけでいい。財はかってに膨らんでいく。商いとはそういうものなのだ。
それゆえに、彼が時間を意識する時――すなわちこの部屋を出る時とはもっぱら陽が沈み、遊郭に出向く夜に限られていた。
――そう、普段であれば。
だがこの夕べ、彼は部屋の壁にかけられた西方の機巧(からくり)時計に幾度も目をやり、生白く肥満した身体を妙にそわそわと揺すらせていた。
彼は待っていたのだ。部下であるイルヴァンがこの屋敷に戻るのを。ハルシアという名の、砂の部族の娘を手土産に帰ってくるのを。
イルヴァンの口から、ハキムは全てを聞かされていた。一年前の事件のことも。砂の部族の青年と少女の、滑稽極まりない『仇討ち』のことも。イルヴァンのもくろむ復讐の計略も。
――二、三日の間取り引きを他のものに任せることになりますからな、ハキム様にもご迷惑をおかけするかもしれません。へへっ、代わりといってはなんですが、手土産はきちんと用意してございますよ。
イルヴァンの言うその『手土産』こそが、砂の部族の娘の身柄であったのだ。
――敵討ちが偽りのものである以上は、あいつらは無為にハキム様のお命を狙う暗殺者。そのかたわれをいかようにしたとて、誰にも咎めを受けることはありますまい。
主人の嗜好をすっかり飲みこんでいるイルヴァンは、隻眼に狡猾な笑みを浮かべて言ったものだった。
――砂の部族の娘、か。
可憐な相貌の、かなりの上玉であることはイルヴァンから聞きおよんでいる。椅子に身を沈めたまま、ハキムは頬の肉を弛ませて淫猥な夢想に耽った。
何より――従順ではない娘を蹂躙(じゅうりん)するのが彼の嗜好に適っていた。こればかりは、遊郭の女を金で買っていたのでは味わえない至福なのだ。
何年か前に、ハキムは商売のうえで自分に刃向かって命を落とした或る商人の娘を、屋敷に連行して手篭めにしたことがあった。
数日間の辱めののち、娘はわずかな警備の隙をついてこの最上階から身を躍らせてしまった。街の富を牛耳るハキムといえども、無辜の娘を死に追いやったことがあからさまに公になっては無傷ではすまない。事件の揉み消しにはイルヴァンたちが奔走し、かろうじてことなきを得た。
それ以来さすがに、遊女以外の娘を力をもって辱めることはしていない。だがハキムは、あの時に知った嗜虐的な快楽の味が忘れられないでいた。
そして今宵、久方ぶりにその機会が廻ってきたのだ。
砂の部族の娘は、想い人以外には堅く純潔を守るという。その部族の娘が死をもって愛するものと分かたれ、数刻を経ぬうちにこの屋敷に引きたてられてくる。
己の腕の中に組み伏せられた時、果たしていかような表情を浮かべることであろう。そう思うだけでハキムは、身体の中が淫らに脈打つのを感じる。
こん、という扉を叩く音が彼を夢想の世界から引き戻したのは、ちょうどそんな時だった。
「――誰じゃ」
良い気分でいたところを邪魔されたことと幾分の気恥ずかしさが、彼の声を自然不機嫌なものにする。
だが彼は、すぐに思いなおした。そうだ。砂の部族の娘を連れて、彼が帰って来たに違いない。
「お前か、イルヴァンよ。早かったのう――」
その言葉を遮るように、部屋の扉が開く。刹那、ハキムは思わず感嘆の声をあげていた。
そこに佇む少女は、彼の夢想の中よりもさらに数段美しかった。
楚々とした顔に、表情は浮かんでいない。
伏し目がちな澄んだまなざしと、結ばれた薄い桃色の唇。感情がないというよりもむしろ、張り詰める哀しみと憂いに堪えるための無表情――美の神の丹念な細工物のような彼女の面立ちに、それはいっそうの麗しさを添えていた。
「これは――でかしたぞ、イルヴァン!」
ハキムは興奮もあらわに賞賛の声をあげる。少女の後ろに控えているであろう、隻眼の商人に。
――数秒の沈黙があった。
「……イルヴァン?」
訝しげに呟くと同時に、彼は気づいた。
様子がおかしい。
イルヴァンの姿がなかった。少女はただひとりで、扉の前に佇んでいる。
その身体には何の拘束もなかった。そればかりか、その両の腕には――
「……ムルドゥ=ハキム様ですね」
憂いと冷たさ。その双方を孕んだ声とともに、少女の手に光が煌く。両の掌に握られた短刀の刃が、燭台の火を照り返したのだ。
彼女は後ろ手に、音もなく扉を閉めた。
ハキムは驚きと怯えに目を見開く。いかに魯鈍な彼といえども、ここに至っては事態を理解せぬわけにはいかなかった。
少女の瞳に、痛々しいまでの決意の光が揺れる。ちいさく息を吸いこんだその唇から、かすかに震える、されど室内に凛と響きわたる声が紡がれた。
「――お命を――いただきに参りました」
To be continued……
|