第十話 『風塵迷図』(中)


 つい数日前までのことが、もはやはるか昔のように感じられる。
 シャザムとともにこの都に辿りつき――ざわめく夜の街路を二人で歩いた。
 何も知らぬままに、ただ信じていた。あと数日で全てが終わり、そして全てが始まることを。村に帰って婚礼の儀を挙げるその日が、もうすぐそこまで近づいていることを。
 信じていた。あの時までは。あの片目の男が、自分たちの前に姿を現すまでは。
 あの時――
 馬小屋の戸口に佇む男の、わたしのほうをじっと見据えていた昏いまなざし。去り際に残した、意味ありげな嗤い。
 胸騒ぎがした。
 あのひとは何のためにここに来たのだろう。なんのために、宿屋の中へと入っていったのだろう。
 ――シャザム。
 何故だったのだろうか。ハルシアにはわかった。わかってしまった。
 あの男が自分たちの部屋へ、シャザムのもとへと向かったのだということが。
 気取られぬように男の後を追い、ゆっくりと階段を登った。すこしばかり時間をおいたせいか、彼の姿は廊下には見当たらない。どこかの部屋に入ったのだ。
 どうか、取り越し苦労でありますように。あのひとが入っていったのが、わたしたちの部屋ではありませんように。そう思いながら、部屋の扉の前に立った。
 取手に指をかけようとした、ちょうどその時だ。扉ごしに、微かにあの言葉が耳に届いたのは。
 それまで大地であると思って踏みしめていたものが、いびつに歪んで崩れ落ちていくような――あの声が聞こえたのは。

「――さっき、下でけなげに馬の世話なんかしてるハルシアちゃんを見てよぉ、俺はよっぽど注進してやろうかと思ったぜ。お兄さんを谷に突き落として殺したのは、おすまし顔のあんたの色男だってな!」
 
 ――最初の数秒、それが何を意味する言葉なのかわからなかった。
 理解することを、心が拒んでいたのかもしれない。
 しかしそれは、次第にハルシアの胸に染み込んできた。ゆっくりと、残酷に。
「――――」
 がちがちと奥歯が音をたてた。
 ――オ兄サンヲ谷ニ突キ落トシテ殺シタノハ。
 軽い眩暈を感じ、思わず壁に背を凭れる。
 ――アンタノ色男ダッテナ。
 それは――いったいどういう――
 兄さまを刃にかけたのが――。
 
「――どうだい、俺がその証人になって口添えしてやるから、これから愛しのハルシアちゃんに真実ってやつを告白しに行かねえか?」

 扉を隔ててとぎれとぎれに――部屋の中から、また声が響いた。
 ハルシアは両手で耳を塞ぐ。嘘だ、そんなのは嘘だ。聞きたくない。
 おぼつかない足取りで扉の前を離れる。これ以上ここにとどまっていたら、叫び声をあげてしまいそうだったから。
 階段を降りる。できることならば、この場から逃げ出してしまいたかった。宿屋を出て、どこか遠くまで走り去ってしまいたかった。
 だが、しかし。
 外門を潜ったところで、ハルシアは足を止めた。ひとつ大きく息を吸い、そして吐く。
 ――そんなことが、あるはずがない。
 シャザムが兄さまを手にかけるなんて、そんなことがあっていいはずがない。今のは聞き違い、何かの拍子にわたしが言葉を聞き違えたにちがいないのだ。
 荒々しくかぶりを振り、先程の男の声を頭から追い払ってから、ハルシアは踵を返した。もう一度宿の中へ、自分たちの部屋へ。
 ちょうど扉のすぐ前で、あの男とすれ違った。まなざしが交差した瞬間、片方しかない彼の眼は獲物を見据える蛇のように細められた。
 視線を逸らして、足早に部屋の中に入る。
 目に入ったのは――決して見たくはなかった光景だった。
 寝台の上に腰を落としたシャザム。これまで見たこともない怯えと動揺の色を、露骨に瞳の中に宿して。

「いま……部屋からでていったひと……だれ?」

 ハルシアは訊ねた。何らかの言葉が、心に湧きたつこの暗雲を払ってくれる言葉が返ってくることを願い、そして信じながら。だが――

「旅人の宿を回る、たちの悪い物売りだ。要りもしないものを売りつけにきたから、すぐに追い払った」

 彼の口から発せられた言葉は、明らかな偽りだった。すぐに判る。判ってしまう。シャザムは昔から、わたしに嘘をつくのが上手ではなかったから。
 
「――何もありはしなかったと言っただろう」

 そしてまた――
 シャザムが嘘をついたことで、声を荒げたことで、ハルシアは悟ってしまった。兄を手にかけたのは、まさにシャザムにほかならないことを。
 
「……そう、だよね」

 ねえ、シャザム。

「ごめんね。なんだかわたし、緊張してすぐおろおろしちゃって……仇討ちにきたのに、こんなんじゃぜんぜんだめだよね」

 今、わたし聞いちゃったの。扉の外で、ぜんぶ聞いちゃったの――
 その言葉を、ハルシアはどうしても口にすることができなかった。その時は自分でも何故なのかわからぬままに、思わず微笑を繕っていた。

「ほんと、シャザムが一緒にいてくれて良かったよぉ。
わたしひとりじゃ、あんな怖いひと追い払ったりできないもん。わあ、この砂……あのひとが? ひどいよねえ」

 その声が惨めなほどに震えてしまっていることに、シャザムは気がつかない。


 砂嵐が、窓の外を吹き荒れていた。
 部屋の中に満ちるのは、闇。燃え残った燭台の炎だけが頼りなげに揺れる、薄い闇。
 今はどれくらいの時刻なのだろう。夜が更けてまだしばらくしか経っていないような気もすれば、もう夜明けが近いようにも思える。
 側らに眠るシャザムの横顔を、ハルシアはじっと見つめていた。
 どうすれば、いいのだろう。
 真実を知ってしまった今、わたしのとるべき道はどこにあるのだろう。
 ハルシアの視線は、壁に立てかけた刀へと滑った。
 あくまでも砂の部族の掟に従うならば。兄さまの仇を打つだけならば、それはたやすい。あの刀をとり、眠るシャザムの胸に突き立てるだけで全てが終わる。
 そんなことができるはずはなかった。今となって、彼を仇として憎むことなんて。
 彼が兄を殺めたということを知った今でも――
 シャザムに対する憎しみは、ひとかけらも湧いてはこなかった。心の中を占めるのはただ、深い不安と困惑。シャザムとの絆がほどけてしまうことへの恐れ。
 どうすれば、いいのだろう。
 どのような形であれ、シャザムと離れるなんて考えられない。いかなる事情で彼が兄さまを殺めてしまったのだとしても、それでもわたしは――
 焦燥を煽るかのように、砂嵐はごうごうと窓の外を吹き抜けていく。
 打ち明けるべきなのだろうか。偶然に全てを知ってしまったことを、シャザムに告げるべきなのだろうか。
 ――ハルシアには、その勇気はなかった。
 もしも、彼に全てを告げて――そして、すべてを知っても彼を憎んではいないことを告げたならば――
 ふたりは、今までどおりのふたりでいられるのだろうか。
 シャザムはわたしに隠そうとした。真実を隠し通そうとした。たとえこのような偽りの旅をつくりあげることとなってでも、わたしには自分の行いを知られたくなかったのだ。
 わたしが真実を知ってしまったことを、そんな彼に告げたら。
 ハルシアは思わず、己の身体を両の腕でかき抱いていた。
 もとのふたりになんて、もう戻れるはずがない。いや――
 彼がわたしの前から姿を消してしまわないと、どうして言いきれよう。
 シャザムは繊細なひとなのだ。冷静なそのものごしよりも、ずっとずっと脆い青年なのだ。わたしに全ての真実を――しかもこんな形で知られて、それでも今まで通りわたしの側にいるなんて、そんなことに堪えられる心の持ち主ではないのだ。
 怖かった。
 現在という水面に、どんなちいさな石を投げこむのも怖くてしかたなかった。
 わたしが護りたいのは、現在。現在のふたりのまま、ずっとこのままでいたいのに。
 せめて――せめてシャザムが自分から真実を告げてくれていたならば――
 隙間風が入りこんだのだろう。燭台の灯はふいにちいさく揺らぎ、そして消えた。
 おとずれた全き闇の中で、ハルシアはひとり俯く。
 我に返ったように、己自身に対する嫌悪の刃が鈍く胸の底を抉った。
 なんていう人間なのだろう、わたしは。これは、この世に血を分けたたったひとりの兄の仇討ちの旅であったはずなのに。もはや仇を討つことなど心になく、そればかりか兄を殺めたシャザムとともに過ごすことのためだけに思いを巡らせているなんて。
 けれども――自分の心を御することはできない。
 どうしたら、いいのだろう。
 そうしてまた、思考は振り出しに戻る。
 砂嵐は、まだ止まない。


 ――嵐が明けた朝、ハルシアはシャザムを宿の外へと連れだした。
 お互いの気晴らしにでもなれば。そんな理由をつけて。
 嘘だった。
 あのままあの部屋の中にふたりでこもっていたら、気がおかしくなってしまいそうだったから。迷いと罪の意識に、押し潰されてしまいそうだったから。
 残酷な人間だ、わたしは。
 最愛のひとが、目の前でこんなに苦しんでいるというのに。言葉ひとつだけで、少なくともその苦しみからは解き放ってあげることができるというのに。
 わたしはただ、それを見つめているだけ。彼が自分のもとを離れていくかもしれないなどという不確かな恐怖に縛られて、彼の苦悩を黙って眺めているだけなのだ。
 外を歩いても、シャザムの様子は宿の中にいる時とほとんど変わることはなかった。何かに怯えたように、常に周囲を見回すまなざし。ようやく見せてくれた微かな笑みも、どこか痛々しくぎこちなく――
 そして。
 シャザムが突然とり憑かれたように走りだした時、ハルシアは何が起こったのかを理解することができなかった。雑踏の中に置きざりにされてしばし呆然と立ち尽くし――それから慌てて彼の後を追った。
 気付いたときには、目の前にシャザムの背中があった。人垣から投げかけられる好奇と不審の視線に哂され、抜けがらのように立ち尽くす彼。

「帰ろう――ね、シャザム」

 人々の輪が解かれ、通りは再び元の喧騒をとりもどす。穏やかとさえいえるざわめきはしかし、冬の風のように肌に突き刺さった。
 この広い都の中で、ふたりは依る所もなき異邦人だった。そうして、二人きりでありながら独りぼっちなのだった。
 ハルシアにはわかっていた。シャザムの中で、何かが壊れ始めていることが。このままではいつか、彼の正気を繋ぎ止めている糸がぷっつりと音をたてて切れてしまう時がくるだろうということが。
 そう――
 彼女の憂うその瞬間は、思いがけぬほど早くやってきた。


 あの時――。
 シャザムが彼女を強引に寝台の上へ組み伏せたあの時。
 彼の瞳の中に、ハルシアは己の姿が映っているのを見た。
 けれども――それはわたしの姿であって、わたしではない。
 今のシャザムが求めているのは、わたしじゃなく――
 気がつくと、掌がシャザムの頬を打っていた。

「――違う――こんなの、違うよっ、シャザムっ――」

 どうしたら良いのかも、何といえば良いのかもわからぬままにハルシアは泣きじゃくった。
 こんなのは嫌だ。こんな状態のままでいるのは、もう嫌だ。
 どうしたらいい。どうしたら何も壊さずに、全てを終わらせることができる?
 
「わたし――わたしね。シャザムの口からだったら――どんなことを聞いても驚かないよ」

 消え入りそうな声で、ハルシアはその言葉を絞りだした。
 シャザムのほうから、せめて彼の側から真実を告げてくれたならば。
 できるかもしれない。何も壊さないままに、道を拓くことが。
 シャザム。
 お願いだから――
 されど、彼は黙したままだ。絶望的な沈黙が、部屋の中を重苦しく覆っていく。
 ハルシアの胸の奥から、嗚咽のように言葉がせりあがった。

「シャザム――あのね、わたし――」

 わたし、聞いちゃったの。あの片目のひとが話しているのを、扉の外で聞いちゃったの。
 知っているの。
 ――言えなかった。
 この張りつめた沈黙に終止符を打つはずのその言葉をハルシアは喉の奥につかえさせたまま、どうしても声に発することができなかった。
 シャザムに憎しみを抱くことなんてできない。肉親の仇を愛してしまうことがたとえ死に値する罪であったとしても――わたしの胸の中にあるのはただ、いっしょにいたいという願いのみだ。
 だからこそ、その一言を告げることができなかった。
 今でさえ、わたしから真実を隠さんがために狂気の縁に揺らいでいるシャザム。そのシャザムにすべてを告げることが、どのような変化をもたらすのかがわからなかったから。恐かったから。
 シャザムの肩をそっと抱きながら。
 シャザムの背中にまなざしを落としながら。
 ハルシアはいいようのない後ろめたさに胸をつかれていた。
 なんて――狡いのだろう、わたしは。
 眉が曇るのが、自分でも判る。だがしかし、彼女の胸に顔を埋めるシャザムにはその表情の変化を見ることはできない。
 そう。彼は知らない。
 シャザム。幼い頃から片時も離れることなく時を紡いできた、己の半身。 
 全てのことを分かちあってきた、最愛のひと。
 されど――
 彼は知らない。知らないのだ。
 わたしが胸の中に隠した、たったひとつの嘘を――
嘘を――

 嘘――。

「――――」
 その時だった。心の底に、呟く声が聞こえたのは。
 ひとつだけ、ある。
 何も壊すことなく、わたしとシャザムとがお互いに何も告げることなく全てを終わらせる方法が、ひとつだけ。
 だがハルシアは、震えるように首を振る。胸に顔を埋めたままのシャザムは、彼女のその動作に気がつかなかった。
 駄目だ。そんなことは決して赦されるものではない。それは偽りの道だ。幾多の人間の血に塗られた罪の道だ。
 赦されるものではない。けれど。
 いまのハルシアには、それは唯一の方法のようにも思えた。
 肌がざわりと粟だった。自分の心が、そんな恐ろしい考えを生みだしたことへの戦慄に。
 シャザムの肩を抱く手に、思わずぎゅっと力を込める。
 衣を通して、温もりが伝わった。その温もりはそのまま誘惑の囁きとなって、ハルシアの中へゆっくりと染みこんでくる。
 そうだ。
 シャザムが偽りの仇討ちをつくりあげたのならば――わたしもその偽りのうえに乗ってしまえばいい。何も知らない振りをしたまま、仇討ちを為し遂げてしまえばいい。
 シャザムとわたし、ふたりで仇討ちを行うことは叶わない。その途中で、彼の嘘が綻びてしまうかもしれないから。
 だから。シャザムの嘘を壊さないままで全てを終えるには――
 わたしひとりで討ち果たすのだ。
 『仇』を。商人、ムルドゥ=ハキムを。

 
 ――どうしてしまったのだろう、わたしは。
 高い窓から聞こえてくる街のざわめきを聞くともなしに耳にしながら、ハルシアは寝台の縁に腰をおろしていた。
 背後からシャザムの、浅く微かな寝息が聞こえてくる。このような昼下がりに眠りに沈んでいるのは、やはり心労のゆえだろうか。
 ハルシアはちいさくかぶりを振った。
 先程からもう幾度めかになる動作だ。胸の底に巣食った考えを振り払わんがために。
 自分の中にそんな思考が生まれたこと自体、ハルシアには驚愕以外の何物でもなかった。
 ムルドゥ=ハキムは確かに、兄を死に導いた一因を負っているのかもしれない。麻薬を扱っている以上、善良な商人とはいえないのも確かだ。だが、わたしが彼を刃にかけてよい理由などどこにもありはしない。
 ――そう、そんなこと、考えちゃだめ。関りのない人の血の向こうに、幸せを見いだそうなんて。そんなこと。
 ――けれど。
 ――わたしには、それ以外の方法が――
「……っ!」
 膝の上に置いた両の拳を、ハルシアはぎゅっと握り締めた。戒めるように。てのひらに爪が食いこむほどに強く。
 思いは揺れる、光と闇の狭間を。
 揺れてまた戻るたびに少しずつ少しずつ、闇の側へと傾いていく。
 軽い眩暈を感じた。
 シャザムの隣に、ハルシアはあおむけに身を横たえる。疲れていた。悪い熱に浮かされたあとのように、全身がひどく疲れていた。
 首をめぐらせ、彼の横顔を見つめる。眉間にふかく皺の刻まれた、苦しげな寝顔を。
 ――わたしのせいだ。
 ハルシアの中で、己自身の声が呟いた。
 シャザムが何故に兄さまを殺めることになってしまったのか、それはわたしにはわからない。けれども、兄さまを止めるためだったことだけは間違いない。兄さまのことで悩むわたしを、救わんとしての行いだったことは。
 わたしが――肉親のわたしが兄さまを止めることができていれば、こんなことにはならなかったはずなのだ。わたしのために、シャザムは――
 だから。
 わたしが、この狂った綾糸(あやいと)を断ち切るのだ。シャザムの苦しみを終わらせなければならないのだ。
 このわたし、ひとりの手で。
 ハルシアにはわかっていた。己の心がもう、罪の中へと堕ちてしまっていること。この都の門を潜ったあの時とは、自分がもはや違う人間になってしまったことを。シャザムと一緒にいたい。その想いだけにとり憑かれ、それ以外を省みることは叶わぬ傀儡(くぐつ)となってしまっていることを。
 ――廻る想いをよそに、眠りの帳はゆっくりとハルシアの上に落ちかかってくる。その闇に身体をさらわれる瞬間、なぜか兄の顔が脳裏に浮かびあがった。
 交易の夢に魅せられ、何物をも捨て去って奔走していた彼。熱っぽく、炯々(けいけい)と光るあの双眸。
 今のわたしは、あの時の兄さまと同じ目をしているのかもしれない。
 沈みゆく意識の片隅で、ハルシアはそう思った。

 
 目を覚ました時、ハルシアは己の頬を伝う涙に気付いた。
 夢を見ていた気がする。ひどく悲しい夢を。
 どれほど前から泣いていたのだろう。涙は乾きかけ、頬にはひんやりとした涼しさを感じる。
 てのひらで瞳を拭い寝台から半身を起こした時、ハルシアは部屋を支配する静寂に気付いた。
 シャザムが、いない。
 つい先程まで、側らで午睡に沈んでいたはずの彼が。

 けだるく西陽が射しこむ宿の一室で、ハルシアは立ち尽くす。
 高い窓の外から聞こえるのは、かわらぬ街のざわめきだけだ。だがハルシアの胸中には、先日耳にしたばかりの風の唸りが響きわたっていた。
 嵐のように、渦を巻いて荒れ狂う不安。
 眩暈(めまい)すら感じるほどの――
 だが。
 その轟音の向こうから、不意に囁くような声が聞こえた。
 
――今しか、ない。

 はっとして、ハルシアは顔をあげる。
脳裏に響いていた風の音がはたと止んだ。
 静寂を取り戻した胸の底から、再び声が響く。ほかでもない、自分自身の囁く声が。
 そう、今しかないのだ。あれを決行するには、今しか。

どうすれば――いいのだろう。
 どの道を、わたしは選べばいいのだろう。
 どれほど考えても、胸は答えを紡ぎだすことができない。
 いや、違う。
 答えなど、もはや決まっているのだ。
 わたしには、もはやできはしない。それ以外の道を選ぶことなど。
 だから――これは最後の躇いなのだ。
 心に定められた、ただひとつの道。
それは、罪へと続く道だから。
 心に燃える狂おしい想いのみを灯火とした、底知れぬ罪の暗闇へと続く道だから――
 けれど。
 ハルシアは足を踏みだし、刀に手をかけた。ひんやりと冷たいその柄を、てのひらが痛むほどに強く握りしめる。
 
こうするほかはないのだ。
 すべてを終わらせるために。
 そして、すべての始まりのために。

「お許しください、兄さま。わたしは――」

 呟きかけて、ハルシアはいま一度動きをとめた。対の刀を手にとったまま――微かにうつむき、まぶたを閉じる。あたかも神の前に聖戦を誓う信徒のように。
 沈黙はごく短かった。瞳を開くと、彼女は唇から澄んだ声を紡ぎだす。

「わたしは――罪の道を征きます――」