キックの天使
作:八重洲二世


 まったく。
 銭湯の料金がまた値上がりした。
 僕のような貧乏人にとっちゃ、ひと風呂あびるだけでえらい散財になってしまう。銭湯の料金で、学生食堂なら腹一杯ラーメンライスを食えてしまうじゃないか。妙な電気風呂なんて導入しなくていいから、料金を安くしろ。といっても、銭湯の料金は都内で一律に決まっているらしい。つまりは、都内のどこへ行っても、銭湯と学食のラーメンライスは等価なのだ。
 腹立たしい。
 かといって、このくそ暑い季節、風呂に入らないわけにもいかない。
 いわずもがなだが、僕の住むオンボロアパートにはユニットバスなんていう小洒落た設備がついてるはずもない。ついでにいえば、美人の管理人さんもいやしない。ないないづくしだ。もっとも、美人の管理人さんなんていうのは疲れた現代人の共同幻想の産物に違いない。それは共同条理の原理のウソだ。──バイ、尾崎豊。
 暑さのせいで、わけの分からない思考をぐるぐると脳髄に巡らせつつ、僕は番台のおばちゃんに硬貨を手渡した。おばちゃんは自動人形(オートマータ)のようにコックリと会釈をする。なんだか生体反応が感じられない気もするが、深くは考えない。番台のおばちゃんがあまり生き生きと輝いていても困る。
 ごめ〜ん、ツモっちゃった〜。
 リアル麻雀P2のゲームミュージックを口ずさむ。これは、僕の中で「脱衣のテーマ」ということになっている。いや、どうでもいいんだけど。
 手早く服を脱ぐと、僕は風呂場に入った。
 むわっと湿気の高い空気が肺に流れ込む。
 時間が早いせいか、客がほとんどいない。湯船のエンドラインに枯れたジジイが一人いるだけだ。ボーッと湯船に浸かっているだけでイマイチ生体反応がない。ジジイに見えるが、実は自動人形(オートマータ)かもしれない。よく見たら、電気風呂にもジジイが一人、入っていた。手がブルブル震えているのは電気のせいだろう。
 僕はケロヨンの洗面器と腰掛けを引き寄せ、蛇口の前に陣取って軽く体を流した。
 ふと、僕は自分の股間に目をやった。
 魔が差したとしか言い様がない。
 僕はアレをやってしまったのだ。

 ゾウさんだぞう。──矢島晶子の声で。

 ばきばきばきっ。
 僕は、強烈なキックを背中に浴びて、プラスチック製の腰掛けから転げ落ちた。
 仰向けになった僕の目に飛び込んできたのは、天使様だった。
 天使様と、破壊された風呂場の天井。天井に開いた大穴から、銭湯の煙突がよく見える。天使様が僕をキックするために降臨したのだ。銭湯の屋根を突き破って。
 かなり、アグレッシブな天使様だ。場所が銭湯だけに戦闘的、なんちて。
 げしげしげしっ。
 僕の思考を読み取った天使様──全裸で髪の長い女天使様はキックの雨を降らせてきた。
 たまらず僕は頭を抱えてうつぶせた。相手がグレイシー柔術の使い手だったら速攻でマウントポジションをとられているところだ。
 げしっ。げしっ。
 キックの天使だ。
 僕に為す術などない。
 電気風呂に入っていたジジイがこちらを見て、あーー…と枯れた声をあげた。電気のせいかビブラートのかかった声になっている。だが、女天使は構わずに僕をキックする。
 僕は決死の覚悟で女天使と向かい合った。
「やめて下さいよ」
「我が名は、ガブリエル」
「名前なんて聞いてませんよ。僕をキックしてるヒマがあったら、北朝鮮のテポドン発射でも阻止しにいったらどうです?」
「汝の隣人を愛せよ」
 短くて噛み合わない会話のあと、ガブリエルとかいう女天使はキックを再開した。
 びしびしと、容赦のない足技が僕の無防備な体にヒットする。
 助けを求めるように、僕は天を仰いだ。
 天井にぽっかりと大穴が口を開けている。その向こうに月が見えた。いつのまにか、凄まじく時間が経っていたらしい。
 ガブリエルは僕の頭上にふわりと舞い上がった。月に照らされて天使の羽根がふわりと真珠色に輝く。
 直後、ガブリエルは特別に強烈なドロップキックを放った。
 天使のキックは僕の皮膚を突き破った。──突き破ったに違いない。ばりばりっ、という音を聞いたから。
 僕が目を開けると、ガブリエルは消えていた。
 夢ではない。
 なぜなら、月が僕を照らしているから。
 女天使はどこに消えた?
 どうして僕は生きているんだ?
 首を傾げていると、声が聞こえた。
 ──主は来ませり、主は来ませり。
 クリスマス・キャロルの一節だ。しかも、声は僕の中から聞こえる。
 あ・あ・あ・あ…と電気風呂からジジイの声(ビブラート)。もうひとりのジジイ(自動人形?)も僕を見ている。
 ──アナタハ、神ヲ信ジマスカァ?
 また、僕の中から謎の声が。そして気づいた。この声は、あの女天使のものだ。
 もしかして、女天使は今、僕の中に……?
 キックの勢いで体を突き破って僕の中に入り込んだというのだろうか。考えたくもないけど。うう、頭が痛い。
 ──人はパンのみにて生きるにあらず。
 また、ガブリエルの声。
 いや、待てよ。
 今のは、僕が喋ったようだ。僕というか、僕の中のガブリエルが僕の声帯を使って発声したような気がする。
 だけど、それにしては今の声も確かに女天使の声に聞こえたけど……。
 パッと嫌な予感が僕の胸をかすめた。
 まさか!!
 僕は、湯気で曇った鏡を乱暴に手で拭いた。
 鏡には、ほぼ僕の全身が映っていた。
 僕の、というか何というか。
 僕の姿は、ガブリエルと瓜二つになっていた。
 色白で髪の長い女の姿だ。なんてこったと思いつつも、鏡から目が離せない。困ったことに、我ながらナイスバディだ。胸なんか堂々としたもので、これなら天使のブラなんか要りそうにもない。って、シャレている場合じゃないのだが。羽根がないことを除けば、僕は頭のてっぺんから爪先まで、神々しいばかりの女天使の姿になっていた。
 どうやら、ガブリエルが僕の中に入ってしまったのが原因だ。というか、他に考えようがない。
 とんだハプニングだ。今日は夜中からコンビニのバイトが入ってるというのに。女子バイトは11時以降働けないことになっている。
 ちりちりと背中に強い視線を感じた。
 振り向くと、二人のジジイが共に湯からあがり、体育座りをして僕のことを見ていた。
 僕の……つまりは、一糸纏わない乙女の肌を鑑賞しているのだ。
 二対の視線が突き刺さる。
 じろじろと体を眺め回され、僕は女としての正しいリアクションを必死で考えていた。
 こういうときに言うコトバは………………そう!!

「まいっち〜〜〜んぐっ」

 ──それが、僕の女としての第一歩だった。



[ギャフン]



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