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終   幕


 陽の落ちた市場の通りを、ハルシアはひとり歩いていた。行き交う人々を、灯り始めた窓の明かりをぼんやりと見つめながら。
 西の空にはまだ、落日の残照が鮮やかな紅に輝いている。だがもはや空気は夜の気配を孕み、通りを吹きぬける風はひんやりと肌に冷たい。
 ハルシアは、身を包む布をぎゅっと肌に引き寄せた。
 すれ違う人々は、誰も気付かない。
 誰も知らない。わたしつい一刻前に犯した、恐ろしき罪を。
 商人の館を脱出するのはたやすかった。浸入した際に用いた窓から外壁を伝って這い降りる彼女の姿に、館の人間は誰一人気付きはしなかったのだ。廊下の警備は厳重だが、外壁を登り降りできる人間の存在を念頭には置いていないゆえだろう。
 商人の部屋から持ち出した大きな布の一枚を身に巻きつけ、頬に付いた血は砂を用いて拭った。かなり奇妙ないでたちではあったが、この雑踏の中、気にとめるものはいない。
 ハルシアは歩んでいた。おぼつかぬ足どりで、宿の方角を目指して。
 甘い麝香の匂いが、ふと鼻をつく。
 思わずハルシアは肩を震わせた。血塗られた商人の屍が脳裏に甦ったからだ。
 薄い紫煙に満ちた部屋の中、彼は壊れた人形のように倒れている。開いた口は永遠の絶叫を凍てつかせ、その双眸は虚ろに宙を見つめたまま――

「――く――狂っておる。お前は狂っておるっ!!」

 先ほど聞いた彼の言葉が、いまいちど耳の奥で響いた気がした。
 そうだ。
 あの商人が言う通り、わたしは狂っているのかもしれない。
 正気のもとにある人間の考えることではなかった。恋する青年の嘘を――それも、自分に向けられた嘘を守らんがために他人の命を奪うなどとは。
 どうして、このようなことになったのだろう。
 どうして、わたしはこの道を選んだのだろう。
 わたしは――
 膨れかけた煩悶(はんもん)を、ハルシアはかぶりを振って抑えこんだ。
 すでに自分は罪を犯した。二人の人間を刃にかけた。そのわたしがいまさら懊悩(おうのう)することなど、決して赦されはしない。
 わたしは狂っているのかもしれない。
 いや――わたしは、狂っている。
 それでもいい。
 ハルシアは歩調を早めた。今は一刻も早く宿屋へ帰りたかった。
 シャザムはどこに行ったのだろう。さすがにもう、帰ってきているだろうか。帰ってきて、わたしがいないことを怪訝に思っているだろうか。
 わたしは彼に告げるのだ。
 兄の仇のムルドゥ=ハキムを、たったいま討ち果たしてきたことを。
 二人の婚礼を妨げるものは、もはや何もありはしないことを。
 早馬を駆って、今夜のうちにこの都を出よう。ここにはもう、これ以上ほんの一秒だって留まっていたくはなかった。
 砂漠を越え、砂の部族の村に帰ろう。
 そして、そこでわたしはシャザムと――
 耳に届いたざわめきが、その時ハルシアの思考を遮った。
 歓楽街の通りとの交差店。思わず視線めぐらせ、そして彼女は声の出所を見出す。
 それは、一軒の酒場の前だった。
 中で何かが起こったのであろうか。入口にはさながら蜜に群がる蟻のように人々が集い、明かりが洩れる扉の向こうを覗いている。都の衛兵の姿も、その人垣の中に見うけられた。
 彼らは興奮した様子で、口々に何かを言い合っているようだった。
 だがしかし――ハルシアは歩調を緩めることなく、その酒場の前を通り過ぎる。
 いかなる騒動が起ったのであれ、自分には興味のないことだった。
 はやく、宿屋へと辿りつかなくては。
 シャザムの待つ、あの部屋へ。
 次の砂嵐が近いのかもしれない。冷えた風は細い笛にも似た響きをあげ、道ゆく人々の挟間を通りぬけてゆく。砂煙が街路に渦巻いた。
 都の外の砂漠でも、風は広がる砂漠を舐めていることだろう。空に浮かんだ黄昏の最後の燃え残りは、いましも黄塵の織りなす雲によって掻き消されようとしている。
 巻きあげた砂をはらみ、幾筋もの風が大地の上を駆ける。
 あるものは互いにぶつかりあって砕け散り――
 あるものはすれ違ったまま、再びまみえることのない砂を地の彼方へ運ぶ。
 気まぐれな風と、それに吹き流される砂塵。
 それは、運命と人との関わりにも似て。
 ――だが、それでも。
 たとえ人が、気紛れな風に翻弄されるひと粒の砂に過ぎずとも。
 たとえその向かう先が、罪や狂気であったとしても。
 ハルシアは――ハルシアたちは風と砂塵の中に迷いながら、己の明日を探さなければならなかった。
 踏みしめるように街路を歩みながら、ハルシアはちいさく笑みを浮かべる。
 帰ろう、シャザム。あの村へ。
 わたしたちの、懐かしいあの土地へ。
 足元で、砂塵が微かな渦を巻く。



――『風塵迷図』   了   





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