俊夫クン松葉くずしにはまだ早い!
作:八重洲二世


「あー今日も疲れた。俊夫、私の肩を揉むことを許してあげるわ」
 なんちゅう横柄な態度だ。
 俺はシカトを決め込んだ。
「ちょっと、俊夫。聞こえないの?」
 無視、無視。
「あら、そう。いい態度ですこと。それでしたら私にも考えがありますわ」
「………………」
「今晩からは、あなたが片思い中の篠野茉莉を宿主にしましょうかしらね」
 俺の勉強机の上をもぞもぞとピンク色のリボンが這い、開け放たれた窓から外に出ていこうとする。
 あわてて、俺はリボンを掴んだ。
「待った! それだけは勘弁してくれ!」
「あら、気が変わったのかしら?」
 俺は渋々頷いた。
 篠野茉莉は、家が隣同士の幼なじみだ。茉莉をこんな目に遭わせるわけにはいかない。
「ささ、肩でもお揉みしましょうか」
 俺は自分でも嫌になるくらい下手に出た。
「ちょっと気ィ入れて揉みなさいよ。高貴なサーナダリアの王女である私の柔肌に触れられるんだから、光栄に思いなさいね」
 俺はしげしげと喋るリボンを見やった。
 相変わらず不思議だ。いったいどの部分から声が出ているんだろう。
「ちょっと。早くしなさいよ」
「ていうかあの……どこが肩だか分かんないんスけど」
「ハンッ」
 ピンクのリボンが馬鹿にするように、鼻を鳴らした(ような声を発した)。
 リボンに蔑まれてしまった俺の立場は……。
「見れば分かるでしょ。私の肩は、ここですわ」
 と、リボンの先端がひらひらと動いて、中央の結び目の両脇を指し示す。
 見て分かるか、そんなの。
 内心のツッコミを心の奥底に封印し、俺は愛想の良い笑顔を取り繕って、王女の肩を揉んでやった。
「フフ、下等動物のワリにはなかなか上手ね」
「はァ……」
 なんで俺はリボンの化け物に下等動物呼ばわりされているんだろう……。
 いや、実はこいつ、リボンに見えるだけでその実体は知的生命体なのだ。少なくとも本人はそう主張している。
 なんでも異世界サーナダリアというところから来た王女らしい。少なくとも本人はそう主張している。こんな生き物、王女だろうと平民だろうと大したちがいがあるとは思えないのだが。名前はダイアナというらしい。ほんとか……?
 ダイアナの故郷では、王女が一人前として認められるためには人間界で見聞を広め、王女としての修行を積むのが慣例になっているらしい。代々の王女は、いまのダイアナのように人間界にやってきて、気に入った人間をパートナーに選び、人間界で一年を過ごしたのだとか。その風習を作り出したやつを殺してやりたい気分だ。人の世界の迷惑も考えて欲しい。
「肩はもういいわ。それより、コーヒーちょうだい。うんと熱いのをね。言っておくけどインスタントなんて出したら殺すわよ?」
「はいはい」
 って、俺はパシリかい。
 俺は台所のコーヒーメーカーの前で大きなため息をついた。
「どうしたの?」
 と、母さんが訊いてくる。
 ダイアナのことは両親には秘密にしてある。というか、秘密をばらすと俺の命はないらしい。そう脅されている。
「ううん、なんでもないんだ」
「そう? 勉強もいいけど、あんまり根をつめすぎないでね」
「あ、あははは……」
 あんたの息子は現在、動いて喋るピンクのリボンにいいようにコキ使われています。……とはさすがに言えない。
「いやぁ、微分方程式がてごわくってさぁ……」
 そうこうしている間に、コーヒーが沸いた。俺はコーヒーポットとカップを手に、二階の自室にあがった。
「お待たせ……」
「なにやってたのよ?!」
「なにって、コーヒーを」
「そんなことより、“気”を感じないの?」
 そんなことって……。
「邪悪な“気”を感じるわ。……近づいてくる」
 トン、トンと誰かが階段を上がってくる足音がした。
 俺は思わず身構えた。
 しばらく間があってから、部屋のドアが二度、ノックされた。
 うちの家族なら、ノックなどせずにいきなりドアを開けてくるはずだ。
「……誰?」
 緊張して俺は声を投げかけた。
 かちゃん、とドアが開け放たれ、篠野茉莉が顔をのぞかせた。頭にブルーのリボンを結んでいる。
「おっじゃましまーす」
 と、普段着の茉莉が無防備に部屋に入ってくる。
「こ、こんな時間にどうしたんだよ?」
 俺は後ろ手でダイアナを机の引き出しに叩き込んだ。
「俊夫! 王女である私になんたる無礼な…」
「や〜〜っ!!」
 俺はダチョウ倶楽部の真似でダイアナの声を誤魔化した。
 こんな奇怪な物体で茉莉を怯えさせるわけにはいかない。
「あ、もしかしてエッチ本隠してる?」
「ちゃうちゃう」
 茉莉は机の引き出しを覗き込もうとする。
 俺はピシャリと引き出しを閉めた。
「あやしいぞぉ」
 と茉莉が上目遣いで俺の顔をのぞき込む。
 はっきり言って、めちゃめちゃ可愛い。向こうは、俺のことをただの幼なじみだと思っているようだが、俺は数年前から茉莉のことを異性として意識しまくっている。
「いいか、茉莉。男には自分の世界があるものさ。特に勉強机の引き出しの中にはな」
 俺は目一杯渋く決めたつもりだったが、茉莉はちっとも感銘を受けていない。
「いいじゃん。エッチ本見せてよ」
「こらやめろお前、そんな気軽に。いいか、コンビニで売ってる程度の毒にも薬にもならないエッチ本だったらともかく、若さ故の好奇心でつい手を出してしまった芳賀書店系のマニアックなアイテムあたりが出てきた日には『んもう、俊夫ちゃんのエッチ〜』じゃ済まないんだぞ。分かってるのか?」
 俺は興奮して、自分でも良く分からないことを口走っていた。
「ぜんぜん分かんないよ」
 と、茉莉。
 もっともだ。
「とにかく。何か用事があってきたんだろ?」
 俺は話題を変えて誤魔化すことにした。
「うん。明日の授業のことで聞きたいことがあったから」
「なんだ、そんなことか」
 茉莉は俺と同じ高校に通っているが、学年は一個下だ。ときどき、勉強で分からない箇所を俺に聞きに来る。
「で、科目は?」
「うん。体育」
「ああ、体育ね……って、体育に分かるも分からないもあるかーい!」
「明日の体育マラソンなんだけど、呼吸法が分からないの。吸う吸う吐く吐くがいいのか、吸う吐く吸う吐くか」
「ヒッヒッフーでいけ、ヒッヒッフーで」
「マラソンでラマーズ呼吸してどうすんのよ」
 ……怪しい。どうも今日の茉莉は変だ。あまり人のことは言えない気もするが、それにしても茉莉の言動がいつになく胡散臭い。これは、何かあるに違いない。
 突然、ガタッと机の引き出しが飛び出して、ダイアナがしゅるりと床に降り立った。
「なに?!」
 茉莉が息を呑む。
 しまった。引き出しに鍵をかけておくんだった。
「俊夫、気をつけなさい。そいつは敵よ」
「敵?!」
「そう。私の命を狙っているサーナダリア反体制派のヤツラよ」
「なんだ。じゃあ、俺は関係ないよな」
「お黙り! あんたは私の身を守らなくてはいけないの。それが私の宿主(パートナー)に選ばれた者の義務なのですわ!」
 異世界の王女であるダイアナは、常に命を狙われているらしい。人間界にいる間にダイアナを亡き者にしようと、サーナダリアの反体制グループが人間界にヒットマン(マンじゃないが)を送って寄越すのだ。……つくづく迷惑な話だ。
「俺はあんたのパートナーに志願した覚えはないぞ。へんな争いに俺を巻き込むな!」
「馬鹿ね。あんたの幼なじみがブルー党の暗殺者に操られているのよ!」
「な…なにっ!」
 そうだったのか!
 茉莉の様子がヘンだったのはそのせいだったか。……俺はある意味安心した。
「ククク…ばれては仕方がないな」
 茉莉の顔つきが一変した。
 ちゃきっと茉莉の手に現れたハサミが音を立てる。
「覚悟するのだな、ダイアナ王女。今、バラバラに切り刻んでやる」
 茉莉の頭でひらひらとしているブルーのリボン。あれが異世界の暗殺者に違いない。ダイアナと同じ種族なのだ。
「俊夫。こうなったら、リーインフォースメントしかないですわ」
「ううっ。やだなぁ」
 ダイアナがひらりとジャンプし、俺の頭にとりついた。
 ひとりでに動くピンク色のリボンというのはシュールだ。阿刀田高の世界だ。というか一言でいって、気色悪い。
「いきますわよ。リーインフォースメント、開始!」
「待てって。まだ、心の準備が…イテッ!!」
 俺は、額のすぐ上のあたりにチクリと鋭い痛みを感じた。
 ダイアナのやつが、髪の毛程度の細い針を俺の頭に刺したのだ。
 ダイアナたちは、一見パステルカラーのリボンにしか見えないが、実はれっきとした有機生命体の一種だ。
 ダイアナの故郷である異世界サーナダリアは、パラレルワールドの地球らしい。そこでは、生命の進化がこちらの地球とはかなり違う方向に向かった。脊椎動物が発生しなかったのだ。代わって、無脊椎動物が高度に進化したのだ。なかでも、扁形動物門条虫綱……要するにサナダムシの仲間が高度に知能を発達させて、こちらの世界でいうところの人類に相当する地位を占めるに至ったのである。って、ほんとかよ。まあ、少なくともダイアナはそう主張している。はっきりいって俺は、ダイアナの故郷には死んでも足を踏み入れたくはない。
 それはともかく、究極まで進化したサナダムシたちが次元航行機を使ってこちらの地球にやってきている、ということらしい。そして、ダイアナたちは、人間に寄生することができる。それもただの寄生ではない。やつらの寄生によって宿主となった人間は超人的な力を得ることができるのだ。その現象が、リーインフォースメント・フェノメノンなのだ。
「チャッチャラー♪」
 リーインフォースメントのファンファーレを口で唱え、ダイアナが俺の頭の上で蠢く。
 ダイアナが俺の頭に刺した針(プローブ、というらしい)から、特殊な化学物質が放散されて、俺の体に影響を及ぼしていく。
「あんたの下賤の肉体を、王女である私に相応しい形に再構成してさしあげますわ」
「よ…余計なお世話……ウワァァァ──!!」
 バサリと波をうって俺の髪が伸び、あっというまに腰にとどくほどのロングヘアーに変化した。髪の色も微妙に変化して、青みがかかった色合いになっている。
 続いて、体中の骨がミシミシと軋んだ。猛烈なスピードで骨組織におけるカルシウム代謝が進み、骨格自体が変化しているのだ。ダイアナの放出する化学物質によって骨組織の破骨細胞と骨芽細胞が異常活性化して、ある設計図をもとに俺の骨を作り替えている。その設計図に相当する疑似DNAは、ダイアナの体内で合成されたものだ。
 骨格と同時に、筋肉や脂肪の組織、そして内分泌系にもリーインフォースメントによる影響が浸透しつつある。
 全身の焼けつくような痛みに俺は呻きをもらした。
 声帯にも変化がおよんでいた。声帯が短くなっているせいで、俺の声がいつもよりハイピッチになっている。
 ダイアナのやつ、好き勝手に人の体をいじりやがって。だから、コレは嫌なんだ。
 ダイアナがいうところの「王女に相応しい形」というのは要するに、絵本の中に出てくるようなプリンセスのことだ。何て短絡的なやつなんだ。
 心臓がいまにも爆発しそうだ。全身の細胞が無理矢理、異常な速度での代謝を強要されているせいだ。思うにこの変身のたびに俺は寿命をすり減らしているような気がする。
 やがて、両脚の間から大事な器官が消えた感触があった。うう……。
 追い打ちをかけるように、胸に痛みが走る。急激に乳腺が発達してるのだ。イテテ…布がスレて余計痛い。
「ええい、俺は思春期の女の子かぁっ」
 と叫んだ声は、まさに思春期の女の子っぽくて、我ながら嫌になった。
 ダイアナがさらに数本の触手を俺の頭部に差し込んだ。
 体が、乗っ取られる──。
「んーっ。久しぶりのリーインフォースですわ」
 俺の口が勝手に動いた。
 ダイアナが俺の脳にダイレクトにアクセスして、俺の体の運動機能を乗っ取っているのだ。
「死ね、王女」
 と、ブルーのリボンに操られた茉莉が飛びかかってくる。
 変身中に襲いかかってはいけないというのは、サーナダリアでもやはりお約束らしい。「あらまあ、その程度の実力で私をつけ狙うだなんて、愚かですこと」
 茉莉のハサミがダイアナを狙う。俺は機敏な動きで茉莉の攻撃をかわした。
 シナプス伝達がアクセラレートされていて、いまの俺の反射神経はプロのスポーツ選手以上だ。
 ひゅっ、とダイアナの触手が伸びて、茉莉の体に突き刺さった。
「おい、茉莉には……」
「心配は無用ですわ」
 俺とダイアナのやりとりは、はた目には独り言に映っただろう。
 茉莉の頭からポロリとリボンが落ちた。どうやら、ダイアナは茉莉の体に一種の抗体を打ち込んだらしい。そのおかげで、ブルーのリボンは茉莉に寄生していられなくなったのだ。こうなったら、もはや暗殺者に勝ち目はない。
 俺/ダイアナは、ブルーのリボンを拾い上げると、滅茶苦茶に結び目をつくって縛り上げ、上からガムテープを巻いてゴミ箱に捨てた。
「オーホホホ、正義は必ず勝ちますのよ」
 自分の口から女の高笑いが聞こえるのはぞっとしない。
「ちょっと待てよ。俺の変身ってなにか意味あったか?」
「私たちって、鉄腕バーディみたいですわね、俊夫」
「どこがだよ。おい、人の話を聞けって!」
 そのとき、ムックリと茉莉が起き上がった。いままで気を失っていたのだ。
「うーん……ここは、どこ?」
 俺はフラつく茉莉を支えてやった。
「平気か茉莉? 痛いとことかはないか?」
「あの……あなたは?」
 げっ。そういえば、俺はダイアナに変身させられたままだった。
「俺は…じゃなかったアタシは通りすがりの保険の勧誘員ですのよ」
「ここ、俊夫ちゃんの部屋みたいだけど……」
「アハハハ……。深く考えちゃダメよ、茉莉ちゃん」
「どうして私の名前を?」
 やばい。このままじゃ深みにはまる。こうなったら、逃げるが勝ちだ。
「いまどきの保険レディは何でもお見通しなのよ、茉莉ちゃん。それじゃあね!」
 俺は強化された肉体能力を使って、窓から飛び降りようとした。
 だが。不意に俺の体が意志に反して動いた。ダイアナだ。
 俺の体は、茉莉の肩に親しげに手をかけた。
「茉莉ちゃん。あなた、よく見たら可愛いわね。下等な人間にしてわかなり上出来の部類ですわ」
「は、はぁ〜?」
 忘れてた。俺は内心頭を抱えた。ダイアナは、高飛車なだけでなく、レズだったのだ。レズになるのかどうか分からないが、人間の女が好きらしい。
「うそうそ。今のは冗談だから」
 そう言って、俺は全力でダイアナの操作を突っぱねた。宿主である俺が本気で抵抗すれば、体の主導権は取り返すことができる。
「あんた下等生物の分際で私に逆らうつもり?」
 俺の口ではなく、自分の発声器官を使ってダイアナは喚いた。
 当たり前だ。そうそう、サナダムシの王女なんかに好きにさせてたまるか。
 しかし、俺はまだまだ甘かった。ダイアナにはまだ奥の手があったのだ。ダイアナは俺の内分泌系をコントロール下に置いている。
 突如、甘酸っぱい感情が俺の心に襲いかかった。
 ノルアドレナリンやらわけの分からない化学物質が大量分泌され、俺の大脳辺縁系をかき乱す。全身が超覚醒状態になって心臓はどきどき、汗はじっとり、手足は痺れたように感じる。
 それは、とびきりの媚薬をかがされたようなものだ。ダイアナの物理的な支配には抵抗できても、自分の感情に抵抗することはできない。
 俺はぼうっと潤んだ瞳で茉莉を見つめた。
「茉莉……俺……」
 いまの俺はまるで恋する乙女だ。まるで、というか文字通り、そのものだ。
 感情を操作されて、俺は完璧に茉莉にメロメロになってしまっている。フォールイン・ラブというやつだ。もともと俺は茉莉が好きだ。だけどこんな状態は不自然だ。俺は、その、女として茉莉のことが好きになっている。これは、もはや「百合」の世界だ。助けてくれ。普通の男子高校生だった俺がどうしてこんな目に遭うんだ。
 いつのまにか、茉莉も潤んだ目で俺を見ている。
 ホルモン物質の一部が俺の皮膚から放散されて茉莉にまで影響を与えているようだ。
「君…あなたが……好きだ、いや、好きなの……」
 何を言っているんだ、俺は。おかしいと分かっていても止めることが出来ない。恐るべし、ダイアナの魔力!
 俺は自分で自分の言葉に恥じらい、赤くなって俯いた。
 なんなんだ、この乙女な反応は。どこからどこまでが俺自身の行動で、どこからがダイアナの行動なのか、区別がつかなくなってきた。
「あの、あたしもあなたのことが……。なんだか、初めて会った気がしないし」
 茉莉は言う。
 それはそうだ。なんたって、幼なじみなのだから。
 茉莉の可愛らしい表情に俺の胸は締め付けられた。せつなさ爆裂、か。どこかで聞いたキャッチフレーズが、今の俺にはピッタリだ。
 俺は茉莉を抱きしめた。
 茉莉のやわらかい体は抱き心地が良かった。お互いそれほど大きくはない胸が触れ合ったとき、俺は内心どきりとした。良かった、まだ多少は男の心も残っているらしい。
 そのあとのことは、よく覚えていない。
 甘いキスの味だけは鮮明に唇に残っているのだけれど。
 たしか、俺/ダイアナと茉莉は肩を並べて恋人同士のお喋りを堪能したあと、再会の約束をしてから分かれたはずだ。

 翌朝になって目が覚めると、俺は元通りの男子高校生に戻っていた。
 ダイアナは机の上ですやすやと眠っている。こうして見てると本当に只のリボンだ。
 時計を目をやると、時刻は八時過ぎだった。このままじゃ遅刻ペースだ。
 俺は鞄に教科書を放り込み、脱ぎ捨ててあった学ランをはおった。
 足早に階段を駆け下りる。
「いってゃーす!」
「ちょっと俊夫、朝御飯は?」
 ダッシュで食卓に駆け寄りトーストを一枚口にくわえると、俺は再びダッシュで家を出た。
 通りに出たところで、俺は茉莉とはち合わせた。
「あんたは、ひと昔前の少女マンガの主人公か」
 と、茉莉。
 俺はトーストをむりやり呑み込んだ。
「よぉ。今日の体育はマラソンだって?」
「え? なんで知ってるの、俊夫ちゃん」
 茉莉は目を丸くする。昨日のことは覚えてないのか。ま、そのほうがいいよな。
「ヒッヒッフーだからな。ヒッヒッフー」
「なにそれ。バカじゃないの?」
「ハハ……」
 俺と茉莉はなんとなく肩を並べて学校へ向かった。
 途中でポツリと茉莉が漏らした。
「あたし、好きな人ができたかも」
 俺はドキリとした。そんな俺を見て、茉莉が笑った。
「なんで俊夫ちゃんが赤くなるのよ」
「いや、別に」
 昨日のこと、部分的には覚えていたのか。
 しかし、あのときの女が俺だったとは夢にも思わないだろうな。思われても困るが。
 俺は茉莉の唇の感触を思い出して、ますます赤くなってしまった。
「ごめん。今の忘れて」
 茉莉は言った。
 俺は頷いた。同感だ。あんなアブノーマルな出来事は早く忘れるに限る。
「ねえ、俊夫ちゃん」
「ん?」
「えっとさ、あの……キレイなお姉さんになるのは好き?」
「はぁ?」
 キレイなお姉さんになるって、茉莉がか?
 それとも──。
「やっぱり何でもない。忘れて、忘れて」
 なんだったんだ、今のは。
 俺が悩んでいると、茉莉が「ああーーーっ」と大声を出した。
「もう、こんな時間」
 言われて俺は自分の腕時計に目を落とした。やばい。のんびり話しながら歩いてたせいで、現在時刻、八時二五分だ。……遠くの空で予鈴がなっている。
「走るぞ!」
「え?」
 俺は茉莉をせかした。
「ダッシュだ。まだ間に合う」
「ええ〜」
「急げ、茉莉!」
 俺と茉莉は、駆け足で学校を目指した。
 初秋の透明な空気が俺と茉莉の間を通り過ぎていった。
「吸う吸う吐く吐く」
「吸う吸う吐く吐く」
「ほら、ヒッヒッフー」
「…………バカ」

 ──ホームルームに間に合うかどうかは五分五分だ。


[終わっときます]



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