2014年、春。
第三新東京市第壱中学校の入学式に、碇シンジと惣流アスカの姿があった。 互いにあどけなさが残る表情。
シンジは、新入生代表となって挨拶するアスカの100倍は緊張した面持ちで、緊張 とはほど遠いアスカの横顔を見つめていた。 小学校を出たばかりのアスカは、既に十二分に美しかった。 赤みがかった長い髪、活動的で大きな青い瞳、細く長い手足、シミ一つ無い美しい肌 。日本人離れしたスタイルもとても12歳になったばかりの少女のモノではなかった。 それでいて、新入生代表に選ばれるほどの聡明さと、それを堂々とやってのける度胸 。今この入学式というイベントそのものが、彼女のために用意されたステージにすら 見えた。
「新入生代表、惣流アスカ」
聞き取りやすい、よく通る声でそう締めくくった。 静まり返っていた体育館は満場の拍手によって満たされる。 そして、新入生及び在校生の男子全員が、この内側から輝くような少女の名前を自分 の胸に焼き付けた。
壇上から降りて、自分の席に戻るとき、一度だけシンジと目があった。 我が事のように緊張していたシンジはホッと肩の息を抜いたところで、その姿を見て アスカは小さくウィンクした。
ちょっとだけドキッとするシンジ。
周りの男子一同は勘違いして思いっきりときめいていたが、そんなことは二人には関 係なかった。
「どうだ、俺の娘は。親の俺から見ても将来すごい美人になるぞ」 パイプ椅子に座ってとなりの髭の男にそう言ったのはアスカの父、惣流アレキサンデ ル・ジークフリードだった。
「それは認めよう。アスカ君はこれからも十分美しくなるだろう。彼女の不幸は不出 来な父親を持ってしまったことだけだな」
冗談の微粒子すら1ミクロンも感じさせない男の口調。 そのまま赤いサングラスを押し上げるのは、もちろんシンジの父親、碇ゲンドウだ。 ふたりは超過密スケジュールを縫って、わざわざ愛息愛娘の為に入学式に参加してい るのだ。
アレクの手には当然のようにデジタルビデオカメラが握られている。 娘の晴れ姿を逃すわけにはいかなかった。
「ふん、その言葉はそっくりお前に返そう。シンジくんはユイさんに似て、順調に成 長してくれるだろう。だが、母親と父親の落差に悩み苦しむことになるだろうな」 アレクも辛辣な言葉を投げ返す。
「家のユイにそのような落ち度は無いぞ」
「お前のことを言ってるんだ!」
ギリギリと歯ぎしりの音を上げながら睨み合う二人。 この二人がこの街でどれほどの地位にいるか、知っている者がいれば卒倒しかねない 状況だ。
彼らは多国籍企業ゼーレの幹部としてではなく、旧来の悪友としてその後もずっとに らみ合いと皮肉の飛ばし合いを続けるのだった。 そう、入学式が終了したのにすら気がつかずに。
●
入学式は終わり、新入生は新たなるクラスに別れた。 シンジとアスカの二人は、今回も同じクラス。 お互いに腐れ縁が少しだけ嬉しかった。決して口外したりはしないだろうが。 クラスでもアスカは注目の的だった。
だが、彼女の視線は気がつけばシンジを追いかけている。 その一方でシンジは担任の女教師に視線を釘付けにされていた。 葛城ミサトという名の担任教師は明るく快活で新入生一同に歓迎された。 多少ふてくされて、窓際の席から校庭を見つめた。 その憂いを含んだ表情すら、この少女には魅力的であった。
入学式後のごく簡単なホームルームが終わると、新入生達は帰宅することになった。 シンジとアスカは並んで歩いた。
帰る方向がまったく一緒だから当たり前だ。 親たちは入学式が終わった後、既に帰宅しているはずだった。 「うーーーーん、やっと終わったね。アスカ」 シンジは詰め襟学生服のカラーを外して大きくのびをした。 まだ着なれないせいだろう。学生服を着ているだけで妙に疲れる。 「そうね、ちょっと疲れたわ」
アスカもそうつぶやいて、小さく溜息をつく。 「え、なんで」とシンジ。
「そりゃそうよ、新入生代表なんて、緊張したんだから」 アスカも四肢をグッと伸ばしながら答えた。 「そうか、すごく堂々としてたから、大丈夫なのかと思ってた」 シンジは微笑みを浮かべていた。
「わたしだって、内心は冷や冷やモノだったのよ」 普通なら誰にも云わない本音もシンジには話せた。 それがどれほど特別で、どれほど意味のあることか、シンジは気が付かない。 「へー、アスカでも緊張するんだ」
その言葉もまたシンジの本音であったが、これは無神経と云われても弁解できないだ ろう。
拍子抜けすると同時に、もう一度不機嫌になっていくアスカ。 「もう、いいわよ」
「なにを怒ってるの?」
「知らない」
アスカは勝手にすたすたと歩いていく。
困ったようにその後を追うシンジ。
アスカの気分屋は今に始まったことではなかったが、シンジはいつでもそれに振り回 される。
「まったく、アスカは自分勝手でわがままなんだから」 内心でそうつぶやくシンジ。
自分がもう少し彼女の心に敏感だったら、アスカは今の数倍は素直になるだろう、と は夢にも思わない。
碇シンジは12歳。
惣流アスカも12歳。
互いの想いを受け入れることも気がつくことも出来ない頃。 二人の痴話喧嘩を見つめるのは咲き誇る桜の花だけだった。
●
2016年、冬。
アスカは一人でバスに揺られていた。
あの頃は着なれなかった中学の制服も今では一番身近な格好になっていた。 その上に赤いコートを羽織って、一人でバスに乗った。 シンジはいない。
レイもミズホもカヲルもいない。
たった一人。
逃げ出すように飛び出して、あの場所に向かっていた。 相変わらずの自分の意地っ張りぶりにため息が出る。 なぜ、こうも自分は素直でないのだろう。
今まで何度も自問自答したそれを、もう一度思ってみる。 いつもは今度こそ素直になろう、そう思う。 でも、今はそんなことを考えるのにさえ疲れを覚えた。 「シンジのばか」
口に出してみた。
しかし、それにはいつもの快活さはなかった。 そっとバスの窓から流れていく街の景色を眺めた。 バスは街の中心部からゆっくりと郊外へ向かっている。 どんよりとした曇り雲。
このまま雪になればいい。
そんなことを考える。
そうすれば、全部忘れてきれいになれるのに。 自己嫌悪が彼女の心を重く包み込んでいた。 普段からは考えられないほど沈んだ心を抱えて、アスカは彷徨っていた。 誰かに見つけてほしかった。
そのくせ、みんなとは離れようとしていた。 自分はバカだ。
そう思うとアスカは少しだけ心が軽くなった。 でも、それが救いでないこともすぐにわかった。
その夜、第三新東京市に雪が降った。
アスカの望み通り、全てを漂白するかのように。
その2時間前。
その日の授業も終わり、帰り支度するシンジ。 律儀に教科書を持ち帰る彼の鞄はいつも重い。 「さ、シンジ、帰りましょ」
アスカが声を掛けた。
「ごめん、今日は父さんも母さんもいないから、レイと夕食の買い出しに行かなきゃ ならないんだ」
シンジは鞄を肩に掛けながらそう言った。
「え、」
「シンジ様、わたしも一緒にいきますぅ」
アスカの脇を擦り抜けて、ミズホがシンジの腕にしがみつく。 「そんな、シンジ君。僕と一緒に居酒屋で大根サラダを一緒に食べようって約束はど うなったんだい」
「そんな約束してる訳ないでしょ」
レイが間髪入れずにカヲルの顎を跳ね上げた。 「ぼ、ぼくはこれだけなのかい・・・・」
崩れ落ちるカヲルを後目に、レイがシンジの左腕をとる。 「さ、行こう。シンちゃん」
「うん・・・」
「わたしも行きたいですぅ」
「ミズホは昨日シンちゃんと図書館で捜し物したんでしょ。今日はわたしの番なの」 レイはいたずらっぽく笑う。
「えーーーー」
渋々シンジの腕を放すミズホ。
「なんや、センセ、今日は綾波とデートか?」 先に帰り支度をすませたトウジが冷やかす。 「そ、そんなんじゃないよ」
「そうよ、一緒にスーパーで晩御飯の買い物するだけだもん」 真っ赤になって反論するシンジとレイ。それを見つめるアスカ。 「それを世間一般的にデートっていうんだよ」 相変わらずシビアな視線でケンスケが突っ込む。 「まったく、昨日は信濃、その前は渚、その前も綾波か、モテモテでうらやましいな シンジ」
かなり毒のこもった口調だ。
「ありゃ、そういえば最近は惣流と一緒におるのを見いへんな。入学したときから今 年の春までは何をするのもべったべたやったのに」 トウジは額に指を当てて余計なことを思い出す。 「なんだ、もう惣流には飽きたのか」
ケンスケの一言がアスカに与えた衝撃は大きかった。 それが冗談であったとしても。
一瞬の躊躇がそれを如実に物語っていた。
そんなアスカの両脇を擦り抜け、レイとミズホが跳んだ。 「ダブル真空跳び膝蹴りー!!」
二人の美少女の形のいい脚がケンスケを捉えた。 黒板に激突し、ずぶずぶと沈んでいくケンスケ。 「所詮、嫌われ者さ・・・」
の捨てぜりふも聞こえたかどうか。
「相田くん。余計なこと云わないの」
「そうです、変なこと云うと、次回からは手が出ますよ」 既に脚を出している二人はその後も意識を失っているケンスケに小言を続けた。 ケンスケに手を出せなかったことがアスカにはきつかった。 いつもであれば、真っ先にケンスケを血に染めて、それで終わっているはずだった。 レイとミズホが自分の事を想っていてくれるのはよくわかる、でも・・・ 「シンジ、」
「うん、なに?」
ケンスケの有様に冷や汗を流していたシンジ。 「今週の日曜のこと、覚えてる」
唐突にそう聞いた。
「え、今週の日曜・・・・・・ああ、遊園地だろ。ちゃんと覚えてるよ」 ぱっと明るくなるアスカの顔。
「遊園地って・・・」
レイが振り返った。
「うん、毎年二人で行ってるんだ。今年は今週の日曜に行くって、ずっと前から決め てたんだ」
シンジは覚えていた。
それだけでアスカは嬉しい。
「どう、みんなも一緒に行かない?」
だが、シンジのその言葉はアスカの予想の範囲外だった。 「え、」
「みんなで行った方が楽しいよ。ねえ」
シンジはそう言って笑った。
「え、行ってもいいの」
とレイ。
「行きたいですぅ」
とミズホ。
「是非、行かせてもらうよ。シンジ君」
シンジの両手を掴んでカヲルも言う。
「ね、いいよね。アスカ」
シンジはそう言った。
こっちの気も知らず、無神経に笑っている。どんなに楽しみにしていたか、何もわか っていない。
「シンジのバカ!」
それは突然吹き出した。
平手がシンジの頬を叩き、そのまま駆け出した。 何も考えていなかった。
その場からいなくなりたかった。
シンジの無神経さに、レイとミズホとカヲルの図々しさに腹が立った。 そして、それ以上に心の狭い自分がイヤになった。 誰にも会いたくない。
アスカは逃げ出した。
【→ NEXT】
|