第十話 『風塵迷図』(後)


 凍てついたような沈黙が、部屋の中を支配していた。漂う麝香の紫煙すらも、揺れる燭台の炎すらも、冷たく張りつめた空気の中に封じこめられてしまったかのようだった。
 その静寂のなかに、絨鍛の上を滑る微かな足音が響く。ハルシアは剣を構えたまま、壁際に立ち尽くすハキムに向けて一歩を踏みだした。
「ば……馬鹿な――」
 商人ムルドゥ=ハキムは、真円と言ってよいほどに見開かれた瞳でこちらを凝視している。その顔に浮かぶ表情は恐怖ではない。驚愕でもない。理不尽な――己の常識が通じぬ存在を見るかのような、思考の停止した瞳の色。
「存じておるじゃと? 存じておりながらわしに刃を向けるのか……!」
 その叫びに怯むこともなく、ハルシアはさらに歩を進めた。壁を背にしたハキムはもはや後ずさることができない。両者の距離が縮まった。ハルシアの脚をもってすれば、ひと息で懐に跳びこめる近さへと。
「馬鹿な――自分が何をしているのか知っているのかっ!」
 死の恐怖に駆られてか、隙を作ろうと思ってのことか、ハキムが悲鳴じみた声をあげる。
「――存じています」
 ハルシアは答えた。
 刃の先を、ゆっくりとハキムのほうに向けながら。
「……貴方が『仇』として討たれてくれれば――そうすれば、全てが終わるんです――」
 声の震えを堪え、つとめて冷たく言葉を紡ぐ。
 自分の為そうとしていることは、殺人にほかならなかった。何かを正すためではない、身を護るためでもない。己のためだけに、わたしは目の前の人間の命を奪おうとしている。
 だから――殺める相手に詫びることなど、哀しげな表情を見せることなど、偽りの善でしかなかった。
 わたしは、悪魔にならなければならない。
 微笑を浮かべようとした。
 唇の端が震えて、うまくいかなかった。
「――く――狂っておる。お前は狂っておるっ!!」
 ひきつった声で、商人は三たび叫んだ。いやいやをするように首を振りながら、彼は壁を背に横ばいを試みる。ハルシアの刀の切っ先は正確にその後を追った。鎌首をもたげて獲物を狙う蛇の動きで。
「そうかも――しれません」
 ハルシアの唇が、低い呟きを紡ぐ。
 そして――室内には刹那の静寂が落ちた。稲光が閃いてから雷が轟くまでの間にも似た、あやうい均衡をはらんだ静寂が。
 それを破ったふたりの動きは、ほとんど同時だった。
 背にした壁に弾かれでもしたように、走り出すハキム。その視線の先にあるのは、むろん部屋の出口だ。
 ハルシアもまた床を蹴っていた。その手の中に、抜き身の刃を携えて。
 動いたその瞬間に決着は明らかだった。ハキムの動きで、ハルシアの繰り出す刃から逃れて出口に行きつくことはとうてい不可能だ。
 それを悟ってか、商人の動きは途中で凍りつく。
 彼の目の中に恐怖の光が爆ぜた。それに呼応するように、ハルシアの心の中にも言い表すことのできない激情が弾けた。

「――うあああああああああっ!!」

 判らなかった。部屋の中に響きわたったその絶叫が商人のものなのか、それとも己自身の喉からあふれたものなのか。
 ――気がつくと、ハキムの顔がすぐ目の前にあった。生白く弛んだ頬は細かに震え、眼はどこか呆然としたように見開かれている。
 柄を握る掌に伝わった鈍い痙攣(けいれん)に、ハルシアは思わず視線を落とした。
 そして、見た。ハキムの鳩尾(みぞおち)の斜め下に、根元まで深々と突き刺さった――己がたった今突きたてた刃を。
 思わずびくりと身を震わせ、ハルシアは今一度商人の顔に視線を戻す。
 何故だ。こんな、馬鹿な。呆けたまま凍りついたその表情が、言葉なき問いを放っていた。蒼ざめた唇がゆっくりと開かれ、そして次の瞬間――
「あっ――ぐ――ぁあああああああああああっ!!」
 商人の絶叫が部屋の中に響きわたった。
 肥満した身体がぐらりと後方によろける。柄を握ったままのハルシアの刀は、その腹からずるりと抜けた。
 堰止められていた鮮血が、穿(うが)たれた傷から凄まじいまでの勢いでほとばしった。あたかも、あらんかぎりに水を詰めた袋に穴が開いた時のように。床に崩れ、のたうちまわるハキムの腹部から振り撒かれるおびただしい血は、ハルシアの衣の腰を、胴を、胸を、襟を――そして頬の肌を紅に染めていく。
「――あああぁああぁああああああああっ!!」
 商人の喉は壊れた笛となって、かすれた悲鳴を発し続ける。
 ハルシアは今一度刀を振りかぶり――倒れた商人の胸に突きたてた。
 無我夢中だった。
 速やかに命を奪おうという冷酷さからでもない。
 相手の苦痛を長引かせまいという心からでもない。
 ただ、それ以上その悲鳴を耳にすることに理性が堪えられなかった。
 もう一度、同じ動作を繰り返す。
 断末魔の絶叫は長く尾を引き、それから喉が鮮血に泡立つごぼごぼという音にとってかわる。
 やがてその音すらもが途絶え、部屋には文字通りの死の静寂が満ちた。
 いつのまにかハルシアは、柄を手放して絨鍛の上に座りこんでいた。
 目の前に、商人の屍がある。奇妙な舞でも踊っているかのように四肢を投げ出したそれは、もはや微塵たりとも動かない。胸に突きたったままの刃が、燭台の炎を映して虚ろに輝くだけだ。
 ハルシアは己の両手を見つめた。罪そのものの血に濡れた、ちいさなてのひらを。
 静寂と薄い闇のなかで、刻が壊れてしまったようにいつまでも見つめ続けていた。



「――――っ!」
 イルヴァンは喉から、ひきつった声を洩らした。
 血煙を吹き上げながら、彼の目の前でまたひとり男が床に崩れる。
 四人いた部下も残るはあとひとり。それも同僚をまたたくまに倒された驚愕と恐怖からか、怯えて使いものにならない。
 無理のないことではあった。砂の部族の青年の、凄絶なまでの剣技を目にしては。
 イルヴァンは腕の震えを懸命に抑えながら、己の刀を握り締めていた。額に滲んだ汗を拭うこともできない。そんな隙を見せれば、一瞬で斬り殺されかねない間合いだった。
「何なんだ……」
 堪えきれぬ緊張が、呟きとなって口にのぼった。
「――いったい何なんだ、てめえっ!」
 青年は答えない。刀を携え、己が生みだした血の海の向こうにじっと佇んでいるだけだ。
 別人だった。礼拝堂で倒したはずの彼とは、纏う雰囲気も、そして剣技もまるで別のものだった。
 鋭い双眸に宿る、峻烈な光。それは変わりない。だが先程までは幾多の迷いに揺らめいていたその光は、いまや一筋の意志を為してイルヴァンを見据えていた。交わせば呑まれそうな視線だった。
 イルヴァンにはわからなかった。このわずかな時間で、何が彼を変貌させたというのか。
 わからなかった。既に死を免れ得ぬ人間が、何のために刃を振るうのか。わかるのはただひとつ、一対一の斬り合いではもはや己の側に勝機はないということだけだ。
 こんなはずではなかった。こんなはずではなかったのだ。
 イルヴァンはぎりりと奥歯を噛みしめた。
 たとえこの世の何処でいかなる死を迎えるとても――目の前のこの男の手にかかるという最後だけは、絶対に受け入れるわけにはいかなかった。
 そうだ。それだけは――
 汗の滲んだ顔の中でイルヴァンの隻眼が昏(くら)く、そして熱っぽい煌(きらめ)きを帯びる。
「おい――」
 ただひとり残る部下に向けて、彼は囁いた。
「……行け」
 部下の男の顔に一瞬、あからさまな嫌悪と怯えの表情が宿った。砂の部族の青年の刃と、己が主人。どちらかがより恐ろしいかという判断の天秤が眼の中に揺れていた。
「む、無理ですイルヴァン様。私にはあんな――」
 はりつけたような笑みとともに、彼は答える。
「そうか」
 イルヴァンもまた笑みを浮かべた。部下のそれよりも数倍は毒々しい笑みを。
 彼はこれまで、己の部下を使い捨てるような真似はしたことがなかった。温情からではない。人望を欠いてしまっては、商人として生き残ることはできないからだ。
 打算に基づいた方針である以上は、曲げるべき時もある。この男を――忌々しいこの砂の部族の男を屠ることがそれで叶うならば――
 イルヴァンは力をこめて、部下の背を押した。
「なっ――!」
 驚愕の声をあげながら、均衡を失った彼は大きくよろける。刀を構えた砂の部族の青年の、すぐ目の前へと。
「うああああああっ!!」
 絶叫とともに、部下の男は刀を振るった。恐怖に呑まれて放った発作のような一撃が、むろん青年に傷を負わせることができるはずもない。
 真横に閃く刃が、彼の胸を深々と薙ぐ――
 その瞬間が、青年の刀が大きく横に逸れたその瞬間こそがイルヴァンの狙いだった。
「くたばりやがれっ!!」
 くずおれる部下の身体の陰から、イルヴァンは渾身の力をこめて刃を突きこむ。
 肉と骨とを刺し貫く、確かな感触。
 彼の刃は深々と、青年の胸の中に飲みこまれていた。
 狂おしいまでの歓喜が全身に満ちる。勝ちだ。俺の勝ちだ。勝ったのだ。
 だが、凄絶な狂喜の笑みは一瞬にして凍りついた。
 鳩尾に深く刃を受けたまま、青年はゆっくりと己の刀を振りあげたのだ。苦悶の表情ひとつ浮かべることはなしに。
 すぐ目の前に、血に濡れながらも精悍なその顔があった。
 射抜くようなその視線は、唯一の標的であるイルヴァンを正面から見据えている。
 いや――
 そうではない。イルヴァンは気付いた。
 こいつは、俺を見ているのではない。俺の向こうにある何かを見ているのだ。俺を討ち果たした、その向こう側にあるものを。
 イルヴァンの背に不可解なもの、己が絶対に理解できぬものへの恐怖が這いあがった。身体がこわばり、跳び退く動作にほんの一瞬の躊躇が生じる。
 それが――イルヴァンの決定的な隙となった。
 銀光が煌く。
 こめかみのあたりを襲った灼熱感とともに、彼の身体は後方にはね飛ばされた。背中が壁にぶつかり、肺の中の空気が残らず絞り出される。
 紅い闇が視界の全てを覆い尽くしていた。
 何だ。どうしちまったんだ。
 思わず左の眼を押さえたてのひらに、べっとりと生温かい液体の感触がある。
 足元が崩れ落ちるような恐怖をもって、イルヴァンは悟った。残された左眼をもいま、青年の刃をもって奪われてしまったことを。
 斬られた瞬間に手放してしまったのだろう、刀はすでに手の中にはない。闇の中に、彼は頼る得物もないまま立ちつくしていた。
 すぐ前方で、床を蹴る足音が響く。
「――やめろおおおおおおおっ!!」
 喉をつく絶叫。だがむろんその叫びは、聞き届けられるはずもない。
 鳩尾を抉る激痛とともに、イルヴァンの耳は背中に響くこつん、という硬い音をとらえた。自分の身体を通り抜けた刃が、背後の壁に突き立った音だった。
 引き抜かれた刃が、もう一度荒々しく胸を刺し貫く。倒れることはできなかった。
 もう一度。もう一度。もう一度――
 断末魔の叫びは、もはや声にはならない。
 こんなはずじゃ――こんなはずじゃなかった。どこで俺は間違えちまったんだ。
 数日前にあいつらを偶然見たときか? それとも一年前のあの岩場でか?
 わからねえ。わからねえ。
 畜生――。
 薄れかけた意識の中で、イルヴァンはかぶりを振る。
 視界の闇はやがて、魂の常闇へと転じた。
 

 
 倒れ伏した隻眼の商人の屍を、シャザムは静かに見下ろしていた。
 大きく息を吸い、そして吐く。
 呼吸ひとつごとに、鼓動ひとつごとに残された命が流れいでていくのがわかった。
 背後から、ざわめきが聞こえてくる。慌ただしく床を踏み鳴らす数多の足音が。その騒ぎすらもが、遠ざかる風音のように耳から離れてゆく。
シャザムの意識は、もはや霞んでいた。
 あの礼拝堂で扉を開け放ってからいかにしてここまで歩いてきたのか、それすらも明瞭ではない。気がつくとただ、商人とその部下たちの屍が足元に転がっていたのだ。
 この男の手からハルシアを護るためだけに、それだけのためにここまで歩んできた。
 その一心のみが、シャザムの身体を動かしてきた。
 ゆえに――
 それが果たされた今、彼の精神と身体は静かな死の帷が降りつつあった。
 これで全てが終わったなどとは思えない。
 罪が償えたとも思えない。
 ハルシアのもとに行かねばならないはずだった。
 行って、全ての真実を打ちあけなければならないはずだった。
 だが――その想いは叶いそうにない。
 礼拝堂で息を吹き返してからここまでの時間は、死の神が自分に授けてくれたささやかな慈悲なのだ。
 シャザムはまた、大きな息をついた。
 苦笑が、おそらくは己自身の最後の笑みが唇にのぼる。
 真実を告げることは、いつでもできるはずだった。己の罪を吐露することは、いつでもできるはずだった。
 時間はいくらでもあった。ハルシアはいつでも側にいた。
 けれども俺は、その道を決して選ばなかった。
 今ならばできる。ためらいもなく真実を告げることが。
 それなのに――今度は俺には、それだけの時間がない。
 しばし瞳を閉じ、彼は最愛の少女の顔を瞼の裏に描いた。
 それから踵を返し、商人の屍に背を向ける。凍りついたままシャザムのほうを見据えていた酒場の客たちが、いっせいに恐慌のざわめきを浮かべた。
 気にとめることもなく、彼は一歩を踏み出す。
 酒場の入口が開いていた。射しこむ夕の陽が、シャザムの全身を柔らかく包みこむ。
 そのまばゆさに目を細め――
「――――」
 ――気がつくと彼は、風の渉る黄昏の砂漠に佇んでいた。
 数多の砂丘の群が、遠い地平の果てに連なる。
 砂は風に撫でられ、穏やかな波を刻む。
 シャザムの、そしてハルシアの生まれ育った砂漠の光景――
 ほんの数日見ていないだけなのに、何故こんなに懐かしいのだろう。
 西の空に、落葉が揺れ潤む。
 奇麗だった。
 ささやかな奇跡のように美しい、それは黄昏だった。
 シャザムは己の側に目を落とした。
 ハルシアがいない。幼きころより片時も離れたことのなかった、愛しい少女が。
 これほど夕陽が美しいのに。
 ふたりで、ふたりだけでこの光景を分けあいたいのに。
 足元に砂塵をまとい、シャザムは歩き始めた。
 ――帰らなくては。
 俺は、帰らなくては。彼女のもとに帰らなくては。
 一歩。また一歩――
 足元に絡む砂風に抗うように、己の足どりを踏みしめるように。
 遠き落日を見つめながら、シャザムはゆっくりと歩いていく。



 酒場の客たちはおそるおそる、青年の周りををとりまいた。出口に歩みかけ、そのまま膝をついてくずおれた青年の周囲を。
 彼は倒れていなかった。前方に突いた刀を拠り所に自らの身体を支え――そのままの姿勢で永遠に動きを停めていた。
 彼はまた、瞳を閉じてはいなかった。
 だが、無念や苦痛に目を見開いているのではない。
 確かな意志を込めたまなざしで、遠い何かを見つめていた。
 その場にいた誰もが、これまでかような死というものを見たことはなかった。
 解るものは誰もいなかった。
 青年が何のために、奥に転がる商人たちを倒したのか。
 何を思って、かような表情で息絶えていったのか。
そしてまた――
 耳にした者は誰もいなかった。
 青年の唇が、最後に紡いだ微かな呟き。
 ――最愛の、少女の名を。