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その部屋
作:八重洲二世
[この作品のベースとなるアイデアはすべて『ガンツ』(奥浩哉/集英社)の内容に基づいています。二次創作、あるいはオマージュの一種として読んでもらえれば幸いです]
誰が言い出したのかは、誰も知らない。
ただ、その部屋の中央に位置する奇妙な黒い球体は“ツァング”と呼ばれていた──。
ボクの名は手塚海之。
海之はミユキと読む。読みは女の子みたいだけど、これでもれっきとした男だ。……少なくとも、いままでは、そうだった。学校帰りの地下鉄ホームで、死と直面したあの瞬間までは。
いってみれば、よくある事故だ。
どこの誰とも知らない酔っぱらいが地下鉄ホームから線路に落ちるところをボクは目撃した。
そして、なにを勘違いしたか、ボクはその酔っぱらいを助けようととっさに線路に飛び降りてしまったんだ。
正体をなくした酔っぱらい男の身体は思ったよりずっと重く、ボクは立ち往生してしまった。そこへ電車がけたたましい警笛とブレーキ音を響かせながらホームに突っ込んできた。
ボクは……
ボクは、電車に轢かれて肉片になったのだと思う。
だけど、その死は保留された。
死と直面した瞬間の、時間が止まったような感覚をいまでもはっきりと覚えている。止まったというより「切り抜かれた」という表現のほうが近いかもしれない。
その切り抜かれた時間の中から解放されたとき、ボクは“ツァング”の部屋にいた。
古いラジオから聞こえるようなどこか歪んだ音でラジオ体操のテーマ曲(?)が鳴り響いていた。
「また誰か送られてきた」
聞き覚えのない女の子の声がそういった。
ボクは電車からなんとか逃れようと身をよじった姿勢のまま、足をもつれさせて床に倒れ込んだ。
そのときはじめて、そこがどこかのマンションの一室だということに気付いた。
そう。ボクは、地下鉄のホームで死んだはずなのに、次の瞬間、その部屋へと運ばれていた。
床に起き上がって最初に目がいったのは、黒い球体──“ツァング”と呼ばれるそれだった。
次に、さして広くもないフローリングの部屋に身を寄せ合うようにしている女の子たちの姿が目に入ってきた。
女の子たちの格好はまちまちだったけど、共通していたのは、どの娘も露出度の高い男を誘惑するために作られたような衣装を身に着けていることだった。コンビニの成人雑誌コーナーで見掛けるグラビア写真の女の子たちをずらりと並べたようなものだ。
「まだ分かってないみたい」
「新入りの子だろ。はじめはみんな、ああだよ」
女の子たちはボクを指さしてあれこれいっていた。
ボクは、過激な格好の女の子たちに目を奪われていて、じつは真っ先に気付くべきことになかなか気付かなかった。
女の子たちの一人に身体を触られて、ようやくボクは何かがおかしいことを悟った。もちろん部屋の様子自体もおかしいけど、そうではなくボク自身のことだ。
ボクは、ボクでなくなっていた。
自分の手を見て、それから胸より下を見おろせばそれは明らかだった。
ボクもまた、周りと同じような女の子になっていた。
黒のビキニ水着の上下。それも下のほうは思いきりハイレグの。それが、ボクの格好だった。
恥ずかしい、というふうに思考が働くようになったのはだいぶ後になってからだった。
最初は、どうしても自分自身の変化が信じられなかった。納得がいかなかった。それで、人目も気にせずその場でボクは散々自分の身体を弄った。そういう反応は珍しくもないことを、いまではボクも知っている。「新入り」は大方、似たり寄ったりの反応をする。
男の身体の感覚とはまったく異質な、女性としての身体を弄られる感覚にボクは言葉を失った。
そのうち、「古株」の女の子の一人がからかい半分に、ボクに体をすり寄せてきた。
やわらかな胸と胸がぶつかり合う感触。
「“ミッション”が終わるまでは女でいるしかないんだ。せっかくなら、楽しまなきゃ損だぜ……損だわ。うふふ」
女の身体に戸惑うばかりだったボクが、彼女の手練に翻弄されたのはいうまでもない。
そんな「儀式」を経て、まがりなりにもボクは置かれた状況を把握した。
どんな仕組みが働いてるかなど想像も付かないが、理屈はどうだとしても、ボクは女になっていた。鏡を見て分かったのは、ボクの外見が驚くほどの美少女だったこと。それも、いかにも男受けしそうな、そこはかとない媚びを匂わすようなタイプの女の子だった。有名アイドルグループのMに少し似ていた。鏡に映るその女の子は、ボクが鏡の前でいやらしい仕草をすれば、その通りのポーズをした。
「その身体、気に入った」
いつのまにか後ろから覗いていた、ハーフっぽい顔立ちの女の子がボクに声をかけてきた。
恥ずかしいところを見られたと思ってボクは顔に血を上らせたけど、彼女はさして気にもとめていないふうだった。
この部屋では、珍しくもないことだからだ。
「気が向いたら、服着替えることもできるよ」
そういって彼女は、ワードローブの場所も教えてくれた。そこには古今東西の、女が男の気を引くために着るような衣装が揃っていた。そのときのボクは、自分から進んで女物の服を着る気にもなれず、結局ワードローブの中を一通りのぞいてから扉を閉めただけだった。
自分自身のことの次に、今度は部屋のことについて知ることになった。
ボクの送られた部屋……“ツァング”の部屋はあらゆる意味で特別な場所だった。
まず思い知ったのは、その部屋からは「時」がくるまで出られないということ。
部屋を支配しているのは黒い球体、“ツァング”だ。
死の瞬間に“ツァング”に選ばれた男性が、見も知らない女の子の姿に「書き換え」られて、この部屋に送り込まれてくるようだ。たぶん、そういうことらしい。正確なことは、ボクだけでなく誰ひとりとして知らない。「たぶん」としか言い様がないんだ。
そして時間が経つと、“ツァング”によってボクらは部屋からさらにどこかへと送り込まれる。
ボクが初めて送り込まれたのは、東京郊外の夜の住宅街だった。東京郊外だということは、道路の標識でわかったことだ。
外に出たからといって、この状態のボクらは部屋の呪縛から解放されたわけじゃない。
あらかじめ“ツァング”の定めたある区画を越えて逃げようとすると、その「違反者」は記憶を全て抹消されたうえに二度と元の生活には戻れないのだという。
夜の街に放たれたボクらは“ミッション”の遂行を課せられている。
初めてのミッションのとき、ボクは転送時にたまたま隣に居合わせた女の子のあとをついていった。何をすればいいのか、何もわからなかったからだ。むしろ、なにか間違ったことをして決定的に取り返しのつかない状態になってしまうことが怖かった。だから、少しでもわけを知っていそうな彼女のあとを必死でついていった。
「別にいいけど、邪魔だけはしないでよね」
彼女はそれだけいうと、ボクのことなんて忘れたみたいに歩き出した。
バス停留所から少しだけ離れた、閉店後の暗い商店街で彼女は足を止めた。
しばらくして、そこへ勤め帰りのほろ酔い加減のサラリーマンが一人で通りがかった。年齢は三十路にさしかかったぐらいだったと思う。
サラリーマンは彼女とボクに目を止めて、なにかモゴモゴと口の中でつぶやいたみたいだった。
突然ボクは自分の格好を思い出して顔から火が出そうになった。夜の住宅街に黒ビキニの女がいたら、たとえどんな美少女だろうと変態呼ばわりされるのは間違いない。
ボクは一緒にいた女の子の後ろに隠れるように身を寄せた。
すると、ヘソ出しのキャミソールを着ていた彼女が腰を揺するような歩き方でサラリーマンに近づいていった。
「アタシと遊んでいかない? これだけでいいわよ」
そういって彼女は指を二本立てた。
豊満な彼女のバストを胸元に押しつけられたときのサラリーマンの、ひきつったように歪つな笑みはいまだにボクの脳裡にこびりついてる。
ささやくように彼はいった。
「……いいぜ」
その直後、ボクと彼女、そしてサラリーマンの男は、“ツァング”の部屋に戻されていた。
男は部屋のことなど気にならないように、みっともないほど鼻息を荒くして彼女の身体を年度のようにこね回した。
年度でなければ、作りかけのプラモデルをいじり回してるようにも感じられた。
ときどき何かを話しかけてるみたいだけど、男ははなから彼女との会話なんて望んでないのは一目瞭然だった。欲望を吐き出すのにただ便利な道具として、男は彼女を扱っていた。
むしろ、彼女のほうがそういう扱いをされるように男を仕向けているようにも見えた。
ボクはといえば、行為の間中、ただじっとそばにいてそれを見ていた。
男は一度だけ、ボクのほうを見た。
アルコールでうすく濁った目が、裸同然だったボクの全身をじっとりと眺め回した。
「あ……」
何かにせっつかれるような気持ちがして、ボクは声をあげていた。そのときのボクの声は、微量だけど打ち消しようのない媚びを含んでいたように思う。
男に見られている間、ボク自身の感情とは関係なく、身体の芯にジンと痺れるような感じが走った。
そのままだったら、ボクはこのときどんな行動に出てただろう。
でも男の凝視は長くは続かなかった。
「その娘は関係ないわよ。アタシの躰にはもう飽きちゃったのかしら?」
あられもない姿になっていた彼女はそういって男を引き戻した。
「もっと気持ちよくなって。アタシを好きにつかって」
その後は、二度と男はボクのほうを見ることはなかった。
すべての行為が終わると、“ツァング”の黒光りする表面に、点数が表示された。彼女の名前の下には、「7点」と出ていた。ボクの名前も出たけれど、その下には点数は表示されなかった。
そして、男と一緒にボクたちは夜の街に戻された。
「あんたね。邪魔しないでって言ったでしょ」
二人きりになると彼女はそう言い残してボクを置いてどこかへ行ってしまった。
一人になったボクは人気のない児童公園を見つけて逃げ込むようにそこへ入った。
途方に暮れたまま、公園のブランコに座って時計を見上げたまま時間だけが過ぎていった。
水着姿の女の子が夜の公園でブランコに乗っている姿は、はたから見たらさぞ奇妙なものだったと思う。事実、ゴミ箱に空き缶を漁りにきた浮浪者はボクに気付いて奇声をあげた。ボクはといえば、死にものぐるいで逃げた。性欲を持て余した男の前に半裸の女が無防備に投げ出されればどんな結果が待っているかは、ボクでも想像できたからだ。
暗い路地を夢中で走り回って、もう一度ぐるりと大回りして公園に戻ってきたときには、もう浮浪者の姿はなくなっていた。
息を落ち着かせると、ボクはまるでそこが定位置のように同じブランコに腰掛けた。不思議と、空腹は感じなかった。
それ以降は、誰にも見つかることなく、夜明けを迎えた。
空の端がほのかに白くなると同時に、ボクは部屋に送られた。
フローリングの部屋にはもうほとんどの女の子たちが戻ってきていた。彼女たちは一様に“ツァング”のはじきだした点数のことを口にしていた。
どの女の子たちも、ボクが目撃したのと同じような行為を一晩中繰り返していたのだということはすぐ分かった。
そして、その行為を“ツァング”は採点する。
規定の点数に達した者は、はれて卒業してこの部屋を後にすることができるのだという。そういう噂だ。──真相は誰も知らない。「卒業」した者は二度とこの部屋を訪れることはないのだから。
“ツァング”の採点もその基準はひどく曖昧なのだという。
ボクたち部屋の女の子は、夜の街に放り出されて、そこで男を誘う。そして部屋で男と、あるいは男たちと接触する。そのことに対しての採点だ。
けれど、決して性行為が必須というわけでもないらしい。
採点基準の本当のところなんて知る由もない。
ただ、なんとなく、感覚的にひとつ感じてることはある。それは、男たちの欲望の流れみたいなものが関係しているということだ。そして、「物」のように扱われたとき、点数が高く付く。……そんなような気がする。
一夜の“ミッション”とその採点が終了すると、ボクたちは順次、元の生活の場に戻される。
ボクの場合は、自室のベッドの上に転送された。
ベッドの上の目覚まし時計は、午前六時少し前だった。もちろん、ボクの体は元通り男に戻っていた。
こうして、インターバルのような日常が再開される。
けれど部屋の呪縛が消えたわけじゃ決してない。
平均して月に一度ほど……不意に、兆候が訪れる。首筋のあたりにチリチリと寒気を感じたら、それが合図なんだ。その晩、ボクらは“ツァング”に呼ばれる。あの部屋へと。
そして今晩もまた……
甘い香水をつけて、
女の子の姿で、
ボクは見知らぬ夜の街に立つ。
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